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8. 静かなる訪問者のデジャヴ

夕日が沈み始め、空は橙色に染まっていた。夕方の涼しい風が街の匂いと遠くの交通音を運んでくる。


自宅の庭で、如月 龍(きさらぎ りゅう)は激しく空に拳を打ち込んでいた。源三との稽古だけに頼るわけにはいかない。週に二日では足りなかった。朝の訓練で体は限界だったはずなのに、今はもう動きたくてたまらなかった。


一発、二発、三連打。呼吸は乱れない。


乾いた風切り音が、彼の拳から空気を裂いて響いた。


じっとなんてしていられなかった。


(朝の訓練でボロボロのはずなのに、体がもっと求めてる…)


源三の言葉が脳裏に浮かんだ。


「この調子で伸びていけば、そのうちお前の方からもっと稽古したいって言い出すだろうな」


(もしかして…師匠の言う通りかもしれない)


姿勢を整え、膝を軽く曲げる。息を吐いた。


ジャブ。右ストレート。前蹴り。


呼吸は徐々に荒くなっていくが、止まらない。もっと出せる。もっと出さなきゃ。


再び拳を突き出す。速く、そして強く。


もっと…


――突然、その「もっと」は拳ではなく、記憶として彼を打ちのめした。


――フラッシュバック(二年前)


業火が夜を地獄のような赤に染めていた。


悲鳴が混乱の中を突き抜け、黒煙の柱が空へと昇っていく。


テレビの画面には赤く点滅するニュースのテロップが流れていた。


『学習支援センターで火災発生! 放火の可能性あり』


当時十五歳の 龍は、画面の前で凍りついた。


陽葵がそこにいた。


陽葵が、あの建物の中にいた。


考える間もなく、家を飛び出した。


心臓が激しく脈打ち、ペダルを踏む足が自転車の車輪を回す。彼もその学習支援センターに通っていたが、その日は軽い風邪で休んでいたのだった。


現場に到着したときには、すでに建物の大半が炎に包まれていた。


消防隊が必死に火を食い止めようとしていた。人々が叫び、混乱していた。


だが、龍の目には陽葵しか映っていなかった。


「陽葵ーっ!!」と叫ぶ彼の声は、炎の轟音にかき消された。


大人たちが彼を止めにかかった。


「入っちゃダメだ、坊や!」


だが、陽葵はまだ中にいる。


(助けなきゃ…何かしなきゃ…!)


消防隊員を振り切ろうとしたが、がっしりと腕を掴まれて動けなかった。


「離せっ!お願いだ!友達を助けたいんだ!」


だが、できなかった。


彼は――ただの子どもだった。


無力感が胸を締めつけ、目には熱い涙が溢れていた。


数分後、救急隊員たちが生存者たちを搬送していた。


陽葵も、その中にいた。


「陽葵っ!」彼は担架に運ばれている彼女の元へ駆け寄った。


顔や手足は煤にまみれ、軽い火傷を負っており、酸素マスクをつけていた。


彼女は――生きていた。


だが、あの日を境に、彼女の呼吸器系は元には戻らなかった。


*現在


龍の拳が空を切り、バランスを崩した。


呼吸が荒い。だが、それは疲労のせいではなかった。


彼は目を閉じ、拳を固く握った。


(あの日、俺には何もできなかった…)


(でも、もう繰り返さない)


大切な人を守りたいなら、もっと強くならなければならない。


深く息を吸い、再び構えを取る。


拳を突き出す。


――強く。


もう一発。


――速く。


過去を変えることはできない。でも、次は傍観者で終わらせない。


訓練を終え、過去を振り返った後、龍は自分の限界を感じた。無駄にする時間はない。彼はまっすぐ風呂場へ向かった。熱い湯がすぐに筋肉の緊張を和らげ、心までほぐしていく。目を閉じ、湯気が頭の中の重たい思考を溶かしていくのを感じた。


(あれから、もう二年か…)


目を開き、曇った鏡にぼんやり映る自分の顔を見つめる。


(でも今なら… 今なら、きっと何かできる)


体を拭き、楽な服に着替えると、ベッドに倒れ込むように横たわった。視線は机の上に向く。そこには一冊の漫画『レッドホーク』の最新巻が置かれていた。幼い頃からずっと読んできた作品だ。


彼は微笑を浮かべながら、それを手に取り、ページをめくった。


冒頭から、アドレナリンが一気に体中を駆け巡る。レッドホークが、新たな敵――過去最強で冷酷な敵と対峙していた。だが、彼は一歩も引かない。傷ついても、倒れても、何度でも立ち上がる。


龍の背筋に、ゾクリとする感覚が走った。


(俺も、こうなりたい… どんなに苦しくても、絶対に前へ進むんだ)


読み進めるうちに、彼は完全に物語の中に引き込まれていった。主人公の一撃一撃が、自身の決意を強く燃え上がらせていく。ページをめくるたびに、心に火が灯る。


そして最後のページを読み終えたとき、静かに息を吐いて本を閉じた。


天井を見上げながら、心の中で何度も物語の余韻を噛み締める。


やがて、眠気に身を委ね、そのまま深い眠りに落ちていった。


***


翌朝――


遠くでエンジンが始動する音が聞こえ、龍は目を覚ました。


まだ眠気の残るまま、目をこすってスマホを確認する。


午前七時二十三分。


「うぅ…」と小さく呻きながら、布団から体を起こす。


今日は土曜日。そしてバイク整備工場での新たな一日が始まる。


まぶたが重いままだが、不思議と体には活力が満ちていた。


(やるべきことは、はっきりしてる。今日は、学べることを全部吸収してやる…!)


その六時間のインターンでは、ケーブルやガソリンの匂いに囲まれながら、龍は少しでも多くを学ぼうと必死だった。夏休みに何か講習でも受けてみようかとすら考えるようになっていた。


工具を扱う手つきも日に日に慣れてきて、機械の仕組みも直感的に理解できるようになっていた。


――それでも、頭の中は別のことでいっぱいだった。


目覚めた瞬間から、もっと長く訓練したいという思いが渦巻いていた。全力を引き出すには、もっと自分を追い込むべきだと考えていた。


不思議だったのは、身体の回復の早さだった。源三との訓練はいつも全身をボロボロにするが、翌日にはほとんど元通りになる。ただし、最初の訓練だけは別だった。あれは完全に失敗だった。


油で汚れた布で手を拭きながら、龍はもう迷わなかった。スマートフォンを取り出し、メッセージを打ち込む。


「今日の夕方、家に行ってもいい?」


送信する前に、何度も読み返したが――


「図々しいと思われるかも…俺、何やってんだよ…」と小声でつぶやきながら、キャンセルしようとしたその瞬間、指が間違って送信ボタンに触れてしまった。


…もう遅かった。


すぐにスマホが震え、乃愛からの返信が届いた。


「龍くん、もしかして私のこと恋しいの?♡」


おちゃめなスタンプ付きだった。龍の顔が一気に真っ赤になる。


「ち、違うって!いや、違わないけど…水原先生と話がしたくて…君とも…」と、なんとか話題をそらそうとする。


「えー?恋しくないの?ひどーい」と、今度は悲しげなスタンプが送られてくる。


「そ、そんなことない!もちろん、会いたいよ!」と慌てて返信するが、書けば書くほど自滅していく感覚があった。


「じゃあデートしよ♡」と、彼女はこの機会を逃さず突っ込んできた。


龍はしばらく画面を見つめたまま、信じられないような、でもどこか嬉しいような、複雑な感情を抱えていた。


(仕事の後なら…ちょっとくらいなら、いいか)


「…わかった、行こう」と、緊張で指を一文字ずつ慎重に動かしながら返事を打った。


***


龍と乃愛が落ち合ったのは、小さなカフェだった。


店内は温かみのある照明に包まれ、木製のテーブルとアンティーク調の装飾が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。コーヒーの香りが心をほっとさせる。


乃愛は飲み物をスプーンでくるくると混ぜながら、楽しそうに微笑んでいた。


彼女の魅力的な服装と、自然と目を引く美しさに、周囲の客たちも思わず目を向けていた。


龍はスマホに視線を落としつつ、乃愛をじっと見ないように気をつけていた。あまり見つめると、顔が真っ赤になりそうだったからだ。内心、なぜこの“デート”を受けたのか、まだ少し緊張していた。


「どうしたの?」と、乃愛がいたずらっぽい笑みを浮かべて問いかける。「まさか、本当に私とデートしてるなんて信じられないの?」


「そ、そんなことないよ…ただ、君が“デート”って言うなんて思わなかっただけで…」


「じゃあ、なんて呼べばよかったの?」と、彼女は肘をつき、顎を手に乗せて彼に身を寄せた。


「…ううん、デートでいいよ」


「うん、その方がいい♡」


乃愛は柔らかく笑い、カップを手に取り一口飲んだ。


龍は小さく息を吐いて、そろそろ話題を変えようと心に決めた。



「ところで、この前の訓練のときさ……飛んでたよな。」


「えっ?」龍 の言葉に、乃愛 は驚いたように瞬きをした。


「いや、動きが速すぎて、目で追うのがやっとだったんだ。すごいよ、本当に。」


「まさか、私をカフェに誘ったのって、学校の話をしたかったから?」乃愛はわざとらしく目を細めた。


「え…いや、その…」龍は頭をかきながら言い訳した。「ごめん、本当に上達したくてさ。」


乃愛はしばらく彼を見つめた後、くすっと笑った。


「いいわ、今回は許してあげる。いい? 龍、スピードってのは単に身体能力だけじゃないの。どう動くか、どう勢いを使うか、自分の体重や呼吸の使い方を理解することよ。」


「呼吸?」


「そう。呼吸を制御できれば、疲労を抑えて、もっと正確に動けるし、攻撃も当てやすくなるの。」


龍は彼女の言葉をしっかりと心に刻んで頷いた。そして少し迷いながらも、話題を変えることにした。(乃愛は学校の話をあまりしたくなさそうだったし…)


隣のテーブルに置かれていた雑誌が開きっぱなしになっていた。龍はそれを手に取り、コーヒーを飲みながら何気なくページをめくった。そこには、目が異常に大きくてキラキラした子猫の写真がドーンと載っていた。


「ねぇ、乃愛先輩」龍は軽い調子で言った。「学校では誰にも知られてない秘密とかってある? 恥ずかしい恐怖症とか。」


「私?」乃愛は片眉を上げてカップを口元に運んだ。「ないわよ、もちろん。私は何も怖くないもん。」


「本当に?」龍はにやりと笑いながら、雑誌を回してそのページを彼女に突き出した。


「きゃっ! やめてっ!」乃愛はカップをひっくり返しそうなほど飛び上がった。頬は真っ赤になり、龍は遠慮なく笑った。


「やっぱり本当だったんだ……猫が怖いんだね。」


「こ、怖いわけじゃない! ただ…あのモフモフの足が無理なのよ!」


龍はまだ笑いながら雑誌をテーブルに戻した。


「この前、お父さんがうっかり話してたんだ。黙っておこうと思ってたけど、これはあまりにも最高だったから。」


「うぅ…恥ずかしい…」乃愛は手で顔を覆った。


「安心して、君の秘密は僕が守るよ。でも…マジで面白かった。」


乃愛は唇をぎゅっと結び、ふいに目を細めて悪戯っぽく微笑んだ。


「ふーん、じゃあ…そんなに聞きたがるなら、今度はこっちの番ね。龍、理想のタイプってどんな人?」


龍は瞬きをした。


「えっ?」


「ほら、照れないでよ。」


(まさか、恥をかかせるつもりが逆に返されるなんて…鉄の神経ね、この人。)


龍はカップを皿に置き、軽い音が響いた。


「理想のタイプか…そうだな。強い人かな。肉体的にって意味じゃなくて。たとえ内心震えていても、あきらめずに立ち向かえる人。自分の意見をしっかり言える人が好き。」


乃愛はその言葉を聞いて、徐々にその表情を変えていった。最初は好奇心、やがて驚き、そしてほんのりと頬が染まった。


「…私みたいな人も、その中に入る?」


龍は即答した。


「うん。実は、君のことを思い浮かべてた。」


「ば、バカ! 来てからずっと私をからかってばっかじゃない!」乃愛は顔を真っ赤にしながら、そっと龍の肩を押した。


龍は声をあげて笑った。


「ちっ、You’re impossible.」


「今の、英語?」龍は目を見開いた。


「そうよ。好きなの。母から小さいころに習ったの。」


「じゃあ、英語ペラペラなんだ?」


「まあ、そこそこね。他の言語も勉強して、世界中を旅したいと思ってるの。どこに行っても人と話せたら素敵じゃない?」


「それ、すごくいいね。」龍は彼女を見つめ、心から感心した様子で言った。「僕もそんなことしてみたいな。今はまだ……一番近い趣味ってバイクくらいかな。」


「バイク?」


「うん。小さいころから好きなんだ。夏に時間ができたら、講習でも受けてみようと思ってる。」


乃愛は優しい笑みを浮かべた。


「へぇ…私たち、意外と夢が大きいのね。」


「そうだね。でも正直まだよく分からない。たぶん、探してる途中かな。」


乃愛はじっと龍を見つめたが、それ以上は何も言わなかった。その代わりに、カップを持ち上げて笑った。


「じゃあ、見つけたら教えてね。」


「うん、約束する。」


二人はカップをそっとぶつけ、小さな乾杯を交わした。そこから先は、自然な流れで会話が続いていった。


コーヒーを飲み終えた後、龍と乃愛は街灯に照らされた通りを一緒に歩いた。心地よい夜風が吹き、乃愛の髪をやさしく揺らしていた。


「まさか、夜の散歩が好きだなんて思わなかったよ。」龍はポケットに手を入れて言った。


「誰が好きだって言ったのよ? たまたま誰かが家まで送ってくれるから利用してるだけよ。」乃愛はいたずらっぽく笑った。


「へぇ…てっきり僕ともっと一緒にいたかったのかと思ったのに。」


「まあ、それもあるけどね。」乃愛は軽く笑った。


しばらくの間、二人は黙ったまま歩いた。夜の静けさを楽しみながら。龍は心の中で、玄三と話すべきことを考えていた。自分の限界を超えるには、もっと鍛える必要があると、改めて強く感じていた。


「楽しかった?」と、乃愛が静かな通りを歩きながら聞いた。二人はちょうどショッピングモールを出たばかりだった。

「すごく。誘ってくれてありがとう。本当に、こういうのが必要だったんだ」と、龍は笑顔で答えた。

「そう言ってもらえてよかった」

しばらくの間、静かな時間が流れた。歩きながら、龍はずっと気になっていたことを口にした。

「ねえ、乃愛…君のお母さんって、どんな人? まだ会ったことないよね」

乃愛は片眉を上げて、楽しそうに笑った。

「お母さんのこと? ふふっ、どういうつもり? 興味あるの?」

龍は少し頬を赤らめた。

「ち、違うよ! ただ、ちょっと気になっただけで…」

彼の慌てた様子に、乃愛は小さく笑った。

「安心して。それくらい聞かれても普通よ。母はアメリカ出身で、旅行会社を経営してるの。だから、江都にいないことが多くてね。数ヶ月まるまる戻らないこともあるの。でも、来月には帰ってくるかもしれないわ。うまくいけば、だけど」

「そうなんだ…なるほど」

「ほら、見て」

乃愛はスマートフォンを取り出し、一枚の写真を見せた。金髪は母譲りで、その美しさも母から受け継いだのだと一目でわかる。画面越しでも温かさが伝わってくるような女性だった。

「私にとっては、大きな存在なの」乃愛は穏やかな表情で空を見上げながら続けた。「いつも強くて、まっすぐで…頑固なところも、そっくり」

「そうだろうね」と、龍がにやりと笑った。

すると、乃愛はくすぐったそうに肩で彼を軽く押した。

「ふーん、そう思ってたんだ?」

二人は笑い合いながら、柔らかな街の明かりに包まれて歩き続けた。

***

乃愛の家の前に着くと、彼女はくるりと振り返った。

「で、今日は父にも会うつもりだったんでしょ?」

「うん」

乃愛は微笑み、手で「ついてきて」と合図した。玄関のベルを鳴らすと、数秒後に源三がドアを開けた。いつもの過保護な雰囲気をまといながらも、どこか安心した様子だった。

「おお、龍。乃愛から聞いていたぞ。入れ」

龍は、名字ではなく名前で呼ばれたことに気づき、少しだけ胸が熱くなった。少しずつだが、信頼されてきた証のように感じた。

家の中に入ると、源三はリビングへと案内した。乃愛はソファに座り、龍は源三の前に立って深々と頭を下げた。

「水原先生。お願いがあります」

その真剣な口調に、源三は意外そうに片眉を上げた。

「言ってみなさい」

龍はもう一度、丁寧に頭を下げてから口を開いた。

「もっと訓練したいんです。日数を増やして、負荷も上げたい」

源三は鋭い目つきで龍をじっと見つめた。数秒の沈黙のあと、重いため息をついた。

「今の訓練でも十分きついだろう。君はまだ学生だ。プロの戦士でもあるまいし」

「承知しています。でも、自分の身体が、もっとやれるって感覚があるんです。回復も早い。今、試してみたいんです。自分の限界まで」

源三は少し興味深そうに龍を見つめた。最初は否定的だったが、龍の真剣な眼差しが、その考えを少しだけ揺るがせた。


「本当は“いいぞ”って言ってやりたいが、そう簡単な話じゃない。……考えておこう」そう言って、彼はゆっくりと頷いた。「約束はできんが、検討はしてみる」


龍は丁寧に頭を下げた。


「聞いてくださって、ありがとうございます、水原先生」


「今の訓練をまずはしっかりこなせ。それと、勝手に無茶はするなよ」と、源三は真剣な声で念を押した。


龍は片口で笑いながら頷いた。


「約束します」


そのやり取りを、乃愛はソファの端で興味深そうに見守っていた。何も言わなかったが、唇にはかすかな笑みが浮かんでいた。


「もう遅いな」と源三が立ち上がりながら言った。「乃愛、龍を玄関まで送ってやれ」


乃愛は頷き、龍と一緒に玄関へと向かった。


「ほんと、あんたって面白いわね」と乃愛がくすっと笑った。


「どうして?」


「水原先生に訓練増やしてほしいなんて、しかもあのタイミングで礼儀正しく頼むなんて、普通じゃないよ」


龍は少し照れくさそうに頭をかいた。


「言うだけ言ってみたかったんだ」


「きっとうまくいくよ。そんな気がする」


乃愛は玄関のドアを開けて、ドア枠に寄りかかった。


「月曜にまたね」


「うん、またね」


乃愛の最後の笑顔を背に、龍は静かな夜の街へと足を踏み出した。深く息を吸い、前よりも強くなった決意を胸に、家路を歩き始めた。


***


朝、龍が家を出る準備をしているとき、いつものようにテレビをつけっぱなしにしていた。イリナはすでに外出しており、朝食は冷蔵庫に残っていたリンゴと紙パックのジュースで済ませた。靴ひもを結びながら、ふとテレビの音に意識が向いた。


「速報です。異能対策局(いのうたいさくきょく) は、本日早朝、奥山市にて暴走した異能持ちの個体を鎮圧しました。公式発表によると、身元は非公開ですが、対象は著しい不安定性を示し、公共の安全に対する重大な脅威と判断されたとのことです」


画面には破壊された都市の映像が映し出されていた。地面はひび割れ、建物の一部は崩れていた。黒い制服を着た 異能対策局(いのうたいさくきょく) の兵士たちが周囲を警戒しており、レポーターたちは安全距離を保ちながら中継を続けていた。


異能対策局(いのうたいさくきょく)の石川司令は“あらゆる手段を講じたが、拘束は不可能だった”と述べ、“残念ながらこういう形になったが、最優先は常に市民の安全である”と今朝の会見で語りました」


龍は眉をひそめた。ニュースの語り口に、何かひっかかるものを感じていた。


「でも……あれだけの装備と人員がいて、なぜ確保できなかったんだ?」と考えたが、それ以上考える暇もなく、すぐにテレビを消して家を出た。


***


電車の中、窓の外に流れる街の風景をぼんやりと眺めながら、龍はスマートフォンを取り出した。いつもはイリナに急かされて買えないお菓子を、今日は事前に購入していた。ポッキーの箱を開けて、一本を口にくわえる。


その様子を見た隣の老婦人が、露骨に不快そうな視線を送ってきた。龍はその視線に気づきながらも、目をそらし、特に気にすることなく食べ続けた。


あるニュースフォーラムに、一つの投稿が上がっていた。音声ファイル付きのタイトルは──

「異能対策局は嘘をついている:奥山事件の真実」

その投稿には、被害者は先に攻撃していなかったこと、暴走したMSIも即ち敵意ではないという主張が綴られていた。市内の誰かが、異能対策局の介入直前に録音されたという音声をリークしたのだ。

心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、龍はイヤホンを接続し、再生ボタンを押した。

「やめてくれ、お願いだ!誰も傷つけたくないんだ!信じてくれ!」

直後、轟音と共に兵器が作動する音が響き、その後、音は途切れた。

龍の背筋に寒気が走った。

「他に選択肢はなかった、って言ってたけど……本当にそうだったのか?」

***

学院に到着した龍は、複雑な思考に沈みながら廊下を歩いていた。門をくぐったとき、誰かの声が聞こえた。

「おい、龍!ニュース見たか?」

声の主は英夫だった。ポケットに手を突っ込んだまま、真剣な表情で歩み寄ってきた。

「見たよ……でも、他にも見たものがある」龍はスマートフォンの画面を見せながら答えた。

英夫は目を細めて、ため息をついた。

「見たよ。あの掲示板、今じゃその話で持ちきりだ。マジでやばいかもな……」

「本当だと思うか?」

「わからない。でも、異能対策局が全部を正直に話してるわけじゃないって噂は、前からある」

そう言いながら二人は廊下を進み、ちょうど教室の前に差し掛かったところで、蓮が現れた。会話に自然と加わる。

「別に驚かないな」と彼は軽い調子で言った。「異能対策局については、昔からいろいろ聞いてる。捕まえた異能持ちで実験してるって話もあるし」

龍は思わず目を見開いた。

「実験……?」

蓮は肩をすくめた。

「ただの都市伝説かもしれない。でもさ、高いMSIを持つ人間って、生きてるより、死んでる方が都合いいって考えたら……どう思う?」

龍の胃が締めつけられるような感覚に襲われた。

「もしそれが本当なら……俺のMSIのことを知られたら……?」

彼は黙り込んで席に座った。今や、自分の力だけでなく、異能対策局の“真実”にも不安を抱くようになっていた。

そのとき、チャイムが鳴り、授業の始まりを知らせた。英夫はチラリと龍の手元を見て、まだポッキーの箱を持っているのに気づいた。そして、にやりと笑いながら肘で軽く突いた。

「なあ、せっかくだし、一本くれよ?」

「えっ?」龍は瞬きをして箱を見た。「ああ、いいよ、どうぞ」

英夫は素早く一本を取って、にこやかに言った。

「サンキュー、兄弟」そう言って、嬉しそうに一口かじった。

その様子を見ていた蓮は、机に肘をつきながら微笑んだ。

「へえ、龍って意外と優しいんだな」

「一本だけだろ。大げさだって」と龍は呆れたように言ったが、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。

その隙を見て、蓮がさっと手を伸ばしてポッキーを一本抜き取った。

「こらっ!」と龍は眉をひそめて抗議した。

「さっき“誇張するな”って言ったのお前だろ」

蓮は楽しげに笑いながら、ポッキーを口にくわえた。

龍が返そうとした瞬間、肩越しにひょいと手が伸びてきて、もう一本のポッキーが抜き取られた。

「サンキュー、龍。ちょうど腹減ってたんだ」

隼人が当たり前のように言いながら、隣の席に座り込んだ。

龍は自分のポッキーの箱を見つめ、それから友人たちに目を向け、ため息をついた。

「全部食べられるじゃん……!」

英夫、蓮、そして隼人は目を合わせた後、声を揃えて笑い出した。

***

放課後、龍はすぐに帰宅せず、図書室へと足を向けた。

朝の会話が、彼の胸の奥に不安を残していたからだ。

──異能対策局。

彼らは本当に信用できる存在なのだろうか?

人気のない席に腰を下ろし、備え付けの端末を起動させる。検索バーに文字を打ち込んだ。

異能対策局(いのうたいさくきょく)

すぐに複数の結果が表示された。最上位に出てきたのは、公式サイトだった。

そこには、局の構造や目的が詳細に記載されていた。

異能対策局は、ミアズマのポータ―を監視・規制し、危険な状況下での作戦を実行、暴走した異能者の対処を担う国家機関だという。

組織は複数の部門に分かれており、戦術介入部、情報収集部、そしてMSI異常調査部があると説明されていた。

さらに、局の全国統括責任者として──星川 一真(ほしがわ かずま)という名前が記されていた。

その名──

どこかで聞いたことがあった。

あの日、東京の中心街に友人たちと出かけたとき、街頭のテレビで聞いたのだ。

──それだけじゃない。星川(ほしがわ )……?

脳裏に、街中で見かけた異能対策局の指名手配ポスターが浮かぶ。

星川 玲司(ほしがわ れいじ)──指名手配中の凶悪犯。

「……偶然、なのか?」

椅子にもたれながら、龍は思考を巡らせた。

二人に関係はあるのだろうか?それとも、ただの同姓同名なのか?

頭を軽く振って、再び調査を続ける。

今度は、異能対策局に関するディスカッション掲示板にアクセスした。

そこでは、さまざまな意見が飛び交っていた。

ある者は局の必要性を強調し、「彼らがいなければ、この国はとっくに無秩序に陥っていた」と擁護していた。

一方で、「容疑者を裁判なしで処刑している」「国民に情報を隠している」といった批判も多く見られた。

だが、龍の目を最も引いたのは──

「異能対策局と裏社会の繋がり」についての投稿だった。

複数のユーザーが、ある特定のマフィア一家のために暗躍している異能対策局の職員が存在するという噂について語っていた。

──藤名村(ふじなむら)

その名字……図書室で読んだ歴史書に載っていたのを思い出した。

反射的に、検索バーに「藤名村(ふじなむら)」と入力する。

結果はすぐに表示された。

藤名村家は、日本 に存在する七つのマフィア一家の一つ。

そして──「七影の盟約」と呼ばれる協定の締結メンバーでもあった。

さらには、「黒炎の教団(こくえんのきょうだん)」と呼ばれる過激派集団の創設者であり、能力を闇の目的で用いることを奨励していたとされる。

だが、それだけではなかった。

彼らは、南部地域──すなわち“下の日本”の支配者とされており、違法取引の中心に位置し、政治にも影響力を及ぼしていたという。

藤名村家が拡大を続けた最初の十年、その若き指導者・藤名村 雄蓮(ふじなむら ゆうれん)のもとで急成長を遂げ、他のマフィア六家はその犯罪活動に反発していたという噂もある。

当時、藤名村家は他の家と比べて圧倒的な影響力を持っており、領地を超えて勢力を広げ、他の家を脅かしていた。

──けれど、奇妙なことがあった。

龍が目を通していたのは、いずれも古い記録ばかりだったのだ。

それ以降の調査報告や情報が、まるで削除されたかのように見つからない。

「なんで新しい情報がないんだ……?」

眉をひそめながら画面を見つめる龍。

気づけば、もう一時間近くが経過していた。外はすでに夕方に差しかかっている。

ヘッドホンを外し、ため息をついた。

情報は多く手に入ったが、核心にはまだ届いていない。

最後のタブを閉じ、画面の端に表示された時刻に目をやったその頃──

全く別の場所で、誰かが彼の名前を口にしていた。

***

柔らかな橙色に染まった空の下、ゆっくりと夕暮れが広場を包んでいた。

太陽はまだ完全には沈んでいなかったが、街灯はすでに灯り、木製のベンチや地区の旗が掲げられたポールを温かく照らしていた。

五藤(ごとう)校長は手を後ろで組み、穏やかな足取りで公園を歩いていた。

視線の先には、見覚えのある人影があった。

ポールの近くに腰かける、白髪をきっちり整えた老紳士。

脇には杖が立てかけられ、膝にはクロスワードの本が広げられている。

「……やはり本当だったか」

五藤は微笑みながら、そう呟いた。

「こんばんは、六郎(ろくろう)くん」

老人は視線を上げずに挨拶した。

「そうですね。こんばんは、則夫(のりお)さん」

五藤は軽く頭を下げる。

「都には、いつ頃?」

「それほど前じゃないよ」

則夫(のりお)はページをめくりながら、落ち着いた声で返した。

「数日前に着いたばかりさ」

「ここに長く留まるつもりはないと思っていたよ」

「昔から、同じ場所にじっとしているのは苦手でね」

則夫(のりお)は淡く笑いながらそう言い、視線は再びクロスワードへ戻った。

五藤はゆっくりとうなずいた。

彼が長居しないことは分かっていた。だが、信京(しんきょう)に姿を現したということは──ただ一つの意味しかなかった。

二人の間に沈黙が訪れる。

だが、それは心地よい沈黙だった。長い年月を共に歩んだ者だけが共有できる、静かな間合い。

「電話の件を聞こうと思っていたが……」

五藤は足を組みながら言った。

「……今となっては聞くまでもないな」

「すまない、則夫さん」

少しの間を置いて続けた。

「信じたくなかったんだ。現実だとは、思いたくなかった」

「今、理解してくれているなら、それでいい」

則夫は静かに応じた。目を本から離すことなく、丁寧に一つの単語を線で消していく。

「七十七になって、ずいぶん元気そうじゃないか」

五藤は横目で見ながら、皮肉交じりに微笑んだ。

「君だって大して変わらんよ、六郎(ろくろう)

則夫は初めて視線を上げ、柔らかく笑った。

「先に辿り着いただけだ。君もすぐそこさ」

二人は短く笑い合う。

それは、長い時を生きてきた者同士が交わす、穏やかな笑みだった。

「……それで、いつ起きると思う?」

声を落として、五藤が問う。

則夫はゆっくりとクロスワードの本を閉じた。

その目には、いつもの静けさとは異なる、厳粛な色が宿っていた。

「分からない。誰にもな」

「だが……心と精神が平穏であれば、希望はある」

「心が……?」

「それが全ての鍵だ、六郎(ろくろう)

則夫の声は低く、だが確かな響きを持っていた。

「魂が分裂すれば、心が崩れれば……その時こそ、本当に起こるだろう」

五藤は黙ってうなずいた。

その瞳には、不安がにじんでいた。

いくら経験を積んでも、理解の及ばない領域がある。

「……家の者の中には、すでに彼の後を追っている者もいる。居場所も──もう秘密ではない」

「知っている」

五藤は眉をひそめて答えた。

「だが、私が預かっている以上、何もさせはしない」

「分かっているさ。だからこそ、彼は君のもとにいる」

則夫は初めて正面から彼を見つめた。

その表情には、真剣さと深い信頼が入り混じっていた。

「私が孫を託した相手だ。間違いない」

その後に続いた沈黙は重かった。だが、不快ではなかった。

五藤は深く息を吐き、橙に染まる空を見上げた。

「──ならば、命を懸けてでも守ろう。そう決めた」

「その言葉が聞きたかったよ、六郎(ろくろう)


図書館から帰宅する頃には、空はすでに闇に包まれていた。

龍は一人で歩いていた。コートの前をしっかりと閉め、マフラーは鼻の上まで巻いている。街灯がちらつきながら淡い光を放ち、風は冬の匂いを運んでいた。

頭の中では、さまざまなイメージが渦巻いていた。

星川という名前、陰謀論のフォーラム、不死名村家、異能対策局に関する腐敗の噂──

それらが一つの中心を持たない蜘蛛の巣のように、曖昧に絡み合っていた。

「……この世界って、一体何なんだ……?」

そう心の中で呟く。

人気のない角を曲がったとき、壁にもたれる人影に気づいた。

帽子を深くかぶり、静かに煙草を吸っている。

その目は、妙に落ち着いていたが、どこか不穏さを孕んでいた。

通りを渡ろうとした瞬間、その男がゆっくりと近づいてきた。

足取りは遅くとも、確かなものだった。

「……すまない、坊や」

男は低く、だが丁寧な声で話しかけてきた。

「今、何時か分かるか? 携帯の電源が切れてしまってな」

龍は一瞬ためらい、スマホを取り出して画面を見た。

「……二十一時十五分です」

「助かるよ」

男は穏やかな笑みを浮かべた。

「俺は(さとる)という」

そう言って手を差し出す。

龍は少し戸惑ったが、結局その手を取った。

だが、その時だった。

握手のつもりだったのか、あるいは自然を装った動作だったのか──

男は龍の腕を軽く引いた。

そして、その目が龍の手首に落ちた。

そこには、あの痣があった。

男はそれを無表情のまま見つめた。

驚きも、知識の色も見せないまま、静かに手を離す。

「……よろしくな」

そう小さく呟き、男は背を向けた。

そして、首都の街灯が落とす影の中にゆっくりと歩き出した。

龍はその姿を目で追いながら、まだ手を中途半端に浮かせたまま、胸の奥に微かな違和感を覚えていた。

角を曲がる直前、男はふと足を止めた。

完全には振り返らず、わずかに顔だけをこちらに向ける。

その目が、龍と交わった。

たった一瞬だったが、永遠のように長く感じた。

その眼差しは、冷たく、人間味がなかった。

そこには、龍が理解し得ない何かが潜んでいた。

言葉はなかった。ただ、静かに見つめていた。

まるで、何かを確かめているかのように。

そして──

淡い光の下で、ほんのわずかに、男の唇が動いた。

微笑みだった。だが、それは優しさを伴うものではなかった。

確信に満ちた、沈黙の微笑。

そのまま男は歩き去り、やがて闇に紛れて消えた。

龍はその場に立ち尽くした。

そして、ふと手首へ視線を落とす。

──痣。

じんわりと熱を感じた。

痛みではない。だが、脈打つような、何かが目覚めたような感覚。

自分でも説明できないその反応に戸惑いながら、龍は軽くその部分を擦った。

その時、一つの疑問が頭の中に浮かび上がる。

「……今の人って……あの時の……?」

思い出したのは、あの夜遅く、コンビニに行ったときのこと。

既視感──デジャヴ。

周囲では、街がいつも通りに動いていた。

だが、何かが変わってしまった。

龍はまだ気づいていなかった。

──この夜が、生涯忘れられないものになることを。

家の扉の前に立ち、もう一度振り返った。

通りは空っぽだった。

それでも、胸の奥には拭いきれない感覚が残っていた。

何かが──確かに動き出していた。

静かに息を吐き、扉を開けて中へ入り、音を立てずに閉めた。

今回も最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!

少しでも楽しんでいただけたら、ぜひ評価やコメントをいただけると嬉しいです。


龍の物語はまだ始まったばかり。これからも応援、よろしくお願いします!



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