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6. 胎動する影

もう水曜日だった。

龍 にとって、ついに初めての訓練の日がやってきた。

緊張した面持ちで、大きな訓練ホールの扉を見つめる。心臓は激しく脈打ち、胸を打つ。不安だった。何が待ち受けているのか分からなかったが、容易ではないことだけは確信していた。

「――ギリギリじゃないか?」

声が飛んだ。

ギリギリとはいえ、これでも成長の証だった。以前なら時間に遅れることなど気にも留めなかったが、今では少しでも間に合わせようと努力している。それは、彼にとって小さくも大きな進歩だった。

「すみません、水原先生。」

龍は深々と頭を下げた。

腕を組んだまま、真剣な眼差しで彼を見据える 源三(げんぞう)

「覚悟はできているか? 今日は俺が受けた昔ながらの訓練方式でいくぞ。」

「……その言い方、すごく嫌な予感しかしないんですけど。」

龍は小声でつぶやき、軍人のように直立不動の姿勢を保った。

支給された訓練用のウェアはなかなか様になっていた。ショートパンツに、胸元に学院のロゴが入った白い半袖シャツ。その下には全身を覆うインナーウェアが装着されており、心拍数などをモニターする高機能仕様だった。どこか近未来的な印象を受ける。

(レッドホークの悪役が着てるスーツみたいだな。)

思わず笑いそうになるのを堪えた。

訓練は、容赦なく始まった。

龍は走り、障害物を飛び越え、壁を必死によじ登った。技術はまだ拙かったが、気持ちだけは負けていなかった。だが、鍛えられていない体は次第に限界を迎え、筋肉は悲鳴を上げ、呼吸は乱れた。それでも、彼は決して止まらなかった。

その様子を、源三は鋭い目で観察していた。

(悪くない……まだ素人だが、基礎はできている。鍛えれば伸びるかもしれんな。)

「――よし、よし! これはまだウォーミングアップだぞ!」

水原が怒鳴る。

「最初から生徒を殺す気ですかッ!?」

息を切らしながら叫ぶ龍。機械から発射されるボールを必死に避け続ける。その動きはまるでミサイルに追われているかのようだった。

「泣き言はやめろ! ケツ締めろッ!」

怒号が飛ぶ中、龍は必死に走り、避け、打ち返した。体は限界を超え、意識は朦朧としながらも、本能で動き続ける。

やがて――。

「よし、今日はここまでだ。これはお前の力量を測るためのテストだった。」

「やっ……た……」

かすれた声で呟きながら、龍は力尽き、床に倒れ込んだ。

「おい、大丈夫か!?」

意識が、遠のく。

目を閉じたまま、龍はどこか浮遊しているような感覚に襲われた。重力を失った体が、無限に広がる闇の中を漂っている。

やがて、かすかな囁き声が聞こえ始めた。

最初は微かな風音のようだったが、次第に数を増し、混じり合い、やがて耳をつんざく轟音となった。言語にならない囁きが龍を取り囲み、意識をかき乱す。

息が苦しくなり、胸が押し潰されそうになる。

そんな中、ひときわ鮮明な声が響いた。

――逃げられないぞ、お前は。

鋭く、はっきりと、頭に突き刺さるような声だった。

龍は、誰かにじっと見られているような錯覚に襲われた。目には映らないが、確かに感じる――強烈な「何か」の存在を。

だが、その感覚もすぐに、すっと消えていった。


光がまぶたを通して差し込んできた。

体が重くなり、感覚がゆっくりと戻っていく。

龍は医務室で目を覚ました。

太陽の光が窓から優しく差し込み、部屋を温かく穏やかに照らしていた。

「何が起きたんだ?」と、眠たげな声で尋ねた。

「何もないさ。訓練が終わった後、気絶しただけだ。大丈夫か?」と 源三が無頓着な口調で言ったが、腕を組みながら真剣な返事を待っているようだった。

龍は何度かまばたきして、頭の中に残る声の感覚を振り払おうとした。

「ああ、なるほど。全然耐えられなかったな……でも大丈夫だよ。」

だが心の奥では、単なる疲労だけが原因ではないとわかっていた。

何か他のことが起きている。

「実際のところ、ちょっとやりすぎたかもな。」

「ちょっとだけ!?」

「泣き言を言うな。こんな調子じゃ長くはもたないぞ……。」

龍はしばらく黙り込んだ。水原が正しいことは分かっていた。

彼は唇を噛み、拳を握り締めた。

諦めるわけにはいかない。これは生きるか死ぬかの問題だ。

己の体を鍛え、耐久力を高めなければならない。

他に道はない。

「龍くん、目が覚めたのね。よかった……」と、看護師が入ってきて、彼がベッドに座っているのを見て安堵のため息をついた。

「ありがとうございます。」

「水原先生、次にまた龍くんがここに運ばれたら……」

看護師は水原に無言の脅しをかけた。

「すみません、すみません……」と源三はわざとらしく謝った。

「龍くん、無理せず好きなだけここで休んでね」

看護師は優しく微笑みながら退出した。

数秒後、龍はベッドで体勢を整え、水原に真剣な目を向けた。

「先生、今日の訓練で全然持たなかったことは認めます。でも、これからもこのやり方で続けてほしいです。甘くしないでください。」

「最初から甘くする気はないぞ、ガリガリめ。」

龍はわずかに笑った。

なぜかそれが彼に少し自信を与えてくれた。

医務室はすでに退屈だった。

龍はベッドから降りようとした。体は安定していたが、何よりもここにいる恥ずかしさのほうが勝っていた。

弱い子ども扱いされたくなかった。

「龍くん!大丈夫!?」

乃愛(のあ) が心配そうな顔で医務室に飛び込んできた。

「先輩、大丈夫です。心配してくれてあり…」

「心配させるなっ!」

乃愛は怒りながら龍の頭を小突いた。

「すみません、すみません、すみませんっ!」

龍は頭を押さえながら謝った。

「なんでまだそんなに堅苦しいんだ?」

「わかったよ……乃愛先輩、心配してくれてありがとう。」

次の場面では、

乃愛は安堵の表情を浮かべ、

水原は血の気が引いた顔で鬼のようなオーラを放ち、

龍は気まずそうにびくびくしていた。

「まあ、このガリガリは休ませたほうがいいな」

源三は、これ以上学園に迷惑をかけないようにと言った。

「わかった。龍くん、また後で様子を見に来るね。」

「ありがとうございます、先輩。」


「よし、休ませてやるか、坊主。明日は訓練を中止にするかもな。」


源三は気楽に伸びをしながらドアに向かったが、乃愛はしばらくその場に残り、龍をじっと見つめた。


「ねえ……本当に大丈夫? 顔色が悪いよ。」


「はい、乃愛先輩。ただの疲労です。明日には回復します。」


乃愛はため息をつき、腕を組んだ。


「無理して一気にやらなくてもいいんだよ。少しずつ進めばいいんだから。」


「でも、そうしないと……みんなに置いていかれそうで。」


乃愛は数秒間、龍を見つめた後、優しく微笑んだ。しかし、その瞳にはまだ少し心配の色があった。


「龍くん、君は本当に強い心を持ってる。でも、忘れないで。君は一人じゃないから。」


そう言って、彼女は優しく龍の髪をくしゃっと撫でてから、振り向いて部屋を出た。


廊下には、愛莉(あいり)が壁にもたれかかっていた。腕を組み、うつむき加減だったが、乃愛が出てきたのに気づくと、驚いたように顔を上げた。彼女は先輩の後ろ姿を目で追いながら、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて龍のいる保健室へと入ってきた。


「乃愛先輩がいるなんて思わなかった……彼女と仲がいいの?」


龍は何度か瞬きをして、質問に驚いた。


「えっと……はい。こっちに来てから、いろいろ助けてもらってます。」


愛莉は少し眉をひそめ、視線を逸らした。


「ふーん……思ったより社交的なんだね。」


その口調は軽かったが、どこか興味とわずかな苛立ちが混ざった響きがあった。彼女はベッド横の椅子に座り、腕を組みながら龍をじっと観察した。


「いや、そういうわけじゃ……ただ、乃愛先輩には本当に助けられて。」


愛莉はぷいっと頬を膨らませ、そっぽを向いた。


「いいなぁ……乃愛先輩って、誰にでもあんなふうに心配するわけじゃないのに。」


龍は彼女の微妙な態度の変化に気づき、思わずくすっと笑った。


「もしかして、嫉妬してる?」


「えっ? そ、そんなわけないでしょ!」

愛莉は慌てて答えたが、その反応はあまりにも早すぎた。


「……ただ、ちょっと意外だっただけ。」


その言い訳すら自分でも苦しいと思ったのか、視線を泳がせた。


「それで、今日の初めての訓練はどうだった?」


龍は顔をしかめて目を逸らした。


「……話したくないです。」


愛莉はくすっと軽く笑った。


「もう聞いたよ。大変だったみたいだね。……大丈夫?」


「はい、もう大丈夫です。大したことなかったので……」

そう言いながら龍は顔を傾け、ふと入口に立つ彼女に気づいて眉をひそめた。


「いつからそんなに私のこと気にするようになったの?」


「気にしたっていいでしょ?」


愛莉は目を逸らしながら答えた。


「私はクラス委員だし、みんなの様子を見ないといけないから。」


「……やっぱり、それが理由か。」

龍は小声で苦笑した。

「ち、違うよ!」

愛莉は眉をひそめた。

「私だって心配したんだから! 初めての訓練にしては、ちょっとやりすぎだと思う!」


「そのほうがいいんだ。」


「えっ?」


「ここにいるみんなは、生まれたときからこれが普通なんだ。子供の頃から瘴気のコントロールを学んでる。でも俺にとっては、全部初めてのことだ……この世界のこと、もっと知らなきゃいけない。」


龍は膝の上で拳を握りしめ、床を見つめた。


「ほとんどの人はこんなこと当たり前みたいに知ってるのに、俺だけ何も知らなかった……そりゃ、いろいろ変なことも起きるよな。バカみたいだと思わないか?」


愛莉は彼の声音ににじむ悔しさを感じ取り、じっと見つめた。


「……瘴気のこと、何も知らなかったって変だね。しかもあんなに高い飽和度なのに。……ご両親から教わらなかったの?」


龍の顔が一瞬強張り、やがて俯いた。


「……親のこと、知らないんだ。」

彼の声は低く、抑えたようだった。

「物心ついたときから、ずっと祖父と従姉……いや、姉ちゃんと暮らしてた。両親についての記録もないし、名前も顔も、何一つ知らない。」


愛莉は小さく身震いした。


「……ごめん。そんなこと聞くべきじゃなかった。」


「気にしないで。」

龍は顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。

「いい子供時代だったよ。ずっと支えてもらったし、何も後悔してない。ただ……瘴気飽和のことは、一度も教えられなかった。『何を持っているか分からない』って、ずっと言われてた。」


愛莉はしばらく黙ったまま考え込むようにしていたが、やがて微笑み、彼の肩を軽く押した。


「何かあったら、私に頼ってね、如月くん。」


龍は彼女をじっと見た。

愛莉は話し続けていたが、彼にはもうその声が遠くに感じられた。

奇妙だった……まるで、音が遠ざかっていくように。


頭の中でキーンという高い音が鳴り響き、愛莉の声をさらにかき消した。


同時に、体中を流れる血液が異常に早く脈打ち始めた。

龍の皮膚の下、血管が黒く浮き上がり始める。

腕を焼くような熱さが走り、何かが目覚めるような感覚が体を突き抜けた。


必死に深呼吸して落ち着こうとするが、その感覚は収まらない。


彼はそっと右手首を見た――そして、凍りついた。


ずっと自分の体にあった、不規則な形の「腕輪」のような母斑。

それが、脈打っていた。


単なる光の加減じゃなかった。

確かに、淡く赤い光がその模様を走ったのを見た気がした。


心臓が激しく脈打つ。

何かがおかしい。


龍はどうにかして痛みを耐え、愛莉に気づかれないよう必死に平静を装った。


そのとき、チャイムが鳴った。


「もう行かなきゃ。先生より先に教室に着かないと殺される。」


「うん、行けよ。俺の『責任感のある女子像』を壊さないでくれ……」

苦痛をこらえながら冗談めかして返した。


「ちゃんと休んでね。またね!」


愛莉 は手を振りながら出ていき、龍はベッドに横たわったまま、痛みが引くのをただ待っていた。


『違う……これは、血の問題じゃない。』

龍はぼんやりと考えた。


あの声。繰り返し見る奇妙な夢。

逆に進んでいく時計。

これがただの瘴気飽和の影響なわけがない。


もっと別の、恐ろしい何かが起きている――

それを理解できなければ、いずれ狂ってしまうかもしれない。


「如月くん、これにサインしてね。」


保健室の先生の声が、龍を現実に引き戻した。


数回まばたきをし、やっと彼女の存在に気づいた。

『あ…うん。』


龍 は検査結果の用紙を受け取り、ろくに目を通さずに署名した。頭の中は、先ほど起こったことに囚われたままだった。


何も言わずに保健室を後にし、家へ向かった。しかし、学園の廊下を歩いている間も、その違和感は消えなかった。体の内側で、何かが確実に変わり始めている。それが良いものではないと、直感でわかっていた。


ぼんやりと歩きながら、先ほどの出来事を考え続けた。それでも、自分の目標を見失うことはなかった。全力を尽くす覚悟は変わらない。


『はあ…せめて授業には遅刻しないで済みそうだな』と、内心ため息をついた。


教室に入ると、ちょうど生物の授業が始まるところだった。


生物か…苦手な科目だ。


龍はため息をつきながら、いつもの席――右側の四列目に腰を下ろした。そこは決して目立たないが、後ろすぎもしない、教師たちの視線をほどよく避けられるポジションだった。普段からあまり目立たないようにしていたが、(れん)英夫(ひでお)隼翔(はやと) が近くにいるとそれもなかなか難しかった。


席に座った途端、蓮が前の席から身を乗り出し、肘で小突いてきた。


「どこ行ってたんだよ? 歴史の授業、最高に面白かったのに。先生、アキラに怒鳴りすぎて声枯れてたぞ。」


「だろうな…」龍は苦笑しながらノートを取り出した。歴史は好きだったが、生物はまったく別物だ。


そこへ教師が教室に入ってきて、黒板に書き始めた。意味不明な専門用語の数々に、見ただけで頭が痛くなる。もともと理科系も数学も苦手だった。なんとか赤点は免れているが、歴史、文学、英語のほうがはるかに得意だった。


『とにかく耐えて試験に受かるしかない…』と、自分に言い聞かせた。


すると英夫が少し後ろを振り向き、小声で話しかけてきた。


「なあ、前回の授業、何言ってたか覚えてる? 全然わかんねぇんだけど。」


「俺もさっぱり。」龍はノートをめくりながら答えた。「とりあえずメモ取っとけば、試験のとき役に立つかもな。」


「それか、乃愛先輩 にノート借りるって手もあるぞ。」と、隼翔がニヤリと笑った。


「でもまた『無能ども』って目で見られるだろうな…」英夫がため息混じりにぼやいた。


龍は思わず笑いそうになった。生物に興味はあまりなかったが、友人たちとのこういうやり取りが、授業を少しだけ楽しくしていた。


生物の教師は黒板いっぱいに人体の図を描き、それを「ポータ―(異能者)」と「非ポータ―(非異能者)」に分けて説明していた。


「外見は同じでも、ポータ―の体は内部からして違うのです。」教師は左側の図を指しながら言った。「筋肉の成長速度が速く、血流が強く、特定の脳領域が特に活性化します。これは、ミアズマが作用する際に顕著に現れるのです。」


龍はほとんどノートを取らなかった。意識はまだ、保健室での出来事に囚われたままだった。


やがて、授業終了のチャイムが学園中に鳴り響いた。今日も一日が終わった。


龍は静かに荷物をまとめながら、あの不可解な出来事を思い返していた。しかし、考えに沈みすぎる前に、陽気な声が彼を現実へ引き戻した。


「おい、龍! 何か食べに行こうぜ。腹がもう限界だわ。」と、英夫が親しげに肩に腕を回して言った。

「え?でも俺は…」


「ほらほら!拒否権はないからな。それに今日は蓮のおごりだぞ」隼翔がいたずらっぽく笑いながら割り込んだ。


「はあ!?いつ俺がそんなこと言ったよ?」蓮は目を細めて睨んだ。


「先週の賭けに負けたときからだよ。俺たちに何か奢るって言っただろ?責任から逃げるつもりか?」英夫 が勝ち誇ったように笑った。


蓮は舌打ちしたが、それ以上は何も言わなかった。こうして決まり、みんなで学園を出て、駅近くの小さなラーメン屋へ向かった。


料理が来るまでの間、会話はどうでもいい話題で盛り上がっていたが、隼翔が悪戯っぽく切り出した。


「なあ、今日の噂話、もう聞いたか?」


「またかよ?驚きもしねぇな」蓮が皮肉っぽく返した。


「いや、今回は面白いぞ。うちのクラスのあるヤツが、ある女の子に告白しようとして、見事に玉砕したらしい。」


英夫と龍 は興味津々で隼翔を見たが、蓮だけは眉をひそめた。


「誰だよ?」英夫が食いついた。


隼翔はにやりと笑いながら、こっそり蓮を指差した。


「もちろん、お前だよ!」


龍は何度か瞬きをした。


「え?本当かよ?」


蓮はそっぽを向いて鼻を鳴らした。


「別に、そんな大したことじゃねぇよ。ただ美波 に話しかけようとしただけだ…でもまあ、思ったようにはいかなかった。」


英夫は大笑いした。


「え、マジで美波?!あいつ、クラスでもトップレベルで人気あるじゃん!もっと身の丈に合ったところ狙えよ、兄弟!」


蓮は唸ったが、返そうとした瞬間、隼翔が話題を龍へと向けた。


「それより、龍。最近、愛莉 や乃愛先輩 と一緒にいること多いよな?何かあるんじゃね?」


龍は水を飲んでいたところで、盛大にむせた。


「な、何もないよ!ただのクラスメートだし、来たばかりの頃から色々助けてもらってるだけだって!」


「本当か?こないだ乃愛と話してたとき、愛莉めっちゃ不機嫌そうだったぞ?」英夫がからかうように言った。


龍は深くため息をついた。


「ほんとに、何もないから。変なこと言うなよ。」


みんなは笑いながらも、その話題はそれ以上広げず、料理が運ばれてくると、自然と会話も落ち着いた。


ラーメンとライスを頬張りながら、ふと蓮が真面目な声で問いかけた。


「ところでさ、みんな将来どうするんだ?」


英夫は自信満々に笑った。


「俺はプロの格闘家になる!全国大会も国際大会も制覇して、有名になるんだ。想像してみろよ、『無敵の英夫、リングに登場!』ってな!」


「で、顔面ボコボコにされたらどうすんだ?」隼翔が眉をひそめて聞いた。


「そしたらもっと強くなるだけだ。敗北は成功への第一歩だからな!」


蓮は呆れたように目を回した。

『俺はただ、安定した仕事が欲しいな。たとえば、テクノロジー関係とか…ストレスで24時間悩まされるような仕事じゃないやつ。』


『俺は旅に出たいな。この街を出て、世界を見てみたい』と、隼翔がリラックスした笑顔で言った。


みんなが龍 を見た。彼の答えを待っている。


龍はしばらく黙ったまま、どんぶりの中の麺をかき回していた。子供時代、目標、訓練の日々を思い返す。本当に自分が望んでいるものは何だろう?


『わからない…でも、たぶん…もっと強くなりたい。誰かに必要とされたときに、もう無力でいたくない』と、龍はやっと口を開いた。


友人たちは顔を見合わせたが、誰も笑わなかった。


『悪くないな』と、英夫 が微笑みながら言った。『自分の道が見えているなら、それを貫けばいい。』


その後もしばらく会話は続いたが、龍は自分の言葉が頭から離れなかった。

もしかしたら、久しぶりに、自分が何をしたいのかが少し見えた気がした。


家に帰った龍は、ベッドに倒れ込み、疲れた腕を伸ばした。天井を見上げながら、今日一日の疲れを体から抜くように深呼吸する。


『普通なら筋肉痛で二、三日は苦しむはずなのに…ほとんど疲れを感じないな』と、龍は小さくつぶやいた。

体のどこにも、痛みや重さを感じなかった。


枕元のテーブルでスマホが振動する音がして、龍はそちらに視線を向けた。

画面に表示された名前を見て、自然と微笑み、通話に出た。


『どうした、陽葵(ひまり)?』と、龍はベッドに体を預けながら言った。


画面に、ショートカットと穏やかな笑顔が特徴の少女が映った。


『その挨拶なに?感動するわぁ』と、陽葵がふざけた口調で言い、クスクス笑った。


『疲れてるんだよ…』と、龍はため息混じりに答えた。『今日はクラスメートたちと外食してた。』


陽葵は興味深そうに眉を上げた。


『えっ!?友達と!?ちょっと待って、頭の中で整理するから…』

大げさに間を置いてから、にやりと笑った。

『龍が、自分から他人と交流するなんて…奇跡じゃん!』


『大げさだな…』


『いやいや、本当にうれしいよ。きっと誰かに引っ張られたんでしょ?』と、陽葵がいたずらっぽく尋ねた。


『英夫がしつこかったんだよ…』


『やっぱり!』と、陽葵は指をパチンと鳴らして、にっこり笑った。

『で?そこに可愛い先輩とか、気になる子とかいたの?』


龍はため息をつきながら、観念したように答えた。


『デートとかじゃない。ただご飯を食べに行っただけだ。』


『ふ〜ん、じゃあ女の子はいたってことね?』と、陽葵はニヤニヤしながら詰め寄った。


『その質問には答えない。』


陽葵は満足そうに笑った。まるで自分の勝利を確信しているかのように。

そして、ふと真剣な表情になった。


『無理だけはしないでね。あんまり頑張りすぎると、また保健室行きになっちゃうよ。』


龍は彼女の心配する声に少し目をそらし、それから小さくうなずいた。


『わかってる。無理しないようにするよ。』


陽葵はじっと龍を見つめた。まるで、彼の中に何か変化を感じ取ったかのように。

「なあ…ちょっと雰囲気違うよ。なんていうか、いつもより疲れて見える。ほんとに大丈夫か?」


一瞬、龍 は体に走った痛みや、血管を流れる奇妙な感覚を思い出した。しかしすぐにその考えを振り払った。


「ただ疲れてるだけだよ。心配いらない」


陽葵 は数秒間じっと彼を見つめたが、無理に問い詰めることはしなかった。


「まあ、そう言うなら…」


しばらく沈黙が続いた後、陽葵は小さくため息をついた。


「それより、伝えたいことがあったんだ。今日ね、先生たちと話して…私の治療、いよいよ最終段階に入ったって。数日後には、お母さんと一緒に家に帰れるかもしれないんだって」


龍は驚いてまばたきした。いつかは来ると分かっていたはずなのに、その言葉を聞くと胸に妙な感情が湧き上がった。


「それは…すごくいいことだよ!」

龍はようやく心からの笑顔を見せた。椅子に深く座り直し、肘を机に置いて陽葵を見つめた。

「じゃあ…病院の外でも会えるんだな?」


陽葵は満面の笑みでうなずいた。


「うん、もう制限なしで外に出られる。新京 にいるから、すぐに会えるよ」


龍は安堵の息を漏らし、さらに笑顔を広げた。


「本当に良かったよ、陽葵。本当に…やっと家に帰れるんだな」


陽葵はくすくすと笑った。


「うん、でもちょっとだけ、ここが恋しくなるかもね…」


「何言ってんだよ」

龍は笑った。

「これからは、好きなときに一緒にご飯食べに行けるんだ。いちいち許可を取る必要もないしな」


陽葵はうれしそうにうなずいた。


「そうだね。だから今度会うときは、ちゃんと美味しいもの奢ってよね」


「わかった、わかったよ」

龍は軽く笑いながら答えた。


空気が一気に和らぎ、長い間感じていた二人の間の距離が、少しだけ縮まったように思えた。


夜の空気は涼しく静かで、龍はほとんど誰もいない町を歩いていた。

イリナに頼まれて、コンビニに足りないものを買いに行くところだった。最初はこんな時間に外出するのを面倒に思っていたが、今は少し気分転換になっていると感じていた。


パーカーのフードをかぶりながら道を横断していると、不意に感じた。

また、あの感覚だ。


何かがおかしい。うまく説明できないが、誰かに見られているような、そんな嫌な気配。


龍は肩越しにさりげなくスマホを確認するふりをして後ろを見た。

異常はない。ただ、スーツ姿の男が自販機の横に立って、タバコを吸っているだけだった。


だが、何かがおかしかった。


最初からあの男はいたか?それとも後から現れたのか?


深く考えず、龍は歩みを続けた。ただ、警戒心を強めながら。


コンビニに入ると同時に、スーツの男はタバコを地面に落とし、靴で踏み消した。

そして、ゆっくりと反対方向へ歩き出し、近くの路地へと消えた。


その頃、わずか二ブロック先の住宅ビルの屋上で、男の顔をスマホの光が照らし出していた。

彼は手袋をした手で電話を持ち、コンビニに入ったままの龍を見下ろしていた。


「――見つけた」


静寂。その後、ノイズ混じりの声が応えた。


「――特徴は一致するか?」


男は口元に薄い笑みを浮かべた。


「ああ。疑いはほぼ確信に変わった」


受話器の向こうの声は短く何かを告げると、通信は切れた。


男は携帯をポケットにしまい、コンビニから目を離さないまま、新しいタバコに火をつけた。


「――さて…どれだけやれるか、見せてもらおうか」


煙を吐き出しながら、男は夜の闇に消えていった。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!


今回のエピソード、いかがでしたか?少しでも楽しんでいただけたなら、これ以上嬉しいことはありません。


もし「面白いな」と感じていただけたら、お手数ですが評価ボタンをポチッと押していただけると励みになります。今後の更新の大きな力になりますので、どうぞよろしくお願いします!


それでは、次回もまたお会いできるのを楽しみにしています!


――作者より。

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