5. 前進、そして警告の兆し
夕方になり、太陽が地平線に沈み、街の明かりが次々と灯り始めていた。
龍 は、少し不安げな足取りで 水原 乃愛 の 家へと向かっていた。図書館で出会ったあの美しい少女。その父親と話すために、彼女の家へ行く約束をしていたのだ。
女の子の家を訪ねるのは、これが初めてだった。
「番号をくれたんだよな……これ、夢なんじゃ……」
スマホの画面を見ながら、乃愛とのやり取りを確認する龍。
「先輩って呼んだ方がいいのかな……絶対、からかわれるよな……」
そう呟くと、緊張でお腹がきゅうっと鳴った。
顔を上げ、ゴクリと唾を飲み込む。
乃愛の住む通りは、まるで異世界のようだった。
豪華な家々が立ち並び、手入れの行き届いた庭、整然とした石畳の小道。落ち葉一つ落ちておらず、余計な音もない。しかも、街をパトロールする警備員までいた。
「レベルが違う……乃愛って、そんな金持ちに見えなかったけど」
彼は家番号16の前で足を止め、思わず見惚れた。
モダンでミニマルなデザインの邸宅は、夜の照明に照らされて、さらに美しく輝いていた。
「江戸の政庁より豪華なんじゃ……いや、知らんけど、そんな気がする」
深呼吸して、玄関のドアをノックする。
数秒後、ドアが静かに開いた。
――現れたのは、巨大な男だった。
龍の肩幅の二倍はあろうかという屈強な体格。鋭い目つきに鋼のような表情。その存在感に、龍はまるで捕食者の前に立たされた虫けらのような気分になった。
(ケルベロスかよ……)
「え、えっと。あの……乃愛さんを――」
「誰を探してる?」
男の低く重い声が、龍の言葉を遮る。
「まさか、強盗じゃあるまいな……いや、ドアをノックするなんてバカな真似はしないか。じゃあ、何を売りに来た?」
一言一言が岩のように重い。
(この人、視線だけで俺を消し炭にしそう……)
「パパーっ!」
家の中から乃愛の声が響いた。
「今日、友達が来るって言ったでしょ!? 何してるの!? 殺すわよッ!!」
男は目を細めたまま、一歩も動かない。
「こういう奴らには見覚えがある……最初は猫かぶって、油断したところを――」
ガンッ!!
次の瞬間、乃愛が現れ、何の前触れもなく父親の頭を叩いた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさーい! 娘よ、二度としません! 約束するから許してー!!」
そう叫びながら、男は頭を押さえ、目線を床に落とした。
龍は目をパチクリさせた。
さっきまで、まるで殺人マシーンだったのに……
今や完全に娘にひれ伏す哀れな父親である。
「この子が 龍。前に話した子だよ」
乃愛は自然な口調で、龍を指差した。
龍はなんとか平静を保とうとしたが、舌がもつれてしまう。
「こんばんは、せんぱい……」
彼女の姿を目にした瞬間、龍の脳が一瞬フリーズした。
乃愛は短パンにゆったりしたTシャツという、明らかに部屋着の格好をしていた。想像と違うその光景に、彼の顔は一気に真っ赤になった。
「どうしたの?」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、乃愛が訊いた。
「まさか、これがパジャマだと思った?」
龍は魂が体から抜け出る感覚を覚えた。
「い、いや、そんな…!」
乃愛はそっと体を近づけ、彼の耳元に唇を寄せた。
「もしそう思ったなら…一つ秘密を教えてあげる」
そう囁きながら、彼女の吐息が彼の肌をかすめた。
「寝るとき、私…パジャマなんて着ないの」
その瞬間、龍の脳は完全にクラッシュした。
「君は、俺を言葉を失わせるようなことを言う才能があるね…」
自分の呼吸にすらむせそうになりながら、彼は思わず後ずさった。
顔が真っ赤に染まり、乃愛は楽しそうに笑った。
「娘と親しくなりたいようだな…」
父親が再び重々しい声で口を開いた。
「先に言っておくが――」
「パパ、いい加減にして!!」
龍はまだ状況を理解しきれずにいた。
乃愛の父親は耳を押さえながら、まるで叱られた犬のように床を引きずられていた。
「ごめんね、うちの父。ちょっと過保護で馬鹿なの」
「い、いえ…大丈夫です…」
龍は必死に平静を装おうとしたが、まだ動揺が残っていた。
やっと場が落ち着いたところで、乃愛が家の中へと案内した。
その家の内装は、まさに圧巻だった。いや、「家」というより「邸宅」と呼ぶべきだろう。
壁には巨大な絵画が飾られ、家具はどれも彼の人生の総収入を超えそうな高級感を漂わせていた。
(完全に別世界だ…)
広々とした応接室へと案内されると、上品な身のこなしの女性が丁寧にお茶を淹れてくれた。
(これの半分でもあればなぁ…)
龍は圧倒されながら、心の中でため息をついた。
乃愛の父が彼の正面に座り、先ほどとは打って変わって落ち着いた口調で話しかけてきた。
「さて、坊主。ミアズマ制御について何が知りたい?」
龍は目を丸くして父親を見た。
ついさっきまで追い出されかけていたのに、まるで別人のようだ。
「で、できれば…全部。実は何もわかってなくて…」
男は満足げに頷き、腕を組んだ。
「そうか……じゃあ、どこから話そうか」
(ついさっきまで尻を蹴り飛ばされそうだったのに、今じゃこれだよ…)
「まずは自己紹介をしておこう。水原源三。若い頃は精血導の一派、《剛拳》の使い手として闘っていた。」
当時、俺のMSIは822.4 mg/L――《上級域》のほぼ上限値だった。
青山学園の歴史でも、俺ほどの実力を持った生徒は数えるほどしかいない」
龍は驚愕の目で彼を見つめた。
そんな高い数値は、ほぼ《異常域》に足を踏み入れていたという証だ。
(せ、蒼龍…なんとか?…いや、それは今聞かないでおこう)
「知っていると思うが、上級ランクというのはアジアでも屈指の強者たちが集まる場所だ。しかし、ISMの値が高くなればなるほど、自分の血流を制御するのが難しくなる」
「難しいって、どういう意味ですか?」と、龍 は不安げに尋ねた。
「瘴気はSタイプ3の血液を通して流れるエネルギーだが、神秘的なものではない。特殊な細胞で構成されており、血液の粘度を変え、循環を加速させ、筋肉の酸素供給効率を極限まで高める。それが我々に人間離れした力と速度を与える」
「じゃあ……何が問題なんですか?」
「問題は、制御不能な流れが諸刃の剣になり得るということだ。瘴気が暴走すれば、心血管系は過負荷状態に陥る。通常の心臓ではそれほどのエネルギーを処理できない。無理をすれば、不整脈どころか臓器不全に至る危険もある」
その言葉に、龍 の背筋に冷たいものが走った。
「じゃあ……死ぬ可能性もあるってことですか?」
「最悪の場合な。実際、リスクを軽視して戦闘中に倒れた格闘家の記録もある。だからこそ、ISMの値が高ければ高いほど、それを制御する術を学ぶ必要がある」
室内に重たい沈黙が流れた。龍は自分の血が熱を帯びて流れているのを感じた。これまでISMを“特別な力”だと思っていたが、今はそれが同時に“呪い”でもあると知った。
「水原さん……制御するには、どうすれば?」
水原 玄蔵は静かに茶を一口すすり、落ち着いた声で言った。
「修練あるのみだ。近道はない。まずは循環器系を鍛え、瘴気の流れを状況に応じて調節できるようにならなければならん。呼吸法、持久力トレーニング、集中力強化法など、負荷を制御する手段は多い。だが、鍛錬を怠れば、いずれ能力の成長は止まり、最悪の場合、命を落とすことになる」
龍は拳を強く握りしめた。
「じゃあ……やるしかないですね。自分の血を制御できるようになるまで訓練します。瘴気を完全に扱えるようになって、強者たちと戦えるようになります!」
水原 玄蔵はその気迫に満足げな笑みを浮かべた。
「それが最も賢明な道だ。生きるためには、制御が必要だ」
龍は深く頭を下げた。
「お願いします……俺を、鍛えていただけませんか?」
一瞬驚いたように目を見開いた水原は、次の瞬間、豪快に笑った。
「ははっ! おまえ、正気か? もう引退して久しいんだ。他を当たれ、もっと今どきのやつに頼め」
龍は顔をしかめたが、それでも諦めなかった。きっと、自分に合った修行法を見つけてみせると心に誓った。
***
帰り際、玄関口で乃愛は龍ともう少しだけ時間を過ごしていた。
「父のことは許してね。あの人、ほんとに頑固だから」と乃愛は腕を組み、ため息混じりに言った。
「いや、大丈夫。大切なものを守ろうとしてるんだろうし……それにしても、四十には見えないよな」
龍の冗談に、乃愛はくすっと笑った。
「でしょ? どっちかっていうと、お兄ちゃんみたいに見えるもん」
夜風が静かに吹き抜け、乃愛の髪を優しく揺らした。彼女はそれを指で払う仕草を見せた。その動きに見とれて、龍はしばらく言葉を失った。
「今日は招いてくれてありがとう」ようやく口を開いた龍は、鼓動が速くなっているのを誤魔化すように言った。「すごくためになったよ。俺、本当に助けられた。恩に感じてる」
乃愛は小さく首をかしげて、どこか読み取れない表情で彼を見つめた。
「別に。ただ、ちょっと気になっただけ。あの特別な転校生のことがね。」
龍は顔にかすかな熱を感じた。
「特別って…僕なんて、そんな…」と、彼は頭をかきながら答えた。
乃愛は口元を緩め、少し身を乗り出した。
「ううん、ちょっとだけ、かもね。」
龍はごくりと喉を鳴らし、視線を逸らした。
「お父さんが言ってたあの『剛拳』って、何なんだ?」
「それは戦闘術の一つ。精血導から派生したスタイルだ。うちの主要な武術体系だけど…気にしなくていい。まずは基礎から覚えないとね。」
「先輩、戦うんですよね? 何かアドバイスをもらえますか?」
「手伝ってあげるかもしれないけど」と乃愛は少し近づきながら言った。「でも、人生のすべてと同じように、何事にも代償があるのよ。」
竜は困惑し、少し居心地が悪そうに彼女を見つめた。
「どんな代償ですか?」と、思わず少し緊張した声で尋ねた。
乃愛は余裕のある笑みを浮かべ、明らかにその状況を楽しんでいる様子だった。
「そんなに難しくないわよ。ただ、少しの忍耐と、もしかしたらもう少しだけ必要かもね。でも安心して、後で考えてあげる。」
「わかりました」と竜は少し挑戦的な口調で言った。「もし学ぶ価値があることなら、代償を払ってもいいと思います。ただし、変なお願いをしないでくださいね、先輩。」
「心配しないで、竜くん。変なお願いはしないわよ…」と乃愛は声を少し柔らかく、誘惑的なトーンで言った。「驚かないで、きっと思っているより楽しいかもしれないわよ。」
竜は思わず顔が赤くなり、乃愛はその反応を見て、そっと笑った。
「もう遅いし、そろそろ帰るよ。本当にありがとう…先輩。」
乃愛は片眉を上げ、腰に手を当てた。
「先輩って言いにくいなら、乃愛って呼んでもいいわよ。」
龍は一瞬ゾクッとした。そんな気安く呼んでいいのか、戸惑った。
「そ、そうか…で、でも…の、乃愛先輩…」
顔を赤らめながらどうにか口に出すと、乃愛はくすくすと笑い、彼の腕を軽く押してからくるりと背を向けて家に入っていった。
龍はその場に数秒立ち尽くしていた。胸の奥に残るざわめき――それは、ほんの小さな一歩。でも確かに、何かが変わった気がした。
***
次の日――
午前の授業が終わり、昼休みになった。週末が近づき、他の生徒たちはくつろいでいる中、龍は図書室にいた。本棚を行き来しながら、ミアズマの制御に関する本を探していた。
「何も見つからないな…」と、彼は棚に並ぶ背表紙に指を走らせながらつぶやいた。
彼の決意は固かった。ミアズマ細胞の仕組みを理解し、それを自在に操れるようにならなければならない――だが、情報は少なく、成果は上がらなかった。
「またあなた? ここで何してるの?」
背後から女の声がした。
振り返ると、乃愛が腕を組んで微笑みながら近づいてきた。
「えっ…」と、龍は少し驚いた様子で声を漏らした。
「如月くん、人に聞くって発想はないの? そんなふうに迷ってるより、頼ったほうが早いわよ?」
「う…うん、その通りだね…」と、彼はまた頭をかいた。
乃愛は棚から一冊の分厚い本を取り出し、自信たっぷりに彼へ手渡した。
「先輩に頼みなさい。私はここでのボランティア係だから。」
龍は本の表紙を見た。『ミアズマの科学とその変異史』。
「タイトルが…すごくストレートだね…」
「どういたしまして、如月くん」乃愛はおどけた調子で言った。
龍がお礼を言おうとしたその時、乃愛がもう一歩近づき、彼の耳元にそっと唇を近づけた――
「君に朗報があるんだけど」乃愛は囁いた。
「な、なに…?」龍は背筋にぞくりとした感覚を覚えた。
「私からは言えないけどね。ま、私が裏で動いてたってだけは教えてあげる。」
「そんなのズルいだろ!今すぐ教えてよ!」と、龍は眉をひそめて抗議した。
「それは校長先生から直接聞いたほうがいいわ」乃愛はいたずらっぽく微笑んだ。
『校長…?』
「すぐにわかるから」そう言って彼女は少しずつ距離を取り、片目をつむってウインクした。
「からかうなよ…」と龍は顔を赤らめながらつぶやいた。
乃愛はくすくすと笑った。
「その顔、かわいい。」
それ以上何も言わずに、彼女は去っていった。分厚い本を抱えたまま、龍はその場に立ち尽くした。胸の奥には、困惑と戸惑いの入り混じった感情が渦巻いていた。
***
さらに何冊かの本を手に取り、龍は静かな場所を求めて中庭へ向かった。落ち着いて読書ができると思ったその時――
「龍ーっ!」という聞き覚えのある声が響いた。
思わず近くの植木の影に身を隠そうとしたが、無駄だった。英夫にはしっかり見つかっていた。
「うぅ…やあ…」龍は観念して挨拶した。
英夫は満面の笑みを浮かべて近づき、彼の背中をバンッと叩いた。その衝撃で本を落としそうになる。
「元気か、龍!お前、入学してまだ一ヶ月なのに、すでに超人気者じゃん!」
「ぐはっ…ちょ、ちょっと落ち着けよ…息ができない…」龍は体勢を整えながら言った。
「悪い悪い。どうやら訓練の成果が出てるみたいだな!」
「マジで手加減してくれ…」と、龍は背中をさすった。
「でもさ!本当にすごいぞ。みんな、お前が大会に出るのを楽しみにしてるんだ!」
龍は眉をひそめた。
「大会?」
英夫は目を丸くした。
「おいおい、まさか学内大会のこと知らないのか?」
「…全然知らない。」
「やっぱりなー、お前っぽいわ。ふふっ…」
「で、それってどんな大会なんだよ?」龍はあまり興味なさそうに聞いた。
「学内大会はな、学期の後半に始まるんだ。一年、二年、三年の生徒が出場して、予選を勝ち抜いた上位十六人が本戦に進むんだ。」
「パス。」
英夫は瞬きを繰り返し、言葉を失った。
「えぇ!?みんな出るんだぞ!?お前だけ不参加なんてありえないって!」
「で、優勝すると何かあるのか?」龍は淡々とした表情のまま尋ねた。
―江戸で最も重要な異能者大会のトロフィーだぞ!
―パス。
―お前って本当に冷めてるな!栄光を考えろよ……それとも……もしかしてビビってるのか? ―日出夫が挑発的な口調で言った。
龍は鋭い目つきで彼を睨みつけた。
―命を懸けるような大会なんて行かねーよ。俺、まだまともに戦えもしないし、新入りなんだ。
―まぁまぁ、そう言うなって……!
―行かないって言ってんだろ!
―わかったよ、でも一応考えておけよ。大会までまだ数ヶ月あるし、何が起きるか分からないからな。
龍はため息をつき、日出夫を押しのけた。
―話変わるけどさ…… ―日出夫がニヤニヤしながら言った―。お前と水原先輩、何かあるんじゃね?付き合ってんの?
―バカ言うなよ! ―龍はびくっとして声を上げた―。俺みたいなのに、あんな人が相手にしてくれるわけないだろ。それに、今は誰かとそういう関係になるつもりもないし。
日出夫は片眉を上げて、疑わしげに見た。
―ふーん……あんまし早まったこと言わないほうがいいぜ、龍くん…… ―わざと乃愛の口調を真似して言った。
龍はゾクッとして身震いした。
―その呼び方やめろって!
―なんで?水原先輩だけに許されてる呼び方なのか~? ―日出夫は冗談めかして笑った。
―お前、ほんとウザいな。教室戻る。
チャイムが鳴り響いた。
―俺も行くぞ! ―日出夫がついてきた。
―十歩後ろ歩け。
日出夫は爆笑しながら、龍の肩に腕を回した。
―いや~、俺の親友・龍!学園一モテる男、羨ましいぜ!
―黙れ! ―龍は日出夫を引き剥がしながら、校舎の中へと入っていった。
その日の授業がすべて終わった頃、龍はまだ、自分の周りの変化についていけていなかった。わずか三週間足らずで、無名の転校生だったはずの彼は、一気に学園の注目の的になっていた。
ミアズマの数値が群を抜いていたせいで、彼は否応なく目立つ存在となった。しかし、それは同時に周囲と自分の間に壁を作ることにもなっていた。クラスメイトたちがすでに訓練を始めている中で、彼だけが適任の指導者を待っていたのだ。
取り残された感覚が、思っている以上に彼の心を苛んでいた。
そんなとき、教室に校長が姿を見せた。
―如月くん、ちょっと来てくれるかな?
龍は教室の扉のところまで行き、校長と一緒に歩き出した。
―もう知っていると思うが、君は特別な存在だ。君のミアズマ量は、年齢の割に非常に高い。
―はい、それは聞かされました。
―他の生徒たちはすでに訓練に入っているが、君の場合、より高度な訓練が必要だ。
『みんな、もう先に進んでるのか……』龍は心の中で呟いた。
―各自のランクに応じた体力訓練を通じて、彼らはそれぞれの固有能力を開花させていく。しかし、君のように一年目にして“上級”ランクに達している者には、指導できる教師が今までいなかったのだ。このランクは極めて希少だからね。
―そうだろうと思ってました。
―だが、今は違う。いい知らせがあるよ。君にふさわしいトレーナーが見つかった。
―本当ですか?
―ああ、しかもその人は、君のことを知ってるそうだ。
―え?
―如月くん、紹介しよう。君のパーソナルトレーナー、上級ランクの水原 幻蔵さんだ。
―やあ、坊主。俺がトレーナーを引き受けることにしたよ ―幻蔵が腕を組んで言った。
―水原さん……?
―これからは“水原先生”と呼びな。乃愛が「いい奴だ」って勧めてきたから、仕方なく引き受けてやった。
―ありがとうございます、水原さん。本当に感謝します…… ―龍は深く頭を下げた。
「でも、俺の可愛い乃愛にちょっかい出したら承知しねぇからな。変なそぶり見せたら、ライターでまつ毛燃やすぞ。」
「いつも通り、信じてください、ミズハラ先生…!」
龍 は敬礼のポーズで慌てて言った。
「よし、如月くん、教室に戻っていいぞ。水原先生とはこれから少し話がある。授業はこれまで通り続けてくれて構わない。ただ、君の訓練だけは特別なものになるからな。」
「わかりました。それでは失礼します。ありがとうございました、水原さ…いや、水原先生!」
龍が職員室を出ると、図書館の前で乃愛が待っていた。彼女は遠くから手を振り、祝福するような笑顔を見せた。
彼は頷き返した。胸には期待と興奮が入り混じった温かい感情が広がっていた。乃愛は、自分がこの学園に来てからずっと支えてくれていた存在だった。そして、今や水原を説得してまで自分のために動いてくれたのだ。
『本当に…ありがたいな、乃愛は。』
長い間感じることのなかった「順調に進んでいる」という実感が、今ようやく自分の中に芽生えていた。
*
その日の放課後、龍は病院へと足を運んだ。友人の 陽葵が入院している医療センターだ。
夕方の風が心地よく、龍は足早に歩きながら、その日一番の報告を胸に秘めていた。
一週間ぶりに会えるのが、なんだかとても嬉しかった。
「陽葵、久しぶり。先週はお見舞いの許可が出なかったから、ずっと会いたかったよ。」
「知ってる。私もあんたのアホ面見たくてたまらなかったわ。」
そう言って、陽葵は笑いながら読んでいた本を持ち上げた。
「この本、看護師さんに借りたの。恋愛小説なんだって。最初は興味なかったけど…読んじゃった。」
「へぇ、ロマンチックなのも好きなんだ?」
「バカ言わないで!」
陽葵は笑いながら龍の腕を軽く叩いた。龍は彼女のベッド脇の椅子に腰を下ろし、ゆったりとした表情を浮かべた。
「で、今日は何を持ってきたの?」
「本も持ってきたけど、すごく良いニュースがあるんだ。」
「なになに?」
「学校始まってから、俺だけ担当のトレーナーがいなかったんだけど…やっと見つかった!特殊なランクらしくて、時間かかったんだ。でも、今日から俺にもついたんだよ!」
「うわっ、やっぱあんた宇宙人だわ。…でも、本当によかったね。」
「ありがとう。明日から初日なんだ。」
「で?自分の話ばっかしてないで、私へのお土産は?」
「えーっと、特別なものはないけど…。アクション小説持ってきたよ。…でも最近のお前の趣味見てると、次は恋愛ものとか泣ける系でも探してくるよ。」
「バカ!」
「ははっ、じゃあ静かにして。そろそろ朗読始めるから。」
陽葵との時間は、いつも心が和らいだ。長い付き合いの親友で、お互いに苦しい時期も乗り越えてきた仲だ。気を使わず話せる存在は、龍にとって大切な癒しだった。
しばらくして、面会時間が終わろうとしていた。
「ねぇ、陽葵。学校、恋しくならない?」
「そりゃなるよ。ずっとベッドの上なんて退屈すぎる。もうすぐなんだけどね。看護師さんによると、治療は最後の段階だって。」
――いつ言うつもりだったのよ、バカ!
――今だよっ、と乃愛 は笑いながら答えた。
龍 は苦笑いを浮かべ、頭を横に振った。何があっても、最後の一言はいつも乃愛だった。
***
その後、龍は家へ向かっていた。すると、不意に小雨が降り始めた。
「はぁ…フードついててよかった」
そう思いながら、ジャケットのフードを被る。
夜風は静かに吹き、人気の少ない通りを歩く彼の影を街灯が揺らめかせていた。水たまりができ始めたそのとき、胸に鋭い痛みが走った。
突然、視界が歪み、呼吸が乱れ、膝が崩れた。
――ちっ……またかよ……
かろうじて意識を保ちながら、彼は膝から崩れ落ちた。震える手で地面を支え、なんとか倒れるのを防ごうとするが、喉の奥に灼けるような痛みが走った。
次の瞬間、血の味が口いっぱいに広がり、熱くて重い液体が喉から溢れた。
「久しぶりに来たな……」
荒い息を吐きながら、龍はじっとその場に留まり、現実にしがみついていた。全身が震えていた。
「……もしかして、これが“オーバーロード”か」
片手、もう片手と地面に押し当て、ゆっくりと立ち上がる。袖で口元を拭ったが、血は顔にも服にもべったりと付いていた。
「このままじゃ、イリナに見られたらマズい……」
重い足取りで歩き出し、ようやく自宅に辿り着いた頃には、ドアを開ける力さえもギリギリだった。
――龍!? また症状出たの!? イリナの声が、心配と焦りの混ざった響きで聞こえた。
彼は無理やり笑顔を作り、ドアに手をかけて立っていた。
――もう大丈夫……だよ……
イリナは鋭い視線で彼を上から下まで見つめ、全く信じていない様子だった。
――よし、じゃあ今日は超元気になる激辛料理を作ってあげる!
――や、やめろ! 殺す気かよ!?
――じゃあ薬持ってくるから、あんたはさっさと横になってなさい!
そう言って、彼を押して階段の方へ向かわせた。
――わかったってば! 一人でできるし!
イリナはジロッと睨みつけたが、結局、彼を一人で行かせることにした。
龍はベッドに倒れ込み、体がまだ完全に回復していないことを痛感した。天井を見つめながら、思い出すのは小学生の頃――初めて発作が起きたあの日。
あれは剣道の校内大会だった。たった十歳の彼は、白熱した試合中に体の異常を感じた。汗が滴り、筋肉が震えていたが、戦うのをやめなかった。だが視界が真っ暗になり、そのまま畳の上に倒れた。
目を覚ましたときには、保健室のベッドの上。医師たちが慌てており、イリナが泣きながら彼の隣に座っていた。
「君には危険だ……」
源三 の声が、まるで警告のように脳裏で響いた。
「……だからこそ、俺は努力しないと……」
腕で目元を隠しながら、龍は深く息を吐いた。思考は混乱していたが、一つだけはっきりしていた。
「ま、明日考えよう。今は……ちょっと寝るか」
そして五秒後――
――ごはんできたよー! 超パワーアップスープ作ったから、全部飲み干してね!
部屋のドアが思いきり蹴り開けられ、乃愛がニコニコしながらトレイを持って突撃してきた。
――殺す気かよォォォ!
――うるさい! いいからスープ飲みなさい、ヘタレ兄貴!
有無を言わせぬその迫力に、龍はしぶしぶスプーンを手に取った。
……だが、変わらないものもある。乃愛は、どんなときも、そばにいてくれる。
一歩進むごとに、道の先が少しずつ明らかになる。
運命の影には、まだ姿を見せぬ“何か”が潜んでいる…。
ここまで読んでくれて、ありがとう! 。次回もお楽しみに。