第2話 悪女のレッテルと新たな敵①
数日前に起こった婚約破棄騒動を経て、私は完全に気力を削がれていた。お茶会があんな形で終わるなんて夢にも思わなかったし、何よりも王太子アルフレッド殿下の理不尽な態度が頭から離れない。あれ以来、胸の奥にじわじわと湧き上がる怒りの炎を感じつつ、今はただ黙って家に籠もっている状況だ。
そんな私がいるのは、公爵家のサロン。外から柔らかな陽光が差し込む中、気持ちだけでも落ち着けようと紅茶に口をつけていた。だが、この数日の憂うつから、まだ抜け出せていない。
「お嬢様、すみません……また、よからぬ噂が耳に入りました」
申し訳なさそうにサロンへ姿を見せたのは、私の侍女ノエル。彼女はいつも私の動向を心配してくれる良き理解者だが、今はその顔に苦渋の色が浮かんでいる。きっと嫌な情報を持ってきたに違いない。予感的中、私の紅茶がさらに苦く感じられる。
「嫌な噂?」
「はい。この辺りの貴族夫人たちが、“リリエッタ様は陰湿で怖い性格だから婚約破棄されても当然”なんて言いふらしているようなんです」
「……はぁ?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。私のどこが陰湿なのだろうか。もちろん、少々気が強いと自覚しているけれど、私がそんなに恐ろしい人物だという評判を聞いたことはなかった。
「それに、“彼女は王太子殿下を散々振り回したあげく捨てられた”とか、“実は昔から苛烈な振る舞いで有名だった”とか……とにかく根も葉もないことばかりで、聞いているだけでも腹立たしくなるんです!」
ノエルは憤慨しているようで、つま先まで怒気をみなぎらせている。私は反対に、あまりの馬鹿らしさに開いた口がふさがらない。何故こんなにも事実とはかけ離れた話が広まっているのか。いや、原因は分かりきっている。あの王太子が、一方的に破談を宣言したあの出来事を、都合よく言い広めているに違いない。
「まさか……アルフレッド殿下が先手を打って、私を貶めるような噂を流してるってことは……あるかしら。あの性格なら、全然ありうるわね」
「その可能性は高いと思います。殿下の周囲には、無駄に口の軽い取り巻きもいそうですし……」
ノエルの声はどこまでも怒りに満ちていた。確かに、あの方は自分の非を認めるより、私を悪者にしたほうが話が楽だろう。人目もはばからずに茶会をぶち壊しにしたくらいなのだから、その程度の嘘は平気でやってのけるはず。
「陰湿って……私がそれっぽく見えたことあるかしら」
「そんなの考えられません! お嬢様はいつだって気高くて、周りに優しくて、むしろ女神みたいな存在じゃないですか。皆さんの目が腐ってるとしか思えません!」
「女神って、そこまで言われるとちょっと違和感があるわよ……」
ノエルが過剰なまでに私を讃えてくれるのはいつものことだけれど、今の私は素直に喜べない。むしろ、そのせいで変な噂を呼んでいたらどうしようと思ってしまう。
「いずれにしても、不本意だわ。こんな風に悪い評判が広がっていくなんて」
「ほんとに、許せませんね。そもそも婚約破棄だって殿下のわがままじゃないですか。あんな不誠実な方に振り回されるなんて……お嬢様がお気の毒でなりません」
ノエルの言葉に力強く頷いた。そうだ、全ての原因はアルフレッド殿下の身勝手な行動だ。裏でせっせと噂を流しているのが誰なのか、確かな証拠はまだ得られていない。だが、殿下かその取り巻きの仕業と考えるのが妥当だろう。
ただでさえ、父と兄が激怒して王宮に乗り込まないように抑えるのに苦労しているというのに、この上さらに私に嫌なレッテルが貼られてしまうだなんて。悔しさで拳が震える。
「王太子め……絶対に赦さないわ。こんな形で私の評判を落として、何になるのかしら。自分が同情されたいだけなんじゃないかって思うと、余計に腹立たしいわね」
「私も激しく同感です。何か手を打ちませんか? お嬢様の潔白を皆に示す方法とか……」
ノエルが前のめりで提案してくる。その瞳からは“このまま黙っている気はない”という強い意志が読み取れた。私だって同じ気持ちだけれど、今はまだ状況を冷静に把握する必要がありそうだ。
「まずは、どんな内容の噂がどこまで広がっているのか調べてみる必要があるわ。……でも、そういうの得意そうね、ノエル」
「ええ! お嬢様の汚名を晴らすためなら、街中でも宮廷でも、どこへでも情報収集に向かいますよ。どんな目に遭っても構いません!」
「そこまでしなくていいけど……ノエルなら有能だから、周りの使用人たちにもこっそり声をかけてみて。できる限りの範囲でいいわ」
ノエルはガッツポーズをとりながら「お任せください!」と輝く笑顔を見せる。私はそのテンションに少々引き気味だが、内心頼もしくも感じる。彼女の異常なまでの行動力は、こんなときこそ役に立つかもしれない。
「……いいわ。私も自分が知り合いだった方々に連絡して、本当のところを探ってみる。どれくらい嫌われてるか確認するのも怖いけど、放っておくともっと酷いことになるかもね」
「もし証拠をつかんだら、例の殿下に直接抗議するなり、公爵家の力を使うなりしてやりましょうよ!」
ノエルがやる気満々に目を輝かせる姿が、なんとも頼もしく、そして少し不安でもある。彼女が暴走した場合、また大きな騒ぎになりそうだから。
「まあ、あんまり騒ぎ立てすぎるのも逆効果になるかもしれないから、まずは慎重に行きましょ。証拠を集めてから、どう動くか決めましょう」
「かしこまりました。……でも、お嬢様は本当にお優しいですね。私なら今すぐ殿下に爆弾を――」
「ちょっと待って、そんな物騒な発言やめてくれる!? 公爵家にそんな危険物置いてないわよ!」
思わず声を張り上げてしまい、サロンの外の廊下を歩く使用人たちが「何ごと?」と不安げに覗き込んでくる。慌てて「なんでもないのよ」と手を振ってごまかした。ノエルはいたって真顔で「それが簡単だと思ったのに……」と小声で呟いている。冗談にしても怖い。
「はぁ……とにかく、落ち着いて。私が立ち直る前に、家が瓦礫になったら元も子もないわ」
「はい……すみません、お嬢様をお守りしたい気持ちが強すぎて、つい手段を選ばなくなってしまいました」
ノエルが頭を下げて反省モードに入る。その姿がちょっぴり可愛らしいと思ってしまったのは、私の気持ちが少しだけ晴れてきたからかもしれない。
「わかってるわ。私も悔しいけど、感情だけで突っ走るわけにはいかないの。だから、まずはこの噂の真相を探り出しましょう。誰が流しているのか、その元締めがどこにあるのか……」
「絶対に突き止めましょうね。こんな不当な悪評がまかり通るなんて、あり得ません!」
そう言ってノエルは両腕を掻き合わせ、ふんすと鼻息を立てた。いつもの調子に戻ったらしい。私も改めて、目の前の紅茶を一口飲んで気合いを入れ直す。
周囲に広がった不名誉な噂を思うと、胸が締めつけられるように苦しい。何より、王太子が好き勝手に私のイメージを汚しているなら、到底見過ごせるはずがない。
「……アルフレッド殿下、覚えていなさいよ。勝手に私を悪者扱いしておいて。このまま終わらせるなんて、誰がするもんですか」
唇を軽く噛みしめながら呟いたとき、不思議と胸の奥に燃え上がる炎を感じた。もう泣き寝入りはしない。私には公爵家の力もあるし、何より自分の誇りがある。絶対に殿下にも、世間にも思い知らせてやる。私がそう簡単に踏み潰される存在じゃないってことを。
「お嬢様、私も全力でお手伝いしますからね。まずは城下町の噂から徹底的に洗いましょう」
「うん、頼むわ。私も知り合いの貴婦人たちに少し話を聞いてみる。……ああ、本当に腹立たしい」
そんな会話を交わしながら、私たちは行動の第一歩を踏み出すことにした。曖昧な噂に惑わされず、事実をひっくり返すための計画を少しずつ進めていくのだ。
婚約破棄のショックはまだ完全に癒えていないし、屈辱は日に日に増していく。でも、そのエネルギーを逆に利用してやろう。いつかきっと、今の私を嘲笑する連中が思い知らされる日が来る――そんな密かな闘志を胸に、私は立ち上がる決意を固めていった。