29. 桃色の髪の少女
火曜日の午後。
太陽の光がわずかに部屋を照らしていた。広くて現代的な寝室には、カーテンの隙間から差し込む一筋の光が、乱れたベッドの上を横切っていた。睦月暁と秘書の璃彩は、先ほどの熱い瞬間の余韻に包まれたまま、まだ体を休めていた。皺だらけのシーツとナイトテーブルの上に置かれたグラスが、社長とその秘書が隠れてしていた行為の証のように残っている。
テーブルの上の電話が鳴り、静寂を破った。璃彩が身じろぎし、眠たげな声でつぶやいた。
「もう起きるの? まだ早いのに…」
暁は眠そうに眉をひそめ、受話器を取った。電話の向こうからは、マフィアのボス、張文龍の護衛、李晨の声が聞こえた。
「何の用だ、李」と暁は眠気を振り払うように言った。
会議が急きょ前倒しになったこと、そしてその緊急招集の理由が、以前話していたあの少年――如月龍――に関するものだと伝えられた。
「会議を早めた? それは妙だな……」
「その少年のことを話していたのか?」暁はベッドの上で上体を起こしながら答えた。
李晨は、議題の内容、調査結果、そして得られた情報を淡々と説明した。暁は眉をわずかに寄せながら、一言一句を逃さぬように耳を傾けた。
「もう彼女がいるとはな。あの子、なかなかやるじゃないか」暁は皮肉めいた笑みを浮かべて言った。
「そうか……それは少し厄介かもしれんな」会話は続いた。
「助かったよ、李。いい情報だった」
通話を切ったあと、暁はしばらく天井を見つめたまま沈黙した。璃彩はまだベッドに横たわりながら、興味と挑発が混ざった声で尋ねた。
「また仕事の話? それとも、個人的なこと?」
暁は答えず、携帯を取り出して別の番号を押した。
その声には、さっきまでの怠さとは違う、はっきりとした決意がこもっていた。
「紬」
『え……暁? こんな時間に電話って何なのよ』
「ひと月前に話した件、覚えてるか?」
『ほんと、いつも突然なんだから』
「明日に備えろ。新幹線に乗るぞ」
『めんどくさ……』
暁は通話を切った。
部屋には再び静けさが戻り、昨夜の熱とともに、彼の周囲には目に見えない緊張感が満ちていった。何か大きな動きが始まろうとしていた。
一方その頃、街の反対側。陽葵と母の夏美が暮らすマンションの前で、龍はどう反応すべきか分からずに立ち尽くしていた。
ついさっき感じた陽葵の抱擁の温もりがまだ腕に残っている。落ち着こうとしても、胸の奥から湧き上がる喜びが抑えきれなかった。
彼女の顔を見つめると、顔色も良く、瞳には光が戻り、微笑みはあの病院の日々を一瞬で吹き飛ばすほど明るかった。
「本当に大丈夫なのか?」龍は慌てて尋ねた。
「息苦しくない? 医者に何か注意されたりは?」
言葉が止まらなかった。
(喋りすぎだ…でも、確かめたい。ちゃんと元気なんだって…)
陽葵は小さく笑い、首を傾げながら彼を見つめた。
「龍…私は本当に平気。もうそんなに心配しなくていいの」
穏やかで、どこか茶目っ気のある声だった。
龍はしばらく黙って彼女を見つめた。
信じられない気持ちもあったが、その姿を見るだけで胸の重さが少し軽くなるのを感じた。
「それにね」陽葵はいたずらっぽく笑って言った。
「今までよりずっと元気なの。試してみる?」
腕を上げ、まるで軽くパンチをしようとするような仕草を見せた。
「おい、待て!」龍は慌ててその手首をそっと掴んだ。
「わかった! 元気なのは十分伝わったから! 証明しなくていい!」
陽葵は声を上げて笑い、腕を下ろして得意げに胸を張った。
龍も笑みを浮かべたが、胸の奥にはまだ小さな不安の塊が残っていた。
(やっぱり、いつもの陽葵だ……あのままの彼女だ。失わずに済んだんだ。…よかった)
二人の間に流れる空気が柔らかくなる。
建物の前で立ち尽くしながら、まるで世界が止まったかのような静けさが訪れた。
龍は久しぶりに深く息を吸い込み、心から安堵した。
その様子を、建物の入り口から夏美が見つめていた。
病院での苦しい日々を思い出しながらも、娘が笑っている姿に胸が温かくなる。
何も言わず、二人に静かに時間を与えるように、彼女は先に家の中へと入っていった。
廊下を歩きながら、夏美は壁に掛かった写真立ての前で立ち止まった。
そこには、公園で撮った一枚――陽葵、龍、イリーナ、そして自分――全員が笑顔で写っていた。
指先でそっとフレームを撫でると、胸の奥の重さが少しだけ消えていくのを感じた。
やっと安心できる。娘にまた穏やかな日常が戻ってきたのだ。
外では、陽葵が龍の手を離し、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「さ、入って」
龍は家の中へ入った。温かくて穏やかな空気が、心を包み込む。
ここ数日の不安がまるで遠い出来事のように感じられた。
リビングのソファに座った陽葵は、膝に軽いブランケットをかけ、足を組みながら微笑んでいた。
その顔には以前よりも確かな生命力が宿っている。龍は思わず見とれてしまった。
「ねぇ、思ったよりずっと調子いいの」陽葵は目を輝かせながら言った。
「入院してた最初のころは本当に疲れてて、いつもの私だったけど……
でもね、ある日突然、体の奥から力が湧いてくる感じがしたの」
(確かに……声に張りがある。肌にも血の気が戻ってる。前とは全然違う……まるで生まれ変わったみたいだ)
「お医者さん、どうしてそんなことが起きたか説明してた?」龍は少し身を乗り出して尋ねた。
陽葵は小さく胸を張り、子どもっぽい誇らしさを滲ませながらうなずいた。
「うん、高杉先生が言ってたの。私の体が特別な血、S-type3を受け入れたって。今はね、前とは違うエネルギーを作り出せるようになったんだって」
そう言って、陽葵はいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「つまり簡単に言うと……もう昔みたいな弱い私じゃないってこと。今の私は、ずっと強いんだから」
龍は黙って彼女の話を聞いていた。その言葉の意味を、医学的なことだけでなく、陽葵自身にとってどういうことなのか考えながら。彼はわかっていた。これから陽葵の人生は、きっと大きく変わっていくと。
けれど今はそんな話をする時じゃない。今大事なのは、彼女が元気でいることだ。保有者になったことについては、また後でゆっくり話せばいい。
「それで……どんな変化があったんだ?」龍は興味深そうに尋ねた。
「えっとね……」陽葵は指を一本立て、秘密のリストでも数えるように言った。
「もう歩いても疲れないの。病院の階段を登っても息切れしなかったんだよ。信じられる? 前は少し歩くだけでめまいしてたのに。あとね、お母さんが言うには、肌のツヤまで変わったって」
(確かに……目の輝きが違う。こんな陽葵、見たことない。普通に見える。幸せそうだ……)
「それで先生は、他に何か言ってた?」龍がさらに尋ねた。
「あ、そうそう。無理はまだしちゃダメだって言われた。体が新しい状態に慣れるまで、ちゃんと休まなきゃって」
陽葵は少し不満そうに唇を尖らせた。
「それにね、少なくとも一か月は毎週検査に行かなきゃいけないの。それと、ストレスとか強い感情も避けなきゃって」
その時、食堂の扉が静かに開いた。奥村夏美がトレーを手に入ってきた。湯気の立つコーヒー、もう一つの紅茶、そしてどら焼きと煎餅が並んだ木の皿。
「お医者さん、もう一つ言い忘れてたんじゃない? 笑いすぎも体力使うから気をつけなさいって」
夏美はおどけた口調で言いながら、トレーをテーブルに置いた。
「もう、お母さん!」陽葵が頬を赤らめて抗議する。
龍は思わず笑みをこぼした。その温かな空気に包まれながら、奥村親子を見つめた。
落ち着いた母親、輝くような娘――その光景を見ているだけで、胸の奥に静かな喜びが広がる。
「生まれて初めてなの」陽葵が窓の方を見ながら言った。
「いつ倒れるかもって不安がないの」
少し間を置き、彼女は龍の方に振り返った。目の奥に、いたずらっぽい光が宿る。
「ねえ、もしかして今なら……あなたに競争で勝てるかも?」
龍は短く笑った。けれどその胸の奥では、抑えきれないほどの感情が溢れていた。
(これが……俺の見たかった陽葵だ。強くて、普通の夢を見られる陽葵。)
龍は改めて陽葵を見つめた。その中に宿る活気が信じられないほどまぶしく感じた。
(陽葵がS-type3の保有者になった今……きっと気をつけるべきことも増える。もしかしたら高杉先生は、彼女に学院で特別な教育を受けさせるかもしれない。でも、今はそんなことを考える時じゃない。今日だけは、この笑顔を見ていたい……)
小さく息を吐き、龍は彼女に少し身を寄せた。
「陽葵、一つだけ約束してくれ。何か少しでも変だと思ったら……どんな小さなことでもいい。すぐに俺に言ってくれ。絶対に一人で抱え込むな」
陽葵は驚いたように瞬きをしたが、すぐにやわらかく笑った。
「うん、約束する。何かあったら、全部龍に言うね」
沈黙が一瞬、ふたりの間に流れた。陽葵の視線が龍に向かい、その温もりに龍の胸が締めつけられた。
「それと……もう一度ありがとう、龍。私が今ここにいられるのは、あなたのおかげだよ」
陽葵の口からこぼれた小さな笑い声が、部屋いっぱいに広がった。
その音は、これまでの不安や苦しみを少しずつ溶かしていくようだった。龍は気づいた――少なくとも今だけは、病の影を置き去りにできると。
* * *
翌朝――水曜日。
電車が駅を離れていく音が、雑踏の中に消えていった。
龍はゆっくりと車両を降り、肩のリュックのベルトを直しながら大きくあくびをした。
朝の冷たい空気が頬を撫で、彼は何度か瞬きをして意識を戻す。
辺りを見回すが、いつもホームで待っているはずの 愛梨の姿はなかった。
(おかしいな……また家の車で行ったのか?)
ため息をつき、肩をすくめながら改札を出る。
(今日の数学の授業、絶対きついな……試験も近いし。愛梨に教えてもらわないと。二次方程式、マジでやばい……)
龍は駅のホログラムスクリーンを何気なく見上げながら歩いていた。
その先に、誰かが立ち止まっていることに気づかないまま。
衝突は、避けられなかった。
「わっ、ごめん!」龍は慌てて一歩下がった。
本とタブレットが二冊、床に滑り落ちる。少女はすぐにかがみ込んだが、龍の方が先に手を伸ばした。
「手伝うよ」彼は慌てて本と端末を拾い上げた。
タブレットを持ち上げた瞬間、龍は目を見開いた。
薄型で光沢のある機体。フレームには淡く光るホログラムインターフェースが投影されている。
(これ……タブレット? こんな大きいの、見たことない……)
顔を上げた瞬間、時間が止まった。
目の前にいたのは、淡いピンク色のショートヘアをした少女だった。
光に透ける髪が柔らかく揺れ、彼女は青山学院の制服を着て、片手に棒付きキャンディーを持っていた。
微笑みはわずかだったが、その瞳――穏やかでありながらどこか挑むような光――が龍の心を一瞬で奪った。
動けない。
龍の視線は、彼女の瞳に吸い込まれたように固定された。
頭の奥で、かすかな囁きが響く。
駅のざわめきが遠のいていく。
そこにあるのは、ただ彼女の姿だけ。
「私のもの、返してもらえる?」
少女がそう言った。視線を逸らすことなく。
その声で、龍は我に返った。
「あ、あぁ……ごめん、ぼんやりしてた」
慌てて本とタブレットを差し出す。
「大丈夫よ」彼女は小さく笑った。
その隣には、黒いスーツを着た背の高い男が立っていた。無表情のまま、二人のやり取りを見守っている。
龍は男の存在に気づき、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
黒い車が彼らの前に止まった。男が後部ドアを開けると、少女は落ち着いた様子で荷物を中に入れた。
乗り込む前に、彼女はふと龍の方を振り返り、その顔をもう一度見つめた。まるで、その姿を心に刻みつけようとするかのように。
「じゃあね」
軽く手を振りながら言い、どこか意味深な笑みを浮かべた。
車は静かに走り出し、やがて交通の流れに紛れて消えていった。
龍はしばらくその場に立ち尽くし、消えゆく車の反射をじっと見つめていた。
(あの子……いったい誰なんだ?)
彼はため息をつき、首の後ろをかきながら考え込む。
(間違いない……あんな子、学院で見たことない)
頭の中は疑問でいっぱいになり、鼓動はいつもより少し速くなっていた。
龍は気を取り直して青山学院へと歩き出す。
その出会いが、彼の運命を大きく動かす始まりになるとは、まだ知る由もなかった。
――その頃、少女を乗せた車の中は、青白いメーターの光だけが空間を照らしていた。
少女は本を鞄にしまい、シートに体を預けながら、唇の間でゆっくりと棒付きキャンディーを転がす。
窓の外では、街区のビルが次々と流れ、スモークガラスにその影を映していく。
隣に座る男――黒いスーツに鋭い目つき――が、低い声で沈黙を破った。
「今の少年は……」
少女はわずかに笑みを浮かべ、窓の外から視線を外さずに言った。
「ええ……そうよ。彼だったわ。駅に寄っておいて正解だったわね」
男はゆっくりとうなずき、彼女を横目で見た。
「さすがでございます、お嬢様」
少女は小さく笑い、ガラスに映る自分の顔に視線を落とした。
「見分けるのは簡単だったわ。彼の“気”……普通じゃなかったもの」
男は答えず、ただ手袋を整え、再び前方を見据えた。
しばしの沈黙。
車は音もなく街を抜け、薄曇りの空の下を進んでいく。
少女は頬杖をつき、小さく呟いた。
「やっと……見つけた」
運転手がゆるやかにハンドルを切る。
駅から離れていくその瞬間、少女の微笑みが窓の反射に溶けて消えた。
――数分後。
龍はゆっくりと教室に入り、抑えきれないあくびを漏らした。
窓から差し込む朝日が机の上を照らし、空気中の埃が金色に光っている。
教室にはすでに生徒たちのざわめきが満ちており、その中には聞き慣れた笑い声もあった。
「おーい、龍!」
最後列から英夫が元気よく手を振った。
「また寝坊したのかと思ったぞ!」
「危なかった」
龍は机に鞄を置きながらため息をついた。
「今日はマジで体が動かない……」
「まあまあ、チャンピオン」
スマートホロ端末をいじりながら、蓮が言った。
空中にはホログラムのシューティングゲームが浮かび、光の弾がはじけている。
「水原先生の訓練に比べたら、こんなの楽勝だろ」
「その名前を出すな……」
龍は腕を枕にして頭を預けた。
「今日もまた地獄が待ってるんだ」
「今日も訓練か?」
英夫が目を丸くした。
「お前、ほんとに天国行き確定だな」
「どっちかっていうと、地獄行きだな」
龍は苦笑いしながら答えた。
脳裏に浮かんだのは、時々水原先生が見せるあの悪魔のような笑みだった。
そのとき、ノートに数式を書き込んでいた隼翔が顔を上げた。
彼は信じられない速さで問題を解いていた。
「文句ばっか言ってないで、少しは勉強したらどうだ」
静かな声でそう言う。
「試験、もうすぐだぞ」
蓮は不満そうにスマートホロを机に置いた。
「さすが天才くん。量子コンピュータみたいな脳してるもんな」
「そうだ、“サイバーブレイン博士”だ」
英夫が笑いながら茶々を入れた。
龍は片眉を上げ、口元を緩める。
「“サイバーブレイン”?それって“レッドホーク”の悪役だろ?」
蓮が嬉しそうに龍の肩を叩いた。
「正解。あのキャラから取ったんだ。だってコイツ、あの冷たい目つきがそっくりなんだよ。まるで“お前が何を言うか、もう全部分かってる”って顔でな」
英夫が吹き出した。
「たしかにな!あとは杖を持てば完璧だな!」
隼翔はため息をつき、ノートをパタンと閉じた。
「まったく、お前らは本当にバカだな」
「それも“サイバーブレイン”っぽい発言だな」龍がいたずらっぽく笑って言った。
三人は笑い出し、隼翔は半ば呆れたような顔で彼らを見ていたが、結局小さく口元を緩めた。
まだ授業は始まっていなかった。そのひとときだけ、龍は疲れや訓練のことなどすべて忘れていた。
黒板にチョークの音が響き、教師が今日のテーマを書き始める。
「さて、今日は近代史を少し復習しよう」
教師は単調な声で言いながら眼鏡を押し上げた。
「明治時代、日本は文化的・技術的に大きな変革を迎えた時期だ。世界へと門戸を開いた始まりでもある…」
龍は何とか授業の内容を追おうとしていたが、頭の中ではまだ駅での出来事がよぎっていた。
(先生の声が遠い…)
視界の端では、蓮が退屈そうに机を指でトントンと叩いているのが見えた。
突然、授業開始から十五分も経たないうちに教室の扉が開いた。
校長の秘書が顔をのぞかせる。
「先生、少しお時間よろしいでしょうか?」
教師はうなずき、チョークを置いて外へ出ていった。
扉が閉まると同時に、教室内はざわめきに包まれた。
「なんだろうな?」と英夫。
「どうせまた長い会議だろう」と西村隼翔が頬杖をつきながら答えた。
蓮はその隙にホロスマートフォンを取り出し、再びゲームを起動する。
「やっと退屈しのぎができる」
彼は画面から目を離さずにつぶやいた。
数分後、教師が戻ってきた。表情は穏やかだったが、声色にわずかな変化があった。
「すまないね、少し遅くなった。さて、その前にお知らせがある」
全員が姿勢を正した。
「今日から新しい生徒がこのクラスに加わる。みんな、温かく迎えてあげてほしい。どうぞ、入って」
再び扉が開き、一人の少女が静かに入ってきた。
短く整えられた淡い桜色の髪が、教室の光を受けてやわらかく輝く。制服はきちんと着こなされ、唇には穏やかで落ち着いた笑みが浮かんでいた。
ざわめきが一瞬で止まった。
龍はすぐにその顔を思い出した。
(あの子…?)
心臓が小さく跳ねる。朝、駅でぶつかったあの少女だった。
教師が静かに手を上げ、クラスに促した。
「それでは自己紹介を」
少女は軽く会釈し、澄んだ声で言った。
「弥生紬です。仙台から来ました。これからよろしくお願いします」
すぐに拍手が起こった。
「かわいい!」と誰かが後ろの席でつぶやき、
「別の学校みたいだな…」ともう一人が囁いた。
英夫でさえ、目をまん丸にして呟いた。
「…うわぁ」
紬は静かに通路を歩き、教師が中ほどの空いた席を指さした。
「弥生さん、そこに座っていいですよ」
「はい、先生。ありがとうございます」
彼女が席に荷物を置き始めたとき、龍は目を離せなかった。
彼女はそれに気づいたように、ゆっくりと顔を左に向け、頬杖をつきながらいたずらっぽく微笑んだ。
龍の身体が一瞬固まる。
(な、なんで俺を見てるんだ…?)
その様子に気づいた友人たちがすぐにひそひそ話を始めた。
「おい、龍、知り合いか?」と蓮。
「笑ったぞ! 今お前に笑ったぞ!」英夫が興奮気味に言った。
龍は首の後ろをかきながら、気まずそうに答えた。
「いや…朝、駅で見かけただけだよ」
隼翔がノートから目を離さずにため息をついた。
「都合いいな、それ」
蓮がくすりと笑い、英夫はまだ紬を見つめたままだった。
授業は再開したが、龍には教師の声が遠く感じられた。
(彼女はいったい何者なんだ…?)
──そして、歴史の授業が終わりを告げるチャイムが鳴った。
教師が資料をまとめる間に、教室は再びざわめきで満たされた。
自販機へ向かう者、スマホを取り出す者、そして中心には当然弥生紬の姿があった。
「本当に仙台から来たの?」と一人の女子生徒が尋ねる。
「ええ、少し前に引っ越してきました。向こうとは気候が全然違うけど、ここも気に入ってます」
彼女の穏やかな口調と微笑みは、自然と周囲の関心を集めた。
まるで意図せずとも、空気を支配してしまうようだった。
龍は机にノートをしまいながら、その様子を見つめていた。
(上品で…どこか違う。けど、何か引っかかる)
深く息を吐き、考えても仕方がないと自分に言い聞かせながら、龍は教室の出口へ向かった。
立ち上がった龍は、ため息をつきながら、空っぽの廊下を見つめた。背後では、他の生徒たちの賑やかな声が遠くに響いている。
ちょうど教室を出ようとしたそのとき、背後から女性の声が静寂を破った。
「また会ったね」
その声は柔らかく、どこか楽しげだった。
龍が振り向くと、そこには紬が立っていた。
彼女は片手に鞄を持ち、もう一方の手で淡い桃色の髪を指先で弄んでいる。
表情は穏やかだったが、その瞳には小さな悪戯のような光が宿っていて、龍は思わずその場で動けなくなった。
「……ああ、うん。駅でのことだよな。あれはあんまりいい自己紹介じゃなかったけど」
龍が照れくさそうに言うと、紬は小さく笑った。
「気にしないで。時には、偶然の出会いこそ一番印象に残るものよ」
その微笑みはあまりに穏やかで、龍は何も言えなかった。
(とりあえず、ちゃんと自己紹介しないとな)
「そうだ、俺は――」
「如月龍くんでしょ」
紬はためらいもなく言った。その声は自然で、まるでずっと前から知っていたかのようだった。
龍は驚いて瞬きをした。
(なっ……どうして俺の名前を?)
口を開いたが、言葉が出てこない。
「そんなに気にしないで」紬は小首をかしげながら、無邪気な笑みを浮かべた。
「ちょっと有名なのよ、あなた。
改めて――弥生紬。よろしくね」
そう言って、彼女は一歩近づいた。
その口調は穏やかなままだったが、どこか挑発的な気配が漂っていた。
紬は人差し指を伸ばし、龍の胸にそっと触れた。
「ひとつだけ覚えておいてね、龍さん――わたし、あなたの近くにいるから」
その瞬間、龍は時間が止まったように感じた。
頭の中が真っ白になる。(この子……何なんだ? 落ち着くのに、同時に妙な不安を感じる……)
紬は指を離し、優雅に一歩後ろへ下がった。
「じゃあ、またね」
軽く微笑むと、彼女は廊下を歩き出し、やがて人の流れの中へと消えていった。
龍はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(俺の近くに……?どういう意味だ?)
鞄の紐を握り直し、深く息を吐く。
(なんだか……今日という日が、急に面倒なことになってきた気がする)
休み時間の終わりを告げるチャイムが遠くで鳴り、龍は現実へと引き戻された。
教室へ戻る途中も、頭の中にはあの光景が焼きついたままだった。
淡い桃色の髪、神秘的な微笑み、そして――忘れられない瞳。




