28. 円卓
月曜日の夜だった。住宅街では街が静かに眠っていたが、首都の周縁ではその静けさもただの仮面に過ぎなかった。限られた者だけに許された宴が、そこでは開かれていた──影の饗宴。
一見すれば上品な晩餐会である。白い手袋をはめた給仕たちが、クリスタルのグラスや銀のトレイの間を正確に動き回り、ほとんど聞こえないほどの柔らかな音楽が空気を満たしていた。招かれた客たちは礼儀正しい笑みを浮かべ、偽りの謙遜の裏に互いへの警戒心という刃を隠して談笑している。
だが、本当に重要なのは大広間ではなく、ひとつ離れた、広く冷たい控え室だった。白い光が暗い木の円卓を照らすその部屋には、国の最も重要な歯車を握る六つの家の長たちが席を埋めていた。彼らの存在だけで場に重みが生まれる。
護衛たちは背後に立ち、監視するように沈黙を保っていた。中には互いに含み笑いを交わす者もいて、会議が始まるとすぐに真面目な表情に切り替えた。
李晨──張文龍の護衛が体を伸ばし、大げさな声で呟いた。
「――ああ…退屈なパートだな。メインのホールにいてもいいか?」
前田健臣の後ろにいる原和男が笑いを漏らして答えた。
「少なくとも向こうにはいい酒がある……椅子がもっと楽なら、五分以上は眠らずに済むかもな」
二人はくすりと笑った。ほかの護衛たちはしかめ面になり、長たちは無関心にそれを眺めていた。
部屋の中心に座る遠藤光侍郎は、姿勢を正して冷たい視線を落とし、指先で机を軽く叩いた。
「静粛に。緊急のためにこの会合を前倒しした。無駄話に時間を割くつもりはない。」
ざわめきは瞬時に消えた。遠藤は冷徹な声で続けた。
「国政選挙が近い。我々の一族が適切な党に代表を据えることを確実にしなければならない。政治的影響力は国家支配に直結する。失敗は許されない。」
伊藤健慈はわざとらしい謙遜を装って頷き、顎鬚を撫でた。
「まあ…そうだ、放っておけば他所の連中が入れてくる。だが、賢明だ。」
赤松権造は皮肉めいた笑みを浮かべて言った。
「政治を侮るな。目立たぬ者ほど糸を巧く操ることがある。」
宗野剛美は腕を組み、しかめ面を作った。
「議会は能無しばかりだ。しかし味方を作れれば我々は自在に動ける。」
張文龍 はわずかに身を乗り出し、皆を見回した。
「資源は重要だが、戦略的なコネクションはそれ以上だ。目立たないようにポジショニングしなければ。中国側で手を回す。」
前田は慎重に言葉を重ねた。
「それと、我々の作戦がこれで邪魔されないようにしなければならない。政治は都合良く動かすものだ、逆に動かされてはならない。」
短い沈黙のあと、遠藤は話題を核心へと引き寄せ、声を少し落としたが、十分に全員に聞こえるように続けた。
「この会合を前倒しした真の理由は──如月龍だ。藤名村の再興の可能性は我々にとって評価すべきリスクだ。無視はできない。」
遠藤は言い捨てるように続けた。
「提示するのは異能対策局の極秘ファイルだ。信頼できる筋から入手した。ここから出てはならない情報が記されている。」
男たちはほとんど同時にファイルを開いた。最初の頁にはまだ十代の如月龍が写る写真が貼られていた。表情は真剣で、カメラに視線を固定している。脚注には赤い文字で数字が示されていた。
MSI:853.7 mg/L
分類:高度に揮発性 ― 潜在的な不安定因子
卓を走るざわめき。伊藤が片眉を上げ、短く笑った。
「子供でそんな数値だと?冗談だろ…報告書というより作り話のようだ。」
赤松はページをゆっくりめくり、表情を崩さなかった。
「異能対策局の報告が大げさなことはよくある。初めてではない。」
宗野はファイルを机に軽く打ちつけ、懐疑の声をあげた。
「お前ら本気でこの若造が藤名村を再建するって思ってるのか?あの一族は何十年も前に終わった。」
だが張 文龍は前のめりになり、暗い瞳を写真に据え、含み笑いを浮かべた。低い声で、まるで唸るように言った。
「血はそう簡単には消えない。本当に子孫なら、軽く見てはいけない。」
遠藤は数秒、他の反応を許してから割って入った。彼の声は刃のように鋭かった。
「懐疑は理解する。しかし噂話ではない。少年は最近、首都の西にある古い天照の寺で起きた事件に関与している。黒炎の教団の活動記録が出ており、負傷者が複数、目撃者が少なくとも二名行方不明になっている。」
「で、どうやって知った?」と前田がより荒い口調で問い詰めた。
「異能対策局に内通者がいる。借りがあってな。」遠藤は笑わなかったが、目に満足げな光を浮かべた。「如月の存在と、事件中に彼のミアズマ制御が跳ね上がったことを確認した。おそらくそのときにMSIが急上昇し、特別監視プロトコルが発動したのだろう。」
部屋は数秒の沈黙に包まれた。護衛たちでさえ緊張を強めているようだった。
伊藤はファイルを乱暴に閉じ、苛立ちを含んだ溜息をついた。
「いいだろう。仮に本当だとして、方針は?狩るのか、利用するのか?」
張文龍 は肘を卓に置き、落ち着いて答えた。
「まずは観察だ。もし本当に言われている通りの存在なら、生け捕りにした方が価値がある。」
赤松がゆっくり頷いた。
「不安定な兵器は破壊するものではない…制御するものだ。」
宗野は渋い顔で舌打ちしたが、言葉は発さなかった。
遠藤は両手を卓の上で組み、冷ややかに続けた。
「その通りだ。今は排除の段階ではない。我々が必要なのは、彼の一挙手一投足を監視することだ。もし如月が藤名村を再起させる火種なら、我々が真っ先に察知し、先手を打たねばならない。」
部屋の空気は重苦しかった。机の上には龍の写真が貼られたファイルが広げられ、まるで少年の視線が紙の中から彼らを挑発しているかのようだった。
張の背後に立つ中国人の李晨は、その写真を見つめながら、ほとんど聞こえないほどの声でつぶやいた。
「へえ……このガキ、本当に厄介なものを背負ってるみたいだな」
原和男は乾いた笑いを漏らし、上着を直しながら言った。
「今日は退屈な会議になると思ってたのにな」
だが、当の首領たちはもう笑っていなかった。これから如月龍という名が、彼らの議題の中心に刻まれることを理解していたのだ。
その同じ夜、龍の夢がまた現実味を帯びて形を成していた。
* * *
翻訳
翌日――。
火曜日の朝の光がカーテンの隙間からわずかに差し込み、部屋を淡く照らしていた。机の上には印刷された資料、手書きのメモ、そして複数の医療記事を開いたままのノートパソコンが散乱している。横にはすでに冷めかけたコーヒーのカップ。イリーナはほとんど眠らず、一時間ほど仮眠を取っただけで、残りの時間を結果の確認に費やしていた。
眉をひそめながら、イリーナは表を見比べる。
「血漿粘度――人間の正常値は1.0倍。陽葵は……1.9倍……」
「ミアズマ細胞の割合――普通の人間は0%。陽葵は……79.4%……」
どの数値も同じ答えを突きつけてくる。
――それは人間のデータではなく、まぎれもなく保有者のものだった。
イリーナは椅子に背を預け、こめかみを両手で押さえた。
(ありえない……陽葵は保有者として生まれたわけじゃない。じゃあ……原因は……龍の輸血?)
苛立ち混じりの息を吐き出し、電話を取る。もう疑問を胸に抱えたままではいられなかった。彼女は国際生研の公式番号を押す。
数回の呼び出し音の後、落ち着いた男性の声が応答した。
「おはようございます。東京国立大学バイオテクノロジー学科の学生、イリーナ・如月です」
彼女はできる限り冷静な声色で告げる。「患者、奥村陽葵の検査報告についてご連絡しました」
相手は一瞬間を置き、それから答えた。
「いくつか技術的な点を確認したいのです。どのような検査手法を用いたのでしょうか」
医師は詳細を並べていく。ミアズマ飽和度を測る共鳴分光法、細胞分離、そしてS-type3血液データベースとの比較。
「なるほど……」イリーナは唾をのみ込む。「つまり、誤差の余地はなかった、ということですね?」
返答は即答だった。
「……そうですか。分かりました。つまり結論は――S-type3保有者、確定……」
彼女は小さく繰り返し、あたかも自分の耳で再確認しなければ信じられないかのようだった。
医師はさらに補足する。患者は年齢にしてはMSIが低いが、健康状態に問題はない。今後は経過観察と標準的な管理を推奨する、と。
「丁寧にご説明いただき、ありがとうございます」イリーナはぎこちない礼を述べ、通話を切った。
静寂が部屋を支配する。彼女は受話器を置き、視線を資料に落としたまま動けなくなる。
「(MSIが低い……きっとそれは、彼女の血に流れるミアズマが、自分のものじゃなく輸血由来だから……)」小声でつぶやく。
――そのとき。
「それは……本当なのか?」
低い声が響き、イリーナはびくりと肩を震わせた。慌てて振り向くと、そこには龍が立っていた。扉の枠に体を預け、真剣な瞳に困惑と恐怖を浮かべながら。
「今の話……本当か? 陽葵が……保有者だっていうのは……」
イリーナは一瞬言葉を失った。だが、彼の目を見た瞬間、逃げることはできないと悟る。視線を落とし、深呼吸してから、静かにうなずいた。
彼女の沈黙を受けて、龍は再び問いかける。声は震えていた。
「本当に……? 本当に陽葵はもう保有者なのか?」
イリーナはつばを飲み込む。簡単に言えることではない。だが、彼にだけは伝えなければならなかった。
「聞いて、龍」彼女は一語一語を選びながら告げる。「陽葵は……もう保有者の血を持っている。検査の結果、彼女の細胞は普通の人間とは違う。原因は……輸血よ。あなたの血が陽葵に新しい特性を与えたの。保有者としての特性を」
「――っ」
龍の目が大きく見開かれる。現実が真正面から彼を打ちのめすように。彼は視線を落とし、震える手を握りしめた。
「じゃあ……」彼はかすれた声で続ける。「俺のせいで……陽葵はもっと悪くなるかもしれないのか? もし……もしあの血が彼女を病気にしていたら……どうするんだよ……」
イリーナの胸に鋭い痛みが走る。だが、それは予想していた反応だった。彼女は一歩踏み出し、首を振った。
「違うわ、龍。そんなふうに考えないで」
彼女は力強く言葉を紡ぐ。「国際生研の医師に確認したわ。陽葵は安定している。確かに今は保有者だけど、健康な保有者よ。MSIは低い。それは彼女の体が順応している証拠」
「……でも、本当に大丈夫なのか?」
その表情を見た瞬間、イリーナの胸が締め付けられた。彼女はさらに近づき、両手で弟の顔をしっかりと包み込む。
「よく聞いて、龍」
彼女の声は揺るぎないが、どこか優しい響きを帯びていた。
「あなたのおかげで陽葵は生きている。あなたのおかげで、彼女には未来がある。あなたの血は彼女を傷つけていない。救ったのよ。わかる? あなたが……彼女を救ったの」
沈黙。
龍は深く息を吸い、姉の両手から伝わる温もりにわずかに安堵を覚えた。恐怖は消えない。だが、その言葉は確かに彼の心を包み込み、静かな力を与えていた。
やがて、彼は小さくうなずき、掠れる声で答えた。
「……ああ」
部屋には沈黙が落ちていた。緊張と、ほんのわずかな安堵が混じり合う空気。その中で、ひとつの疑問がまだ胸に残っていた。――陽葵が保有者になったという事実は、本当は何を意味するのか。
「聞いて。私はシャワーを浴びてから病院に行くわ。陽葵と高杉先生に会わなきゃ」
イリーナは落ち着いた声で言った。「あなたは午後に行けばいい。今は頭を悩ませないこと。学校に集中して。陽葵の回復は、私が必ず確認するから」
龍は黙ってうなずいた。朝食の前に座り、箸を指先で弄びながらしばらく動かさずにいた。やがてゆっくりと食べ始める。その表情は、不安と抑え込んだ落ち着きが入り混じり、姉の言葉にしがみつこうとしているようだった。
咀嚼しながら、心は問いに捕らわれていた。
(陽葵……保有者になった。じゃあ、それは彼女にとって何を意味するんだ? 望まなかった力を背負うことになるのか? 病気になるのか? 身体が変わるのか? 人に拒まれるのか?)
机の下で拳を握りしめる。
(俺は……誰かの重荷になりたくなかったのに。もし俺が……彼女にもっとひどい運命を背負わせたんだとしたら……)
イリーナの言葉が脳裏に響く。――「あなたのおかげで、彼女は生きている」。
龍は大きく息を吸った。その思いは脆いながらも、胸に渦巻く嵐をわずかに鎮めるには十分だった。
しばらくして、イリーナはすでに準備を整え、電話で話しながらジャケットを羽織って出てきた。
「ええ……おじいちゃんは元気よ……もう買ったから……祐介くんによろしくね……じゃあ、また」
(祐介……くん?)
龍は姉をちらりと見ながら、心の中でつぶやいた。
「ほら、学校に遅れるわよ」イリーナが彼の食べ残しを見て声をかける。「タクシーで一緒に行きましょ。学校は病院の近くだから、そのほうが早いわ」
「わかった」龍は立ち上がった。
二人は家を出てタクシーに乗り込む。イリーナは鞄からノートを取り出し、熱心に見直している。龍は座席に身を預け、窓の外をぼんやりと眺めた。流れる街の景色に、自分の影が重なり合う。頭から離れないのは陽葵の姿。そして、今朝知ってしまった事実の重み。
タクシーは進む。兄妹を、それぞれにとって決定的な一日へと運んでいた。
龍は額をガラスに押し当て、景色を見ているようで見ていなかった。表情は遠く、姉との会話にまだ囚われているようだった。
「おじいちゃんは、どこにいるんだ?」窓から視線を外さずに問う。「日曜から見てない」
イリーナは視線を横に流し、自然な口調で答えた。
「昨日は第五地区に知り合いを訪ねるって言ってたわ。数日泊まるかもしれない。そのあと祐介くんにも会いに行くって」
龍は淡々とうなずいた。答えにはあまり興味を示さず、心はやはり陽葵のことに縛られていた。
そんな弟を見て、イリーナは話題をそらすようににやりと笑う。
「ねえ、愛莉ちゃんには会ってるの?」
「学校で会うよ」彼はそっけなく答える。
「ちゃんと見張っておかないと……他の人に取られちゃうかもね」
からかうような口調。
龍は横目で睨み、ため息をついたが、仕返しを思いつき、同じ調子で返した。
「へえ……言うじゃないか。……祐介くぅーん」
イリーナの顔が一瞬で真っ赤に染まる。反射的に手を伸ばし、弟の頭を叩きつけ、ガラスに押し付けた。
「いってぇ! なにすんだよ!」龍は額を押さえて抗議する。
「タクシーの中で騒ぐな!」
運転手がバックミラー越しに睨みつけた。
「すみません!」
二人は同時に謝り、小さく体を縮める。子供のように叱られた気分で。
緊張していた空気が、少しコミカルに和らいだ。
数分後、タクシーは学校の前に停まる。龍は先に降り、リュックの肩紐を直した。イリーナは後部座席に残り、病院へと向かう準備を整えていた。
ゆっくりと校舎へ向かって歩く。足を進めるごとに、心はどうしても陽葵へ戻ってしまう。彼女にとって保有者であることは何を意味するのか。守れるのか。それとも……また自分は重荷になるだけなのか。
深呼吸。イリーナの言葉が胸に響く。――「陽葵は健康。陽葵は無事」。
今はそれを信じるしかなかった。
顔を上げる。校舎が目の前にそびえ立つ。日常へと引き戻すかのように。しかし、胸の奥にある不安は、まだ消えずに潜んでいた。
月曜日の朝は変わらず始まっているのに、週末の余韻は龍の中でまだ生きていた。下を向きながら歩いていると、不意に柔らかな声が届いた。
「おはよう」
顔を上げると、そこに立っていたのは水原乃愛だった。いつもの澄んだ声が、どこか少しだけ震えている。
龍は一瞬言葉を失い、乃愛の金髪が額にかかり、耳の後ろに流れる様子に見とれた。やっとのことで小さな声を返す。
「おはよう」
「……今日は、きれいだな」
思わず口から出た言葉。
乃愛は瞬時に真っ赤になり、小さく頭を下げて礼を言う。普段なら彼をからかい、挑発して笑わせる彼女の姿はそこになかった。告白をして以来、少しぎこちなく、どこか戸惑っている。
「……待ってたの。どうしても会いたくて」
小さな声で告げる。
龍は緊張を隠そうと笑いながら、校舎に入る前に裏手へ行こうと誘った。最初は遅刻を心配して渋ったが、最終的に頷いた。生徒たちはすでに教室に入っており、二人の姿を気にする者はいなかった。
短い沈黙の後。龍はそっと身を寄せ、彼女の唇に短く触れた。
乃愛の頬が一気に赤く染まり、言葉を失う。龍はわずかに笑みを浮かべ、緊張を誤魔化そうとしていた。
彼女は慌てて周りを見回し、誰にも見られていないことを確認する。
「学校だよ、龍!」
乃愛は顔を赤らめながらも、力を込めて囁いた。
「週末、出かけられるね」
龍は柔らかく答える。
彼女はまだ赤くなったまま、言葉が出せずにうなずく。二人は疑いを避けるために離れた。乃愛は数分前に先に去り、龍は人々の噂にならないよう少し待つことにした。
数分後、二人は校舎の入り口で再び顔を合わせた。
「今度はあなたが私を困らせるんだね」
乃愛は恥ずかしさといたずら心を混ぜて囁いた。
「明日は水原先生と学校でも家でも訓練する」
龍は平静を装って答えるが、心臓は激しく鼓動していた。
そのとき、龍は重大なことを思い出した。顔が固まる。
「待って……水原先生、俺たちが付き合ってるの知ってるのかな……?」
乃愛は首を振り、今は言わないと約束してくれた。問題を避けるためだ。龍は安心して微笑み、説明を受け入れた。
「放課後にまたね」
乃愛は小さな微笑みを浮かべ、キスで赤くなった頬を隠すように囁く。
「うん、またね」
龍も必死に落ち着いた声を出すが、心はまだ早く打っていた。
手を軽く振り合い、各自の教室へ。乃愛は二年生、龍は一年生。
教室に入り、龍は鞄を整え、座席につく。他の生徒たちはノートを出し始め、静かながらも朝一特有の緊張感が漂う。
数分後、数学の先生が現れ、厳しい声で挨拶した。
「皆さん、おはようございます。今日と木曜は二次方程式の復習を行います。これが来週の試験の最後の範囲です」
その言葉を聞いて、龍は背筋に寒気を感じた。二次方程式は理解できなければ地獄だ。試験も迫っており、学ぶことの重さが罰のように感じられた。初めの説明に集中しようとしたが、心はまだ乃愛との会話や陽葵への心配でいっぱいだった。
先生が最初の例題を書き始めると、龍は鉛筆を取り、ため息をつき、今日の課題に向かう覚悟をした。学問の圧力と個人的な感情が入り混じり、少し心が散っていた。
先生が黒板に最初の二次方程式を書いた。
「では、この例題を見てください。誰が解き方を教えてくれますか?」
龍はノートに書き写すが、数字や文字が意味を成さないように見えた。どのステップも混乱を増すばかりだった。
「もう迷ってるの?」
隣の席から英夫が茶化すように囁く。
「黙れ……」
龍は小声で返す。
「私です、先生」
女の子の声が聞こえる。愛莉だ。
(さすが、彼女らしい)
後ろから蓮が小さく声をかける。
「心配するな、龍。みんな迷ってるから」
「それじゃ意味ない」
龍は顔を上げず返す。
先生はチョークを手にしてクラスを見渡す。
「ここは……誰がこの解答を教えてくれますか? 愛莉以外で」
「私が」
山埼咲が手を挙げる。
(クラスで一番しっかりしてる子だ)
「まず因数分解を行いましょう。見て……したがって解は……」
龍には黒板の数字や文字が霞んでしか見えなかった。
龍はため息をつきながら解答を書き写す。始まったばかりなのに、すでに遅れを感じた。
チャイムが鳴り、廊下は生徒で動き出す。授業は終わり、グループが形成される。乃愛は恥ずかしそうに龍に微笑む。
「図書館に残るわ。先生たちと会議があって、ちょっと遅くなるかも」
「じゃあ、また明日」
龍はまだ心ここにあらずながらも微笑みを返す。
生徒の波が引くと、龍はリュックを背負い、決意をもって学校を出た。
通りに向かって歩く間、思考は希望と不安の間で揺れ動く。
(陽葵はどうしてる? 前みたいに迎えてくれるかな……)
(俺が知らずに人生を変えてしまった……怖がってないだろうか)
(まだ話してくれるだろうか? それとも俺を責めるのか……)
ポケットの中で手を握りしめる。
病院への道は短いが、信号や角を曲がるたびに重く感じられた。ロビーに着き、深呼吸して受付へ向かう。
「すみません、陽葵奥村に会いに来ました……」
声を切るように、見覚えのある声が響く。
「もうここにはいないわ、龍」
イリーナが背後から現れ、落ち着いた表情で彼を安心させる。
龍は驚き、立ち止まる。
「リナ姉……どういうこと?」
イリーナは穏やかに近づき、彼女らしい方法で話す。――厳しさと愛情を込めて。
「医療機関から退院したの。家にいるわ。私は高杉先生の手術が終わるのを待って、報告書をまとめるの。でも心配しなくていい。今は安心して」
龍はその知らせにほっとし、顔が明るくなる。体に張り詰めていた緊張も少し緩んだ。思わず、何も考えずにイリーナの手を強く握った。
「ありがとう、リナ姉!」
声が震え、感情があふれた。
イリーナは笑顔でそれに応えた。顔いっぱいに、純粋な喜びが浮かんでいる。
「彼女のために、陽葵が元気そうでよかった」
彼女の声に龍はうなずく。「会いに行け、もうすぐだ」
龍は迷わず走り出した。イリーナが教えてくれた方向へ──陽葵の家までは歩いて数分の距離だ。走るたびに、風が背中を押すように感じられた。頭の中ではまだ疑念が渦巻いていたが、今は新しい希望と混ざっていた──元気な姿を見られる可能性、話して誤解を解けるかもしれないという希望。
角を曲がると、彼女が見えた。陽葵は建物の入口に腰かけ、壁にもたれかかっていた。まるで待っていたかのように。落ち着いた表情と、疲れたような小さな笑み。龍に気づくと、彼女はぴょんと立ち上がった。
「龍!」
彼女は叫びながら駆け寄ってくる。
空気が軽くなるようだった。抑えようとしていた龍も、笑顔を隠せなかった。表情をあまり出さない彼だが、この喜びは隠しきれず、顔に自然に表れた。陽葵が彼のもとに駆け寄ると、力強く抱きついた。
「ありがとう……」
彼女の声は震えていた。
龍はすぐに返事をせず、ただ震える手を彼女の背中に置き、目を閉じた。一瞬だけその温もりを感じる──彼女が生きているという現実の重みと、全身に広がる深い安堵。
その抱擁の中で、龍の不安は徐々に消えていった。病院のこと、疑念、先の見えない不安……すべてが遠くに消え去る。陽葵は元気だった。そして夕暮れが街を包む中、龍は知った──これから困難なことが待っていても、今は二人で笑えるのだと。




