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29. 桃色の髪の少女

火曜日の午後。

太陽の光がわずかに部屋を照らしていた。広くて現代的な寝室には、カーテンの隙間から差し込む一筋の光が、乱れたベッドの上を横切っていた。睦月(むつき)(さとる)と秘書の璃彩(りさ)は、先ほどの熱い瞬間の余韻に包まれたまま、まだ体を休めていた。皺だらけのシーツとナイトテーブルの上に置かれたグラスが、社長とその秘書が隠れてしていた行為の証のように残っている。


テーブルの上の電話が鳴り、静寂を破った。璃彩(りさ)が身じろぎし、眠たげな声でつぶやいた。

「もう起きるの? まだ早いのに…」


(さとる)は眠そうに眉をひそめ、受話器を取った。電話の向こうからは、マフィアのボス、(チャン)文龍(ウェンロン)の護衛、(リー)(チェン)の声が聞こえた。

「何の用だ、(リー)」と(さとる)は眠気を振り払うように言った。


会議が急きょ前倒しになったこと、そしてその緊急招集の理由が、以前話していたあの少年――如月(きさらぎ)(りゅう)――に関するものだと伝えられた。


「会議を早めた? それは妙だな……」

「その少年のことを話していたのか?」(さとる)はベッドの上で上体を起こしながら答えた。


(リー)(チェン)は、議題の内容、調査結果、そして得られた情報を淡々と説明した。(さとる)は眉をわずかに寄せながら、一言一句を逃さぬように耳を傾けた。


「もう彼女がいるとはな。あの子、なかなかやるじゃないか」(さとる)は皮肉めいた笑みを浮かべて言った。

「そうか……それは少し厄介かもしれんな」会話は続いた。

「助かったよ、(リー)。いい情報だった」


通話を切ったあと、(さとる)はしばらく天井を見つめたまま沈黙した。璃彩(りさ)はまだベッドに横たわりながら、興味と挑発が混ざった声で尋ねた。

「また仕事の話? それとも、個人的なこと?」


(さとる)は答えず、携帯を取り出して別の番号を押した。

その声には、さっきまでの怠さとは違う、はっきりとした決意がこもっていた。


(つむぎ)


『え……(さとる)? こんな時間に電話って何なのよ』

「ひと月前に話した件、覚えてるか?」

『ほんと、いつも突然なんだから』

「明日に備えろ。新幹線に乗るぞ」

『めんどくさ……』


(さとる)は通話を切った。

部屋には再び静けさが戻り、昨夜の熱とともに、彼の周囲には目に見えない緊張感が満ちていった。何か大きな動きが始まろうとしていた。


一方その頃、街の反対側。陽葵(ひまり)と母の夏美(なつみ)が暮らすマンションの前で、(りゅう)はどう反応すべきか分からずに立ち尽くしていた。

ついさっき感じた陽葵(ひまり)の抱擁の温もりがまだ腕に残っている。落ち着こうとしても、胸の奥から湧き上がる喜びが抑えきれなかった。


彼女の顔を見つめると、顔色も良く、瞳には光が戻り、微笑みはあの病院の日々を一瞬で吹き飛ばすほど明るかった。


「本当に大丈夫なのか?」(りゅう)は慌てて尋ねた。

「息苦しくない? 医者に何か注意されたりは?」


言葉が止まらなかった。

(喋りすぎだ…でも、確かめたい。ちゃんと元気なんだって…)


陽葵(ひまり)は小さく笑い、首を傾げながら彼を見つめた。

(りゅう)…私は本当に平気。もうそんなに心配しなくていいの」

穏やかで、どこか茶目っ気のある声だった。


(りゅう)はしばらく黙って彼女を見つめた。

信じられない気持ちもあったが、その姿を見るだけで胸の重さが少し軽くなるのを感じた。


「それにね」陽葵(ひまり)はいたずらっぽく笑って言った。

「今までよりずっと元気なの。試してみる?」


腕を上げ、まるで軽くパンチをしようとするような仕草を見せた。

「おい、待て!」(りゅう)は慌ててその手首をそっと掴んだ。

「わかった! 元気なのは十分伝わったから! 証明しなくていい!」


陽葵(ひまり)は声を上げて笑い、腕を下ろして得意げに胸を張った。

(りゅう)も笑みを浮かべたが、胸の奥にはまだ小さな不安の塊が残っていた。

(やっぱり、いつもの陽葵(ひまり)だ……あのままの彼女だ。失わずに済んだんだ。…よかった)


二人の間に流れる空気が柔らかくなる。

建物の前で立ち尽くしながら、まるで世界が止まったかのような静けさが訪れた。


(りゅう)は久しぶりに深く息を吸い込み、心から安堵した。


その様子を、建物の入り口から夏美(なつみ)が見つめていた。

病院での苦しい日々を思い出しながらも、娘が笑っている姿に胸が温かくなる。

何も言わず、二人に静かに時間を与えるように、彼女は先に家の中へと入っていった。


廊下を歩きながら、夏美(なつみ)は壁に掛かった写真立ての前で立ち止まった。

そこには、公園で撮った一枚――陽葵(ひまり)(りゅう)、イリーナ、そして自分――全員が笑顔で写っていた。

指先でそっとフレームを撫でると、胸の奥の重さが少しだけ消えていくのを感じた。

やっと安心できる。娘にまた穏やかな日常が戻ってきたのだ。


外では、陽葵(ひまり)(りゅう)の手を離し、少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「さ、入って」


(りゅう)は家の中へ入った。温かくて穏やかな空気が、心を包み込む。

ここ数日の不安がまるで遠い出来事のように感じられた。


リビングのソファに座った陽葵(ひまり)は、膝に軽いブランケットをかけ、足を組みながら微笑んでいた。

その顔には以前よりも確かな生命力が宿っている。(りゅう)は思わず見とれてしまった。


「ねぇ、思ったよりずっと調子いいの」陽葵(ひまり)は目を輝かせながら言った。

「入院してた最初のころは本当に疲れてて、いつもの私だったけど……

でもね、ある日突然、体の奥から力が湧いてくる感じがしたの」


(確かに……声に張りがある。肌にも血の気が戻ってる。前とは全然違う……まるで生まれ変わったみたいだ)


「お医者さん、どうしてそんなことが起きたか説明してた?」(りゅう)は少し身を乗り出して尋ねた。


陽葵(ひまり)は小さく胸を張り、子どもっぽい誇らしさを滲ませながらうなずいた。

「うん、高杉(たかすぎ)先生が言ってたの。私の体が特別な血、S-type3を受け入れたって。今はね、前とは違うエネルギーを作り出せるようになったんだって」

 そう言って、陽葵(ひまり)はいたずらっぽく笑みを浮かべた。

「つまり簡単に言うと……もう昔みたいな弱い私じゃないってこと。今の私は、ずっと強いんだから」


 (りゅう)は黙って彼女の話を聞いていた。その言葉の意味を、医学的なことだけでなく、陽葵(ひまり)自身にとってどういうことなのか考えながら。彼はわかっていた。これから陽葵(ひまり)の人生は、きっと大きく変わっていくと。

 けれど今はそんな話をする時じゃない。今大事なのは、彼女が元気でいることだ。保有者ほゆうしゃになったことについては、また後でゆっくり話せばいい。


「それで……どんな変化があったんだ?」(りゅう)は興味深そうに尋ねた。


「えっとね……」陽葵(ひまり)は指を一本立て、秘密のリストでも数えるように言った。

「もう歩いても疲れないの。病院の階段を登っても息切れしなかったんだよ。信じられる? 前は少し歩くだけでめまいしてたのに。あとね、お母さんが言うには、肌のツヤまで変わったって」


(確かに……目の輝きが違う。こんな陽葵(ひまり)、見たことない。普通に見える。幸せそうだ……)


「それで先生は、他に何か言ってた?」(りゅう)がさらに尋ねた。


「あ、そうそう。無理はまだしちゃダメだって言われた。体が新しい状態に慣れるまで、ちゃんと休まなきゃって」

 陽葵(ひまり)は少し不満そうに唇を尖らせた。

「それにね、少なくとも一か月は毎週検査に行かなきゃいけないの。それと、ストレスとか強い感情も避けなきゃって」


 その時、食堂の扉が静かに開いた。奥村(おくむら)夏美(なつみ)がトレーを手に入ってきた。湯気の立つコーヒー、もう一つの紅茶、そしてどら焼きと煎餅が並んだ木の皿。

「お医者さん、もう一つ言い忘れてたんじゃない? 笑いすぎも体力使うから気をつけなさいって」

 夏美(なつみ)はおどけた口調で言いながら、トレーをテーブルに置いた。


「もう、お母さん!」陽葵(ひまり)が頬を赤らめて抗議する。


 (りゅう)は思わず笑みをこぼした。その温かな空気に包まれながら、奥村(おくむら)親子を見つめた。

 落ち着いた母親、輝くような娘――その光景を見ているだけで、胸の奥に静かな喜びが広がる。


「生まれて初めてなの」陽葵(ひまり)が窓の方を見ながら言った。

「いつ倒れるかもって不安がないの」


 少し間を置き、彼女は(りゅう)の方に振り返った。目の奥に、いたずらっぽい光が宿る。

「ねえ、もしかして今なら……あなたに競争で勝てるかも?」


 (りゅう)は短く笑った。けれどその胸の奥では、抑えきれないほどの感情が溢れていた。

(これが……俺の見たかった陽葵(ひまり)だ。強くて、普通の夢を見られる陽葵(ひまり)。)


 (りゅう)は改めて陽葵(ひまり)を見つめた。その中に宿る活気が信じられないほどまぶしく感じた。


陽葵(ひまり)がS-type3の保有者になった今……きっと気をつけるべきことも増える。もしかしたら高杉(たかすぎ)先生は、彼女に学院で特別な教育を受けさせるかもしれない。でも、今はそんなことを考える時じゃない。今日だけは、この笑顔を見ていたい……)


 小さく息を吐き、(りゅう)は彼女に少し身を寄せた。

陽葵(ひまり)、一つだけ約束してくれ。何か少しでも変だと思ったら……どんな小さなことでもいい。すぐに俺に言ってくれ。絶対に一人で抱え込むな」


 陽葵(ひまり)は驚いたように瞬きをしたが、すぐにやわらかく笑った。

「うん、約束する。何かあったら、全部(りゅう)に言うね」


 沈黙が一瞬、ふたりの間に流れた。陽葵(ひまり)の視線が(りゅう)に向かい、その温もりに(りゅう)の胸が締めつけられた。

「それと……もう一度ありがとう、(りゅう)。私が今ここにいられるのは、あなたのおかげだよ」


 陽葵(ひまり)の口からこぼれた小さな笑い声が、部屋いっぱいに広がった。

 その音は、これまでの不安や苦しみを少しずつ溶かしていくようだった。(りゅう)は気づいた――少なくとも今だけは、病の影を置き去りにできると。


 * * *


 翌朝――水曜日。

 電車が駅を離れていく音が、雑踏の中に消えていった。

 (りゅう)はゆっくりと車両を降り、肩のリュックのベルトを直しながら大きくあくびをした。

 朝の冷たい空気が頬を撫で、彼は何度か瞬きをして意識を戻す。


 辺りを見回すが、いつもホームで待っているはずの 愛梨(あいり)の姿はなかった。

(おかしいな……また家の車で行ったのか?)


 ため息をつき、肩をすくめながら改札を出る。

(今日の数学の授業、絶対きついな……試験も近いし。愛梨に教えてもらわないと。二次方程式、マジでやばい……)


 (りゅう)は駅のホログラムスクリーンを何気なく見上げながら歩いていた。

 その先に、誰かが立ち止まっていることに気づかないまま。


 衝突は、避けられなかった。


「わっ、ごめん!」(りゅう)は慌てて一歩下がった。

 本とタブレットが二冊、床に滑り落ちる。少女はすぐにかがみ込んだが、(りゅう)の方が先に手を伸ばした。

「手伝うよ」彼は慌てて本と端末を拾い上げた。


 タブレットを持ち上げた瞬間、(りゅう)は目を見開いた。

 薄型で光沢のある機体。フレームには淡く光るホログラムインターフェースが投影されている。

(これ……タブレット? こんな大きいの、見たことない……)


 顔を上げた瞬間、時間が止まった。


 目の前にいたのは、淡いピンク色のショートヘアをした少女だった。

 光に透ける髪が柔らかく揺れ、彼女は青山(あおやま)学院の制服を着て、片手に棒付きキャンディーを持っていた。

 微笑みはわずかだったが、その瞳――穏やかでありながらどこか挑むような光――が(りゅう)の心を一瞬で奪った。


 動けない。


 (りゅう)の視線は、彼女の瞳に吸い込まれたように固定された。

 頭の奥で、かすかな囁きが響く。

 駅のざわめきが遠のいていく。

 そこにあるのは、ただ彼女の姿だけ。


「私のもの、返してもらえる?」

 少女がそう言った。視線を逸らすことなく。


 その声で、(りゅう)は我に返った。

「あ、あぁ……ごめん、ぼんやりしてた」

 慌てて本とタブレットを差し出す。


「大丈夫よ」彼女は小さく笑った。


 その隣には、黒いスーツを着た背の高い男が立っていた。無表情のまま、二人のやり取りを見守っている。

 (りゅう)は男の存在に気づき、思わずごくりと唾を飲み込んだ。


黒い車が彼らの前に止まった。男が後部ドアを開けると、少女は落ち着いた様子で荷物を中に入れた。

乗り込む前に、彼女はふと(りゅう)の方を振り返り、その顔をもう一度見つめた。まるで、その姿を心に刻みつけようとするかのように。


「じゃあね」

軽く手を振りながら言い、どこか意味深な笑みを浮かべた。


車は静かに走り出し、やがて交通の流れに紛れて消えていった。

(りゅう)はしばらくその場に立ち尽くし、消えゆく車の反射をじっと見つめていた。


(あの子……いったい誰なんだ?)


彼はため息をつき、首の後ろをかきながら考え込む。

(間違いない……あんな子、学院で見たことない)


頭の中は疑問でいっぱいになり、鼓動はいつもより少し速くなっていた。

(りゅう)は気を取り直して青山学院へと歩き出す。

その出会いが、彼の運命を大きく動かす始まりになるとは、まだ知る由もなかった。


――その頃、少女を乗せた車の中は、青白いメーターの光だけが空間を照らしていた。

少女は本を鞄にしまい、シートに体を預けながら、唇の間でゆっくりと棒付きキャンディーを転がす。

窓の外では、街区のビルが次々と流れ、スモークガラスにその影を映していく。


隣に座る男――黒いスーツに鋭い目つき――が、低い声で沈黙を破った。


「今の少年は……」


少女はわずかに笑みを浮かべ、窓の外から視線を外さずに言った。


「ええ……そうよ。彼だったわ。駅に寄っておいて正解だったわね」


男はゆっくりとうなずき、彼女を横目で見た。


「さすがでございます、お嬢様」


少女は小さく笑い、ガラスに映る自分の顔に視線を落とした。


「見分けるのは簡単だったわ。彼の“気”……普通じゃなかったもの」


男は答えず、ただ手袋を整え、再び前方を見据えた。


しばしの沈黙。

車は音もなく街を抜け、薄曇りの空の下を進んでいく。


少女は頬杖をつき、小さく呟いた。


「やっと……見つけた」


運転手がゆるやかにハンドルを切る。

駅から離れていくその瞬間、少女の微笑みが窓の反射に溶けて消えた。


――数分後。


(りゅう)はゆっくりと教室に入り、抑えきれないあくびを漏らした。

窓から差し込む朝日が机の上を照らし、空気中の埃が金色に光っている。

教室にはすでに生徒たちのざわめきが満ちており、その中には聞き慣れた笑い声もあった。


「おーい、(りゅう)!」

最後列から英夫(ひでお)が元気よく手を振った。

「また寝坊したのかと思ったぞ!」


「危なかった」

(りゅう)は机に鞄を置きながらため息をついた。

「今日はマジで体が動かない……」


「まあまあ、チャンピオン」

スマートホロ端末をいじりながら、(れん)が言った。

空中にはホログラムのシューティングゲームが浮かび、光の弾がはじけている。

水原(みずはら)先生の訓練に比べたら、こんなの楽勝だろ」


「その名前を出すな……」

(りゅう)は腕を枕にして頭を預けた。

「今日もまた地獄が待ってるんだ」


「今日も訓練か?」

英夫(ひでお)が目を丸くした。

「お前、ほんとに天国行き確定だな」


「どっちかっていうと、地獄行きだな」

(りゅう)は苦笑いしながら答えた。

脳裏に浮かんだのは、時々水原(みずはら)先生が見せるあの悪魔のような笑みだった。


そのとき、ノートに数式を書き込んでいた隼翔(はやと)が顔を上げた。

彼は信じられない速さで問題を解いていた。


「文句ばっか言ってないで、少しは勉強したらどうだ」

静かな声でそう言う。

「試験、もうすぐだぞ」


(れん)は不満そうにスマートホロを机に置いた。

「さすが天才くん。量子コンピュータみたいな脳してるもんな」


「そうだ、“サイバーブレイン博士”だ」

英夫(ひでお)が笑いながら茶々を入れた。


(りゅう)は片眉を上げ、口元を緩める。

「“サイバーブレイン”?それって“レッドホーク”の悪役だろ?」


(れん)が嬉しそうに(りゅう)の肩を叩いた。

「正解。あのキャラから取ったんだ。だってコイツ、あの冷たい目つきがそっくりなんだよ。まるで“お前が何を言うか、もう全部分かってる”って顔でな」


英夫(ひでお)が吹き出した。

「たしかにな!あとは杖を持てば完璧だな!」


隼翔(はやと)はため息をつき、ノートをパタンと閉じた。

「まったく、お前らは本当にバカだな」


「それも“サイバーブレイン”っぽい発言だな」(りゅう)がいたずらっぽく笑って言った。


三人は笑い出し、隼翔(はやと)は半ば呆れたような顔で彼らを見ていたが、結局小さく口元を緩めた。


まだ授業は始まっていなかった。そのひとときだけ、(りゅう)は疲れや訓練のことなどすべて忘れていた。

黒板にチョークの音が響き、教師が今日のテーマを書き始める。


「さて、今日は近代史を少し復習しよう」

教師は単調な声で言いながら眼鏡を押し上げた。

「明治時代、日本は文化的・技術的に大きな変革を迎えた時期だ。世界へと門戸を開いた始まりでもある…」


(りゅう)は何とか授業の内容を追おうとしていたが、頭の中ではまだ駅での出来事がよぎっていた。

(先生の声が遠い…)

視界の端では、(れん)が退屈そうに机を指でトントンと叩いているのが見えた。


突然、授業開始から十五分も経たないうちに教室の扉が開いた。

校長の秘書が顔をのぞかせる。


「先生、少しお時間よろしいでしょうか?」


教師はうなずき、チョークを置いて外へ出ていった。


扉が閉まると同時に、教室内はざわめきに包まれた。


「なんだろうな?」と英夫(ひでお)

「どうせまた長い会議だろう」と西村(にしむら)隼翔(はやと)が頬杖をつきながら答えた。


(れん)はその隙にホロスマートフォンを取り出し、再びゲームを起動する。

「やっと退屈しのぎができる」

彼は画面から目を離さずにつぶやいた。


数分後、教師が戻ってきた。表情は穏やかだったが、声色にわずかな変化があった。


「すまないね、少し遅くなった。さて、その前にお知らせがある」


全員が姿勢を正した。


「今日から新しい生徒がこのクラスに加わる。みんな、温かく迎えてあげてほしい。どうぞ、入って」


再び扉が開き、一人の少女が静かに入ってきた。

短く整えられた淡い桜色の髪が、教室の光を受けてやわらかく輝く。制服はきちんと着こなされ、唇には穏やかで落ち着いた笑みが浮かんでいた。


ざわめきが一瞬で止まった。


(りゅう)はすぐにその顔を思い出した。


(あの子…?)


心臓が小さく跳ねる。朝、駅でぶつかったあの少女だった。


教師が静かに手を上げ、クラスに促した。

「それでは自己紹介を」


少女は軽く会釈し、澄んだ声で言った。


弥生(やよい)(つむぎ)です。仙台から来ました。これからよろしくお願いします」


すぐに拍手が起こった。


「かわいい!」と誰かが後ろの席でつぶやき、

「別の学校みたいだな…」ともう一人が囁いた。


英夫(ひでお)でさえ、目をまん丸にして呟いた。

「…うわぁ」


(つむぎ)は静かに通路を歩き、教師が中ほどの空いた席を指さした。

弥生(やよい)さん、そこに座っていいですよ」

「はい、先生。ありがとうございます」


彼女が席に荷物を置き始めたとき、(りゅう)は目を離せなかった。


彼女はそれに気づいたように、ゆっくりと顔を左に向け、頬杖をつきながらいたずらっぽく微笑んだ。


(りゅう)の身体が一瞬固まる。

(な、なんで俺を見てるんだ…?)


その様子に気づいた友人たちがすぐにひそひそ話を始めた。


「おい、(りゅう)、知り合いか?」と(れん)

「笑ったぞ! 今お前に笑ったぞ!」英夫(ひでお)が興奮気味に言った。


(りゅう)は首の後ろをかきながら、気まずそうに答えた。

「いや…朝、駅で見かけただけだよ」


隼翔(はやと)がノートから目を離さずにため息をついた。

「都合いいな、それ」


(れん)がくすりと笑い、英夫(ひでお)はまだ(つむぎ)を見つめたままだった。


授業は再開したが、(りゅう)には教師の声が遠く感じられた。

(彼女はいったい何者なんだ…?)


──そして、歴史の授業が終わりを告げるチャイムが鳴った。


教師が資料をまとめる間に、教室は再びざわめきで満たされた。

自販機へ向かう者、スマホを取り出す者、そして中心には当然弥生(やよい)(つむぎ)の姿があった。


「本当に仙台から来たの?」と一人の女子生徒が尋ねる。

「ええ、少し前に引っ越してきました。向こうとは気候が全然違うけど、ここも気に入ってます」


彼女の穏やかな口調と微笑みは、自然と周囲の関心を集めた。

まるで意図せずとも、空気を支配してしまうようだった。


(りゅう)は机にノートをしまいながら、その様子を見つめていた。

(上品で…どこか違う。けど、何か引っかかる)


深く息を吐き、考えても仕方がないと自分に言い聞かせながら、(りゅう)は教室の出口へ向かった。


立ち上がった(りゅう)は、ため息をつきながら、空っぽの廊下を見つめた。背後では、他の生徒たちの賑やかな声が遠くに響いている。


ちょうど教室を出ようとしたそのとき、背後から女性の声が静寂を破った。


「また会ったね」


その声は柔らかく、どこか楽しげだった。


(りゅう)が振り向くと、そこには(つむぎ)が立っていた。

彼女は片手に鞄を持ち、もう一方の手で淡い桃色の髪を指先で弄んでいる。

表情は穏やかだったが、その瞳には小さな悪戯のような光が宿っていて、(りゅう)は思わずその場で動けなくなった。


「……ああ、うん。駅でのことだよな。あれはあんまりいい自己紹介じゃなかったけど」


(りゅう)が照れくさそうに言うと、(つむぎ)は小さく笑った。


「気にしないで。時には、偶然の出会いこそ一番印象に残るものよ」


その微笑みはあまりに穏やかで、(りゅう)は何も言えなかった。

(とりあえず、ちゃんと自己紹介しないとな)

「そうだ、俺は――」


如月(きさらぎ)(りゅう)くんでしょ」


(つむぎ)はためらいもなく言った。その声は自然で、まるでずっと前から知っていたかのようだった。


(りゅう)は驚いて瞬きをした。

(なっ……どうして俺の名前を?)

口を開いたが、言葉が出てこない。


「そんなに気にしないで」(つむぎ)は小首をかしげながら、無邪気な笑みを浮かべた。

「ちょっと有名なのよ、あなた。

改めて――弥生(やよい)(つむぎ)。よろしくね」


そう言って、彼女は一歩近づいた。

その口調は穏やかなままだったが、どこか挑発的な気配が漂っていた。


(つむぎ)は人差し指を伸ばし、(りゅう)の胸にそっと触れた。


「ひとつだけ覚えておいてね、(りゅう)さん――わたし、あなたの近くにいるから」


その瞬間、(りゅう)は時間が止まったように感じた。

頭の中が真っ白になる。(この子……何なんだ? 落ち着くのに、同時に妙な不安を感じる……)


(つむぎ)は指を離し、優雅に一歩後ろへ下がった。

「じゃあ、またね」


軽く微笑むと、彼女は廊下を歩き出し、やがて人の流れの中へと消えていった。


(りゅう)はしばらくその場に立ち尽くしていた。

(俺の近くに……?どういう意味だ?)


鞄の紐を握り直し、深く息を吐く。

(なんだか……今日という日が、急に面倒なことになってきた気がする)


休み時間の終わりを告げるチャイムが遠くで鳴り、(りゅう)は現実へと引き戻された。


教室へ戻る途中も、頭の中にはあの光景が焼きついたままだった。

淡い桃色の髪、神秘的な微笑み、そして――忘れられない瞳。

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