第1話 天の砦より
温室は、今日も静かだった。
天の砦の管理下にあるこの園で、シアノはひっそりと暮らしている。
日々の記録、温度調整、交配記録、食事管理──すべてが精密に整えられた環境。咲かされるために選ばれ、育てられる触媒たち。
それがこの場所の役目だった。
その朝、砦の侍女が口にした名が、彼女の体の内側をかすかに揺らした。
「搖光から、正式な陪花の申し入れがありました」
やっぱり、という感想が先に来た。素質の数字だけ見れば、申し分ない。
血統は宗家ではないが、耐毒性の安定率は天樞・星槎ともに上位に近い──と、以前侍女たちがひそひそ話していた。
おめでとう、と言われた。
これで“あちら”に行けるのね、とも。
温室で咲いた自分が、外に移される。制度としては当然で、異議はない。
……ただ、何か、ほんのわずかにひっかかりが残った。
その違和感の理由に、心当たりがあった。
数日前の午後、薬草管理区域からの帰路。
他星の侍従と回廊ですれ違ったのだ。
制服の色が違う。見たことのない顔。
だが、その人は、確かに彼女の方を向いて、
「……お疲れさまです、シアノ様」と、そう言った。
名を呼ばれたのは、久しぶりだった。
肩書き抜きの、ただの名前。
別段、特別な意味もなかったのだろう。
だが、それを聞いた瞬間、なぜか胸が熱を帯びた。
ただ、それだけのことだった。
──それだけのはずだったのに。
名乗られた相手の名は、思い出せない。
けれど、その人の目の色と声の調子だけは、なぜかやけに鮮やかに残っている。
搖光からの申し入れは、すぐに天の砦を通じて温室内に回され、事務的に処理された。
本人に拒否権はない。制度とはそういうものだった。
従うことに不満はない。
……はずだった。
名前を呼ばれて、笑った声を聞いて、
そのあとで申し入れの話を聞いて。
あれを「何でもなかった」と言い切ることが、どうしてもできなかった。
それが悪いことなのか、正しいことなのかは、まだわからない。
でもきっと、知られたら困る。
誰にも、言わなければいいだけの話。
シアノは、そう思っていた。