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4. 静かな日々、騒がしい心たち

初めての週末が訪れた。

新学期が始まってから数日が経ち、愛莉 はいつもの朝の運動を終え、自宅へと戻っていた。週末は、気分転換も兼ねて朝早くから散歩するのが日課だった。そしてその後はピアノのレッスン。六歳の頃から続けている習慣だ。

学園生活が慌ただしいのと同じように、学園の外でも彼女の生活は規則と予定で埋め尽くされていた。心からくつろげる時間は、ほんのわずかしかない。

「今日は図書室にこの本の箱を返さないと……。」

それは、今週借りていた本がぎっしり詰まった、大きくて重たい箱だった。

「もう少し軽ければ……。歩くのもやっと。」

重い物を持つのには慣れている愛莉だったが、この箱は視界を塞ぐほどの大きさだった。

しかも、辺りはすでに夕暮れの気配を帯びてきていた。

「もう暗くなってきた……。運が悪いわね。」

運転手に頼み、図書室の近くまで送ってもらうと、彼女は歩道を通って入口へと向かった。

もしかすると少し気が緩んでいたのかもしれない。あるいは、箱が邪魔で足元が見えていなかったのか――。

彼女は歩道の修繕中の箇所に気づかず、大きく「工事中」と書かれた看板も目に入らなかった。

そして――

ドサッ!

空を舞う本の群れ。その光景に、通りの人々が思わず足を止めた。

すべては図書館の外で起こった。その図書館は偶然にも、|龍 が実習をしているバイク整備工場の真向かいにあった。

ちょうどその時、如月 龍は電気の配線作業の真っ最中だった。騒がしい音に顔を上げ、目に入ったのは、見覚えのある制服姿の少女。

「……まさか。」

袖をまくり、手に油が付いたままの龍は、作業の手を止め、ゆっくりと彼女のもとへ歩いていった。

「なあ、手伝おうか?」

彼は気軽な口調で声をかけた。

「い、いいえ!大丈夫です、ありがと……」

顔を上げたその瞬間、彼の顔を見て愛莉は言葉を詰まらせた。

――如月くん!?

頭の中で名前が響き、体に寒気が走るほどの恥ずかしさを感じた。

彼女の頬は一気に赤く染まり、目を合わせることもできず、震える手で必死に本を箱に戻そうとする。

「重そうだな。良かったら許可取って手伝うけど……」

「だ、大丈夫です!自分で持てますから!それに、自分の不注意でつまずいただけなので、今後はもっと気をつけます!あと、早く返却しないと会員カード失効しちゃいますし、それは困るので……」

恥ずかしさのあまり、彼女は独り言のようにまくし立て、その場からそそくさと立ち去った。

その手には、まだ一冊の本が残されたままだった。

龍は小さく笑い、落ちた本を拾い上げた。

「一冊、落としてった……。ドジだな。」

それは、年季の入った分厚い本だった。裏表紙には、ドラゴンや魔法使い、壮大な冒険の物語が記されていた。

彼にとっては意外な選択に、口元に微笑みが浮かぶ。

「意外と面白そうだな。ちょっと読んでみるか。」

本をカバンに入れようとしたその時、作業場の中から声がかかった。

「龍ー! ちょっと来てくれ!このエンジン出すの手伝って!」

「今行く!」

作業を終え、家で軽くシャワーを浴びた後、龍は再び外へ出た。

人通りの少ない道を歩き、小さな医療施設の建物へと足を運ぶ。そこは、街の片隅にひっそりと佇んでいた。

静かな雰囲気が漂う街だった。建物の前には公園が広がり、近くにはいくつかのスーパーもあった。涼しい風が吹き、地面の枯れ葉をほんの少しだけ揺らしていた。

彼は正面玄関から中へ入った。真っ白な空間には、健康に関するポスターが壁に貼られており、受付のグレーの机がその中で浮いて見えた。

「こんにちは、奥村 陽葵(おくむら ひまり) さんのお見舞いに来ました」

彼の声は自然だった。



受付の女性は書類から目を離さず、軽く頷いた。

「一時間だけです。こちらにサインをお願いします」

「ありがとうございます」

彼は狭くて、ポスターが並ぶ廊下を歩き、やがて5番の部屋の前で立ち止まった。部屋番号の下には、彼が探していた名前があった。

静かにドアを押して中に入る。

「遅いよ、バカ」

ベッドに横たわる 陽葵 は、体をシーツでほとんど隠していた。

「“こんにちは”くらい言ってもいいだろ?」

龍 は腕を組んで不満そうに言った。

「その価値があると思ってるの?」

龍はため息をついた。陽葵 の瞳には、どこか誇らしげな楽しさがあった。

「おい、少しは落ち着けよ。そんな態度ならもう来ないからな」

そう言って、彼は持っていたお菓子の袋を陽葵に放った。

「来なきゃ殺すから」

陽葵は挑発するような笑みを浮かべて言った。

龍も楽しそうに笑い、リュックから一冊の本を取り出した。

「今日はこれ。ファンタジー小説だ」

陽葵は面倒くさそうに眉を上げ、本を手に取った。

「どんな話?」

「“影に語られしもの”ってやつだ。もうすぐメガネ頼まなきゃな。最近ほとんど見えてないだろ?」

「バカね。あんたよりは見えてるわよ……で、どこから持ってきたの?」

「友達に借りたんだ」

陽葵は本をひっくり返してあらすじを読み、ため息をついた。

「まあ……前回の刑事ドラマのよりはマシかな。あれ、超つまんなかった」

「じゃあ、次から先に好み言ってくれよ。頑張って選んでんのに」

「はいはい……子どもの頃、私が嫌いな話を無理やり聞かせてた時と同じね」

龍は笑った。懐かしい記憶がよみがえる。

「でもさ、本当は好きだったんだろ?」

陽葵は目を逸らした。

「……かもね」

一気に空気が静かになる。陽葵は視線を落とし、シーツを指先でぎゅっと握った。

「ここは何も変わらない。毎日、閉じ込められて……窓から見えるのは、公園だけ」

龍の胸に、チクリと痛みが走った。彼はそっと陽葵の髪を撫でた。

「大丈夫、すぐによくなるさ。……また俺を殴るために走れるようにな」

陽葵は、くすっと小さく笑った。

「……約束してくれる?」

「約束するよ。でも君も頑張らないとね。数日後には点滴が外れるし、リハビリも始められるはずだ。あとは、少しの忍耐と信じる心が必要だよ」

陽葵 は真剣な顔で頷いた。

「うん……それで、退院したらまず最初に、あんたの肋骨にパンチをお見舞いしてやる」

龍 は顔をしかめた。

「それはちょっと嬉しくないな……」

陽葵は声を上げて笑った。

「じゃあ、本を始めようか。追い出されるまで、あと四十五分だよ」

龍はベッドのそばの椅子に腰を下ろし、本を開いて声に出して読み始めた。

陽葵は目を閉じて、静かに耳を傾けた。

ほんのひとときだけ、すべてが以前のままのように思えた。

──その頃。

愛莉は、へとへとになって自宅へ戻っていた。本当に、あの箱には本がぎっしり詰まっていたのだ。ベッドに倒れ込むと、今日一日の疲れがどっと押し寄せてきた。

(明日は一日中寝てやる……)

日曜日が待ち遠しかった。

数秒の静寂のあと、今日の出来事を思い出し、顔を覆うように腕を目元に乗せた。

(うう、あんなの見られて……私、バカみたい)

その時、スマートフォンの着信音が鳴った。

「……はい?」

『こんばんは。夜分遅くに失礼いたします。こちらは新京中央図書館ですが、|長峰 愛莉 様でいらっしゃいますか?』

「はい、そうですが……(図書館から電話? なんで?)」

『先ほど返却された書籍について確認がございます。一時間ほど前に返却された記録がありますが、当館のシステム上、借り出されたのは一ヶ月半前に貸し出された十二冊。返却期限は本日ですが、お返しいただいたのは十一冊のみとなっております』

「えっ、そんなはず……ちゃんと三回も数えて確認しました」

愛莉は勢いよくベッドに起き上がった。

『恐れ入りますが、もしかするとご自宅に一冊残っている可能性もございます』

愛莉の背筋に冷たいものが走った。

(確か……十冊しか……まさか……)

天井を見つめながら、胸騒ぎを感じた。

「……」

そして、一気に思い出した。

(やばいっ! 本を道に落とした!? 図書館の!? 嘘でしょ!? 絶対怒られるってば! 会員証、取り消されるかも!)

頭を抱えて、完全にパニック状態。

(パパとママにバレたら、死ぬ……!)

『長峰様? もしもし、長峰様?』

「……はっ! はい、いますっ! ありました! 本……棚に置き忘れてました! 月曜日の午後に必ず持って行きます!」

『それはよかったです。では、月曜日にお持ちいただければ問題ありません。それでは失礼いたします』

「は、はい……失礼します……」

電話を切った。

「もう終わった……」

夕食の時間、部屋には重たい空気が漂っていた。

両親は、どこか上の空でご飯を食べる愛莉を不思議そうに見つめていた。

「愛莉……大丈夫?」

「うん! すっごく元気!」

「ピアノのレッスンはどうだった? 楽譜の本、ここに置きっぱなしだったけど」

「本? わたしは全部返したよ! 道でなんかなくしてないし……一冊も!」

目が大きく見開かれる。

完全にドラマチックな演技だった。このままでは、何かを隠しているのがバレてしまう。

***

日曜日は快晴だった。雲ひとつない空は、散歩日和そのものだった。

龍は、大好きなマンガの読み溜めに専念していた。彼は本当にスーパーヒーローが好きだ。

一方、ひまりは忙しい一日を過ごしていた。何度も身体検査を受け、見舞いの時間もなかった。

そして、愛莉は――絶望的な任務に身を投じていた。

朝早くから、失くした本を探して街中を歩き回った。前日に通った場所をすべて辿り、公園のベンチを確認し、店に聞き込みをし、さらには図書館に戻って誰かが届けてくれていないか尋ねた。

しかし、彼女の探し物は見つからなかった。

夕日が沈み始めるころ、愛莉は手ぶらで家に戻った。

「完璧な返却履歴に、さようなら……」

そう思いながら、諦めたようにため息をつく。

彼女の唯一の希望は、月曜日までに奇跡的に本が見つかること。

だが、運は味方してくれなかった。

***

そして月曜日が来た。まるでB級ホラー映画のような、混乱に満ちた週末が終わった。

「活動再開の時間……とはいえ、気が進まない」

龍は午前6時に起床し、早めに登校するつもりだった。姉のイリーナが朝食を用意してくれ、家の中は完璧に整っていた。奇跡のような朝だった。

これは新たな時代の始まり。新しい龍。責任感ある龍。もう遅刻しない龍――。

……五分後、まだ食卓に座り、虚ろな目でコーヒーをかき混ぜていた。

我に返ったときには、授業開始まで残りわずか二分。龍は半開きのカバンを背負い、ボサボサの髪とゆるんだネクタイのまま走っていた。

「次は、もっと早く食べるか……もう寝坊して諦めるかだな」

教室に入ると、生徒たちはすでに着席し、先生の到着を待って静かにしていた。龍は気づかれないよう、そっと自分の席へ向かおうとした。

「早く座れば、バレないはず……」

――「如月くん、二度目の遅刻にして、何か正当な理由はあるのかしら?」

やばい。

「今日は早く来ましたよ、先生。ただ……中野さんと話してたんです」

「信じたいところだけど……あなた、まだカバン背負ってるし、中野さんは三十分前から教室にいるわよ?」

教室内が静まり返る。

中野は首を横に振った。龍はため息をつき、潔く諦めた。

― すみません、もう座ります ― と彼はぎこちなくお辞儀し、そのまま椅子にどさっと腰を下ろした。

昼休みのちょっと笑える場面

数学の授業が終わり、昼休みになった。生徒たちが教室を出ていく中、龍 は 少しずつ 愛莉たちのグループに近づいていった。どこかバツが悪そうな顔で。

愛莉は宿題を書き写していて、周りの様子に気づかなかった。すると突然、一枚の封筒が机の上に落ちた。

― 委員長、もうちょっと気をつけたほうがいいんじゃない?

― え?

周囲を見回すと、龍がまるで失敗した忍者のような歩き方で、謎めいた足取りで去っていくのが見えた。彼女は封筒を手に取り、中を開けてみた。

中に入っていたのは――例の、なくした本だった。

― えええええええええええええええええっっっ!?!?

まるで聖なる宝を抱くかのように、その本をぎゅっと胸に抱きしめた。その瞬間、目の下のクマすら消えていた。

迷うことなく、彼女は教室を飛び出した。

― 如月くん!どこで見つけたの!?

― そこらへん。

― 私、道で落としたはずなのに!今、私の手元にある!本当にありがとう、如月くん!

興奮のあまり、気づかないうちに龍に抱きついてしまった。

…致命的なミスだった。

ハッと気づいた彼女は、飛び跳ねるようにして距離を取った。顔は真っ赤。

― ご、ごめんなさい如月くんっ!今のは無意識でっ!

― 礼はいらないって。もうハグで支払い済みってことで。

愛莉の顔は今にも爆発しそうなほど赤くなった。

― な、なに言ってるのよぉおおおっっ!?

― じゃあ、オレ昼メシ食べてくるわ。

― 今日の昼は私と一緒!

龍が反応する前に、彼女は腕を掴み、そのままの勢いでカフェテリアへ全力疾走。

― 離せえええええ!気が狂ったのかああああ!?

ふたりが止まったのは、カフェテリアの特別なテーブルの前だった。そこには、スイーツから特製メニューまで、様々な料理が並んでいた。

― ここはカフェテリアのプレミアムテーブル。全部有料だけど、好きなものを選んで。今日は私のおごり。

龍は怪しむような目で彼女を見たあと、美味しそうなオニギリを見て、ゆっくりと手を伸ばした。

― 私をケチだと思ってるの?何でも好きなだけ取りなさいよ!

……委員長、痛恨のミス。

龍の目がキラーンと光った。その光は、危険な輝きだった。すぐさま彼は空のトレイを手に取り、地球最後の晩餐かのような勢いで次々と料理を乗せていく。

愛莉は魂が抜けるような目で、それを見つめていた。

― ど、どうぞ…楽しんでね… ― と、死にかけの笑顔を浮かべながら。

― ん〜、ありがとう ― と龍は口いっぱいに頬張りながら言った。

― お金のこと、気にならないの?

(この後、請求書を見たらきっと倒れるわね)と、愛莉は心の中でつぶやいた。

― 心配しないで。このテーブルの料理は、委員長の権限で無料なの。

|龍 はしばらく沈黙した。やがて、その意味が脳内でつながった。

― ……ああ、じゃあ完璧だな。

(くそっ。完全にやられた。)

愛莉 は、得意げな笑みを浮かべながら龍が食べる姿を見ていた。

― 何かでお礼しないとって思ったの。本を取り戻してくれて、本当に嬉しかったから。

龍は口いっぱいに食べ物を詰め込みながら、ただうなずいた。その顔は幸せそうで、どこか可愛らしい……そして三日間断食していた男のようでもあった。

そんな感じで二人の昼休みは過ぎていった。愛莉はなんとか会話を続けようとし、龍はただ黙々と料理を平らげていた。

― どうやって如月が、あの一番人気の天使とランチできたんだよ!?

― ズルいだろそれ!監査を要求する!

― あの顔なら何でもアリだな、マジで。

男子生徒たちの一角は、もはや集団ヒステリーのような状態だった。トレイを握りしめる者、天井を見上げて神に訴える者、衝撃のあまりスープをぶちまける者まで。

そして何より笑えるのは、如月本人が何一つ努力していなかったことだ。もしもあの場に引きずられて来ただけと知ったら……あ、もう髪の毛をむしってるやつがいた。

当の如月はそんな騒動には全く気づかず、のんびりと咀嚼を続けた後、ぽつりと口を開いた。

― それでさ……お前って、ここじゃちょっと有名人っぽいよな?

― へっ!?な、ななな何で!? ― 愛莉はお菓子を口に運びながら、動揺で噛みそうになった。

― だってさ、後ろのバカどもがオレの後頭部に視線ビーム撃ちまくってるし ― と龍はフォークで、まるでドラマのワンシーンのような顔で睨みつける男子たちを指差した。

愛莉は背筋にゾワリと寒気を感じた。振り向いたら、確実に呪いの視線が飛んでくるのが分かっていた。

― き、気にしないで。私もそういうの全然興味ないから。勉強に集中してるの。だから、周りが何言っても大丈夫よっ。

― へぇ、さすがは委員長。プロ意識ってやつか。オレはてっきり、皆ここで戦士養成でもしてるのかと思ってた。

― 全員がポートフォリオになりたいわけじゃないのよ ― と愛莉は真面目に答えた。

龍はその言葉を興味深そうに聞いた。

― なるほどな。じゃあこの学園ってのは、人間兵器を作るだけじゃなくて、くしゃみ一発で都市を壊さない教育もしてんのか。

― だ、だいたいそんな感じ……かな?

愛莉はその表現にちょっとだけ戸惑った。

龍はごちそうさまとばかりに背伸びをしながら、深いため息をついた。

― じゃ、もう行くわ。これ以上見られると後頭部が焼ける。

― ちょ、ちょっと待って! ― 愛莉は思わず椅子から立ち上がりそうになった。

― なんで?男共からの嫉妬でオレが敵認定されるの見たいのか?いやだよ、そんな保険も入ってねぇし。

ぷくっと頬を膨らませた愛莉は、むっとした顔で言った。

― ドラマチックに逃げようとしないで!座ってなさい!

だが――。

 龍はすでに立ち上がっていた。

(このままじゃ……ヤバい。逃げなきゃ、確実に三角関係に巻き込まれる……!)

 本能が叫んでいた。ここは戦場だと。

 しかし。

「待って!」

 愛莉 が慌てて龍の腕を掴んだ。

 その瞬間――。

「おお~、楽しそうじゃないか?」

 現れたのは、あの男だった。

 八神 辰輝(やがみ たつき)

 傲慢な笑みを浮かべ、まるでこの世界の王様のように歩いてくる。

「しっかりしてるか? 如月きさらぎくん?」

(……うわ、出た。典型的な金持ち系ナルシスト。)

 龍が心の中でげんなりしていると、立月 (たつき)はさらに言葉を重ねてきた。

「愛莉 と仲良くするのはいいが……悪いが、彼女にはふさわしい相手ってもんがあるんだよ。理解してくれよな?」

 どや顔で腕を組むその姿に、龍は目を細めた。

「はは……興味ねーよ、そんなの。」

「……っ!?」

 立月の目がパチパチと瞬く。どうやら予想外だったらしい。

「いや、でも素直なのはいいことだ。君、案外いいヤツだな。」

 そう言って、肩をポンポンと叩いてくる。

 まるで、言うことを聞く犬を褒めるかのように。

「じゃあ俺の婚約者を、こんなチープな食べ物のある場所から連れ出させてもらう。」

「行かないわよ。さっさとどっか行って。」

 愛莉はキッパリと拒絶する。

 だが立月は食い下がる――その前に。

「おい、バカ。彼女はここに残る。」

 龍がめんどくさそうに言い、そして――。

 突然、愛莉の腰に腕を回して引き寄せた。

「ちょうど良かったんだよな。案内してくれる人が欲しかったんだ。オレ、転校してきて一週間になるけど、まだ半分も校舎を把握できてなくてさ。」

「~~っ!?」

 愛莉の顔が一気に赤くなる。

「で、委員長だろ? 新入生の面倒を見るのも、仕事のうちだよな?」

「えっ、あ、うんっ! も、もちろん案内するわ!」

「よし、じゃあ……デート決定だな。」

「な、なに言ってるのよ!? デ、デートって!!」

 周囲にいた生徒たちは、思わず食べていたパンを吹き出した。

 立月が口を開こうとするが、龍が先に肩を軽く叩く。

「じゃ、行こうか。……あ、悪いな、七海ななみさん。今忙しいんで。」

「誰が七海だ! 八神やがみだ、バカ!!」

 後ろで取り巻きが叫んだ。

 だが、もう遅い。

 立月の威厳はガタガタと崩れていく。

 誰もが言葉を濁し、目を逸らす。

(……終わったな、立月。)

「覚えてろよ……! これで済むと思うなよ……!」

 捨て台詞を吐く立月。

 が、龍はすでに聞いていなかった。

***

「…………」

「…………」

 二人は無言で廊下を歩いていた。

 愛莉はまだ顔を赤らめたまま、さっきのことを引きずっている。

 一方の龍は、いつもどおりの余裕の表情だった。

 次の授業までの少しの時間、二人きりで歩く静かな時間。

 教室のざわめきから離れた廊下は、どこか落ち着いた雰囲気があった。

「なあ、ファンタジー好きなんだな?」

 龍が何気なく問いかける。

 愛莉が持っていた文庫本に目をやりながら。

「あ、これ?」

 愛莉は微笑みながら本を持ち上げた。

「うん、好きよ。物語の世界って、現実を忘れさせてくれるから。」

「そっか。いい趣味してんな。」

愛莉 はちらりと龍 を見やった。

 その答えが少し素っ気なかったのが気になったようだ。

「ねえ、あんた……前に言ってたよね。漫画しか読まないって。どんなのが好きなの?」

 龍はすぐには答えなかった。

 視線をそらし、頬をかきながらもごもごと口を開いた。

「んー……ちょっと子供っぽく聞こえるかもだけど……ヒーローもの、かな。誰かを助けるために、自分を犠牲にするようなさ。」

 愛莉が瞬きをして、ふっと小さく笑った。

「……なに?」

 龍が眉をひそめる。

「ううん、別に。ただ、そういう“正義の味方”に燃えるタイプとは思ってなかったから。ちょっと意外で……かわいいなって。」

「“かわいい”ってなんだよ!? あれは演説じゃなくて、“誰かを奮い立たせる言葉”なんだよ!」

 龍が反論するも、愛莉のからかうような視線に気づいて、ため息をついた。

「……もういい。忘れてくれ。」

 愛莉はそんな彼を見つめながら、ふっと微笑んだ。

 その頬に、ほんのりと赤みが差していたことに気づいたが、口には出さなかった。

「へぇ……如月きさらぎくんにも、そういうかわいい一面があるのね。」

「話題変えろっての……!」

 ジュースを一口飲みながら、龍がプイっと顔をそらす。

 愛莉は笑いをこらえながら、少し声を落とした。

「で……あのバカって、もしかして彼氏だったりするの?」

「私があいつのこと好きに見える?……」陽葵 は顔をしかめた。

 龍は少し考えるように目を細めた。

「父同士が仕事関係で繋がってるの。うちの家族とは長い付き合いがあるし、向こうは金持ちでプライドが高いでしょ?」

「なるほど。意外と由緒あるご令嬢なんだな、愛莉お嬢様。」

「冗談じゃないわよ。」

「ごめん、ごめん。」

 龍が手を上げて降参ポーズを取ると、愛莉はため息をついた。

「うちの父とあいつの父親が共同で企業コンドミニアムを作りたいらしくてね。で、両家を繋げるための“最も確実な手段”が――」

「……政略結婚ってやつ?」

 龍が眉を上げた。

「時代錯誤もいいとこだな、それ。」

「言ってる私が一番そう思ってるわよ。あんなやつ、顔を見るのも嫌なのに、結婚なんて……ありえない。」

「じゃあ断ればいいじゃん。自分の意思は?」

 愛莉が乾いた笑いを漏らしたが、その肩は少しだけ震えていた。

「……そんな簡単な話じゃないの。」

 ぎゅっと拳を握りしめながら、ぽつりとつぶやいた。

 龍は黙って愛莉を見つめていた。

 今までの彼女からは想像できないような、ほんの少しだけ弱さを含んだ横顔だった。

「なーんか、今の顔……気に食わないな。」

 龍がぽそっと言う。

「やめて。ほんと、忘れて。」

 愛莉は急いで笑顔を作るが、その笑顔はどこか無理をしていた。

 龍は数秒、黙ったまま見つめていたが、やがてニヤリと口角を上げた。

「でもさ、働かなくていい生活って、わりと最高なんじゃね?」

「なに言ってんのよ!」

 愛莉はむすっとしながら、龍の肩をポカポカと叩いた。

 そのやり取りを切り裂くように――。

 カァーン!

 チャイムが鳴り響いた。

「やばっ!授業始まっちゃう!」

 愛莉が慌てて立ち上がる。

「……まじめなやつ。」

 龍がからかうように言うと、愛莉は目をくるりと回した。

 でも、その口元には、確かに笑みが浮かんでいた。

 そして――。

 そっと龍に近づいて、耳元で囁いた。

「ありがとう。」

 その一言だけ残して、愛莉はパタパタと走り出していった。

 残された龍は、その場でぽかんと立ち尽くす。

 気づけば頬がじんわりと熱くなっていた。

 耳に触れて、思わず小さくつぶやいた。

「……ずるい女だな、ったく。」

 苦笑いを浮かべながら、彼女のあとを追った。





ここまで読んでくださってありがとうございます!



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