第5話 最初の一歩
天樞の館、南棟。
陪花に指名された翌朝、シアノは初めてその建物の中へ足を踏み入れた。
白壁と青い硝子、毒を浄化する温石を嵌め込んだ床。
静かなその回廊には、外よりもさらに澄んだ空気が流れている。
「案内いたします」
振り向けば、そこにいたのは、昨日すれ違ったあの人──イーヴだった。
天樞直属の侍従。
その目が、昨日よりもほんの少しだけ、やわらかく見えた気がした。
「はい……お願いします」
短い返事しかできない。
けれど、歩幅は自然と彼と揃っていた。
「お部屋は、こちらになります。書簡と手帳、それから、お召し物が届いております」
部屋は想像よりずっと静かで、清潔で、どこか寂しかった。
シアノが何か言おうとしたとき、彼が先に口を開いた。
「その……昨日、急な指名で、驚かれたと思います」
彼の声音は、まっすぐだった。
制度の言葉ではない、迷いを含んだ本当の声。
「はい。でも、なぜか……嫌じゃなかったんです」
自分の声が震えているのが分かった。
正解が何かはわからない。でも、嘘をつきたくなかった。
「お名前、呼んでしまって、すみません」
イーヴが言った。
その言葉に、シアノの胸がどくんと鳴る。
「……うれしかったです」
それが、最初だった。
名前ではなく、気配でもなく。
ただ“心”に反応してしまった、最初の一歩。
イーヴは軽く頷いた。
「……こうして始まることも、あるのですね」
言葉の意味がすぐには掴めなかった。
けれどその響きは、どこか懐かしく、静かに染み込んでいった。
天樞の館の硝子越しに、朝の光が柔らかく揺れていた。