第2話 花弁の静寂
温室の空気は、朝の霧に濡れていた。
天の砦の侍女が運んできた一通の通知。
「搖光から、陪花の申し入れがありました」
その言葉に、周囲の少女たちが小さくざわついた。
申し入れ――それは、事実上の選定。
砦を通して伝えられる以上、それは制度の一部となり、拒む余地はほとんどない。
シアノ・コーエンも、頷くだけだった。
素質は高く、形質安定率も申し分ない。血統は宗家ではないが、それでも搖光からの申し出は好意的なものとされていた。
これまでなら、迷う理由などなかった。
温室の者は、選ばれれば外に咲く。それがすべてだった。
──けれど。
昨日、薬草園から戻る途中、回廊で彼とすれ違った。
その人がどこの誰なのか、今も知らない。
けれど、あの時、なぜか名を呼ばれた。
「……お疲れさまです、シアノ様」
ただ、それだけだった。
でも、それだけが、引っかかっている。
名前を呼ばれたからではない。
声の調子。目の色。立ち止まる気配。
その全てが、妙に胸に残った。
何かが、制度の外から差し込んできたような気がした。
温室の同輩たちは、彼女を祝福した。
搖光への嫁入りは名誉だと、誰もが口をそろえた。
侍女も言った。「ありがたいことです。どうか穏やかな御心で」と。
わかっている。
これは、制度であり、決定であり、選ばれた結果だ。
ありがたく受け入れる。それが当然。
……そう、当然だったはずなのに。
あの回廊の記憶が、夜になっても消えなかった。
夢の中で、もう一度声を聞いた気がした。
誰かの名前ではなく、自分自身が、自分でいられるような感覚。
こんな感情は、選ばれた触媒には不要だ。
そんなもの、持っていてはいけない。
その夜、天花サシャは天の砦から回された陪花候補の一覧に目を通していた。
搖光から、陪花指名の申し入れがあり、シアノ・コーエンの名が挙がっていた。
血統係数は下位ながら、形質は極めて良質。
制度上は有力候補とされていたが、まだ儀式での正式な指名は行われていない。
それでも、サシャには気にかかることがあった。
昨日の午後、薬草園からの帰路。
天樞星の侍従とシアノがすれ違う姿を、偶然目にしていた。
彼女の表情。
一瞬だけ、風に揺れた花のような揺らぎ。
……制度で定められていない何かが、そこにあった。
サシャは、深く息を吸って、目を閉じた。
天花としての権限が、今、試されている。
その翌朝、結双儀の準備が始まった。
砦の庭から見える天輪の間の尖塔が、朝の光を受けて静かにきらめいていた。
シアノは、衣を整えながら思う。
どうか──呼ばれませんように。
呼ばれてしまえば、すべてが“制度”になってしまう。
あの回廊の記憶すら、なかったことになる。
だから、どうか。
忘れなければ。忘れなければ。忘れなければ。
やがて、1周目が始まった。