25. 彼女が踏み出した日
まさか第25章まで来るとは思わなかったし、まだまだ語りたいことがたくさんある。嬉しい気持ちだ。
龍の言葉がまだ空気に残っていた。それは肺から空気を奪うような反響だった。
「俺は…お前が好きだ。でも、離れてほしい。」
乃愛の胸は激しく揺れ、祭りの間ずっと浮かんでいた笑顔は一瞬で崩れ落ちた。
—「な…なに…?」—声を震わせながら囁く。涙があふれそうになり、唇を噛み締める。頭の中では昔の恐怖が囁いていた。(私じゃ足りない…離れていく…みんなと同じように…)
胸を熱くさせながら、一歩彼に近づいた。
—「告白した直後にどうしてそんなこと言えるの…?なんていうか—」
しかし、龍が声を低く、穏やかに、でも張りつめた緊張感を帯びて遮った。
—「乃愛先輩…」—目は刀のように鋭く彼女を見つめる—「俺と 藤名村との関係は、もう知っていたんだろう?」
その言葉は鋭い衝撃だった。乃愛の呼吸は途端に止まった。
凍りついたように立ち、喉が詰まって答えられない。龍の表情は怒りではなく、ただ真実を知っている者のものだった。
—「…」
二人の間に広がる沈黙は耐え難いものだった。抑えようとした涙が視界をぼやけさせ、それでも目を離せなかった。
沈黙は重く、乃愛はまだ肩にかけている龍のジャケットの布を握りしめ、香りに寄り添う。喉が震え、やっと一言を絞り出すことができた。
—「…はい。」
抑えていた涙が頬をゆっくり伝った。
—「はい、知ってた」—かすれた声で繰り返す。視線は地面に向けられ、龍の目を見ることはできなかった。
龍は何も言わないが、その視線の重さは圧倒的だった。
乃愛は唇を噛み、深呼吸をして言葉を整理する。
—「五藤先生が父に話をしたの。あなたを訓練させて…監視するようにって」—短く間を置き、声がまた震えた—「そして私も…私たちが学校にいる時、同じようにするようにって。」
目を上げると、目は赤くなっていたが、決して隠さない覚悟を示していた。
—「命令されたからじゃない、龍くん。最初の日から、助けたいって思ったから。」
龍は数秒動かずに立ち尽くした。表情はあまり変わらないが、視線の強さは増していた。やがて短くため息をつき、囁く。
—「思った通りだ。」
わずかに空っぽの街に顔を向け、諦めと確信の入り混じった表情を浮かべる。
—「不思議だったんだ。ほとんど知らなかったのに、乃愛や水原先生は俺のためにここまでしてくれた。理由なしに誰も近づかない。」
乃愛は頭を下げ、失う恐怖が胸を打つ。それでも言葉を絞り出す。
—「龍くん…最初はそのためでも…私は…義務だけであなたのそばにいたわけじゃない。」
再び夜の沈黙が広がるが、今度は言葉にできない感情で満ちていた。
乃愛は少し視線を落とし、手がかすかに震える。長く抱えてきた思いを解き放つことをためらう。しかし、龍の瞳を見て、もう隠せないと悟った。
—「あの日…」—穏やかで少し懐かしい声で—「図書館で初めて会ったとき、仲間から隠れていたあなたを見て…変わった子だと思った。無口で距離を置く子…でも…」—少し頬を赤らめて—「近づいたとき、赤くなる姿が可愛いと思った。」
龍は瞬き、驚く。乃愛は小さく神経質な笑いを漏らし、続けた。
—「少しずつ、あなたは私の生活の一部になっていった。—微かに震える唇で、恥ずかしそうに笑う—家に来るたび…たとえ訓練だけでも、あまり話さなくても…私はその時間を楽しみにしていた。」
声の真摯さが空気を満たす。龍は胸に痛みを感じつつも、言葉を遮ることなく聞き入れた。
—「その幸せ…」—胸に手を置き、自分の鼓動を落ち着かせようとする—「単なる好奇心や付き合いではなくなった。ある日、気づいた…もう守るためだけじゃない。」
彼女は顔を上げ、薄明かりの下で目を輝かせた。
—「だって…好きなの」—頬を赤らめながらも目を逸らさず—「会いたい、そばにいたい…理由なんてなくても。」
その言葉は、ついに解き放たれた秘密のように空気に浮かんだ。龍は言葉を失い、顔が熱くなるのを感じる。胸が激しく打つ。これほど直接的で、透き通った告白を予想したことはなかった。
—「乃愛先輩…」—耳まで赤くして、かすれた声で囁く。
しかし、その温かさと同時に現実のもう一つの面も立ちはだかる。乃愛の腕の包帯、父の負傷、周囲の危険。その甘さは、彼女や家族が依然として危険にさらされているという残酷な確信と衝突した。
龍は唾を飲み込み、感情を絡める。手を取って応えたい気持ちと、問題から彼女を遠ざけたい気持ちが交錯する。
頬に赤みを残したまま、弱々しく微笑む。それは嵐を隠した笑みだった。
乃愛の告白を受け、龍はしばらく沈黙する。言葉が喉に詰まったかのように。手を髪にかけ、目線を下げ、感じることと伝えるべきことを整理しようとしていた。
—乃愛先輩… —ほとんど吐息のように囁く—。しばらく前から、俺が監視されているのを知っていた。祖父が確認してくれた…俺の動きはすべて見られている。
少しだけ目を上げるが、すぐに逸らす。
—今日…俺が君と出かけたことを、あいつらは知っている。
拳を強く握り締める。寺での出来事が生々しい傷のように心を突き刺す。
—寺で起きたことを見ただろう…君の父親も怪我をした。君も… —声が少し震え、苦々しく—。すべては俺のそばにいたせいだ。
少し間を置き、再び口を開く。その声は重く、同年代の誰かには耐え難いほどの真実を帯びていた。
—黒炎の教団が俺を探している…異能対策局も、俺を監視している。
その言葉を告げると、龍は再び乃愛を見つめた。目には隠せない優しさと、深くほとんど絶望的な痛みが混ざっていた。
—だから…好きでも…君を巻き込みたくない。そばにいるだけで、君が次の標的になってほしくない。
二人の間に重い沈黙が流れる。乃愛は目を伏せ、唇をわずかに震わせる。胸が激しく打ち、叫びたくなる…でも、見捨てられるかもしれない恐怖と、龍の言葉の重さに身動きが取れない。龍もまた胸に痛みを感じる。言うべきことだったが、傷ついた表情を見るのはつらかった。
突然、ドアの音が緊張を破る。 源三が現れ、タオルで手を拭きながら、静けさに少し戸惑った様子で。
—「あ、龍!—いつもの明るい声で挨拶—声が聞こえたけど…外出はどうだった?」
乃愛はうつむいたまま、顔を上げられない。手をスカートに握りしめ、泣きたい気持ちを必死に抑えていた。
龍は深呼吸をし、 源三に向けて半ば作り笑いを浮かべる。
—「悪くなかった…」—無理に落ち着いた声で答える—。「でももう遅い、電車に間に合う前に行かないと。」
源三は頷くが、空気の張りつめた様子には気づかない。
龍は乃愛の方へ顔を向ける。唇を動かし、何か言おうとする…しかし、乃愛は突然背を向け、視線を避けたまま家に入ってしまった。
龍は数秒その場で固まる。心の衝撃が姿勢の硬さに表れていた。やがて軽く頭を下げ、かすかに「またな」と呟いてから出発する。
源三は龍が去るのを見送り、何が起きたのか理解できずに立ち尽くす。
乃愛はそのまま自分の部屋へ直行した。ベッドに仰向けに横たわり、街の淡い光でかろうじて照らされた天井を見つめる。目はまだ湿っており、何度も涙を拭いても、再び頬を静かに伝った。
空っぽの気持ちだった。龍に告白するために集めた勇気、言葉にするために費やした努力は、結局「守るための拒絶」という形で返ってきた。
胸を押しつぶす感情の混ざり合い:抑えた怒り、終わりのない悲しみ、そして何よりも、いつも付きまとう古い恐怖…置き去りにされる恐怖。結局、どれだけ努力しても…いつも遠ざけられる。
唇を強く噛み、すすり泣かないようにする。手はシーツの上で震え、もどかしさと無力感に挟まれていた。龍に怒りをぶつけたい、勝手に決めるなと叫びたい…でもできない。理解できる。自分を守るためだと。だから余計に心が解けてしまう:傷つくのは、真心からの愛情だった。
捕らわれたような気持ちだった。心は近づきたいと叫ぶが、龍の言葉が離れるように命じる。これまで皆の前で抑えてきた涙が、今、部屋の孤独の中で自由に流れた。家の静けさは、彼がもういないために倍に重く感じられた。
ドアを軽く叩く音が、思考から彼女を引き戻す。
—「乃愛、大丈夫か?」— 源三の声は心配そうだった。沈黙の後、さらに強い口調で—「もし龍が何か君を傷つけたなら…探し出して睫毛を一本ずつ抜いてやる。」
乃愛は目を閉じ、涙にもかかわらず微笑もうとするが、返事はしなかった。 源三はため息をつき、その場を去り、ドアを閉めた。
一方、龍は駅の冷たい金属製ベンチに座り、肘を膝に置き、視線を地面に固定していた。イヤホンは首にかけたままだが、音楽は流していない。何も欲しくなかった。ただ静寂。
駅の機械音声が次の電車到着を告げる。龍は立ち上がり、ホームの端へ歩き、暗いトンネルから間もなく現れる車両を見つめる。到着前の帯電した空気が顔を打つ。
スマートフォンを取り出す。画面が疲れた顔を照らし、数日前から彼を追い続ける二つのメッセージが映し出されていた。
最初のメッセージは、まるで隠された脅迫のように残っていた。
「最後のデートを楽しめ。もうすぐ家族に会うことになる。」
二つ目は、さらに残酷で、まるで真実を顔に叩きつけるようだった。
「他人に近づきすぎるな。時が来れば、失うだけで苦しむことになる。」
龍は歯を食いしばった。怒りが胸の奥で熱を帯び、悔しさと無力感が入り混じって溢れ出す。
近づいてくる列車の轟音が駅を震わせる。衝動のままに拳を握りしめ、手にしたスマートフォンをまるで飴の包み紙を投げ捨てるように線路へと放り投げた。端末は金属にぶつかって跳ね、無慈悲に走る磁気車輪に粉々に砕かれていった。
シューッと音を立ててドアが開くと、龍は一度も振り返らずに車内へ足を踏み入れた。窓に映った自分の姿は、駅の照明や外のネオンに歪められ、断片的に映し出される。そこに映るのは自分でありながら、自分ではない誰かのようだった――疲れ果て、苛立ち、恐怖と決意の狭間に囚われた少年。
胸の内にあるのは単純で、むき出しの感情だけだった。怒り、孤独、そして静かに心を蝕む挫折感。
十時を回った頃、龍は家の扉を開けた。最初に目に入ったのは、食卓に座る 源三と祐介。二人はビールを片手に、昔話を語り合いながら豪快に笑っていた。
龍は片眉を上げ、驚いた表情を見せる。
「まだいらしたんですか、祐介さん?」
祐介はその落ち着いた様子のまま、グラスを置き、柔らかな笑みを浮かべた。
「そろそろお暇しないとね……。明日は仕事が待ってる、いつものことさ。」
龍が返事をする前に、背後の扉が再び開いた。
イリーナが少し息を弾ませながら入ってきた。夜の冷気に頬を赤らめている。
「ちょっと! 角から声かけたのに、一緒に入ろうって。全然振り向いてくれなかったじゃない。」
マフラーを外しながら、自然に話し続ける。まだ部屋の空気の異変には気づいていないようだった。
「今日は研究室で使う機材の申請書を書かされて……もう、面倒くさかったんだから。」
ふと顔を上げた瞬間、その視線が祐介と交わる。空気が一瞬止まった。
祐介は軽く頭を下げ、礼儀正しく微笑む。
「はじめまして。祐介です。」
イリーナは固まった。緊張に飲み込まれ、声が震える。
「い、い、イリーナ……よ、よろしく……」
(こ、これって王子様……?)
龍はその様子を見て口元をゆがめ、悪戯っぽく笑った。しかし、瞳にはかすかな苛立ちの色も浮かんでいた。
「すみません、祐介さん。脳が再起動しちゃったみたいで。」
「龍!」イリーナがぷくっと頬を膨らませて抗議する。それでもまだ動揺で固まっていた。
龍は楽しげに肩をそっと押さえ、テーブルへと導いた。
「ほら、座れよ。倒れたら困るだろ。」
(誰にでも簡単に惚れさせるなんて……絶対させないからな。)
祐介は立ち上がり、丁寧に一礼してから玄関へと向かった。彼が去ると、室内は再び落ち着きを取り戻す。
イリーナは椅子に崩れ落ちるように座り、胸に手を当てて大げさに息を吐いた。
「心臓が止まるかと思った……」と、緊張した笑いを漏らす。
龍は横目で見て、鼻で笑った。
「ちっ、大げさだな。」
軽やかな笑い声が部屋に広がり、緊張は消えていった。しかし、龍の胸の奥には奇妙なざわめきが残っていた。嫉妬にも似た感情と、彼女を守りたいという不可解な衝動。
龍はゆっくりと部屋に入り、ドアを閉めた。リュックを床に落とし、ベッドに仰向けに倒れ込み、天井を見つめる。
耳にはまだ列車の轟音とイヤホンの残響がこびりついていたが、今の部屋にあるのは息苦しいほどの静けさだけ。
乃愛を遠ざけたのは正しいことだ――そう自分に言い聞かせる。誰ももう傷つけてはいけない。寺院でのあの光景が頭に浮かぶ。乃愛の恐怖に染まった瞳、流れる血。
龍は歯を食いしばり、眉を寄せた。
(もう二度と繰り返さない。)
だが、心の奥底に疑念が滲み出す。
(本当に、これでよかったのか……?)
その思いが胸に突き刺さり、呼吸を奪っていく。
そして、あの声が甦る。乃愛の告白。真っ直ぐで、揺るぎない言葉。
心臓が跳ねる。思わず腕で目元を覆い、顔を赤く染める。
「……バカ。なんで今そんなこと言うんだよ……」
恥ずかしさと愛おしさが胸を熱くする。しかし同時に、彼女も好きだと認めざるを得ない痛みが突き刺さる。
その想いが温めた胸を、次の瞬間には冷やし込める。黒炎の教団。異能対策局。そして、あの匿名の脅迫。
(彼女を遠ざけたことで、逆に傷つけているんじゃないか……?)
正しい答えはどこにもなかった。どの道を選んでも、傷跡は残る。その矛盾が心を疲弊させていく。
深く息を吐き、手で顔を覆う。
(胸が裂けても……これが最善なんだ。)
龍はそのまま静かに眠りへと落ちていった。
――翌朝。
柔らかな日曜の光がカーテン越しに差し込む。乃愛はゆっくりと目を開けた。昨夜泣きはらした目はまだ赤く腫れていた。天井を見つめたまま、体は鉛のように重く、起き上がることすら難しく感じた。
龍のことを思い出しながら、乃愛はベッドからなんとか起き上がり、キッチンへ向かった。簡単な朝食――トーストと紅茶を用意し、テーブルに座ったものの、ほとんど食欲がなかった。ひと口ふた口かじっただけで、すべてが味気なく感じられる。家の静けさが彼女を包み込み、昨夜の光景が強烈に蘇ってきた。
家の前で立ち尽くしていた龍。震える声で「好きだ」と告げ、その直後に彼女を突き放すような言葉。乃愛の胸が締め付けられ、気づけば涙が頬を伝っていた。
(どうして……? やっと気持ちを伝えられたのに、どうして……?)
唇を噛みしめ、声を殺しながら涙をこらえる。
両手で顔を覆っても、記憶の波は止まらなかった。街角で笑い合った瞬間、未来的なデザートの甘さ、そして彼のジャケットの温もり。街の灯りの下で寄り添い歩いたあの夜――。乃愛の唇に、笑みとも泣き顔ともつかない震える表情が浮かんだ。
涙で濡れた指でスマホを手に取り、ギャラリーを開く。そこには、龍と撮った一枚の写真があった。画面を指先でなぞり、まるで彼が傍にいるかのように見つめ続ける。
「少なくとも……あの瞬間は本物だった」
掠れた声で呟き、その言葉が終わる頃には声も途切れていた。
孤独の重さが倍になったように胸を圧迫する。しかし、涙をパジャマの袖で拭った時、心の奥底にあるものが燃え上がった。――もう諦めたくない。
呼吸が少しずつ落ち着く。傷ついた心の奥で、新しい決意が輝き始めていた。
(たとえ苦しくても、たとえ彼が私を遠ざけても……絶対に一人にはさせない。もう二度と)
その決意は、ただの恐れから生まれたものではなかった。弱さに縛られるのではなく、初めてそれに立ち向かう選択だった。彼女はもう、守られるだけの存在ではいられない。龍が背負わされた運命を一人で抱え込むことなど、許すつもりはなかった。
涙の跡を残したままスマホを強く握りしめる。痛みも困難も承知の上で、乃愛は決めていた。――彼の傍にいる、と。
風呂上がりの髪がまだ濡れたまま、淡い色のブラウスとシンプルなスカートに着替えた乃愛は、決意を宿した瞳でリビングに入った。そこには、 源三が新聞を広げ、コーヒーを片手に座っていた。
「おはよう、乃愛」
できるだけ明るく言葉をかける父。
「今日は天気も――」
その言葉を遮るように、乃愛はまっすぐ歩み寄り、テーブルに手を置いて父を真っ直ぐ見据えた。
「お父さん……龍がどこに住んでるか知ってる?」
源三は目を瞬かせ、慌てて口にしていたパンを飲み込む。
「え? どこに住んでるかって? い、いや……知らないな。聞いたこともない」
「どうして……いつもそうなのよ!」
乃愛が苛立ちを込めて声を荒げる。
「ま、待て待て!」
源三は両手を上げて弁解する。
「そんなの、普通は聞かないだろう!」
だがすぐに何かを思い出したように眉を寄せた。
「そういえば……英夫英夫くんが、龍のことを心配して連絡先をくれたことがあったな。授業を何度も休んでるって」
「じゃあ、今すぐ電話して」
乃愛の声は強く、逃げ道を許さなかった。
源三は深いため息をつき、ポケットからスマホを取り出して番号を押す。スピーカーをオンにすると、二度目の呼び出し音の後、明るい声が響いた。
『あ! 源三さん! どうしたんですか? 龍の調子、良くなったんですか?』
「まぁ、少しは良くなったかな」
源三は横目で腕を組む娘を見ながら答える。
『よかった! 本当に安心しました』
源三は咳払いをし、核心を突いた。
「それでな、英夫。龍の住所を知ってるか?」
短い沈黙の後、戸惑った声が返ってくる。
『え? いや……知らないな』
乃愛は額に手を当て、絶望的なため息をついた。
『でも、隼翔と 蓮と一緒に試験勉強してるんだ。ちょっと聞いてみる!』
声が遠ざかり、すぐに別の声が響いた。
『俺? 知らないよ。龍に聞いたことないし』――隼翔の冷静な声。
『俺もー。ていうか、誰か聞いたことあるのか?』―― 蓮の笑い混じりの声。
英夫が戻ってきて、楽しそうに答える。
『やっぱり誰も知らないみたいです。おかしいですよね!』
乃愛はスピーカーに向かって叫ぶ。
「それでよく友達って言えるわね!」
『の、乃愛先輩、それは普通ですよ!』と 蓮が笑い、
『そうそう! 彼が話したいなら話すはずだから』と隼翔も加わる。
源三は思わず大笑いし、テーブルを叩いた。
「ほら、乃愛! 俺だけじゃないだろ!」
「信じられない……みんな同じね」
乃愛は悔しそうに唇を噛み、バッグを掴むと玄関へ向かった。
「おい、どこ行くんだ?」
心配そうに声をかける 源三。
「探しに行く」
乃愛は振り返らずに答える。
「……あぁ、うちの娘は恋する乙女だな」
目元を手で隠しながら 源三は泣き笑いを漏らす。
乃愛は顔を赤くして、言い返した。
「す、すぐ戻るから!」
その声を聞いた瞬間、 源三は「男泣き」を堪えきれなくなった。娘が愛に向かって歩き出すその姿に胸を震わせながら。
玄関を出ると、朝の冷たい風が乃愛の頬を撫でた。私用車のドライバーが待っているはずの場所へ向かいながら、彼女はスマホを取り出して、龍の番号を探した。
一度コールした。誰も出なかった。
もう一度試した。指先は緊張で携帯を握りしめる。
またしても、沈黙。
心臓が早鐘を打ち始める。唾を飲み込み、大きく息を吸った。
そして朝食の間ずっと飲み込んでいた言葉を短く綴った。
「話せる?」
画面をじっと見つめる。返事がすぐに現れるはずもないのに。
そこに映ったのは、涙でまだ濡れた自分の顔だけだった。
車が彼女の前に停まった。乃愛は携帯を鞄にしまい、迷いなく乗り込んでドアを閉めた。
――――
龍は、自宅のベッドに仰向けになり、新刊『レッドホーク』の第三巻を開いたまま、横に半分残った菓子袋を置いていた。
ページをめくるが、内容は頭に入らない。同じコマを何度も見返す。部屋の静寂は空気よりも重く感じられた。
舌打ちして、漫画を放り出し、上体を起こした。
「もういい」
鍛錬を始めた。腕立て伏せ、プランク、スクワット、シャドー。休みなく、素早いサイクル。汗がこめかみを伝い、耳に響く鼓動がリズムを刻む。一時間、さらにもう一時間。筋肉は悲鳴を上げたが、胸の痛みは消えなかった。
(正しかったのか?)内側を噛むような問い。後悔の閃光。その後に訪れる鎧のような思考――(危険に彼女を巻き込むわけにはいかない)。
シャワーを浴びる。熱い湯がうなじを叩き、深く息を吸った。
その後、ノートPCの前で、英夫と隼翔からのメールを開く。資料をダウンロードし、課題を片付ける。終わった後、真っ白な画面に点滅するカーソル。ここ数日のビデオ通話を思い出す。友人たちがくだらない冗談を言い合い、無理やり笑わせてくれた。少しだけ、救われた。
インターホンが鳴った。
龍は顔を上げた。不思議そうに眉を寄せる。イリーナは台所にいた――炒め物の匂いが廊下に漂っている――そして則夫はまだ帰っていない。きっと祖父だろうと思った。立ち上がり、タオルで髪を拭きながら玄関へ向かう。
ドアを開けた。
「じいちゃん、もうしばらくここにいるなら鍵を――」と言いかけたが、視線を上げた瞬間、言葉が喉に止まった。
そこに立っていたのは、則夫ではなかった。
乃愛だった。玄関の敷居に立ち、冷たい空気に吐息が白く滲む。髪をまとめ、質素なコートを着ている。瞳はまっすぐで、両手は鞄を強く握りしめていた。
龍は固まった。乾いた鼓動。指が扉の縁で強張る。
「乃愛先輩……なんで、ここに?」
彼女は一切迷わなかった。一歩踏み出し、まっすぐに見据え、澄んだ声で言った。
「話があるの。今度は、あなたが聞く番よ」
周囲の世界が縮んでいく。遠くのフライパンの音、廊下の時計の刻み、龍のシャツに残る石鹸の淡い香り。
口を開こうとした龍だったが、乃愛は軽く手を上げた。強さと優しさを併せ持つ動き。
「絶対に、私を遠ざけさせない」
背後でドアが小さく音を立てて閉じた。




