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24. 必要な距離

土曜日の午後。

革靴の金属的な音が、磨き上げられた大理石のロビーに響き渡る。濃い色のスーツに灰色のコートを羽織った男は、確かな足取りで進んでいた。右手に持った革の鞄は、まるで計算されたように規則正しく揺れている。その顔は真剣で静か、出入りする社員たちの往来にも一切動じる様子はなかった。


ゲート前で、警備員がいつものように姿勢を正して挨拶する。

「おはようございます、睦月(むつき)さん」

「おはよう」男は低い声で応じ、IDカードを電子リーダーに滑らせた。短い電子音が通行を許可する。


エレベーターは彼を十七階まで運んだ。扉が開くと、雰囲気は一変する。濃い灰色のカーペット、最小限の額縁で飾られた壁、計算された位置に置かれた人工植物。そこに漂うのは、日常業務のリズム――キーボードの音、机の上で震える電話。


睦月(むつき)は自室のオフィスに入った。広々とした空間、大きな窓から差し込む街の光が、柔らかく室内を照らしている。彼は正確な動作でコートをハンガーに掛け、鞄をデスクの上に置くと、椅子に腰を下ろした。パソコンを起動させると、青白い光がその顔を照らし出す。


数分後、ドアが軽くノックされた。

「失礼します」澄んだ心地よい声が響く。


秘書の璃彩(りさ)が書類を抱えて入ってきた。その歩みは軽快で、どこか優雅ささえ漂う。もう一方の手には、湯気を立てるブラックコーヒーのカップ。


「こちら、ご依頼の報告書です、睦月(むつき)さん。それからコーヒーも。いつも通り、砂糖なしで」

「ありがとう、璃彩(りさ)ちゃん」彼は画面から目を離さぬまま、手早くキーボードを叩きながら答えた。


彼女はしばらく彼を見つめていたが、睦月(むつき)は左手を伸ばし、自然にその腰を引き寄せる。璃彩(りさ)は驚くことなく、むしろ慣れた仕草で彼の膝に腰掛けた。睦月(むつき)は右手にカップを持ちながら、画面に並ぶメールや数値を確認していく。


それは、まるで型にはまった日常の一幕のようだった。彼の腕は彼女の腰に回され、決して強引ではないが、確かな支配を感じさせる。璃彩(りさ)は肩越しにモニターを覗き込みながら、彼の集中に寄り添う。


「……大丈夫ですか?」小声で問いかけながら、彼女は指先で乱れた前髪を整えてやる。

「問題ない」睦月(むつき)は声色を変えず、コーヒーを一口すすった。


璃彩(りさ)は真剣な顔を見つめるが、そこに感情を読み取ることはできなかった。諦めるように微笑み、視線を再びモニターに戻す。

「ご存知ですか?外の世界なんて、時々忘れているみたいに見えます」

「それがうまくいく秘訣だ。外の世界は雑音だ。ここでこそ、本当に必要なものが築かれる」


外のオフィスのざわめきは扉に遮られ、ほとんど届かない。残されたのは冷たい画面の光と、淹れたてのコーヒーの香り、そして二人だけが共有する奇妙な安らぎだった。


睦月(むつき)は最後に書類を一瞥し、ため息をつく。今日も無数のメールに追われる日だと理解しながら、視線を璃彩(りさ)に向ける。

「このフォルダーを書庫に整理してくれるか」

「……はい」


短く返事をすると、彼女は身を屈め、その唇を重ねた。短く、静かだが、確かな絆を示す一瞬。二人の間に走ったのは、言葉では語れぬ合図のような微笑みだった。


璃彩(りさ)は自然に立ち上がり、書類を抱えて部屋を出る。再び一人になった睦月(むつき)は、すぐに画面へ意識を戻し、冷静なリズムでキーボードを叩き始める。


やがて肩に疲労がのしかかると、彼は椅子を回して窓の外へ目を向け、一本の煙草に火をつけた。最初の煙が青灰色に広がり、街の光に溶け込んでいく。


その時、デスクの上でスマートフォンが震えた。睦月(むつき)はゆっくりと手に取り、耳に当てながら煙を吐き出す。

「はい」


『……聞けよ、(さとる)。ちょっと面白い話がある』


受話口から響いた若い声は、軽薄でどこか尊大だった。睦月(むつき)の表情は変わらないままだったが、心の奥底では妙な興味が芽生えていた。


同じ頃、首都の反対側では、(りゅう)がインターホンを押して待っていた。ポケットには、すでに空になったポッキーの箱が入っている。

数秒後、扉が開き、乃愛(のあ)が姿を見せた。


彼女は自分でも認めたくないほど念入りに身支度をしていた。濃い色のミニスカート、薄手のストッキング、そして淡い色のニット。柔らかく体のラインを映し出し、その髪色との対比が彼女を一層際立たせていた。


(りゅう)は思わず息をのんで立ち尽くし、その視線を隠そうともしない。

「会えて嬉しいよ……すごく綺麗だ、乃愛(のあ)


頬に一気に赤みが広がる。乃愛(のあ)は顔をそむけ、からかうような、それでいて照れた笑みを浮かべる。

「ほんとに直球ね……前はほとんど話さなかったくせに。今じゃ口が軽いんだから」


(りゅう)は口の端を上げ、片眉をわずかに動かした。

「まぁ……話せる相手が見つかっただけさ」


意外な返しに乃愛(のあ)は目を瞬かせ、思わず笑みを漏らす。その言葉に心臓が速くなるのを認めたくなかった。


二人は並んで駅へ向かい、電車に乗った。その時間帯は人も少なく、向かい合って立つことができた。会話は自然に流れ、話題が次から次へと飛び交う。


やがて、(りゅう)がノリオに返信するためにスマートフォンを取り出すと、乃愛(のあ)は身を寄せて画面を覗き込んだ。

「まだその機種使ってるの?」笑いをこらえながら尋ねる。

「悪いか?」(りゅう)はそれを掲げるようにして見せた。「メールも電話もできる。十分だろ」


乃愛(のあ)は呆れたように首を振る。

「ダメね、完全に時代遅れ。ほら」彼女は自分の端末を取り出す。細身でスタイリッシュな最新型。3Dで通知が浮かび上がる。

「ホログラム投影もできるし、同時翻訳も睡眠管理も。パソコンなしで生活できるくらいよ」


(りゅう)は大げさに顔をしかめる。

「なるほど……だからいつも返事が遅いんだな。きっとお前のスマホは衛星の管制までやってるんだ」


乃愛(のあ)は思わず吹き出し、近くの乗客に振り向かれるほどの笑い声を上げた。


電車が空いてくると、二人は並んで腰を下ろした。(りゅう)がふと横目で見ると、乃愛(のあ)の左袖口から白い包帯が覗いている。――東京の寺院での出来事、その代償だ。自分のせいだと痛みが胸を刺す。しかし口には出さなかった。乃愛(のあ)は気づかず、新しくできたカフェの話を楽しげに続けている。


駅に着き、(りゅう)は先に立ち上がると、階段を数段下りたところで振り返り、彼女に手を差し伸べた。乃愛(のあ)は驚いたが、微笑んでその手を取る。ホームに降り立った時も、彼は手を離さなかった。二人の間に漂う静かな共鳴は、そのまま出口まで続いていった。


カラン、とドアベルの音が響く。カフェの中は午後の喧騒であふれていた。スーツ姿の会社員、本を開いた学生、甘い菓子を分け合うカップル。二人が足を踏み入れた途端、いくつもの視線が向けられる。無理もない。(りゅう)は乱れた髪と珍しい翡翠色の瞳で人目を引き、乃愛(のあ)は気品ある佇まいでカジュアルな空間に際立っていた。


(りゅう)は気まずそうに首筋をかきながら、半ば冗談めかして囁く。

「なぁ、俺たちって……変なカップルに見られてないか?」


乃愛(のあ)は即座に赤面し、鋭い視線を向ける。しかし頬の紅潮は隠せない。

「バカ!こんな人の多いところで何言ってるのよ!」


(りゅう)は満足げに小さく笑い、二人は窓際の席に腰を下ろした。外には青や紫に瞬くホログラム広告が輝いている。


店員が注文を取りに来ると、(りゅう)はブラックコーヒーを、乃愛(のあ)は生クリーム付きのラテと苺のショートケーキを選んだ。店員の視線が乃愛(のあ)に少し長く留まったのを、(りゅう)は見逃さなかった。


しばらくの沈黙を、店内の温かい空気が和らげていく。乃愛(のあ)がスプーンでカップをかき混ぜながら呟いた。

「こういう場所、久しぶり……子どもの頃、よくお母さんと東京のカフェに行ったの。角の席に座って、通る人を眺めるのが好きだった」


(りゅう)は懐かしさを帯びた笑みを浮かべる。

「俺も似たようなもんだな。カフェじゃなくて、家の近くのラーメン屋だったけど。親父さんがよく卵をおまけしてくれた」


乃愛(のあ)はじっと彼を見つめ、その情景を想像する。

「……温かいね。いい思い出だわ」


(りゅう)は肩をすくめる。

「温かいっていうか、貧乏だっただけさ。でも子どもには関係ない。腹が満ちればそれで十分だ」


二人は小さく笑い合い、いつもの緊張が少しずつ溶けていった。カフェのざわめきの中でも、彼らの世界は小さな温もりに包まれていた。


やがて、二人の歩みは再び続き、笑い声が交わされる。乃愛(のあ)はふと立ち止まり、柔らかな光に包まれた店の前に視線を向けた。ホログラムの看板には「Pâtisserie Lumière」と cursive 体で浮かび上がっている。

ショーウィンドウの中には、未来的なスイーツが並んでいた。表面に電光のような輝きを散らすムース、星を閉じ込めたかのように淡く光るタルト、小さく切るたびに色が変化する不思議なケーキまで。


乃愛(のあ)は目を見開き、遠慮なく(りゅう)の腕を取った。

「Come on, Ryuu, this is a must!」英語で叫ぶその声は、彼の落ち着きとは対照的に弾んでいた。


(りゅう)はため息をつきながらも、その元気さに思わず微笑む。

乃愛(のあ)……また予定外の寄り道か?」


「予定外じゃないの」彼女はコートの袖を軽く引っ張りながら言った。「これは運命!」


(りゅう)は苦笑しながら流されるままに足を運んだ。店内は甘い香りに包まれていた。バニラとカカオ、そして柑橘のような匂いがすべてを満たしている。二人は丸いガラスのテーブルにつき、ライトに照らされて皿が淡く光を放った。


「さて、どれにするの?」乃愛(のあ)は前に浮かぶデジタルメニューをめくりながら尋ねた。


(りゅう)は迷わず指を差す。

「それ。クラシック・チーズケーキ」


乃愛(のあ)は片眉を上げ、楽しげに笑う。

「やっぱり。千種類あったって、どうせ一番地味なのを選ぶでしょ」


「地味じゃない。信頼できるだけだ」(りゅう)はやや不満そうに言い返す。


乃愛(のあ)はくすくす笑い、青から桃色へとグラデーションに光るケーキを選んだ。金色の粉が散りばめられた華やかな一皿。

「じゃあ私はスタイリッシュな方を。それから……」スマホを取り出し、ショーケースにかざす。「記録しなきゃ!」


料理が運ばれてくると、彼女は小さな儀式のように光や角度を調整しながら写真を撮った。その横で(りゅう)はすでにチーズケーキを口にしている。


「写真も撮らないの?」乃愛(のあ)は呆れたように言った。


「食べ物はトロフィーじゃない」肩をすくめる(りゅう)


乃愛(のあ)は頬を膨らませたが、結局また笑ってしまった。

「ねぇ……」彼女は輝くデザートを口に運びながら続ける。「なんだか子どもの頃を思い出す。縁日の変わったお菓子、いつも私が派手なのを選んで、(りゅう)はシンプルなのばかり」


(りゅう)はしばし彼女を見つめ、自然に笑みをこぼす。二人の間に流れる柔らかな笑い声は、長い時間を共に歩んできた者同士にしか生まれない響きを帯びていた。


ショッピングモールはネオンの光とホログラム広告であふれ、群衆の頭上に鮮やかな映像が踊っていた。音楽と笑い声が重なる中、乃愛(のあ)(りゅう)の腕を引っ張り、若者向けのファッションショップへと連れ込む。


「行くわよ、新しい服に挑戦して!」


(りゅう)は観念したようにため息をついた。

「マジかよ……」


「当たり前でしょ。拒否権はなし!」そう言って彼を試着室へ押し込む。


彼女はシャツやジャケット、蛍光色の入ったパンツまで手渡していく。(りゅう)はぶつぶつ文句を言いながらも着替え、姿を見せるたびに乃愛(のあ)は首をかしげたり微笑んだりしながら品定めした。


やがて、乃愛(のあ)自身も姿を消し、数分後、新しいドレスに着替えて現れた。柔らかな布地が光を受け、紫の照明を反射して彼女の姿を際立たせる。


(りゅう)はじっと彼女を見つめ、静かに言った。

乃愛(のあ)……そんな姿で入ってきたら、他の人間なんて目に入らない」


乃愛(のあ)の心臓が跳ねる。頬が熱を帯び、慌てて視線を逸らし、わざと不機嫌そうに言う。

「もう、口が上手いんだから……次はあなたの番」


二人は軽口を交わしながら交互に試着を楽しみ、最後にはいくつかの服を購入した。


その後、ゲームコーナーに立ち寄り、ホログラムのシューティングゲームで勝負をする。乃愛(のあ)は勝つたびに両腕を高く掲げ、まるで大会優勝者のようにはしゃぐ。その隣で(りゅう)は穏やかな笑みを浮かべ、彼女の喜ぶ姿を眺めることの方を楽しんでいた。


ショッピングモールを出る頃には、袋を抱えながら笑い合う二人の間に、自然な空気と軽やかな絆が漂っていた。世界はまるで彼ら二人だけになったかのように感じられる。


夜の市は色とりどりの明かりと音で満ちていた。紙灯籠が通りを照らし、木彫りの細工から手作りの小型ガジェットまで揃った屋台が並ぶ。たこ焼きの香ばしい匂いが甘い菓子の香りと混ざり合い、祭りの空気を作り出していた。


乃愛(のあ)はじっとしていられない様子で、屋台から屋台へと駆け回り、スマホで写真を撮り、菓子を試食し、店主にあれこれ質問をしていた。その元気は周りの人々にまで伝わり、誰もが笑顔で応じていた。


(りゅう)はショッピングの袋を抱えながら後ろを歩く。その穏やかな表情は変わらないが、乃愛(のあ)の楽しそうな姿を見つめる唇には自然な笑みが浮かんでいた。


「浴衣を買っておけばよかったな……」乃愛(のあ)は色鮮やかな反物を手に取りながら呟いた。


(りゅう)は小さく笑った。

「浴衣なんて、この祭りには大げさだよ。でも……次のカーニバルの時、一緒に行こう。その時なら着てもいい」


その言葉に乃愛(のあ)は一瞬息を呑んだ。胸の奥で心臓が跳ね上がり、叫び出したいほどの高鳴りを覚える。だが、口に出せたのはただ静かな微笑みと小さな頷きだけだった。その瞬間を、小さな宝物のように胸に仕舞い込む。


少し進むと、即席の舞台で役者たちが喜劇を演じていた。観客の笑い声に混じりながら、二人も足を止める。


「Street art at its finest」乃愛(のあ)は楽しそうに英語でつぶやいた。


(りゅう)は眉をひそめる。

「ただの大道芸を、どうしてそんな上品に言えるんだ」


「It is elegant, Ryuu」彼女は悪戯っぽく笑う。


だが(りゅう)の視線は舞台ではなく、乃愛(のあ)に注がれていた。笑うたびに光を宿す頬、瞬間を逃すまいとスマホを掲げる仕草――彼にとって、この夜の本当の芸術は彼女そのものだった。


その時、不意に(りゅう)のスマホに通知が届く。


『最後のデートを楽しめ。

まもなく“家族”に会うことになる』


背筋を冷たいものが走った。周囲の喧騒が一瞬で遠のき、息が詰まるような圧迫感に包まれる。心臓が激しく打ち鳴らされたが、表情には出さなかった。

差出人はなく、数秒でメッセージは消えた。痕跡を残さないよう細工されたそれは――間違いなく黒炎の教団、あるいはもっと上位の存在からのもの。


"藤名村"


どちらにせよ、最悪だ。


(りゅう)は何事もなかったようにスマホをしまい、無理やり微笑みを作った。乃愛(のあ)の笑顔を壊したくはなかった。脅しはあまりにも個人的で重い。それでも、彼女に気づかせるわけにはいかない。


やがて、舞台の幕を締めくくるように夜空に花火が打ち上がった。赤、青、黄金が空を染める。乃愛(のあ)はスマホを掲げ、輝く光を収めた。そして少し迷った後、勇気を振り絞って(りゅう)の腕を取り、一緒にセルフィーを撮った。


写真の中で、(りゅう)は驚いた顔をしている。乃愛(のあ)はその表情を見て笑い、彼は呆れたように首を振った。


「ダメだ、その顔は。もう一枚だ」


二人はもう少し近づいて、今度は自然な笑みを浮かべた。花火に照らされた頬と笑い声。その瞬間は、写真だけでなく二人の心にも深く刻まれた。


夜が東京の街に降りる。濡れたアスファルトに青と紫のネオンが反射し、遠くから列車とホログラム広告のざわめきが響く。


乃愛(のあ)(りゅう)のジャケットを羽織り、長すぎる袖を指で引っ張りながら歩いていた。その姿は、昼間のはしゃいだ彼女とは違い、どこか落ち着いて見える。

手にしていたスマホの画面には、先ほど撮った二人の写真。乃愛(のあ)は甘く、幸せそうな笑みを浮かべたが、(りゅう)に気づかれぬようそっと画面を傾けた。


「今日はありがとう、(りゅう)。本当に楽しかった。それに……次のカーニバル、一緒に行けるのが嬉しい」


(りゅう)は横目で彼女を見やり、静かに頷いた。

「俺もだ」


しばし沈黙が続く。だが(りゅう)の視線は、乃愛(のあ)の左腕に向かっていた。薄いセーターの下、包帯がわずかに覗いている。寺院で彼女と父親が払った代償――その記憶が胸を刺した。


彼の視線に気づいた乃愛(のあ)は、安心させるように微笑んで言った。

「気にしないで。私は……(りゅう)の力になれたことが嬉しいの」


(りゅう)は黙って彼女を見つめ、その言葉を刻むように目を細めた。そして小さく、素直な声で呟く。

「君はすごいよ、乃愛(のあ)。君も……水原(みずはら)先生も」


乃愛(のあ)は頬を赤らめ、視線を逸らしてジャケットの裾を直すふりをした。


やがて家の前にたどり着く。乃愛(のあ)は闇を照らすような笑顔を浮かべて振り返る。だが(りゅう)はその場に立ち止まった。ポケットに手を入れ、深く息を吸い込む。


乃愛(のあ)……」低く落ち着いた声。


彼女は目を瞬かせた。(りゅう)がこんな声を出すのは初めてだった。

「どうしたの?」


(りゅう)は一瞬視線を落とし、言葉を探すように口ごもる。

「今日……本当に楽しかった。思っていた以上に」

微笑むが、それはいつもよりずっと素直で温かい笑みだった。

「普段は言わないけど……君といると、心が安らぐ」


乃愛(のあ)の胸が高鳴る。動揺しながらも、彼の不器用で真剣な姿に目を奪われる。


(りゅう)は彼女を真っ直ぐに見つめ、さらに低い声で告げた。

乃愛(のあ)……君のことが好きだ」


息が止まる。鼓動が早鐘を打ち、目が大きく見開かれる。街灯に照らされたその瞳は、涙のように光っていた。


だが、答えを返す前に――(りゅう)は続けた。静かな、しかし残酷な一言。

「だからこそ……俺から離れてほしい」


重苦しい沈黙が落ちた。遠くで列車の音が響き、告白の終わりを告げる鐘のように街にこだまする。


乃愛(のあ)は言葉を失い、ただ彼を見つめる。幸福と絶望が入り混じり、時間が止まったかのようだった。


(りゅう)はその瞳を逸らさず、穏やかに、だがどこか悲しみを帯びた声で言った。

「ごめん」

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