26. 夜に交わした約束
チャイムの音は、ドアを勢いよく閉めた後も龍の頭に響いていた。心臓が制御を失ったかのように早鐘を打つ。
「どうしてここにいるんだ、乃愛先輩?」龍は眉をひそめ、落ち着こうとしながら尋ねた。
乃愛は一瞬も迷わなかった。揺るがぬ瞳で龍を指さし、力強く言い返す。
「絶対に私を遠ざけさせたりしない!龍くんにそんな権利はない!」
彼女の声は静かな通りに反響した。龍は頬が熱くなるのを感じ、周囲を見回した。近所の人に聞かれたのでは、と焦る。
「声を落としてくれ……近所に全部知られたいのか?」と、居心地悪そうに小声で呟いた。
乃愛の唇はわずかに震えていたが、その視線は揺るがなかった。その強さに、龍は不意を突かれる。
龍はため息をつき、後ろ首に手を当てた。イリナが聞いていないことを確認してから、ようやく口を開く。
(よかった……リナ姉に聞かれてたら、絶対にからかわれてた)
「歩こう……ここじゃ話せない」
二人は一緒に外へ出た。夜は静かで、冷たい風が肌をかすめる。街灯が路面に長い影を描いていた。
龍は、自分の住む場所を一度も話したことがないのに、乃愛がこの近所に現れたことに驚いていた。その頑固さが胸を突き、彼に再び問いを突きつける。――本当に彼女を遠ざけるのは正しい決断だったのか、と。決して軽く決めたことではなかった。
龍は誰にも頼らないことを学んでいた。それは単なる誇りではない。いつか必ず、助けを求めれば借りを作るか、重荷となって見捨てられる。そんな苦い確信があったからだ。だからこそ、いつもすべてを一人で背負い込んできた。たとえ自分をすり減らすとしても。
だから乃愛の存在は、彼を混乱させる。彼女は距離を置くことを許さず、離れろと言われても諦めなかった。その頑なさが怖かった。――なぜなら、彼にとって最も恐れていたものを突きつけてきたからだ。――「守られること」への恐怖を。
数分間、誰も口を開かなかった。聞こえるのは二人の足音だけだった。
やがて、龍は苛立ちをにじませながら口を開いた。
「どうやって俺の家を見つけた?」
乃愛はバッグを胸に抱き、誇らしげな声で答えた。
「山埼 咲、一年の子がいるの。図書室で私の代わりに当番をしてくれてた子よ。部活でグラウンドに出てたから、お願いして保健の先生に調べてもらったの」
龍は舌打ちした。
「チッ……あの保健のババアども、噂好きだな」
だが、乃愛の口から出た名前に気づき、眉を上げる。
「……山埼 咲?あいつ、俺のクラスメイトだぞ」
「えっ、ほんと?全然知らなかった。今年から入ってきた子で、私の後輩なの。すごく真面目で覚えも早いのよ。冴ちゃんは本当にいい子だわ」
「だろうな。実際、この前その子に頼まれて、友達の光春を助けたんだ」龍が言った。
「えっ…… |咲《さえちゃんって、光春ちゃんの友達?世間って狭いのね」乃愛は目を丸くした。
「そうだな。二人ともいい子だよ」龍は素直に頷いた。
「ふーん……女の子相手にヒーローごっこ?」乃愛は少し嫉妬をにじませた声で尋ねた。
「そういうことじゃない。それに――」龍は続けた。「もしヒーローごっこするなら、お前とだけだ」
その言葉は真正面からの一撃だった。短い沈黙が二人の間に落ちる。
乃愛は口を開いたが、言葉が出なかった。顔は真っ赤に染まり、視線を逸らしてバッグの持ち手をいじる。
「ば、ばかじゃないの……」小さく呟き、照れ隠しのように笑ったが、耳まで赤く染まっていた。
龍はわずかに笑みを浮かべ、その反応に満足する。
一瞬、その言葉が乃愛の頬に笑みを呼びかけたが、彼女はすぐに真剣さを取り戻した。足を止め、街灯の下で瞳を輝かせながら彼を見つめる。
「龍くん……どんなに大変でも、私はあなたから離れない。危険だってわかってる。でも隣にいたいの。私のことを決めるのは、あなただけじゃない」
最後の言葉は震えていたが、彼女は目を逸らさなかった。
龍は沈黙したまま、ポケットに手を突っ込んだ。頬を冷気がなぞったが、胸の内の熱はそれ以上だった。――彼女の真っ直ぐさに対する恥ずかしさ。遠ざけねばという罪悪感。そして、心の奥で押し殺してきたもの。……「彼女がいてくれて、嬉しい」という安堵。
(どうしてこんなに頑固で……それでいて勇気があるんだ?)答えられず、心の中でそう呟いた。
道は小さな公園へと続いた。街灯に照らされたその場所は、まるで舞台のようだった。二人の呼吸だけが夜気を満たす。龍は横目で乃愛を見る。その強さと決意。――そして理解した。自分がどんなに遠ざけても、彼女は必ず戻ってくる、と。
空は茜色に染まり始め、風が木々の枝を揺らした。遠くで子供たちの声が響く。二人は並んでベンチに腰を下ろした。
乃愛は穏やかな笑みを浮かべながらも、その瞳には深いものを宿して口を開く。
「ねえ、私ね……小さい頃から、みんなに憧れられたいって思ってたの。期待される通りにすれば、大切に見てもらえるって。パパも褒めてくれたし、クラスでも戦闘能力が高いって尊敬されて……それが私の存在意義だったの」
彼女は視線を落とし、ベンチの縁で指を弄ぶ。
「あなたを監視してって言われた時も……それを試練だと思ったの。認めてもらえるために、パパにも、学園長にも……みんなに」
風が吹き、枯葉が足元を転がっていく。乃愛は深く息を吸い込み、真剣な声を続けた。
「でもね……あなたと過ごすうちに気づいたの。無理をしなくても、あなたは私を受け入れてくれた。あなたと一緒だと、違う自分でいられたの」
龍はわずかに顔を上げ、驚いたように彼女を見る。
乃愛は彼に向き直り、瞳を輝かせて言う。
「もう憧れられる必要なんてない。大切だと思われなくてもいい。ただ……あなただけに見てほしい。あなただけに、大事にしてほしい。あなたは他の人とは違うから」
一瞬、言葉を止め、胸に秘めた本音を震える声で吐き出した。
「だから……龍くん、私を遠ざけないで。守るためだなんて理由で、私を拒まないで。友達のままでも構わない。ただ、隣にいさせて」
龍はすぐには答えなかった。ただ胸に込み上げる思いを抱えながら、黙って彼女を見つめる。
乃愛の言葉が頭の中を駆け巡る。その一方で、寺での光景も蘇った。炎、叫び、黒く焼き付く刻印。胃の奥が強く締め付けられる。顔を険しくし、重い記憶に心を囚われる。
彼は前かがみになり、彼女の目を避けるように呟いた。
「俺のそばは危険なんだ」
乃愛は迷わず見つめ返した。
「危険でも、あなたと一緒にいる方を選ぶ」
龍は苛立ち混じりに眉を寄せた。
「俺のせいで苦しんでほしくない」
「無視される方が、よっぽど苦しい」
彼は視線を床に落とした。まるでそこに答えがあるかのように。
「……いつも守れるかどうか、分からない」
乃愛は膝の上で拳を握りしめ、真っ直ぐに彼を見つめた。
「じゃあ、自分で守る。でもあなたを絶対に離さない」
再び沈黙が二人の間に落ちた。木々を揺らす風の音だけが響く。龍はゆっくりと顔を上げ、乃愛を見つめた。その瞳には困惑と、ほんのわずかな敬意が混じっていた。
「……本当に覚悟はあるのか?」龍が低い声で尋ねる。
「あるわ」乃愛は一切の迷いもなく答えた。「好きよ、龍くん」
龍の心臓が大きく跳ねた。
「あなたが誰かを助けるのが当たり前みたいに自然で、そういうところが好き。
無理に飾らないで、自分らしくいるところが好き。
言葉が少し不器用でも、いつも誠実なところが好き。
それに……かっこいいところも好き。でもあなたは絶対に認めようとしないわよね」
龍は呆然とした。頬が一気に熱くなり、視線を逸らして頭をかきながら言葉を探す。胸の奥が、喜びと戸惑いで締め付けられる。
「お、俺は……そ、その……」
言葉にならない声が喉から漏れただけだった。それが可笑しくて、乃愛は小さく笑った。龍はさらに赤くなり、両手で顔を覆ってしまう。
「……変わってるな」ようやく呟いた。
乃愛は優しく微笑んだ。その一言が彼女にとっては何より大切に響いた。
龍の頭には、いくつもの思い出が浮かぶ。図書室での乃愛の笑顔。練習の合間に優しく教えてくれた時間。稽古の後に一緒に飲んだお茶。
そして、水原先生のことも思い出した。二人を導いてくれた存在。
それらはどれも温かく、彼を蝕む闇とは正反対だった。
(……俺は、一人じゃないんだ)
いつだって、彼女は傍にいてくれた。どれだけ拒もうとしても。
龍は大きく息を吸い込み、わずかな勇気を振り絞った。乃愛が期待に満ちた瞳で見つめている。龍はその視線をしっかり受け止め、声を震わせずに言った。
「乃愛先輩……もう遠ざけられない。だから、これからはずっと隣にいてほしい」
乃愛の心臓が大きく跳ね、目を見開いた。
龍は唾を飲み込み、まだ頬を赤らめたまま言葉を続けた。
「俺と……付き合ってくれないか?」
その瞬間、世界が止まったかのようだった。
乃愛は呆然と数秒固まり、やがて顔を真っ赤にして胸に手を当てた。高鳴る鼓動を必死に抑えながら、震える声で、それでも笑顔を浮かべて答えた。
「……うん」
短い言葉。でも、溢れるほどの想いが込められていた。
龍は安堵の息を漏らし、照れくさそうにうつむいた。
「乃愛先輩……いや、乃愛。何があっても俺が守る。絶対に、何もお前に起こさせない」
その誓いに、乃愛は強く頷いた。
「私も、ずっと傍にいる」
その言葉は簡単だったが、魂から滲み出るほどの決意があった。
二人は手を繋いで歩き出した。誰もその手を放そうとしない。互いに顔は赤く、緊張もしていたが、空気はどこか柔らかかった。
沈黙を破るように、龍が口を開いた。
「なあ……圭哉や光春さんのこと、知ってるか?」
乃愛は頷いた。
「光春ちゃんと電話で話したの。圭哉さんは自宅謹慎になったらしい。情報を提供して協力したから、その恩恵を受けられたって。光春は今、伯母さんの家に住んでる。兄を見守れる場所の近くよ。もうすぐ未成年ということで釈放されるって」
龍は視線を落とし、安堵の息を吐いた。
「よかった……無事で」
乃愛は横目で彼を見て、微笑んだ。
「やっぱり優しいね、龍……。ごめん、龍。だって、知らない人たちのために命を懸けたんだもん。まるでヒーローみたい」
龍は気恥ずかしそうに後頭部をかいた。
「子どもの頃から、そうなりたいと思ってたからな」
乃愛は楽しそうに笑った。
「でも、どちらかといえば“ドジで可愛いヒーロー”ね」
龍は舌打ちをしてみせ、二人は小さな笑いを共有した。
やがて龍の家に到着し、乃愛は彼を見つめた。
「ちょっとコートを取ってくるから、家まで送るわ」
「大丈夫だ。運転手さんがいるから」
龍は車に視線を向け、頷いて運転席の老人に手を振った。穏やかな笑みを浮かべたドライバーが軽く会釈を返す。
「じゃあ、また明日ね」乃愛は微笑んだ。
彼女が車に向かおうとしたとき、龍は衝動的にその手を掴んだ。
「えっ?」乃愛が驚いて振り返る。
龍は彼女をゆっくりと引き寄せ、ぎこちなくも強い意志でその腰に手を回した。
乃愛の目が大きく見開かれる。次の瞬間、龍は彼女に口づけた。
最初は硬直して真っ赤になった乃愛。しかし少しずつ瞳を閉じ、両腕を彼に回して応えた。初々しくも真剣な、若い二人の心を繋ぐキス。
唇を離した後も、二人はまだ近い距離にいた。
龍は頬を赤らめ、気まずそうに頭をかいた。乃愛はさらに真っ赤になり、まともに彼を見られなかった。
車の中では、老人の運転手が片手で目を覆いながらも、指の隙間からしっかりと見ており、小声で何やら呟いていた。
乃愛は震える声で、囁くように言った。
「……また明日」
龍は顔を上げ、照れくさそうに微笑んだ。
「また明日、乃愛」
彼女は足早に車へ向かい、赤い顔を隠すようにうつむいたまま乗り込む。車が走り去るのを、龍はいつまでも見送った。
唇に残る温もりを確かめるように、そっと手を当てた。




