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23. 翌日の決意

土曜日、七月十二日の朝の風が、まだ人影の少ない首都の街を優しく撫でていた。淡い青に染まった空は、晴れ渡る一日を告げている。午前七時一分――如月(きさらぎ)(りゅう)はワイヤレスイヤホンを耳に装着し、静かに街を駆け抜けていた。一定の呼吸のリズムは、流れる音楽と重なり合い、まるで新しい人生の拍子に身体を合わせようとしているかのようだった。


前日の衝撃的な出来事が、まだ心の奥でざわめきを残していた。彼は必死に何かにすがろうとしていた。血筋や宿命のことなど考えず、ただ一歩でも前へ進もうとする。それだけが今の彼を支えていた。


ジムの入口を通り過ぎた時、灯りがつき、中からは金属音や足音が微かに響いてきた。一瞬だけ龍は速度を緩め、好奇心に駆られて中を見た。

(試してみてもいいかもしれない…)

だが答えは出ないまま、足を止めることなく再び速度を上げ、走り続けた。


家に着いたとき、スマートフォンの画面には午前七時四十一分と表示されていた。まだ時間はある。彼は音を立てずに家へ入り、そのまま浴室へ向かい冷水のシャワーを浴びた。冷たさに身体が震えるも、意識は一気に冴え渡る。着替えを終えると、タンクトップに丈夫な作業ズボン、履き古したスニーカー――いつもの土曜日の仕事着に身を包んだ。


ほどなくして、彼は剣士(けんし)のバイク工房の前に立っていた。外壁の塗装は日差しで色褪せ、錆びついた看板は今にも落ちそうだ。


手書きの文字で「MOTORKEN」と記されたその工房は、以前と何も変わっていなかった。古びたラジオの音と工具の音が響く中、龍は金属の扉を静かに押し開けた。


「おはようございます」龍は深々と頭を下げ、はっきりとした声で挨拶した。


分解中のバイクに向かっていた剣士は顔を上げ、目を見開いた。


「龍…? オイルの匂いで幻覚見てるんじゃないよな?」冗談めかして笑みを浮かべる。


「突然来てすみません。三週間も続けて休んでしまって…言い訳にもなりません。本当に申し訳ありません」龍は頭を下げたまま言った。「もし許していただけるなら…また研修を再開したいです」


短い沈黙のあと、剣士は大声で笑い、龍の肩を叩いた。その衝撃で、龍は一瞬よろめく。


「堅苦しいなあ! ここは工房であって役所じゃないんだぞ。もちろん戻ってきていいさ。言ったろ、これは研修なんだから。出勤簿なんかないし、説明もいらない。学ぶために来てるんだからな。土曜を一日二日休んだところで大したことない」


「ありがとうございます。本当に…」龍は胸の奥の重さを感じながらも、その歓迎にほっと息をついた。


剣士はにやりと笑い、声を潜めながら龍の肩に腕を回した。


「人手は多い方が助かるからな。仕事が溜まる時もあるし」


龍は思わず笑みを返した。


「それに…イリーナさんに対する恩もあるからな」剣士はふわりとした笑みを浮かべた。「わかるだろ? 人ってのは、心を動かす相手のためなら何だってするもんだ」


唐突な言葉に、龍は驚きと困惑を隠せなかった。


「…そんなに直球なんですか?」


「はは、もし話す機会があったらな…俺のことをいい奴だって言ってくれよ。仕事熱心だし、メカの知識も豊富だし…リサイクルもしてる。あの人、環境を大事にする人が好きだろ?」


龍は半ば呆れ顔で、皮肉めいた笑みを浮かべた。


「本気で言ってるんですか」


龍が苦笑すると、剣士は肩をすくめて笑った。


「なんで駄目なんだよ。高校の頃からずっと惚れてるんだ。全然相手にされなかったけど、それでもしつこくアタックしてな。今でも時々避けられるけど…笑った顔を見るとよ、世界が止まったみたいに感じるんだ」

剣士は夢見るように溜息をついた。


龍は皮肉交じりの笑いを漏らした。


「まるで思春期のガキですね」


「その通り! 俺は今でも思春期真っ盛りなんだ!」わざとらしく憤慨して見せると、頭を振って現実に戻った。


「やれやれ…ほんと馬鹿みたい」


「褒め言葉として受け取っとく!」剣士は笑いながら作業台に戻る。


「――ちょうどよかった。手伝ってくれ。このエンジンのタイミングチェーンを調整するんだ。わかってるだろ? 手袋はめて、工具持って、汚れるのを恐れるな」


龍は無言でうなずき、作業用の手袋をはめた。解体されたバイクが目の前にあり、その部品は金属台の上に整然と並んでいる。彼は深く息を吸い込み、荷物を脇に置くと作業に取り掛かった。


トランスミッションの作業に集中し、指先は油で黒く染まり、工房の熱気が古い友人のように彼を包み込む。その瞬間、ここ数日で初めて、龍は息ができるような気がした。

宿命から逃げられないかもしれない。だが少なくとも、自分の手で何かを作り上げることはできる。


それだけで、今は十分だった。


午前中いっぱい工房で過ごしたあと、龍は感謝の笑みを浮かべながら剣士に別れを告げ、肩にリュックを背負った。そして、ほぼ一か月ぶりに足を運ぶ場所へ――彼にとって逃避の聖域、アマノ・コミックスへと向かった。


扉を開けた瞬間、頭上の鈴がチリンと鳴り、その音は思った以上に懐かしく胸に響いた。新しい紙の匂い、包装のビニール、そして本棚の埃が混ざった香りが、彼を一気に包み込む。


「おやまあ、死人が蘇ったかと思ったよ!」

丸眼鏡をかけ、お団子にまとめた髪の年配の女性――店主が茶化すように声を上げた。


龍は反射的に、そして少し罪悪感から軽く頭を下げた。

「すみません、オバさん…ちょっと色々あって」


彼女は眼鏡の縁からじっと彼を見て、フッと笑った。

「気にしなくていいさ、坊や。でもね、三巻も遅れてるんだよ。あんたの大好きな《レッドホーク》はもう…おっと、ネタバレするのはやめとこうか」


龍は目を見開いて慌てた。

「絶対に言わないでください!」


しばらく棚を探し回った末、彼は最新の三巻を見つけ、小さな宝物でも抱くように胸に抱えた。レジへ向かう途中、ふと横の棚に視線が止まった。――発売されたばかりの、十周年記念フィギュア。


赤いマントを翻し、堂々としたポーズで立つクラシック版のレッドホーク。その姿を見た瞬間、龍の胸が跳ねた。


瞳が子供のように輝き、久しく忘れていた純粋なときめきが胸の奥に灯る。唇を噛んで大人を装おうとするも、すでに手はそのフィギュアを掴んでいた。

(俺は子供じゃない…)そう思いながらも。


会計を終えた時、値段はいつもよりはるかに高くついていた。

「いいかい、また消えるんじゃないよ、坊や」店主はフィギュアを丁寧に包みながら笑った。


「約束します」


袋を腕に下げ、穏やかな表情で龍はアパートへ戻った。靴を脱ぎ、戦利品をまるでトロフィーのように机の上へ置く。


そのまま台所へ入り、隠していたお菓子の棚を開ける。苺ポッキーの箱を取り出すと、ベッドに仰向けに倒れ込み、深く息を吐いた。胸の上に落ちた一巻目を開く。最初のコマを目にした瞬間、自然と小さな笑みがこぼれた。


ほんのひととき、世界の雑音は消え去り、胸の重みが軽くなる。今日だけは、自分に休息を許そう。まるで新しい始まりのように。


ページをめくるごとに、龍は赤いマントの英雄の物語に没頭していく。戦い、苦渋の決断、弱き者を守るための闘志――今の彼には、それが以前とは違う響きを持っていた。かつては力の象徴として憧れた存在。今は、己の葛藤を映す鏡のように思えた。


「俺はヒーローじゃない…」龍は心の中で呟いた。「なろうとしたこともない。でも…もう後戻りできないのなら、せめて――この忌々しい血の意味を理解したい」


視線を机の上のフィギュアへと向ける。光を浴びたレッドホークが輝いていた。胸の奥で何かが揺れる。それは諦めではない。――決意だった。


「答えを見つけてやる」小さく呟く。「今度こそ、逃げたりしない」


部屋には静けさが戻り、ページをめくる音だけが響いた。立ちはだかるものはまだ多い。それでも、この土曜日だけは龍は呼吸を取り戻すことができた。ほんの数時間だけ、自分を取り戻せたのだ。


龍が階段を降りると、則夫(のりお)はすでに台所にいた。淹れたてのコーヒーの香りが漂い、この家の空気そのもののように馴染んでいる。


最後の段に足を下ろしながら、龍は伸びをして祖父が新しいカップにコーヒーを注ぐ姿を見やり、少し悪戯っぽく笑った。


「じいちゃん、コーヒー飲みすぎはよくないですよ」扉の枠に寄りかかりながら言った。「その歳じゃ、あまり良い習慣じゃない」


則夫は顔も向けず、鼻を鳴らした。


「コーヒーをやめるのは、死ぬときだ。それまではやめん」


「じいさん、問題がある」


「お前こそ、その顔で降りてきたってことは問題を抱えてるんだろ。今度は何だ?」


龍はダイニングまで歩き、椅子を足で引きずってから祖父の正面に座った。長く悩んでいた決意をようやく口にするように、その表情は真剣そのものだった。


「聞きたいことがある。遠回しじゃなく、ちゃんと答えてほしい」


則夫は眉をひそめ、コーヒーを一口すすってから、まるで裁判官の前に座るような覚悟で向かいの椅子に腰を下ろした。


「これは尋問か?」


「まあ、そんなところ」


則夫はため息をついた。

「いいだろう、記者さん」


「どうして俺は藤名村(ふじなむら)の姓を持ってないんだ?」


沈黙が走る。則夫はその問いを、あらかじめ予想していたかのように、落ち着いて受け止めていた。


「簡単に言う」彼は慎重にカップをテーブルへ置き、口を開いた。「雄蓮(ゆうれん)が倒れたあと、藤名村の姓は呪われた。公式記録から抹消され、新しい秩序の敵として宣告された。あの時代の政府は、その名を異端の象徴だとした。危険な烙印だ。その名を口にするだけで……命を落としかねなかった」


龍は眉をひそめたが、口を挟まなかった。


「判明していた子孫は投獄、あるいは処刑された。狩りは容赦がなかった。しかし、わずかな者は逃げ延びた」則夫の声は低くなる。「追っ手を惑わすため、生き残った者たちは二つの枝に分かれ、それぞれ別の姓を名乗った。俺たちの属する枝は美山(みやま)に移され、如月という姓を取ったんだ」


言葉をひとつひとつ噛みしめるように、彼は短く間を置いた。


「藤名村は雄蓮の古き盟友――異能対策局(いのうたいさくきょく)の創設期に関わった男の助けで身を隠せた。彼が我々の痕跡を消し、新しい名を与えてくれた。それ以来、俺たちはずっとその名の下、影に生きてきた」


龍は視線を落とし、唇を噛んだ。


「じゃあ、俺が背負ってきた名前は……全部偽物だったのか?」


「偽物じゃない。盾だ。生き延びるための象徴だ」


少年は黙り込み、自分の手をテーブルの上でじっと見つめた。


やがて龍はゆっくりとうなずいた。情報を咀嚼するように。


空気は重く張りつめていた。もうそこにはコーヒーの匂いはなく、歴史――遺産の匂いが漂っていた。


龍はしばらく黙って、祖父のカップから立ち昇る湯気を見つめ続けた。その告白は頭の中で渦を巻いて離れなかった。


(つまり……藤名村の一族の一部は逃れ、身を隠し、如月の姓を与えられて社会に再び溶け込んだってことか…)


その思考は自然に次の疑問へと繋がる。


(じゃあ、如月の姓を取ったのは一つの枝だけ? ならもう一つの枝は別の姓を隠れ蓑にしているのか? もしかして他の藤名村が――生き延びて、どこかで何も知らずに歩いているのか?)


胸の奥に不穏な種が落ちたようだった。則夫の語った家の歴史は、ただの昔話ではない。手がかりであり、そして警告かもしれなかった。


龍は顔を上げた。その目は、先ほどよりもはるかに鋭い。

「次の質問だ」声に迷いはなかった。


則夫は姿勢を正し、彼の変化を感じ取る。


「誰が知ってる?」龍は問うた。「俺が藤名村だってことを、誰が知ってるんだ?」


則夫の表情が変わった。そこに皮肉も諦めもなく、台所を満たす重苦しい重みだけがあった。


「お前が思うほど多くはない」ようやく答える。「だが……十分だ。安心できるほどじゃない」


龍の背筋を冷たいものが走る。


「異能対策局の一部では、今回の件で繋がりを疑い始めた者がいる。雄蓮の信徒だった連中の中にもな。そして政府の中枢にも、古い記録を水面下で扱っている者たちがいる。確証を持ってる者は少ない。だが……すでに繋ぎ合わせた者はいる」


沈黙がさらに濃くなった。時計の秒針の音さえ大きく響く。


「つまりだ」則夫は視線を逸らさずに続けた。「もしお前が危険に晒されていたのだとしたら……今はその倍だ」


龍の心は混乱の渦に巻き込まれていた。朝に感じていた平穏は跡形もなく消え、不快な重みが胸を押し潰す。則夫が語ったことは、狂気じみた話に思える。だが――それは紛れもなく現実だった。


(俺に犯罪なんて……できるのか?)


そんな考えがふと胸を突き抜けた。現れた瞬間に追い払いたくなった。馬鹿げている。目立つことを嫌い、誰かを傷つけようなんて思ったこともなかった自分が。だが今は……その影が、名前に、血に、まとわりついていた。


自分の世界――家族、交友関係、未来の計画――それらすべてが空っぽの舞台装置のように崩れ去った。これまで信じてきた自分自身が、本当に確かなものなのかどうかすら怪しい。疑念は、治りきらない古傷のように戻ってきた。


だが、ひとつだけはっきりしていた。

(立ち止まってはいけない。新しく始めるしかない)


「じゃあ、どうして俺はポータ―のことを知らなかった? 美山にいた頃、誰もそんな話をしてなかった」


「美山は辺境の田舎だ。あそこにはほとんどポータ―はいなかったから、話題にすらならなかった。だからこそ、お前を育てるには最適な場所だったんだ」


龍には納得できる理由だった。


「で……これからは、どうすればいい?」龍は祖父を真っ直ぐ見つめて問う。


則夫はしばらくその視線を受け止め、それからコーヒーカップを横に置いた。

「今まで通りに生きろ。それが一番だ」口調は硬く、ほとんど断定に近かった。「学校に行き、工房に通い、友達と出かけろ」


龍は瞬きをした。まるで隔離や安全管理、遺伝子検査のような話を期待していたのに、返ってきたのは日常を続けろという指示だった。


「……それだけ?」


則夫は身を乗り出す。

「それが一番安全なんだ。急に習慣を変えれば、繋がりを疑っている連中に勘づかれる。何も変わらなかったように見せかけること……それがお前の最初の防御になる」


一瞬、時計の音が鈍く響く。


「それと」則夫は続けた。「午後の稽古を少し変える」


「どんなふうに?」


水原源三(みずはら げんぞう)と一緒に鍛えてるのは知ってる。その日を一つ、俺がもらう。教えなきゃならんことがある……背負った荷を運ぶために必要なことをな」


それは「稽古」というよりも、まだ見ぬ何かへの備えに聞こえた。


龍は沈黙し、祖父の言葉を咀嚼する。腕を組み、真意を隠した表情の則夫が静けさを破った。


「金曜日だ」その声は断固としていた。「これからはその日を空けろ。お前の禍気は常人離れしている。それを制御する技術と、使える戦い方を教える……一刻も早くな。お前が持つ力を支配したいのなら」


龍は眉をひそめた。その言葉の裏を探ろうとする。


「……どんな技術だ?」慎重に尋ねる。


「いずれ分かる」則夫はそれ以上語らない。


龍は片眉を上げ、皮肉めいた笑みを浮かべる。

「それで……俺を鍛えるのは、じいさんってわけか?」


則夫は無言で龍を見つめ、わずかな歪みを顔に浮かべた。それは笑みではなく、ただの「生意気な奴め」という表情だった。


「本気を出せば――お前なんて叩きのめして、骨から組み直してやれるぞ」


乾いた声で放たれた言葉に、龍はごくりと唾を飲んだ。祖父が誇張しているのか、それとも事実なのか、判断できなかった。


「だが……」則夫は台所に視線を向けた。「お前を教えるのは俺じゃない」


木の床を踏みしめる重い足音が響き、長身の男が戸口に現れた。その存在感は、一言発する前から場を支配していた。


「……そいつだ」則夫が言い切った。


龍は目を瞬かせ、呆然とする。


「……祐介(ゆすけ)さん?」驚きを隠さず呟く。


加納(かのう)祐介は薄い笑みを浮かべながら、まるで最初から話を聞いていたかのようにテーブルへと歩み寄った。


「俺の時間を無駄にするなよ、坊主」椅子の背に片手を置き、声を低く落とす。「もう手加減するつもりはないからな」


龍の背筋に寒気が走る。これがただの稽古ではない――本当の試練の始まりなのだと悟った。


祐介は無言で龍を観察した。機械の仕組みを確認するように、姿勢、肩の位置、足の角度、腕の構えまで細かく視線でなぞる。


「水をやらなきゃ枯れる苗木みたいだな」淡々とした口調だが、確かな意図がこもっていた。


龍は眉をひそめる。

「なんだよ、その検査みたいなの……。それなら学校で十分だろ」腕を組み、不満げに吐き捨てる。


祐介の穏やかな雰囲気は、普段なら龍を安心させていた。優しくて、どちらかといえば人に厳しくするのが苦手そうな男。


「どうせ鍛えるなら、ちゃんと厳しくしてくれよ」龍は指を突きつける。「子ども扱いするな。俺はもう――」


言い切る前に、それは起きた。


金属の閃光が走る。祐介は何の前触れもなく、テーブルに置かれていた包丁を手に取り、一瞬で投げ放った。龍の目はその軌跡を追うのがやっとだった。


刃は突きつけていた人差し指をかすめ、肩をかすり、耳のすぐ横を抜け――背後に掛けられたダーツボードの中心へと、乾いた音を響かせ突き刺さった。


龍は凍りついたように動けない。頬を掠めた風の感触がまだ残っていた。

ゆっくりと振り返り、震える刃が的の中心に突き立っているのを確認する。心臓が胸を叩くように鳴った。


「……」言葉が出ない。ただ、目の前の光景を呆然と見つめるしかなかった。


祐介は変わらぬ表情で彼に視線を戻す。

「十分、厳しいだろ?」まるで時刻を尋ねるかのような平然さだった。


龍は瞬きを繰り返し、ようやく息を取り戻すと、再び眉をひそめた。

「……あの的は遊び道具じゃねえんだ。美山から持ってきた思い出の品なんだぞ。簡単に手に入るもんじゃないんだ!」


祐介は目を瞬かせ、一瞬考える素振りを見せた。

「……悪い」頭をかきながら短く謝る。


龍はまだ不満げに睨んでいたが、重苦しい空気はすでに薄れていた。

「……ど真ん中か」小さく呟き、その腕前だけは認めざるを得なかった。



龍は残っていたポッキーを食べながら家を出た。祐介と祖父は、まだ何やら話があるようで家に残っている。


街は青白いネオンとホログラム広告に照らされていた。高層ビルの隙間を、無数の配送ドローンが飛び交い、磁気列車が銀色の閃光を放ちながら駆け抜ける。


雨上がりの路面には水たまりが残り、街の灯りを砕けた夢のかけらのように映し出していた。龍はアイドルのホログラムがエナジードリンクを宣伝する巨大スクリーンの前を通り過ぎる。その人工的な明るい声は、遠くの車の音や人々のざわめきに溶けていった。


ふと、彼の視線はある光景に止まる。ボールを追う子どもと、それを叱る母親。鉄と機械に囲まれた世界の中、その何気ない日常はどこか別世界のように見えた。


最後のポッキーをかじりながら、背筋に嫌な感覚が走る。誰かに見られているような――。周囲を見回すが、目に映るのは気にも留めない通行人と、ゆっくり首を回す監視カメラの赤いランプだけだった。龍は首を振り、妄想を振り払うように携帯を取り出す。


『今、空いてる?』



机に広げたノートの上で、乃愛(のあ)はペンを止めた。携帯の振動に顔をしかめ、画面を確認すると「如月 龍」の名前。こんな時間に彼から連絡が来るとは思っていなかった。


『宿題してるけど……なんで?』と返す。


すぐに新しいメッセージが届いた。


『散歩の約束、まだ果たしてなかっただろ』


乃愛は文面を二度見し、唇に笑みを浮かべた。心臓が早鐘を打つ。(ちゃんと覚えてたんだ……)軽く流そうと思ったが、唇を噛み、いつもより少し大胆に指を動かした。


『来るなら覚悟してよ? 全部のショッピングモールに付き合ってもらうから』


龍の返信は早かった。

『じゃあ俺からも警告。荷物持ちは絶対しないぞ。たとえ土下座されてもな』


乃愛の指は迷わず動く。

『安心して。荷物は自分で持つから。その代わり――ずっと手をつないで道案内してね』


その言葉に、龍は思わず微笑む。声が脳裏に響いた気がした。少し意地悪に、でも甘えるように彼を揺さぶる乃愛の声。


『もうすぐ着く。準備しとけよ』


乃愛は弾む気持ちを隠せず返す。

『財布の準備も忘れないでね。今日のディナーは全部おごってもらうんだから!』


龍は短く笑った。自然と零れる、心からの笑みだった。

街の光を瞳

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