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9. 見えざる敵の微笑

いよいよ、学園で行われる「校内トーナメント」が幕を開けます。

そして、その裏で静かに動き出す“何か”の気配。


今回のエピソードも楽しんでいただければ嬉しいです!



あの奇妙な夜の出会いから、すでに一週間が経っていた。

如月 龍(きさらぎ りゅう)はあまり深く考えないようにしていたが、あの光景は何度も夢に現れた。言葉のやり取り、視線の交差――その瞬間が、まるで焼き付いたかのように。

だが、夢はすぐに色を失い、次の場面へと移っていった。

新しい夢の中、彼は窓も明かりもない暗い部屋に立っていた。全てが静寂。目の前には、二つの扉があった。一つは白、もう一つは黒。

白い扉は手の届くところにあり、鍵もかかっておらず、すぐにでも開けられそうだった。だが、黒い扉にはいくつもの金属の錠がかかっており、無音の光に照らされて不気味に光っていた。

その黒い扉の前に、まるで彫像のように動かず佇むシルエットがあった。以前の夢、入学前夜に見た影の存在――それと同じものだった。しかし今回は、輪郭がよりはっきりとしており、その存在感も増していた。

影は一言も発せず、ただ手を上げ、時計を床に落とした。

(りゅう)はすぐにそれを思い出した。あの最初の夢に出てきた時計だ。しかし、違っていたのは、針の位置だった。前は「9」で止まっていたはずが、今は「10」を指していた。進んでいたのだ。

(……また進んだ……)

龍は静かにそれを見つめた。もはや驚きも恐れもなかった。ただ、不気味な好奇心だけがそこにあった。

目をこすりながら目覚め、天井をぼんやりと見つめる。

「また変な夢を見たな……」と呟き、不安げに眉を寄せた。「何を意味してるんだ……?」

頭を軽く振り、ベッドから起き上がる。まだ朝は始まったばかりだったが、彼の思考はすでに走り出していた。

そして、日常は続いていく。

登校中、SNSを眺めながら、龍は今日の「ポッキータイム」を楽しみにしていた。最近、甘い物にハマっていたのだ。

(前に買ったやつはみんなに食べられちゃったし……今回は予備もあるし大丈夫だろ)と、小さく笑った。

その頃、彼がのんびりと登校している一方で、校長室では重要な会話が交わされていた。

「本当にこれでよろしいのですか、校長?」と、水原 源三(みずはら げんぞう)は腕を組んで、五藤(ごとう) 校長のデスクの前に立っていた。

書類に署名していた五藤は、眼鏡を鼻の付け根まで下げ、顔を上げた。

「はい。状態が安定しており、本人にやる気があるなら、訓練日数を増やすことに問題はありません。ただし、無理はさせないように」

源三はわずかに微笑み、頷いた。その「一日追加」が、大きな違いを生むことを知っていたからだ。

その日の午後、龍はその知らせを受けた。源三から直接伝えられたその内容に、彼は目を見開き、思わず声を上げた。

「週三日!? 最高じゃん!」

「これからは、月・水・金で訓練する。そして、それだけじゃない」源三の表情が引き締まる。「放課後はうちで追加の訓練をする。学院の制限のない場所で、他の能力も鍛えられる。乃愛(のあ)も付き添ってくれる」

龍は力強く頷いた。そして、その日から、彼の生活は一変した。

数週間にわたり、龍は厳しい訓練に身を投じた。学院の道場では、朝の時間に技術の洗練、姿勢の矯正、呼吸の制御、基礎の徹底に集中。源三は、かつてないほど厳しく、ミリ単位での修正を求めた。

午後になると、舞台は変わる。乃愛の家の庭が、もう一つの訓練場となった。雰囲気は柔らかくとも、課題は過酷だった。スピード、持久力、そして何より実戦形式の訓練。

乃愛は強力な相手でありながら、同時に根気強い指導者でもあった。

「ピボットが遅いと、動きが読まれるよ」彼女は、軽やかに龍の攻撃を避けながらそう言った。

「分かって「分かってるよ、でも言うほど簡単じゃないんだってば!」と、龍は汗まみれで文句を言った。


「じゃあ言わなきゃいい。ただ、やればいいのよ」

乃愛はからかうような笑みを浮かべながら返した。


少しずつ、龍は努力の成果を感じ始めていた。反応速度が上がり、技も精度を増し、身体は戦いのリズムに適応し始めていた。まだミスはあったが、乃愛との実力差は徐々に縮まっていた。


ある日の夕方、陽が木々の向こうに沈みかけた頃、源三が最後のスパーリングを許可した。龍は構えを取り、乃愛を見据える。


「準備できてるなら、いつでもどうぞ」

彼女は拳を掲げて微笑んだ。


即座にぶつかり合う。蹴り、フェイント、素早い回避。乃愛は洗練された動きでプレッシャーをかけるが、龍も正確に応じる。彼女ほど速くはなかったが、少しずつ動きの意図が読めるようになってきた。


「防御、悪くないじゃない」

乃愛は驚いたように言った。「でも、そのペース、保てるかしら?」


龍は何も答えず、身体を任せた。一瞬の隙を見逃さず、乃愛の姿勢にわずかな乱れを見つけると、横に滑り込む。流れるように身体を回転させ、フェイントで彼女の構えを崩し、その拳を顔の数センチ手前で止めた。


二人とも動かない。空気が凍りついたようだった。


乃愛は龍の顔を間近で見つめ、わずかに顔を赤らめた。


龍の拳はかすかに震えていたが、それ以上は動かなかった。


「…一本取られたわね」

乃愛は笑みを浮かべて腕を下ろした。


龍は息を切らしながら手を下げた。その一撃は、ただの勝利ではなかった。前進の証だった。


「やった…!」(俺、やっと…)


木陰から源三が腕を組み、うっすらと笑みを浮かべながら見守っていた。


乃愛は、龍の顔があまりにも近くて恥ずかしくなり、真っ赤になった頬を隠すように慌てて背を向けた。



彼は、光を見始めていた。


「なあ、龍」


「はい?」


「体の方は、もう大丈夫だろう?」


「はい、先生。もう一ヶ月経ちましたし、ちゃんと回復しました」


あの日から、すでに一ヶ月半が過ぎていた。完全に暴走し、意識だけで立っていたあの時。あんなことは初めてだった…あの規模では。あの日の出来事に、皆が動揺していた。


「じゃあ、学内大会に出場するつもりだな?」

源三は腕を組みながら言った。


「そのつもりです」

龍は脚を伸ばしながら答えた。


「その決意が好きだ!」

先生は豪快に背中を叩き、龍は地面に倒れた。


「がっ…ありがとう、先生…」


「学内大会は重要だぞ。優勝すれば奨学金が出るし、みんなそれを狙って必死だ」


「乃愛先輩も、出場されるんですか?」

龍は、彼女が近づいてきたのを見て尋ねた。その堂々たる雰囲気は、見る者を圧倒していた。


「多分ね…でも、まだ考え中」

彼女はタオルで首筋を拭いながら答えた。その光景は、龍の目には魅力的に映っていた。


「そろそろ帰りなさい。もう日が暮れる」

源三がいつもの口調で言った。


るよ、でも言うほど簡単じゃないんだってば!」と、龍は汗まみれで文句を言った。


「じゃあ言わなきゃいい。ただ、やればいいのよ」

乃愛はからかうような笑みを浮かべながら返した。


少しずつ、龍は努力の成果を感じ始めていた。反応速度が上がり、技も精度を増し、身体は戦いのリズムに適応し始めていた。まだミスはあったが、乃愛との実力差は徐々に縮まっていた。


ある日の夕方、陽が木々の向こうに沈みかけた頃、源三が最後のスパーリングを許可した。龍は構えを取り、乃愛を見据える。


「準備できてるなら、いつでもどうぞ」

彼女は拳を掲げて微笑んだ。


即座にぶつかり合う。蹴り、フェイント、素早い回避。乃愛は洗練された動きでプレッシャーをかけるが、龍も正確に応じる。彼女ほど速くはなかったが、少しずつ動きの意図が読めるようになってきた。


「防御、悪くないじゃない」

乃愛は驚いたように言った。「でも、そのペース、保てるかしら?」


龍は何も答えず、身体を任せた。一瞬の隙を見逃さず、乃愛の姿勢にわずかな乱れを見つけると、横に滑り込む。流れるように身体を回転させ、フェイントで彼女の構えを崩し、その拳を顔の数センチ手前で止めた。


二人とも動かない。空気が凍りついたようだった。


乃愛は龍の顔を間近で見つめ、わずかに顔を赤らめた。


龍の拳はかすかに震えていたが、それ以上は動かなかった。


「…一本取られたわね」

乃愛は笑みを浮かべて腕を下ろした。


龍は息を切らしながら手を下げた。その一撃は、ただの勝利ではなかった。前進の証だった。


「やった…!」(俺、やっと…)


木陰から源三が腕を組み、うっすらと笑みを浮かべながら見守っていた。


乃愛は、龍の顔があまりにも近くて恥ずかしくなり、真っ赤になった頬を隠すように慌てて背を向けた。



彼は、光を見始めていた。


「なあ、龍」


「はい?」


「体の方は、もう大丈夫だろう?」


「はい、先生。もう一ヶ月経ちましたし、ちゃんと回復しました」


あの日から、すでに一ヶ月半が過ぎていた。完全に暴走し、意識だけで立っていたあの時。あんなことは初めてだった…あの規模では。あの日の出来事に、皆が動揺していた。


「じゃあ、学内大会に出場するつもりだな?」

源三は腕を組みながら言った。


「そのつもりです」

龍は脚を伸ばしながら答えた。


「その決意が好きだ!」

先生は豪快に背中を叩き、龍は地面に倒れた。


「がっ…ありがとう、先生…」


「学内大会は重要だぞ。優勝すれば奨学金が出るし、みんなそれを狙って必死だ」


「乃愛先輩も、出場されるんですか?」

龍は、彼女が近づいてきたのを見て尋ねた。その堂々たる雰囲気は、見る者を圧倒していた。


「多分ね…でも、まだ考え中」

彼女はタオルで首筋を拭いながら答えた。その光景は、龍の目には魅力的に映っていた。


「そろそろ帰りなさい。もう日が暮れる」

源三がいつもの口調で言った。

「はい、水原先生。いつもありがとうございます。乃愛先輩も、いろいろ本当に感謝してます」

如月 龍は深々と頭を下げた。


彼は乃愛に、思いもしなかったような友情を見つけていた。彼女は一つ年上で、美貌と実力から学院でも絶大な人気を誇っていたから、最初はきっと自分のことなんて気にも留めないだろうと思っていた。だが、現実は違った。


仲間たち、愛莉(あいり)、そして乃愛。彼女たちは、龍にとって新たな人生の支えとなっていた。ときどき、こんなにも美しく、魅力的で、皆に慕われる彼女が自分の先輩であり、友人でもあるという事実が信じられなかった。


(そりゃあ、みんなが嫉妬するのも無理はないよな…)


龍が道を歩いて去っていった後も、乃愛と源三はしばらくの間、門の前から彼を見送っていた。


「上達が早いな」

源三は穏やかな笑みを浮かべながら言った。それは誇り高い師が漏らす、ごくわずかな微笑だった。


「ええ。それに……いい子よ、あの子」

乃愛は夕日の逆光の中で目を細め、柔らかく微笑んだ。


その瞬間、源三の表情が変わった。顔の奥に一瞬、影がよぎる。


「運命が、あまりにも過酷なんだ。せめて…こうして鍛えることで、少しでも抗えるようになってくれればいいんだがな」

彼は、誰にも語れない真実を胸に抱えていた。


「私は信じてる」

乃愛は力強く言った。瞳には揺るがぬ意志が宿っていた。

「きっとできる。あの子なら」


「…そうであってほしい」

源三はため息をついた。「あいつには、できる限りの支えが必要だ」


「だったら、私はその支えになる。全力でね」

乃愛はそう言って、くるりと向きを変えて家の中へ入っていった。


源三は彼女の背中を見送っていたが、不意に胸に小さなざわつきを感じた。


「乃愛……まさか、お前、あいつのことが…?」


「だったら、どうするの?」

乃愛は振り返らずに、楽しげに返した。


「いやいや、あいつは一つ年下なんだぞ!」


「私の好みくらい、パパが決めないでよ」

そう言いながら、突然彼の耳をつかんでぐいっと引っ張り、笑いながら家へと入っていった。


源三は大袈裟な声を上げた。


「いってぇぇぇっ!! それ、完全に母さん譲りだぞ!」


東京の街では、浮遊灯の淡い明かりが一つ、また一つと灯り始めていた。龍はその下を歩きながら帰路につく。激しい訓練の後だというのに、不思議と体が軽かった。もう慣れてきたのかもしれない。


彼の周りを、清掃用のドローンが静かに浮かびながらゴミを回収していく。顔認識で変化するホログラム広告が、通行人に向けてカラフルなメッセージを送っていた。


立方体の半透明型の自販機が、龍の接近を感知して起動した。


「おかえりなさい、龍さん。いつものグレープジュースにしますか?」


「今日はメロンの気分だな」

龍は驚くこともなく答えた。


「素晴らしい選択です」


小さな電子音とともに、冷えた缶がスロットから滑り出た。龍はそれを手に取り、一口飲んだ。冷たくて、甘くて、爽やかだった。


(傷の治りが…なんだか妙に早い気がする。源三先生は何も言わなかったけど……これも、〈異能者〉としての能力の一部、なのか?)


そんな思いが頭をよぎったその時、聞き慣れた声が耳に届いた。


「龍!」


首を巡らせると、如月 龍はゲームショップから出てくる西村隼翔(にしむら はやと)の姿を見つけた。両腕には袋がぎっしり詰まっている。


「それ、全部お前一人で買ったのか?」と龍が笑いながら聞いた。


「当たり前だろ!限定版フィギュアがセール中なんだぜ。見てみろよ……」


隼翔は慎重に袋の中から輝くフィギュアを取り出した。


「銀河編のレッドホークじゃねぇか!?」龍の目がぱっと見開いた。オタク魂が一気に目覚める。


「あと四体しか残ってなかった。明日行けば、手に入るかもな」隼翔はウインクしながらニヤリと笑った。


「それ、絶対欲しい。プラズママント付きの最高バージョンだし!」


「欲しがると思ってたよ。長峰(ながみね)さんが勉強会でお前がレッドホーク好きって言っててさ、みんなにからかわれて真っ赤になってたぞ」


「あいつ、口軽すぎ…」


二人はそのまま住宅街を歩き始めた。


「訓練の方はどうだ?調子いいか?」隼翔が興味深そうに聞いた。


「変な感じだけど、悪くない。体の順応が早い気がする。水原先生についてくのは大変だけど、回復が早いんだよな」


「それはいい兆候だな。しかも毎日、乃愛先輩に鍛えられてるんだろ?」


「そういう言い方やめろよ…別にチャンスがあるわけじゃねぇし」龍は肩で隼翔を押し返したが、顔は少し赤くなっていた。


「へへ、乃愛先輩の才能がちょっとでも移ればいいな」


やがて、二人は分かれ道の交差点にたどり着いた。


「じゃあ、また明日な」隼翔は袋をひとつ軽く振って別れの合図をした。


「うん。レッドホークのフィギュア見かけたら、すぐ知らせろよ!」


「約束する!」


龍は数ブロック一人で歩いた後、自宅の前に立った。空は薄紫と橙に染まり始めており、しばし見上げてから深く息を吸った。


「……今日も、いい一日だったな」そう呟き、家の中へ入っていった。


***


翌朝――


待ちに待ったトーナメント抽選の日がやってきた。


如月 龍にとって、こんなに早起きしたのは本当に珍しかった。朝食をゆっくり食べ、学校への道のりも穏やかに歩くことができた。全てが思い通りに進んでいる気がして、細かいことまで自分でコントロールできているようだった。


だが、講堂に入った瞬間、緊張が胸に押し寄せた。あまりに多くの人が一堂に会しているのだ。以前の田舎暮らしでは、見渡す限り木々と土の道ばかりだった自分にとって、これはほとんどカオスの祭典だった。


(あそこにいるの、偉い人たちだよな……)


視線を上げると、壇上に設置された特別席には、スーツ姿の大人たちが数名座っていた。その中の一人――黒髪に眼鏡をかけた老人が、じっとこちらを見つめていた。


(……オレを見てる?)


老人は薄く不気味な笑みを浮かべると、くるりと背を向けて席に座り直した。


(気のせいか……?)


全員が着席したところで、司会者がマイクを握り、やたらとテンション高く話し始めた。


「皆様、ようこそお越しくださいました!今年もやってまいりました、東京インター校トーナメント!今回の開催校は、光栄にも青山学院が務めさせていただきます。そして例年通り、全国評議会が主催するこの大会で、熾烈な戦いと夢の奨学金を目指す皆さんの姿を見られること、私自身も非常に楽しみにしております!」


(……長いな)如月 龍はため息をこらえつつ、心の中でぼやいた。緊張しているにもかかわらず、こういう演説は昔から苦手だった。


周囲を見渡すと、 愛莉が笑顔で手を振っていた。英夫(ひでお)は目を見開きながら、タブレットに何やら必死でメモを取っている。


(まったく、相変わらずだな)と心の中で苦笑する。


「では、前置きはこの辺にして……」


(ようやくか!)龍は内心で歓喜した。


「いよいよ、予選トーナメントの抽選を開始します!」


大画面のスクリーンに次々と名前が表示されていく。そのたびに、ざわめき、歓声、あるいは落胆のため息が会場中を包んだ。


やがて、龍の名前が表示された。


如月 龍(きさらぎ りゅう) vs 柴田 竹男(しばた たけお)


(柴田……知らない名前だな。まあ、当然か)


この街に来て日も浅く、〈異能者〉の世界についてもまだ初心者だ。対戦相手の情報はこれから調べる必要がある。本戦まではあと二ヶ月。だが、予選こそが本当の始まりだ。無駄にできる時間はない。


数分後、画面にもう一つ気になる組み合わせが現れた。


水原 乃愛(みずはら のあ) vs 冨田 沙也香(とみた さやか)


(やっぱり……出場してたんだ)


驚きと、どこか誇らしさの混じった感情が胸に浮かぶ。乃愛の強さはよく知っている。だが、こうして彼女の名前が並ぶのを見ると、不思議と心強くなった。


その後、さらに会場がざわつくような対戦カードが発表された。


八神 辰輝(やがみ たつき) vs 鶴田 光輝(つるだ こうき)


(あのバカもいるのか。誰かボコボコにしてくれねぇかな)


鶴田 光輝――画面に映った男は、落ち着いた顔つきで自信に満ちていた。初心者ではないことが一目でわかる。一方の八神は、すでに勝利を確信しているかのようにニヤニヤしていた。


そのとき、愛莉がにこやかに近づいてきた。


「如月くん、調子はどう?」


「おはようございます、長峰さん」


「そんなに堅くならなくてもいいのに~」彼女は小さく口をとがらせた。


「わかってるけど……まだ慣れなくて」


「柴田 竹男……かなりのスピードタイプらしいよ」画面を見つめながら愛莉が言った。


「そうなのか。こっちも調べておかないとな。情報なしで戦う気はない」


「柴田くんは坂石にある学校の出身なんだ。」


「……また運が最高だな」顔を青くした英夫がタブレットを見せながら近づいてきた。表示されていたのは、まるで冷蔵庫ような巨漢の男だった。


「昔から、三年のトップはほとんど軍に推薦で行くって決まってるんだよ……だからもう詰みだな……」と深いため息をつく。


「昔からって……今週から記憶が始まったのか?」龍が冗談めかして突っ込む。


「どういう意味だよ、それ!」


愛莉が小さく笑ったが、如月 龍と視線が合うと、すぐに目を逸らした。龍も同じく、気まずそうに視線を外す。


「お前も出るのかよ、この田舎者」


その傲慢な声が、その場の空気を切り裂いた。全員が振り返る。八神 辰輝が現れた。


「お前、何しに来たんだよ!」英夫が声を上げ、龍をかばうように立ちはだかった。


「うるせぇよ、役立たず。ヨダレ拭けよ、ダラダラ垂れてんぞ」


龍の顔がこわばった。八神が愛莉の手を取ったのを見て、一瞬演技かと疑うほどだった。だが、それ以上考えるのはやめた。


愛莉の表情が変わり、不快感が彼女を包み込んだ。


「おい、バカ。今すぐ消えろ」


「おぉっ、その獅子の心……たまらないな。でも今は手を汚す気分じゃないんだよな」


まるで運命の悪戯のように、ちょうどその瞬間、ヒデオは手を滑らせてグレープジュースのグラスを落としてしまった――八神の靴の上に。


「…ご、ごめん…」


教室は一瞬で静まり返った。

そして次の瞬間、爆笑が巻き起こった。


「今日は、お前みたいな役立たずが死ぬには最高の日だな。」


八神が殺気立ち、英夫に詰め寄ろうとしたその時、龍がすかさず間に割って入った。だが――


「全員、自分の教室に戻りなさいッ!」


教師の怒鳴り声が場の空気を断ち切った。


八神が舌打ちしながらその場を去り、愛莉は肩を震わせながら笑いをこらえていた。龍は彼女を見て、わずかに微笑んだ。


(全力でいかないと、置いていかれるな)

そう心の中で誓いながら、教室に向かう生徒たちの背中を見つめた。何か大きなものの一部になった気がした。久しぶりに、自分の居場所を感じた。


しかし、その内に燃え上がった闘志は、わずか三十分後にはかき消されることとなる――


化学の授業が始まったのだ。


教師はデジタルスクリーンの前で熱心に講義をしていた。ボーアの原子モデル、電子の軌道、量子数、陽子、中性子……。


(もう何言ってるのか、さっぱりだ)

龍は机に肘をつきながら頭を抱え、ノートには落書きばかりが増えていた。


数列後ろの席で、愛莉が彼の様子を見ていた。困り果てた顔に、思わず微笑んでしまう。


「如月くん、化学……苦手なの?」と小声で身を乗り出して囁く。


「ぜ、全然……どうしてそう思うんですか、長峰さん?」

龍は無理に堂々とした態度を取ろうとしたが、右目だけがストレスでピクピク震えていた。


「なんとなく……今日は自分の髪引きちぎるんじゃないかって思ったから」


龍はため息をついた。まるで十年分老け込んだかのように。


「まったく意味わかんねぇんだよ。化学なんてクソだ。ナトリウムの電子数なんて知ってどうするんだよ」


愛莉は小さく笑い、手で口元を隠した。


「ふふっ。よかったら、手伝ってあげようか?化学は得意だから」


「気にしないで。試験はなんとかなると思うから」

龍はそっぽを向いて答えた。


「本当に?」


「大丈夫、大丈夫……」

自分に言い聞かせるように、同じ言葉を繰り返した。


愛莉はそれ以上何も言わなかったが、授業中ずっと横目で如月 龍を気にしていた。

龍は集中しようとしたが、頭の中では何度もトーナメントのことがよぎり…いや、あの悪魔みたいな原子モデルのことまで思い出してしまう。


他の生徒たちが試合の組み合わせについて楽しそうに話している中、龍の頭にあったのは、化学式、化合物、そしてどうにかして乗り切ったあの地獄の授業のことだった。

ノートを片手に、片方だけ肩からずり落ちたリュックを背負いながら、廊下をゾンビのように歩いていた。


中庭に出たところで、携帯が震えた。トーナメントのグループチャットか何かかと思って画面を見たが、表示されたメッセージに、龍の表情が一変する。


「龍、今日退院するの。夕方6時くらいにママと出るから、病院に来れる?」


しばらくその場に立ち尽くし、何度もメッセージを読み返した。

彼女の番号。彼女の口調。そして彼女の絵文字。


「よりによって今かよ…」

そう呟いたが、口元には自然と笑みが浮かんでいた。

(本当なのか?もう戻って来れるのか?)


気づけば足が速くなっていた。胸の奥に、焦りと安堵が渦巻いている。


龍が心躍らせながら中庭を駆け抜けていたその頃――

街のどこか、人目のつかない場所で、一つの会合が開かれていた。


温かな光に照らされたその部屋は、どこにでもある普通の家の一室に見えた。

閉じられたカーテン、古びた本が並ぶ書棚、革張りのソファ。

だが、そこに集まっていた者たちの顔は、黒いフードの影に隠されていた。

ただ一人、中央に座る若者だけが素顔をさらしていた。


苔色のスーツを身にまとい、優雅に琥珀色の液体が入ったグラスを手にしている。

若々しい容姿とは裏腹に、その存在から漂う威圧感は凄まじかった。

フードの三人は一言も発さず、ただその男の言葉を待っていた。


「目撃者を呼べ」

静かな声が室内に響いた。


二人の男が部屋に入ってきた。

どちらも普段着だったが、その目には緊張の色が濃く宿っていた。

誰に命じられるでもなく、彼らはひざまずいた。


「話せ。最初からすべて」


スーツの若者が促すと、一人が前に出た。


「数日前のことです……巡回中に、見たんです。一人の少年を。黒髪の。

“指名手配”のポスターをじっと見てました。星川(ほしがわ)のやつです」


スーツの男は、ちらりと横に座る誰かに目をやったが、その人物は微動だにしなかった。


「少年の手首に、ありました。あの“黒炎の太陽”の印が。間違いありません。

捕まえようとしましたが、逃げられました。誰か別の人間が現れて……姿は確認できませんでした。すぐに気絶させられて……」


もう一人も頷き、その証言を裏付けた。


「他に何か」

男は声の調子を変えずに尋ねた。


「青山学院の制服を着てました。半袖のシャツに、あの校章が。

知り合いがそこに通ってるんです」


スーツの男はグラスを指先でゆっくり回しながら、しばし黙考した。そして小さく頷く。


「下がれ」


二人の男は軽く頭を下げ、部屋を退出した。再び、沈黙が訪れる。


(あさひ)

ふいに男が口を開いた。フードの一人に目を向ける。


「調べろ。あの少年について、すべて。だが慎重にな。失敗は許されない」


「了解しました」

朝陽は低くそう答え、静かに頭を下げた。

フードの隙間からは白い髪が覗き、鋼のように冷たい眼差しがその奥に光っていた。


しばしの沈黙の後、もう一人のフードの人物が軽い口調で口を開いた。


「へぇ…まだ俺って有名人みたいだな」


それを聞いた中央の男が、わずかに口元を緩めた。


「君の指名手配ポスターはすべて撤去されたと思っていたが。新しいやつだったのか?」


「まぁ、俺の魅力には誰も抗えないってことだよ。いつだってどこかに新しいポスターが貼られてる」


「未だに首都では忘れ去られていないようだな、星川 零司(ほしがわ れいし)さん」


「結構なことだ」

零司は皮肉っぽく笑いながら答えた。

「静かな暮らしにも、そろそろ飽きてきたところだしな」

影が、ついに動き出す――

それは、これから訪れる嵐のほんの序章にすぎない。


次の章でも、その足音は止まることはない。

どうか、お楽しみに。


ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

もしこの物語を少しでも楽しんでいただけたなら、ぜひ感想を残していただけると嬉しいです。

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