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7. 炎に見定められし時

二日目の訓練が終わってから、筋肉の痛みは少し和らいできた。しかし、あの訓練の衝撃はまだ彼の体に残っていた。


机のランプの光が、黄ばみかけたページを照らしていた。外はすっかり夜になり、新京(しんきょう)の街のざわめきが、少しだけ開いた窓から微かに聞こえてくる。(りゅう) は指先で本の章のタイトルをなぞった。


「『犯罪時代の始まり』か……」

彼はそう呟きながら、ベッドの上で足を伸ばし、開いた本を膝の上に置いた。この本を図書室から借りたのは二週間前だったが、読むのは今日が初めてだった。


ページには、江戸(えど)における犯罪者たちの暗黒時代が記されていた。特に異能者による犯罪が最も激しかった時代だ。犯罪組織の台頭や、社会に与えた影響について綴られていた。そして、その中に見慣れた名が目に入った――黒炎の教団(こくえんのきょうだん)


興味を引かれ、彼はさらに読み進めた。


――「『黒炎の教団』と呼ばれたこのセクトは、藤名村(ふじなむら)家によって設立され、藤名村 雄蓮(ふじなむら ゅうれん)を指導者として活動を始めた。雄蓮は1890年代からマフィア界に身を置き、その残忍さと知略で知られるようになり、当時最も恐れられたリーダーの一人となった。」


その名を目にした瞬間、龍のこめかみに鋭い痛みが走った。本を取り落とし、両手でこめかみを押さえる。


「……ちっ、なんだよこれ……」

こうした痛みは初めてではなかったが、なぜ今――?


深く息を吐いてから、本を再び手に取った。


――「『江戸の悪魔』と呼ばれた藤名村 雄蓮(ふじなむら ゅうれん)は、史上最も恐ろしい犯罪計画を仕掛けた人物だ。彼は革命を謳い、社会に見捨てられた異能者たちを言葉巧みに誘い、私兵としての教団を作り上げた。彼らは恐喝・強盗・政府機関への襲撃などを行い、下江戸での支配を目指していた。」


龍はごくりと唾を飲み込んだ。文字が異様に重く感じられる。次のページには、教団の紋章と思われる図が載っていた。それは太陽に似たマークでした。


「誓いの太陽」と画像の説明には書かれていた


続く段落には、特に有名な事件が記されていた。


――「1923年に発生した新京(しんきょう)中央銀行襲撃事件は、教団による最も衝撃的な犯罪として知られている。この事件は、藤名村家の長男である藤名村 小太郎(ふじなむら こたろう)の指揮によって実行され、34名の市民、13名の職員、そして銀行頭取が犠牲となった。その後、雄蓮がカメラの前に姿を現し、自ら犯行声明を発表し、裏切ったマフィアの家族に対して戦争を宣言した。」


龍の呼吸が重くなる。藤名村 雄蓮の記述を読むたびに、言葉では言い表せない不快感が込み上げてくる。


――「1937年、藤名村 雄蓮の時代は終焉を迎える。マフィア六家と、創設間もない異能対策局(異能対策局)が手を組み、教団の壊滅作戦を決行した。包囲された雄蓮は、200人を超える兵士と異能対策局の戦力を相手に、たった一人で戦い、およそ130人を殺害した後、死亡が宣言された。藤名村家は、この戦いをもって表舞台から姿を消した。」


章の最後に記された一文は、背筋が凍るような内容だった。


――「だが、藤名村 雄蓮の死後も、その信奉者たちは完全に消えたわけではないという噂がある。今もなお、彼の後継者の出現を待ち続けている者たちが存在すると囁かれている。ただし、その証拠は一切見つかっていない。」


(……後継者……?)


龍の背中に、ぞくりと寒気が走った。思考が浮遊していたそのとき、あくびが彼を現実に引き戻した。目をこすり、本を脇に置いてベッドに横になった。その頭には、読み終えたばかりの情報が重くのしかかっていた。

翌朝

淹れたてのコーヒーの香りがキッチンに漂う中、龍 は階段を降りてきた。イリナはすでにテーブルに座り、手にしたカップを片手にスマホを眺めていた。


「おはよ、ゾンビくん」

彼女は視線を上げずにそう言った。


「おはよう…」

龍は彼女の向かいに座り、コーヒーを注いでスプーン一杯の砂糖を入れた。


しばらくの間、二人は無言で朝食をとった。しかし、龍は気になっていたことを我慢できなかった。


「なあ、イリナ…“黒炎の教団”って聞いたことある?」


イリナは眉をひそめ、スマホをテーブルに置いた。


「うーん、どこかで聞いたような気がするけど、はっきりとは…どうして?」


「昨夜、犯罪時代について書かれた本を読んでてさ。藤名村 っていう家の話が出てきたんだ。中でも、藤名村 幽蓮 ってやつが、江戸の歴史で最も危険な犯罪者の一人って書かれてた。」


イリナは考え込むように眉間にしわを寄せた。


「さっぱりわからないけど、もし誰かがそれを知ってるとしたら、おじいちゃんじゃない? あの人なら、そういう話も覚えてそうだし。」


龍はうなずいた。たしかにそうだ。祖父は年配で、昔話にはやたら詳しい。


「今度会ったときに聞いてみたら?」

イリナはコーヒーを飲み干しながらそう付け加えた。


「うん、そうするよ…」

龍は窓の外を見つめた。昨夜読んだ内容が頭から離れず、不思議な不安が胸を締めつけていた。


「じゃあ、行く?」

イリナが立ち上がり、ぐーっと背伸びをした。

「龍は高校、私は大学。駅までは一緒に行けるよね。」


「うん、そうだね」

龍も急いでコーヒーを飲み干した。


二人はバッグを背負って一緒に家を出た。朝の光に包まれながら駅へと歩く。イリナは大学の話をしながら、龍は頭の中の整理に必死だった。昨夜読んだことが、ただの歴史の一部ではないような気がしてならなかった。そして今、龍は何よりも“答え”を求めていた。


彼らの足音が舗道に響く。街は少しずつ目を覚まし、誰かの会話が風に乗って流れ、時折、車のエンジン音がその静けさを破った。イリナはジャケットのポケットに手を入れ、横目で龍をちらりと見る。彼は足元ばかり見て、どこか上の空だった。


「でさ、最近どうなの?」

イリナは軽い調子で尋ねた。


龍はため息をついた。

「まあ…いろいろあるけど、うまくはいってないかな。」


イリナは興味深そうに片眉を上げた。

「今度は何をやらかしたの?」


「別に大したことじゃないけど…最初の訓練がめちゃくちゃだったんだ。持久テストに耐えきれなくて、結局気を失ったし。」


イリナは吹き出すように笑った。

「やっぱり、龍ってダメダメね。でも、それは昔から分かってたことだし。」


龍は眉をひそめた。

「励ましになってないんだけど。」


「誤解しないでよ」

イリナは微笑んで言った。

「龍はフィジカル面じゃいつも話題だったけど、身体の変な異常とかもあったでしょ? パパもそれをすごく心配してたよ。」

彼は視線をそらした。

「分かってるよ…」


その話題があまり好きではなかったのか、しばらく沈黙が二人の間に流れた。


駅に着くと、見覚えのある姿がホームで待っているのが見えた。愛梨 は柱のそばに立ち、肩にバッグをかけてイヤホンをつけていた。


「おっ、愛梨(あいり)だ」

龍が小声でつぶやいた。


イリナはその子を見て、ニヤリとした笑みを浮かべた。

「誰かしら、あの子?」


「クラスメートだよ」

龍は何気なく答えた。


「クラスメート、だけ?」


龍は舌打ちした。

「やめろよ。」


彼の制止も無視して、イリナは自信満々に歩み寄っていった。

「おはよう!」


愛梨はイヤホンを片方外し、二人に気づくと微笑んだ。

「おはよう、如月くん。」


「彼女はイリナ。俺の姉さん」

龍は二人を紹介した。


愛梨は軽くお辞儀をした。

「はじめまして。」


「こちらこそ」

イリナも優しげに微笑んだが、その目にはどこかいたずらっぽい光が宿っていた。


少しの間、大学や高校のことを話し合った。愛梨は話しやすい性格で、イリナはすぐに好印象を持ったようだった。


イリナの電車が到着すると、彼女は龍の腕を軽く小突いた。


「いい子そうじゃん」

からかうように耳元でささやいた。

「チャンス、逃さないようにね?」


龍の顔は一瞬で真っ赤になった。


「バカなこと言うなよっ!」

彼は小声で抗議した。


イリナは片目をウィンクしてから電車に乗り込み、龍をホームに愛梨と二人きりで残した。


「お姉さん、綺麗で優しそうな人だね」

愛梨は電車が遠ざかるのを見つめながら話しかけた。


龍はわざとらしく大きなため息をついた。

「あれでも超うるさいし、料理も下手だし、いちいち全部聞いてくる日もあるんだぞ。」


愛梨は彼の呆れ顔を見て、くすっと笑った。

「それでも、やっぱり素敵なお姉さんだよ。」


「まあ…そう言うなら」

龍は肩をすくめてぼそっとつぶやいた。


ふと、沈黙が二人の間に訪れた。だがその時、龍はふとあることに気づいた。


「そういえば、君がこのホームにいるの初めて見た気がする。ルート変えたの?」


愛梨は一瞬だけ視線を外して、少し間を置いてから答えた。

「ううん…今日は、送ってもらいたくなかっただけ。」


「家族とケンカでもしたの? 眠そうだし。」


「ち、違うよ」

愛梨は少し慌てて否定した。その声はどこか話を終わらせたがっているように聞こえた。


龍は彼女をちらっと見た。これ以上突っ込んでも話す気はないと感じたので、別の方向に話を切り替えることにした。


「そっか。まあ、いろいろあるんだろうな」

彼は自然な口調で言った。

「でもさ、前に“頼っていいよ”って言ってくれたでしょ? 俺も同じだから。秘密とか、意外と守れるタイプだよ。」


愛梨は彼の顔を見て、思わず笑みをこぼした。龍は妙に自信満々な顔をしていて、それが妙にカッコつけているように見えたからだ。

「如月くんって、見た目よりずっと感じがいいんだね。」


龍 は片方の口角を上げて微笑んだ。

「君が笑ってくれるなら、それだけで十分さ。よかったら、また一緒に来よう。」


その返しに愛梨 は驚いたようだった。目を見開き、まるでそんな素直な言葉が返ってくるとは思っていなかったかのように、彼を見つめた。やがて表情が和らぎ、頬がほんのり赤く染まった。


「うん…ありがとう。」

彼女は目線を少し落としながらそう呟いたちょうどその時、電車が到着した。


二人は一緒に乗り込み、会話は電車の揺れと走行音に溶け込んでいった。


やがて電車は目的の駅に到着し、龍と愛梨は他の学生たちと一緒に降りた。二人は校門に向かって並んで歩きながら、自然な雰囲気で話を続けた。


「今日は昨日より暑くなりそうだね」

愛梨が空を見上げながら言った。


「だな…もう秋だってのに。こんなんじゃ、冬になっても半袖でいけそうだ。」


愛梨は笑ったが、その直後に何かに気づいたように表情を曇らせた。周囲からひそひそと声が聞こえる。よく見ると、周りの生徒たちが二人を横目で見ながら何か話していた。


「なんか…見られてる」

愛梨は小さな声で言った。その口調には少し戸惑いがあった。


龍もすでに気づいていたが、大げさにしないように努めた。


「気にすんなよ。女の子と一緒に登校してるの、初めて見たからじゃね?」


愛梨は小さく笑った。

「じゃあ、慣れてもらうしかないね。」


校門をくぐった瞬間、突然二つの人影が目の前に立ちはだかった。


「如月っ!」

英夫(ひでお)が肩に手をかけ、軽く揺さぶった。


「お前、何やらかしたんだよ!?」

隼人(はやと)は腕を組み、にやにやと笑っていた。


「は? なに言ってんの?」

龍はぽかんとした顔で二人を見返した。


「一年のプリンセスと一緒に登校してきたって、今学校中の話題だぞ」

英夫はまるで犯罪者でも見るような目で言った。


「プリンセスって…バカ言うなよ。」


「事実だろ? 愛梨に近づこうとして撃沈したやつ、何人いると思ってんだ?」

隼人が続けた。

「それがだよ? お前はたった三週間で、もう一緒に歩いてんだからな!」


愛梨は頬を赤らめ、視線をそらした。


「大げさすぎるって…」

龍はため息をついた。


そのとき、校庭の向こうから声がかかった。愛梨の友人の一人だった。


「じゃあ、またね。如月くん。」

彼女は軽く微笑みながら別れを告げ、友人のもとへと歩いていった。


龍はその後ろ姿を見つめていたが、すぐに英夫と隼人のからかうような視線に気づいた。


「見たか? あの笑顔でバイバイだぜ」

英夫が冗談めかして言った。


「うるせぇよ…」

龍はうんざりした様子で返した。


三人は廊下を歩きながら、どうでもいい話をしていたが、やがてある音が彼らの耳に届いた。

訓練用の教室から、激しい衝突音、素早い足音、そして指示を叫ぶ声が響いてきた。


「なんだあれ?」

隼人 が首を傾げながら言った。


「…ああ、そうだ。今日は二年の訓練日だったな。」

英夫 が思い出したように答える。


三人は迷うことなく、半開きになっていたドアのところまで歩き、中を覗き込んだ。


体育館では、まさに訓練の真っ最中だった。

二年の先輩たちは見事な動きで技を繰り出し、その一撃一撃が強烈な音を立てて空間に響いた。動きは速く、正確で、圧倒的な力量差が一目で分かる。


だが、龍 の目はその全体には向いていなかった。彼の視線は、ただ一人の人物に釘付けになっていた。


乃愛(のあ)は、しなやかさと正確さを兼ね備えた動きで訓練に臨んでいた。一歩ごとに計算されたステップ、攻撃の一つ一つが優雅でありながら容赦ない。強いだけではない。そこには完璧な技術があった。他の誰とも違う、明らかな格の違い。


「うわぁ…マジでやばいな…」

隼人が目を見開いたまま呟いた。

「乃愛先輩、ほんとにすごい。」


「二年の女神だからな」

英夫が続けた。

「いや、もはや学校全体の女神かもな。」


「女神って…」

龍は思わず呟きながらも、彼女から目を離せなかった。


「戦闘技術において、二年で一番の実力者だよ。

それに、父親…つまりお前の師匠から、全部の技を叩き込まれてるらしい」

隼人が説明した。

「美人で頭も良くて、強くて…完璧なんだよな。」


「分かるわー。その気持ち、痛いほど分かる…」

英夫が神妙な顔で隼人の肩に手を置いた。まるで苦しみを共有する同志のように。


龍は、そんな二人のやり取りを呆れ気味に聞いていたが、乃愛の特別さは否定できなかった。


すると突然、隼人と英夫が顔を見合わせ、ニヤニヤと悪だくみのような笑みを浮かべながら言った。


「でさ、龍? 一年のプリンセスも手中に収めて、次は二年の女神狙いか?」


「どっちかにしろよ、兄弟!」


龍は一瞬まばたきをし、彼らの言葉を理解した瞬間に顔をしかめた。


「くだらねえこと言うなよ。」


「おいおい、でも事実だろ?」

英夫が肘で小突いてきた。

「まずは愛梨 、次は乃愛先輩…しかもどっちもお前の身近な存在だし!」


「違うっての!」


二人は大笑いしながら龍をからかい続け、彼はため息をつきながら黙って受け流した。

だが、どれだけ否定しても、彼の視線は乃愛から離れなかった。


その時、乃愛が回転しながら華麗にキックを繰り出し、訓練用の人形に見事な一撃を叩き込んだ。

その動作は滑らかで、まるで舞を見ているかのようだった。


龍はその一連の動きを目で追った。

彼女の身体の動きは自然で美しく、戦いを芸術のように操っていた。


そして、乃愛が技を決めて立ち上がったその瞬間——

彼女の視線がふとドアの方へ向けられた。

龍の目と、乃愛の目が合う。


乃愛はイタズラっぽく微笑みながら、片目をウィンクさせた。


その視線が自分に向けられたものだと気づいた瞬間、龍の背筋にゾクッとしたものが走った。


「…マジで羨ましすぎる、龍…」

英夫がため息混じりに頭を振りながら呟いた。


「おい! 乃愛先輩がこっちに来てるぞ!」

隼人 が目を丸くして、 龍 たちの方へ向かってくる彼女を指さした。


「やばい! オレ、口臭大丈夫かな!?」

英夫 が慌てて顔を隼人にぐっと近づけてくる。


「なにしてんだよバカ! 近い! 離れろって!」

隼人は肘で突き飛ばす。


だが英夫は懲りずに、今度は急いで脇の匂いを嗅ぎはじめた。まるで命に関わるかのような勢いだ。


「…よし、問題なし……」

汗ばんだ手で髪を撫でつけながら、小声で呟く。


ちょうどその時、乃愛が三人の前に現れた。

その存在感は、瞬間的にその場の空気を変えた。


ぴしっと整えられた制服。高い位置で結ばれたポニーテール。そして、優雅さと野性味を兼ね備えた、予測不能なオーラ。まるで光を纏っているかのようだった。


「おはよう、龍くん」

乃愛は眩しい笑顔でそう言った。それは、まるで太陽が体育館に差し込んだような明るさだった。


龍は一瞬まばたきをし、どこに手を置けばいいのか分からないようなぎこちなさで返す。


「お、おはようございます、乃愛先輩… さっきの、すごかったです。そのキック…まじでやばかったです。」


「ほんと? 見てくれてて嬉しいな」

彼女はそう言ってウィンクし、さらに一歩近づく。

その距離は近く、龍はほんのりとしたミントの香りすら感じ取った。


「今日の午後の練習、来るでしょ?」


「は、はい! もちろん行きます! 絶対に行きます!」


その瞬間、英夫がやけに大げさに咳払いをした。


「おはようございます、乃愛先輩! あのキック、すごかったです! わ、わたしも…えっと、練習してます! たまに…雨じゃなければ…宿題がなければ…!」


乃愛は彼を見た。ただそれだけ。

その視線は、どこか冷たく無機質で、まるで監視カメラのようだった。


「へえ。そう。」


そしてすぐに視線を龍に戻した。まるで英夫がただの植木鉢だったかのように。


隼人は堪えきれずに吹き出し、背を向けて咳を装ったが、その音は明らかに笑いだった。


英夫は凍りついたまま、ぎこちない笑顔を浮かべ、途中で止まった挨拶の手が宙に残った。


「じゃあ、また後でね、龍くん」

そう言って、乃愛は二度目のウィンクを残し、回れ右して去っていった。

その姿は、さっきのキックと同じくらい優雅だった。


龍は、ぼんやりと彼女を目で追い続ける。

英夫はそんな彼を見て、隼人を見て、それから足元を見つめた。


「…納得いかねぇよ、マジで…お前、何持ってんだよ、龍。

それでいて、顔もイケメンで、背も高くて、どこかミステリアスで、“心に闇を抱えてるけど守ってあげたい系”の顔してんだよなぁ…勝てるわけねえだろ…」

英夫は頭を抱え、演技がかった絶望に身を委ねた。


「…闇を抱えてる顔?」

隼人が眉をひそめ、笑いながら問い返す。


「そう! 女子が“私が癒してあげなきゃ”って思っちゃうタイプ!

いわゆる無口系で内面は優しいやつ! 龍は完全に少女漫画の主人公じゃねえか!」

英夫が指を突きつけて言い放った。


龍はただため息をつき、頭をかきながら曖昧な笑みを浮かべた。


そのまま三人は教室へと向かって歩き出す。

英夫と隼人はまだ興奮冷めやらず、乃愛のすごさや、学校に可愛い子が多すぎるという話で盛り上がっていた。


だが、龍の頭の中にはあのウィンクだけが残っていた。


その日の一時間目は数学だった。

龍は席に着くなり、重たいため息をついた。すでに今日は長い戦いになりそうな気がしていた。


その予感は、見事に的中するのだった。


入学して以来、数学の授業は如月 龍にとって苦痛でしかなかった。

たった二週間では、教師が狙撃手のような速度で投げかけてくる公式や方程式、問題の数々に追いつくには到底足りなかった。


授業が進む中、龍は必死にノートを取りながらも、その内容についていけずにいた。

朝の眠気と情報の洪水で、頭の中では文字と数字がぐちゃぐちゃに混ざり始めていた。


「如月、次の問題を黒板に解いてみろ」


冷たい声に、龍は背筋を凍らせた。顔を上げると、教師が黒板の方程式を指差していた。

教室に小さなどよめきが広がる。


重い足取りで席を立ち、前へと歩いていく。

黒板に書かれた数式を、まるで異星の言語のように眺めながら、チョークを握った。

必死に以前の説明を思い出そうとしたが、脳が真っ白で、仕方なく適当に答えを書き込んだ。


教室の静寂を破るように、数人の生徒が笑いをこらえる音が聞こえた。


「如月……その調子じゃ補習コース行きだな。席に戻れ」


歯を食いしばりながら、龍は席に戻った。

椅子に身を沈め、己のふがいなさに悔しさを噛みしめる。



その日の午後、空は灰色の雲に覆われ、ひんやりとした風が秋の訪れを告げていた。


如月 龍にとって、それは一つの意味を持っていた。――玄三との二度目の訓練だ。


彼は道場に立っていた。両足をしっかりと床につけ、目の前で師匠・玄三が構える分厚いミットに向かって拳を放つ。


「腕の力だけで打つな……」

玄三は途中で言葉を切り、龍の構えを観察する。

「全身を使え。腰を回して、勢いを乗せるんだ」


龍は無言でうなずき、姿勢を正した。


「よし、今の感じで、もう一度だ」


大きく息を吸い込み、今度は少し体をひねって、重心を乗せた一撃を放つ。


――ドンッ。


先ほどよりも、しっかりとした衝撃がミットに伝わる。


玄三は満足そうに頷いた。

「いいぞ。だが、肩の力を抜け。そんなに力んでいたら、動きが硬くなる」


龍はその助言を頭に入れ、次の一撃で修正を試みた。


繰り返される打撃は、回数を重ねるごとに鋭さを増していった。

初日の訓練では息が切れて、まともに動けなかった彼が、今では少しずつだが、体力もついてきているのが分かった。


「次は蹴りも混ぜるぞ」

そう言って玄三が一歩引き、ミットを高く構えた。


龍は構えをとり、前蹴りを放つ。


「今のお前のバランスじゃ高すぎる。もっとコントロールしろ」

玄三の冷静な指導が飛ぶ。


もう一度蹴りを繰り出す。

今度は体の軸を意識し、バランスを保ったまま蹴った。


――バシンッ。


的確な一撃がミットに命中する。


玄三は再び頷いた。

「そう、それでいい。自然に出るまで、何度でも繰り返せ」

訓練はさらに三十分ほど続いた。

繰り返しの中で、如月 龍は自分の体が少しずつ応えてくるのを感じていた。


筋肉の痛みはまだあったが、初日のような激痛ではない。

何とか最後まで持ちこたえた。


玄三は腕を組んだまま、生徒の成長ぶりをじっと見つめていた。


「悪くないな。できれば週にもっと訓練したいところだが……まあ、週二でも少しずつ磨いていける」


その言葉に、龍は目を見開いた。


「もっと……ですか?」


「俺の本音を言えば、毎日でもやらせたい。でも、お前がまだ慣れていないのは分かってる。だからこそ、段階を踏むんだ」


龍は疲れた笑みを浮かべた。


「週二でもうバテバテなんですけど……」


玄三は小さく笑った。


龍自身はそう思っていても、どこかで師匠の言葉が間違っていないことを感じていた。


訓練が終わると、龍はその場にどさりと座り込み、天井を見上げながら荒い呼吸を繰り返した。

筋肉は燃えるように熱を持っていたが、それもまた最初の頃とは違う感覚だった。

――体が変わり始めている。


道のりは長い。だが、確実に前に進んでいる。


放課後の身体鍛錬は、彼の日常の一部となっていた。

まだまだ体力には課題が多かったが、諦める気はなかった。


急いで着替えを済ませると、龍はそのまま街へ走り出した。

冷たい風が顔に当たり、街路を駆け抜けるたびに足音がアスファルトを叩く。

その一歩一歩で、今日の授業で味わった屈辱を忘れようとしていた。


呼吸が苦しくなっても、足は止めない。

――強くならなきゃならない。


そう思っていたその時だった。


人通りの少ない道の一角で、ふと視界の端に何かが引っかかった。


それは、ひび割れた壁に貼られた、色あせた一枚のポスター。

気づけば足を止め、吸い寄せられるように近づいていた。


太字で書かれたタイトルが、はっきりと読める。


《異能対策局》


だが、龍の眉がひそめられたのはその下の文だった。


《指名手配》


乱れた髪に鋭い眼光を持つ男の顔写真がポスターの中央に大きく貼られている。

その表情には、何か深く闇を見てきた者だけが持つ重みがあった。


名前:星川 零司(ほしがわ れいじ)

通称:「猟犬」

推定年齢:30〜31歳

状態:2061年より逃亡中

黒炎の教団との関連あり

極めて危険・高い殺傷能力。目撃時は直ちに通報を。


龍の背筋に、ぞくりとした感覚が走った。


「……2071年……」


無意識のうちに、彼は頭の中で年代を整理していた。


今は――2093年。


このポスターは、十年以上もここに貼られたままだった。

――それなのに、教団はまだ活動している……。


彼の思考は、昨夜読んだ本の内容へと自然に繋がっていった。

「黒炎の教団……闇に包まれた組織。その起源は、何世紀も前に遡るという。」


本来なら、それはただの歴史だった。

過去の遺物であるはずだった。

だが――2071年の時点で存在していて、そして今、2093年になってもこのポスターが貼られたままだということは……。


――教団は、まだ動いている。


風が吹き、ポスターの一角がめくれた。

星川 零司の顔が、まるで龍をじっと見つめているかのようだった。


如月 龍は生唾を飲み込み、再び走り出そうと踵を返した。


だが――二歩も進まないうちに、その声が背後から響いた。


「……走るにはいい夜だな、そう思わないか?」


道の向こう側。

さっきまで誰もいなかったはずの場所に、二つのフード姿が立っていた。


彼らは黒ずんだ、油や泥にまみれたボロボロの衣服をまとっていた。

一人は軍用のコートを着ており、あちこちにパッチが縫い付けられている。

もう一人は、かつてはストリートギャングのものであったと思われる、ロゴが薄れたジャケットを着ていた。


顔は青白く、傷跡や深い隈に覆われていた。

だが何より不気味だったのは――

片方の顔の半分が金属で覆われていたことだった。


その赤い義眼がぼんやりと光り、かすかな電子音を発していた。

錆びたプレートとむき出しの配線が、左半分の顔面全体を覆っている。


龍の体が反射的に硬直した。


「……な、何の用ですか?」


バイオニックの男は口元を歪め、黄ばんだ歯を見せて笑った。


「いやなに、悪いことじゃないさ。ちょっと聞きたくてな……お前、“家族”に加わる気はないか?」


「家族……?」

龍の喉がごくりと鳴った。


「炎は、選ばれし者を拒まない」

もう一人が、かすれた声でそう付け加えた。


龍は一歩後退った。


「……興味ないんで。失礼します」


踵を返そうとしたその時――

乾いた骨のような手が、がしっと腕を掴んできた。


「そんなに急いでどこ行くんだ?」

義眼の男が、強くその腕を締めた。


「……放せ」

龍は低く唸るように言った。


「ほう、気の強い坊やだな……」


もう一人が、ゆっくりと間を詰めてきた。

揉み合いの最中、リュウの手首にある痕にふと目が留まった。


「その痕は……」

龍は横目で確認する。距離が近すぎる。


――次の瞬間。


考えるより早く、龍の拳が相手の顔に飛んだ。


ゴッ、と鈍い音が響く。

掴んでいた男はうめき声を上げ、後ろによろけた。


「てめぇ、このクソガキがぁっ!」

もう一人が怒鳴り、ジャケットの中から何かを取り出しかけた。


龍は確かめる暇もなく、すぐに踵を返して全力で駆け出した。

後ろから怒号が飛ぶ。


「逃がすな!追えッ!」


汚れた路地を縫うように走り、ゴミ袋をかわし、黒い水たまりや舗装の割れ目を飛び越える。

胸の鼓動は太鼓のように鳴り響き、汗が顔を流れ落ちる――だが、立ち止まることはなかった。

角を曲がり、如月 龍は朽ちかけた古い倉庫へと駆け込んだ。

扉は半開きのまま、今にも崩れそうだった。

彼は中に入り、錆びたコンテナの裏に身を潜めた。

肩で息をしながら、必死に呼吸を抑える。


外では、足音と混乱した声が響いていた。


「どこ行きやがった?」

「まるでネズミみてぇに逃げやがって!」


数秒が過ぎ……やがて数分が経つ。


――静寂が戻った。


龍はそっと冷たい床に座り込んだ。

全身の筋肉は緊張し、頭の中は焼けつくようだった。


――その時だった。


激しい痛みが、左手首を貫いた。


彼は驚愕の眼差しで、自分の出生痕を見つめた。

それが淡く紫色に輝き始め、周囲の血管が膨れ上がり、脈打ち始めた。

その痛みは、肉体的というよりも――内側から何かが目覚めようとしているかのようだった。


「……これ……俺に、何が……?」


荒い呼吸を必死に整えようとする。

火照りを無視し、自分に言い聞かせるように。

やがて、血管は落ち着きを取り戻し、光も徐々に消えていった。


だが、体の震えは止まらなかった。


――答えが必要だ。できるだけ早く。


すべてが終わったと思った、その瞬間。


割れた窓枠の隙間から、黒い影が静かに現れた。

その人物は細身で、どこか優雅さすら感じさせる佇まいだった。

あのフードの連中ではない。

ただ、動かずにそこに立ち、龍を見つめていた。


そして――次の瞬間、まるで幻のように消えた。


龍は震えながら気づいた。

人生で初めて、自分が「印」を刻まれたのだと。

見られ、選ばれたのだと。


そして何よりも恐ろしいのは――

彼を探していた“それ”が、すでに彼を見つけていたという事実だった。



追跡は終わっていなかった。

龍がその夜に体験した出来事は、これから始まる嵐のほんの序章に過ぎない。

教団は闇の中で動き、過去の眼差しが彼を見つめ、

もはや彼の“印”を隠すことはできなかった。

これから踏み出す一歩一歩が、真実へと近づく道。

そして、その真実が引き寄せる危機へも——。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

『シャドウボーン 〜魔の血を継ぐ者〜』を楽しんでいただけたなら、ぜひ評価や感想をいただけると嬉しいです。

皆さまの応援が、次の章を書く力になります!


物語はまだまだこれから。

次回もお楽しみに!

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