22. 真の正体(パート2)
龍はじっと見つめていた。眉をひそめ、両手を腿の上に強く押しつけながら。部屋には重苦しい緊張が漂い、まるで空気そのものが動くのをためらっているかのようだった。
「準備はできてる」
低いが確かな声で龍が言った。
「自分が誰なのか…なぜこんなことが起きているのか、知る必要がある」
則夫はゆっくりとうなずいた。戦争と年月に削られたその瞳には、哀しみと誇りが混じっていた。大きく息を吸い込み、口を開いた。
「お前のことを語る前に、この国の盤面を理解してもらわねばならん。日本 はただの法律や政府に支配された国ではない。政治家や演説の裏には、影から支配するもう一つの力がある」
彼は椅子に深く座り直し、両手を机の上で組んだ。
「“七つの家”――代々存在してきた一族だ。血で刻まれた古い地図のように、この国を分け合ってきた。裏社会、エネルギー、金融、政治…すべてを牛耳り、時には中央政府の座に誰が就くかさえ決めてきた」
龍は瞬きもせず聞いていた。呼吸は深いが静かだった。
「北は前田。冷徹で計算高く、武器の密輸と産業スパイを牛耳る。首都に根を張るのは遠藤。政府に深い繋がりを持つ。中央には伊藤。情報操作とメディア支配の専門家だ。東には張…中国系の犯罪網を持ち込み、我が国の海岸に根付いた。東南は宗野。海上貿易と合成麻薬の王。南西は赤松。闇医療、臓器売買、黒い医術の網を広げている」
則夫は一度言葉を切り、声を落とした。
「そして南には…藤名村がいた」
龍の眉間がさらに深く寄った。
「…いた?」
「ああ」老人はうなずいた。「だがその歴史は消された。いや、少なくともそう“思わせた”のだ」
則夫は身を乗り出し、声を重くした。
「数十年前、“七つの影の盟約”が結ばれた。密約だ。日本 を静かに分割するための。表立った戦争もなく、報道もされず、互いの領地への侵攻は禁止された。年に一度“影の晩餐”で顔を合わせ、もし一家が消えれば…残りが票を投じて新たな座を決める」
「じゃあ…藤名村は?」龍の胃が締めつけられる。
「彼らは最弱だった。支配していたのは鬼熱地方。貧しく、山ばかりで忘れられた地。錆びついた工場、汚染された街、何の価値もないように見えた。細々とした密輸と地方役人の腐敗に頼るしかなかった。他の一族からすれば、笑い草にすぎなかった。…だがすべては変わった」
則夫は息を深く吐いた。龍は唾を飲み込むことすら難しかった。
「当主が死んだ。事故だと言う者もいる。だが私は知っている――政府の失敗した実験だと。誰もが藤名村の終焉を信じた。鬼熱地方を分け合う計画すら立っていた。だが…」
老人は龍の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「その時、現れた。藤名村 雄蓮――末の息子。MSIが高すぎてセンサーですら測定困難な“保有者”。誰もが長くは持たないと思っていた。だが彼は生き延び、そして誰よりも強くなった」
龍の背筋に悪寒が走った。その名が脳裏に異様な響きを残す。
「彼は均衡を戻す気などなかった。求めたのは復讐だ。忘れられた保有者たちを集め、鍛え、軍を築いた。爆破、誘拐、破壊工作…。政府を震撼させた。そして何より――“思想”を生み出した」
「思想…?」
「ああ。この国を支配するマフィアも腐った政府もいない国を――忘れられた者たちのための国を。彼が築いた“黒炎の教団”は、絶望した者たちにとって宗教のような存在となった。人々は彼を“解放者”と呼んだ」
龍の血が凍るようだった。目を見開き、顎が震える。
「だがその一族は“沈黙の夜”に消えた。マフィア、異能対策局、政府――すべてが彼を危険視した。抹消されたのだ。記録は焼かれ、歴史から消された。だが…」
龍は身を乗り出した。唇が震える。
「…だが?」
則夫は迷わず言った。
「お前の名――如月 龍。それはただの名ではない。藤名村 雄蓮…彼はお前の直系の祖だ」
重い沈黙。時計の音だけが遠くで響く。
「その手首の印…あれはただの模様ではない。雄蓮の刻印だ。古い傷跡。世代を超えて受け継がれてきた“彼の本質”の欠片だ」
「そんな…」龍の声は否定ではなかった。ただ、理解しようともがく者の呻きだった。
「黒炎の教団は知っている。お前が彼だと。単なる後継者ではない。“再誕”なのだ」
カメラのように視線は龍の瞳に寄っていく。わずかに震え、怒りと恐怖と疑問に満ちたその目に、則夫の声が響いた。
「――お前は藤名村 雄蓮の生まれ変わりなのだ」
龍は動けなかった。部屋は凍りついたように静まり返り、ただ棚の上の電気時計の微かな唸りが響いていた。腿を握りしめていた両手は、今や力なく垂れ下がっていた。則夫の言葉は湖に投げ込まれた石のように、彼の内面に波紋を広げ続けていた。
(な…何だと…?)
頭の中が白く霞んだ。聞き間違いだろうか。藤名村 雄蓮?再誕?
空気が濃く感じられる。呼吸のひとつひとつが重くなり、こめかみが脈打つ。心臓の鼓動が乾いた衝撃音となって耳に響いた。龍はゆっくり立ち上がり、窓際まで歩み寄ったが、窓を開けはしなかった。ただ外を見つめ――何も見てはいなかった。
「こんな…現実であるはずがない」
声はかすれ、独り言のようだった。
則夫は何も言わなかった。ただその姿を憐れみと敬意の入り混じった眼差しで見守っていた。この瞬間は自分のものではない――真実に打ち砕かれた孫のものだった。
龍は勢いよく振り返り、混乱に燃える瞳で叫んだ。
「どうしてそんなことがあり得るんだ…?どうやって奴のゲノムが俺の身体にあるっていうんだ!」
言葉は鋭かったが、攻撃的ではなかった。責めるためではなく、理解するため。答えを求めていた。自分の世界がもはや論理を提供してくれないから。
「“再誕”ってどういう意味だ?俺は俺じゃないってことか?…誰かの器にすぎないってことか?」
両手で顔を覆い、指で目を押さえた。肩から始まった震えは全身へと広がっていった。
「いつから知ってたんだ…?」
声は低く、震えていた。
「いつから、俺の中にこんなものがあるって分かってたんだ…?」
則夫は黙っていた。答えを拒んでいるのではない。言葉を慎重に選ばねばならないと理解していたからだ。今、龍が必要としているのは“情報”ではなかった。砕けた自我を繋ぎ止めるための欠片だった。
龍は再び口を開いた。今度はゆっくりと、重く絞り出すように。
「ずっと…俺はただの普通のガキだと思ってた。不運で、傷だらけで、答えのない疑問を抱えた…ただそれだけの存在だって。なのに今になって分かるのかよ…?俺は、世界中が葬り去ろうとした男の遺産だって?」
赤く染まった瞳で祖父を見つめた。涙はまだ落ちていなかった。
「俺は何なんだ、じいちゃん…?兵器か?実験体か?それとも…時限爆弾なのか?」
言葉は最後には消え入りそうになった。口にすることすら恐れているかのように。再び部屋は沈黙に包まれ、張り詰めた空気が重く垂れ込める。
そして則夫は――龍がこれまで見たことのないほど厳しい表情で立ち上がり、一歩前に出て言った。
「…お前は爆弾なんかじゃない、龍。だが世界は――お前の正体を知ったとき、お前を爆弾として扱うだろう」
則夫はしばらく立ったまま、孫を静かに見つめていた。台所の柔らかな灯りがわずかに彼の顔を照らし、陰影がその表情の深刻さを際立たせていた。やがて彼は深く息をつき、ゆっくりと歩いてテーブルへ向かい、龍の正面に腰を下ろした。
「これから話すことに、決定的な答えはない」
低く、それでいて揺るがぬ声で則夫が言った。
「なぜなら科学ですらまだ完全には理解していない現象だからだ。極秘の場でようやく議論され始めたばかりのこと…。それでも、大半にとっては仮説にすぎない」
龍は腕を組み、黙って見つめていた。その視線は答えを強く求めていた。
「お前の存在は唯一無二だ、龍。お前の中にあるものは単なる遺伝情報じゃない」
則夫は言葉を区切り、喉を詰まらせるようにして続けた。
「それは“意図された遺産”だ。計画的に植えつけられた継承。まるで誰かが自らの存在を血脈に蒔いたかのように。藤名村 雄蓮は…それを成し遂げた。彼の完全なゲノムは――お前の中に潜んでいる」
龍は信じられないというように眉をひそめた。
「だが、それは不可能だ。誰も…そんなふうに生き返ることなんてできない。それは科学じゃなく――」
「科学でもない」 則夫が静かに言葉を遮った。「だが魔法でもない。生物学と不可解の狭間にあるものだ。だからこそ…異能対策局に知られるわけにはいかなかった」
則夫は身を乗り出し、さらに声を落とす。
「もし奴らが“遺伝子の再誕”という可能性を知り…そしてお前がその生き証人だと分かったなら――迷わずお前を連れ去っただろう。合意を求めたりはしない。分析のために拘束されるか…あるいは、真実を隠すために抹消されるか。そのどちらかだ」
その告白は、見えない拳となって 龍を打ち据えた。背筋を冷たい震えが走る。
「いつから…知っていたんだ?」
声は荒く、掠れていた。
則夫は目を閉じ、短く息を吐く。
「お前が生まれたときだ。病院で、手首にあの痕を見た瞬間、ただの印ではないと悟った。そして十二になった頃、あの不可解な低血圧の発作があったろう?学業のストレスだと誤魔化したが…違った。あれがお前の体が“理解できない何か”に初めて反応した時だった。そしてその後…悪夢が始まった」
龍は唇を噛んだ。思い出す。夜ごとの息苦しさ。胸を掴むような恐怖。声を発さず、炎のような眼差しでこちらを見下ろす影の姿を。
「汗に濡れて目を覚まし、“影が呼んでいる”と震えながら言った夜もあった…」則夫の声は細く揺れた。「俺は隣に座っていた。お茶を淹れ、取るに足らぬ悪夢のように振る舞った。だが内心では…龍、お前の変化に怯え続けていたんだ」
彼は震える手を机の上に置いた。
「何かがお前の中で育っていた。何かが目覚め始めていた。俺にできることは、密かに調べ続けることだけだった。古い伝手を辿り、機密の記録を探り…間違っていればお前を失う危険があった。だがもし正しければ――世界がお前を敵に回すことになる」
龍は唾を飲み込む。頭の中は渦のように過去の記憶が蘇り、色を変えていく。祖父の穏やかな表情の裏に、どれだけの恐怖が隠されていたのか。
「どうして…黙っていたんだ…?」
声は震え、かすれていた。
「どうして、何も知らされずに生きさせたんだ…?」
則夫は顔を上げた。その目に宿るのは、長い年月を背負った深い悲しみだった。
「怖かったのだ。真実を知ったお前が“お前でなくなる”ことが。自らを異形として見てしまうことが。…お前は怪物なんかじゃない、龍」
重苦しい沈黙が落ちる。
「お前は俺の孫だ。何を背負おうとも。誰がその中で目覚めようとも。俺が生きている限り…お前は如月 龍のままだ」
龍は俯いた。言葉は胸を締め付けるように痛み、同時に心を支える温もりでもあった。自分が誰なのかは、もはや分からない。だが――少なくとも今は、一人ではなかった。
そのとき、廊下の向こう――半開きの扉の陰に、ひとつの影が佇んでいた。
イリナが帰宅したのは、ほんの数分前のことだった。いつものように市場の袋を抱えて。だが玄関に足を踏み入れた瞬間、耳に届いたのは普段とは違う声色だった。低く、重く、緊張を孕んだ父と息子の声。思わず足を止め、龍の掠れた声を聞いた瞬間――彼女は踏み込むことを躊躇った。
袋をそっと玄関の椅子に置き、音を立てぬよう廊下を進む。壁に身を寄せ、台所へ繋がる角に立つ。
そこから覗き見えたのは、机に身を伏せる則夫の姿と、背を強張らせる龍の背中。交わされる言葉は、日常の会話でも、些細な口論でもなかった。もっと深く、もっと重いもの。母として、娘として――イリナは悟った。これは、口を挟むべきではない。
則夫が龍の悪夢について語るのを聞き、彼女の胸にも古い記憶が蘇る。真夜中、ベッドに座り込む龍。闇に開いた瞳。影と炎を呟く震えた声。あれは思春期特有の夢だと片付けてきた。まさかその裏に、こんな秘密が隠れていたとは。
則夫が“秘密裏に調べ続けた”と告げたとき、イリナの喉に硬い塊がせり上がった。その声音を知っていた。亡き妻の話を、独りの時に呟いていたときと同じ――愛と、重い決断の響き。
そして、息子が「なぜ黙っていたのか」と問い詰める声を聞いたとき。気づけば頬を涙が伝っていた。悲しみでも、怒りでもない。ただ――ようやく心が交わる姿を目にした安堵の涙だった。閉ざされてきた龍が心を開き、秘密に縛られた父が心を差し出す姿に。
イリナは壁に背を預け、静かに息を吐いた。壊れてしまいそうなこの瞬間を邪魔したくはなかった。
(これでいいの…)
手の甲で涙を拭いながら、彼女はそう思った。
そして彼女は、そのまま数分間そこに留まっていた。沈黙の中で――祖父と孫の関係を永遠に変えることになる瞬間を、知らぬままに見守っていた。
則夫は黙り込み、 龍もまた口を閉ざしていた。
重苦しい会話の余韻は、濃霧のように部屋の空気を覆い、容易には消え去らなかった。テーブルの上に置かれた半分飲みかけのコーヒーも、その時間の流れを止めているように見えた。まるで壁掛け時計さえも、事の重大さを悟り、針を進めるのをやめてしまったかのように。
そのとき――柔らかな足音が、張り詰めた空気を破った。
イリナが言葉もなく台所に現れた。微笑みは浮かんでいたが、その目元には拭いきれぬ涙の跡が残っていた。手には、帰り道に買ってきた食事の入った盆を抱えている。すぐには口を開かず、ただ歩み寄り、テーブルの上にそっと置いた。
「…何か、温かいものが必要かと思って」
声は小さく、まるで神聖な場に触れるように控えめだった。
龍が顔を上げる。イリナは何も問わず、ただ隣に腰を下ろし、説明を必要としない優しさで背中を撫でた。
則夫は直接目を合わせることはせず、それでも深く頷いた。その頷きには、感謝と同時に――彼女の理解にふさわしい自分ではまだないという、かすかな後ろめたさが滲んでいた。
会話は続かなかった。だが必要もなかった。今そこに満ちる沈黙は、秘密のためのものではなく、互いを支えるためのものだったから。
夜はすでに町を覆い、通りは穏やかさを装った静けさに包まれていた。
龍の部屋に差し込む唯一の光は、遠くの街灯から届くもの。壁に揺らめく影が、風に合わせて踊るように姿を変えていく。
龍は窓辺に腰を下ろし、膝を抱えながら額を枠に預けていた。虚空を見つめているが、そこに何も映してはいない。ただ深く、深く呼吸を繰り返し、自分を無理にでも繋ぎ止めようとしていた。
頭の中は嵐だった。祖父の言葉、組み合わさっていく断片、悪夢、夢――全てが反響し、耳を塞いでも消えない轟音のように押し寄せる。
(どうして人は…自分の体に祖先のゲノムを宿せるんだ?)
(どうして人は…他人の命を抱える器になれるんだ?)
(“俺”って…一体何を意味する?)
体はかつてないほど冷たかった。気温のせいではない。存在そのものが脆くなり、アイデンティティという殻が崩れ始めているような感覚。
再び悪夢が蘇る。廃墟と化した戦場。屍の山に立つ影。押し殺された悲鳴。血。血。そして――黒い空に吊るされた時計が、容赦なく刻むカウントダウン。
剣道大会の記憶も浮かぶ。体が理屈を裏切った瞬間。血が燃え上がり、内側から何か――自分ではない“何か”が目覚める感覚。叫び。衝撃。血に塗れ、意識を失った相手の姿。
(傷つけるつもりなんて…なかった)
(なのに、俺は――傷つけてしまった)
呼吸が乱れる。恐怖が形を持ち始めた。それは抽象的な思考ではなく、確かに迫る脅威だった。
(もし、制御できないのだとしたら?)
(もし、また誰かを――)
乃愛の笑顔が浮かぶ。無骨な冗談、真っ直ぐな眼差し。
源三の声が蘇る。厳しい助言。初めて出会ったときから、信じてくれた背中。
(俺は…あの二人さえも傷つけるかもしれない。危険に巻き込むかもしれない)
拳を固く握る。体は震えていたが、それは寒さではなかった。怒り。焦燥。恐怖。――己を信じられない者が抱く感情そのもの。
(もし俺が…あの影と同じ存在だとしたら?)
(もしあの影が…俺自身なのだとしたら?)
喉が詰まる。こみ上げてくる絶望は、己の運命への恐れではなかった。己に何が起ころうとも構わない――問題は…
それは――愛する者を傷つけてしまうかもしれないという恐怖だった。
己の血の奥底に眠るかもしれない怪物の存在。
その瞬間、 則夫の声が脳裏に蘇る。
「異能対策局 にお前の存在を知らせなかったのは、奴らがお前を“物”にするか…あるいは消してしまうと分かっていたからだ」
(もし…いつか同じことが起きたら?)
(もし大切な人たちまで、巻き込まれてしまったら?)
窓枠に一粒の涙が落ちた。
それは悲しみのためではない。己が最も恐れる存在へと変わってしまう、その恐怖ゆえに。
世界にとっての怪物ではなく――愛する者たちにとっての脅威へと。
だが、則夫が 龍 の異常を必死に隠してきたその裏で。
窓のない無機質な地下の通路を、冷たい蛍光灯が断続的に照らしていた。金属の壁は乾いた音を反射し、通気口の奥からは電力の過負荷で生じる低い唸りが響いている。
その突き当たり。ゆっくりと、一枚の扉が開いていった。
飾り気のない金属のプレートがそこに掲げられている。
「被験者登録・分類局――資料保管課」
沈黙を破ったのは、重いブーツの足音だった。
異能対策局 のエージェント。黒い制服。無表情。光を遮るゴーグル。
胸に抱えた厚いセキュリティファイル。その表紙には、真紅のコードが刻まれていた。最新の観測ユニットから回収された機密書類を示すもの。
無言でカードをリーダーに通す。
鈍い電子音。続いて、油圧機構の低いうなりと共に扉が開いた。
中には、整然と並ぶ金属棚。数え切れぬほどの引き出し、数字コードのラベル、書類を仕分けるトレー。
壁を這う電磁の脈動が微かに鳴り続けていた。まるで空間全体が意識を持ち、監視しているかのように。
エージェントは無機質な机にファイルを置き、順に内容を確認していった。
文書。写真。現地報告。統計グラフ。対象者のプロファイル。
そして――手が止まった。
一枚の紙が他よりわずかに飛び出していた。
その上部には、赤い刻印。
【極秘 ― 高危険度 / 優先観察対象】
無言でそれを机に滑らせる。
表情はほとんど動かない。ただ、眉がわずかに寄った。
――記載内容。
氏名:如月 龍
年齢:16歳
居住地:東京
所属:青山学園
MSI 指数:853.7 mg/L
分類:極めて不安定 ― 潜在的破壊因子
状態:監視下
補足:下級エージェントの接触は禁止。
二度読み返す。
表情は変わらない。それでも、わずかに顎が硬直する。
光に隠れていたはずの額に、一筋の汗が滲んでいた。
続けて隣のファイルを開く。そこにはラベル。
「如月 則夫 ― 閉鎖済みファイル(要高位アクセス)」
だが、中身を抜き出す前に――耳元の通信機から、かすかな警告音。
動きが止まる。顔を上げる。
頭上の蛍光灯が一瞬だけ明滅する。
視界のインターフェースに、通知が浮かび上がった。
【リアルタイム更新 ― 対象:如月 龍】
感情変動を検知。MSI 値の上昇を推定。観察フェーズ 2 へ移行せよ。
エージェントはゆっくりとファイルを閉じた。
積み重ねる動作は無駄のないものだった。だが、如月 龍の名が記された書類に触れたその瞬間――手が一拍、遅れた。
理解してしまったのだ。
その名が、ただの“対象者”ではないことを。
それは、時限爆弾だった。




