20. 望まれぬ宿主
「泥にまみれるより、暖房の効いた事務所に座っている方が似合うと思っていたが……」旭は薄く笑い、ゆっくりとライフルを回して肩に担いだ。「あの老いぼれは、お前を磨き上げた机の上の宝石にしておくと思っていたんだがな」
加納 祐介は笑わなかった。一歩前へ踏み出し、その視線を逸らさない。
「俺は、書類の埃より泥の方が性に合っている」静かな声だったが、その響きには氷のような刃があった。
旭は肩をすくめ、皮肉な口調を崩さない。
「じゃあ、お前は思ってたほど大事にされてないんだな。ガキの子守りに回されたくらいだ、価値なんてその程度だろ?」
加納の目が一瞬だけ陰った。だが言葉を返すことなく、彼は一気に間合いを詰めた。旭はライフルを構え、発砲しようとしたが、祐介は正確な回転でその銃口を上へ弾き上げた。衝撃で火花が散り、旭の一発は虚空へと消える。祐介の速さに、旭はわずかに目を見開いた。
互いに打ち合いが始まる。加納は、影のような速さで滑り込む。その動きに、地面から 如月 龍が目を見開く。(脈走……? あの技を使っているのか……)
旭は落ち着いた動きながらも、切り裂くような正確さを保っていた。加納の一撃ごとに、必要最小限の防御で受け流す。そのライフルは、ただの遠距離武器ではなく、彼の手にかかれば盾であり、槍であり、鋼鉄の鞭となった。
速度は増し、大地が足元で軋み、周囲の木々が震える。やがて、両者は真正面から衝突し、武器と武器がわずか数センチの距離でぶつかり合う。全体重をかけて押し合いながら、旭が歯を食いしばって吐き捨てた。
「お前はいつだって清廉ぶって、優等生面してやがった……だが所詮、司令官の飼い犬だ。忠実な駒にすぎねぇ」
加納の瞳が刃のように鋭くなる。言葉ではなく、短い咆哮で応え、腰を捻って旭の防御を弾き飛ばした。そのまま、機械的な造形を持つ拳銃を抜き、素早く三発放つ。しかし、旭は身を翻して全弾をかわした。
戦いは、まだ始まったばかりだ。
乾いた雷鳴のような衝撃音が響き渡る。加納は片手に戦闘用ナイフ、もう片手に拳銃を握り、旭の改造狙撃銃の強化銃床とぶつかり合う。数秒間、二人は動きを止め、力比べのように押し合った。顔と顔が間近に迫る。
「相変わらず真っ直ぐだな……」旭は歪んだ笑みを浮かべる。「訓練校の頃、偉そうに演説してたのを覚えてるか? あれこそ笑い草だった。骨を投げてもらうのを待つ犬が、よくもまあ……」
加納は唸り声を上げて押し返すが、旭は素早く反撃に転じた。ライフルの反動を利用して体を捻り、肩で加納の胸を打ち、さらに回し蹴りで胴を撃ち抜く。衝撃で加納は数メートル吹き飛び、土と枝を巻き上げながら転がった。
旭はすぐに追わなかった。ライフルの銃床を地面に立て、両手をその上に重ね、静かに加納の落ちた先を見据える。沈黙が数秒続いた。
「フン……」軽く息を吐き、わずかに頭を下げる。「それで終わりか」
ゆっくりと振り返ると、数メートル先に 龍が背を草木に預け、蒼白な顔で半ば瞼を閉じていた。隣では 乃愛が膝をつき、布切れで必死に出血を止めようとしている。その手は震えていた。
「大丈夫よ、 龍くん……!」 乃愛は声を震わせながら、特に致命傷となっている旭の弾丸が食い込んだ肋間部を必死に押さえていた。
龍は、必死に呼吸を整えようとしながらも、無理やり落ち着きを保っていた。
旭はゆっくりと、しかし確実な足取りで彼らに向かって歩き出した。
「如月 龍、お前は俺と来る」
その声は乾いていて、ほとんど命令のようだった。
乃愛は息を荒げながら顔を上げた。旭の影が近づくのを見た瞬間、その瞳に決意の色が宿る。迷うことなく、地面に落ちていた戦闘用ナイフを手に取り、 龍と旭の間に立ちはだかった。
「絶対に触らせない!」
旭は眉一つ動かさなかった。素早く正確な動きで、ライフルの銃身で彼女の手首を弾き、前腕で横へ押しやる。 乃愛は横倒しになり、胸から空気が押し出されるような声を漏らした。
「お前は標的じゃない」
視線も向けず、低く呟く。
さらに数歩進み、旭は 龍の前で立ち止まった。少年は頭を上げることすらままならず、傷口から血を流し続け、呼吸も弱々しい。旭は感情を見せぬまま、わずかに腰を落とし、その瞳をまっすぐ見つめた。
「出血がひどいな、如月 龍。もう長くはもたないだろう……だが、俺と来ればまだ助かる」
「太絆」
旭は後ろを振り返りもせずに命じた。
「老人を抑えろ。これ以上、時間は無駄にできん」
呼ばれた太絆は眉をひそめ、騒乱の最中に命令されることに明らかな苛立ちを見せた。歯を食いしばり、短く唸ってから、 源三を横目で睨む。
「ちっ……面倒ごとはいつも俺の役目かよ」
毒づくや否や、太絆は 源三を食い止めるべく飛び出した。
一方、 龍は依然として植物の根元に背を預け、左脇腹を押さえていた。血は 乃愛が応急処置として巻いた布を濡らし、痛みは鋭く、途切れることなく彼を苛んでいた。筋肉が焼けるように熱く、呼吸は浅く、鼓動のたびに身体の限界を思い知らされる。
だが、肉体の痛みよりも深く蝕んでいたのは――無力感だった。
旭は自分の所有物を回収するかのように、焦りもなくゆっくりと近づいてくる。 龍は胸の奥が締めつけられるのを感じた。それは傷のせいではなく、内側から湧き上がる重苦しい感情――悔しさ、恐怖、怒りの入り混じった塊。動きたい、戦いたい、叫びたい……だが身体は応えなかった。
彼の意識はふと、別の場所へと飛んだ。
美山。
家の裏を流れる川の音、屋根の上で雲を眺める穏やかな午後。昼食に納豆が出るかどうか、それが唯一の悩みだった日々。
だが今は――血と傷と敵と秘密に囲まれ、命を賭してまで自分を守ろうとする人々がいる。
姉の顔が浮かぶ。必ず守ると約束したあの日を思い出す。
祖父の静かな瞳、その扉を悲しみが叩く未来を想像してしまう。
乃愛の姿――傷つきながらも決して退かず、自分を守ろうとするその背中。
源三――奪われまいと命を懸けて戦ってくれている。
その一つ一つが、胸の奥で何かを崩していく。
(俺は……みんなに迷惑ばかりかけてる……)
責任の重みが肩にのしかかる。賭けられているのは自分の命だけではない。自分を想い、自分を受け入れてくれた人たちの命もまた、危機に晒されているのだ。
(俺は……どうすればいい……? どうして、俺は追われている……?)
思考は行ったり来たりしながら、この状況がなぜ起きているのか理由を探していた。だが、考えるにはあまりにも不適切な時だった。
(本当なのか……俺が……藤名村 雄蓮の後継者だって?)
恐怖が心の奥に忍び寄る。それはあらゆる災厄をもたらす存在になってしまうかもしれないという恐れだった。
旭の足音が近づくたび、その響きが頭の中で反響し、絶望へと引きずり込もうとする。だが、その奥底で何かが抵抗していた。かすかな炎、弱々しい声。
「……立て」
それが自分の良心か、誇りか、それともかつて 源三が言った言葉なのかはわからない。だが確かにそこにあった――静かな怒りを秘めた抵抗の火花が。
(こんな終わり方は……許せない)
旭は 龍を見つめていた。いつものように、静かで、揺るがず、すべてがすでに決まっているかのような表情で。
その時、不意に鋭い音が空気を切り裂いた。
「……っ!」
旭は寸分の狂いもなくライフルを構え、迫る攻撃を防いだ。
そこに現れたのは、奈落の底から這い上がったかのような影――加納 祐介だった。
弾丸は旭の首筋をかすめるほどの距離を通過した。その近さを感じた旭は、自らの首に手を当て、傷がないか確かめる。そして、銃口を向ける祐介の方を鋭く睨みつけた。
(クソ……飼い犬風情が)
祐介はためらいなく旭へ突進した。拳にはミアズマがまとわりつき、その表情には何年も押し殺してきた怒りが露わになっていた。
「 龍! 逃げろ!」
旭と 龍の間に割って入りながら祐介が怒鳴る。
「彼女とガキを連れて、今すぐ行け!」
(……彼女?)
水原 乃愛は祐介の言葉を聞き、一瞬だけそんなことを考えてしまった。場違いだとわかっていても、頬が熱くなるのを止められなかった。
龍はまだ意識がぼんやりしていたが、祐介の切迫した声がその霞を吹き飛ばした。ちょうどその時、 乃愛が駆け寄り、 龍の腕を掴む。
「行こう、 龍くん。早く」
「圭哉さん!」
乃愛は茂みの陰に隠れていた少年に声をかけた。
恐怖で見開かれた目のまま、 圭哉は数秒間固まっていたが、やがて震えながら駆け寄ってきた。手にはまだ土の跡が残っている。
「ほら! 一緒に運んで!」
乃愛の声に圭哉はこくりと頷き、二人で 龍の身体を支えながら走り出す。寺を囲む森の小道へと入り、戦いの光に照らされる夜の闇の中を進んでいった。
だが、 乃愛が突然足を止めた。
「……お父さん」
その声は震え、そして凍りついた。
少し先で、 源三が 太絆のアッパーカットをまともに受け、わずかに宙に浮き、乾いた鈍音とともに背から倒れ込んでいた。
「お父さんっ!」
乃愛は 龍を放り出すように手を離し、父に向かって駆け出そうとした。
「先生っ!」
龍もまた絶望を滲ませた声を上げる。胸の鼓動が早まり、全てが自分のために起きているという事実が鋭く胸を刺した。
源三は立ち上がろうとしていた。誇りを取り戻そうとするかのように――だが、太絆は短く刈った髪を鷲掴みにし、古びた雑巾でも扱うようにその身体を押さえつけていた。
その光景はあまりにも痛ましく、 龍は自分のために戦っている者の苦しみを前に、ただ腕を組んで見ていることなどできなかった。
圭哉はその場に凍りつき、拳を握りしめたままだった。目の前の光景が、彼の勇気を粉々に砕いていく。胸は暴れるように脈打ち、足は今にも崩れ落ちそうだった。
だが、 龍は違った。
胸の中心から熱が湧き上がってきた。それは熱病ではない。もっと濃く、もっと重いもの。血は液体ではなく――炎のように流れていた。銃弾の傷も、腹の切り傷も、打ち身も……すべてが消え去っていく。まるでその痛みが、眠っていた何かを養っているかのように。
呼吸が速まる。
周囲の空気が、別の密度で震えていた。
(……なんだ、これは……?)
瞳孔が開き、世界がくっきりと鮮明になる。身体は驚くほど軽くなっていた。
そして――何の前触れもなく、駆け出した。
圭哉と 乃愛が驚くほどの速さで、 龍は 太絆との距離を一瞬で詰めた。
「な、何――っ!?」
振り向いた太絆が声を上げる。
だが、もう遅かった。
龍の拳が真正面から顔面を捉え、骨が軋む音が響く。太絆の顎が揺れ、巨体が後方へ吹き飛び、地面に叩きつけられた。
「なに……が、起きてるの……?」
乃愛は目の前の光景を信じられず、呟いた。
龍は止まらない。
本能のままに繰り出す動き。その両腕を黒い炎のようなミアズマが包み込んでいた。放つ一撃一撃が新たな力を帯び、肉体も精神も限界を超えたかのように鋭く研ぎ澄まされていく。連打が太絆を押し返し、反撃を試みるも、その腕は 龍によって瞬時に封じられた。
「もう……誰にも……傷つけさせないっ!」
怒りと純粋な決意が混じった声が、夜を震わせた。
次の瞬間、 龍の放った衝撃波が木々を揺らす。
太絆は再び地面に叩きつけられ、今度はすぐには立ち上がれなかった。
圭哉は口を開けたまま見つめ、 乃愛は胸を高鳴らせながら、それが奇跡なのか危険な変化なのか分からなかった。
「……ただの力じゃない……」 乃愛は呟いた。「……何かが……彼の中で変わった」
確かに、変わっていた。
それは新たな如月 龍だった。
そして、この場にいる全員が――その事実を知ることになる。
拳が肉を打つ音が、葉や瓦礫の砕ける音と混ざり合う。 龍は一言も発しない。その顔は集中の色に染まり、呼吸は荒くも安定していた。一撃ごとに込められたのは、止めるため、敵の意思を砕くためという純粋な意志だった。
太絆は辛うじて応戦するも、 龍の速度と威力に押され、一歩また一歩と後退していく。唇の裂け目から血が伝い落ち、筋肉は張り詰め、全身が防戦一方だった。
龍の拳はさらにミアズマを纏い、次々と振り下ろされる。その一撃ごとに空気が震え、腹へのフック、顔面への肘打ち、肋骨を狙った膝蹴りが炸裂する。太絆の口から血の混じった唾が飛び散った。
その怒りは沈黙のまま、しかし嵐のように激しく――雷鳴を必要としない恐怖となって襲いかかっていた。
その攻防の最中、二人は寺院の側面にある壁際へと移動した。そこは古い石と雑草が入り混じる場所だった。
そこで 龍は、ほんの一瞬だけ構えを解いた。まるで時を止めたかのように。
乃愛は全てを見つめながらも、状況が掴めずにいた。
(……何が起きてるの? どうして止まったの?)
太絆は、その一瞬を逃さなかった。
両手を胸の前で組み、何かの印を描くように指を動かすと、短く息を吐く。
「血界の怒り」
低く呟いた瞬間――
太絆の両腕の血管が黒く染まり、 龍と同じようにその肉体が膨れ上がったように見えた。
「……捕まえたぞ!」
吠えるような声と共に、腹部への鋭い蹴りが突き上げられる。
衝撃は容赦なく 龍の体を折り曲げ、そのまま太絆が獣のように襲いかかった。シャツの襟を掴み、苔むした石壁へ叩きつける。
鈍い音が森に響き、戦いのリズムを断ち切った。
太絆の手にはいつの間にか短刀が握られていた。
素早く振り上げ、その切っ先を 龍の首筋へ押し当てる。刃が皮膚を浅く裂き、赤い線を描く。
龍は動かない。息は荒く、額から汗が滴り、両腕は力なく垂れ下がっていた。限界に見えた。
太絆は荒い呼吸を繰り返し、充血した眼に歪んだ笑みを浮かべる。
「もうガス欠か、小僧……?」
そう吐き捨て、刃をさらに押し込んだ。
龍は目を伏せたまま、応えない。
頭は前に垂れ、黒い前髪が目元を隠す。気を失ったか、折れたか――敵の力だけで立たされているかのようだった。
数秒間の沈黙。長すぎる静寂。
そして――ゆっくりと、 龍が顔を上げた。
その瞳は、もはや別のものだった。
そこに宿るのは、怒りでも絶望でも痛みでもない。裁きだった。
十七歳の少年には似つかわしくない、冷ややかで古の影を宿す視線。表情は完全に変わり、静かで揺るがぬ威圧感――ほとんど神域のような気配を放っていた。
瞳孔はより暗く、顔色は青白く、首の筋肉は刃を意に介さぬほどに弛緩していた。
龍――いや、その瞬間に彼を満たしていた“何か”が、ゆっくりと右手を伸ばした。
それは攻撃ではなく、まるで子をあやす父親のように、柔らかく太絆の頭へ触れる仕草だった。
そして、静かに言った。
「……もう来た」
ぞくり、と太絆の背骨を何かが走った。
身体が思考より先に反応する。
その身を覆うオーラが震え、何か古く強大な存在を認識したかのようだった。
「……幽蓮さま……?」
かすれる声で呟き、信仰にも似た光を瞳に宿しながら、太絆は一歩後退する。刃をわずかに下ろし――
その刹那、銃声が轟いた。
弾丸が太絆の背を貫き、彼の体を横へ吹き飛ばす。 龍から引き剥がされるように。
祐介が、脇腹を流血させながら険しい表情で銃を構えていた。
「 龍っ、動け!」
掠れた声で叫び、まだ煙を上げる銃口を構え続ける。
龍の体がぐらりと揺れた。
表情が変わる。
圧し掛かるような気配が霧散し――瞳が元に戻った。
彼は再び、如月 龍へと戻っていた。
困惑し、荒く息を吐き、記憶のない夢から覚めたかのように。
地面で太絆は背の傷を押さえ、苦悶の声を漏らしながらも、 龍を見上げていた。
その瞳には恐怖と信仰が混ざっている。何が起きたのか分からない。ただ一つ、己の信じる神を見た――だが、その神は微笑まなかった。
少し離れた場所で 乃愛は、胸を締め付けられる思いで見ていた。
その顔……あの冷たくも静かな表情……それは 龍ではなかった。
正直で、不器用で、誠実なあの少年ではない。
そして、長い間感じることのなかった感情が胸を満たした。
それは――恐怖。
龍のためではなく、 龍の内に目覚めつつある“何か”のために。
乃愛はすぐに駆け寄った。
「 龍くん! 大丈夫!? 私の声、聞こえる?」
龍は瞬きをし、困惑した表情で 乃愛を見つめた。
「 乃愛先輩……何が起こったのか……わからない……」
乃愛は震えながらも、力強く彼を抱きしめた。
祐介はゆっくりと歩み寄り、銃をしまい込む。しかし、その視線は未だ 龍に注がれたままだった。そこには心配と冷徹な計算が入り混じっていた。
(あれは単なる感情的な反応じゃない……あの少年……身体の中に、別の何かがいる)
そう考えながら、 乃愛の腕の中にいる 龍を見つめる祐介の表情は硬くなった。
――未知の危険。異常な存在。
(あれは……憑依か?)
再び歯を食いしばる祐介。 龍の表情はあまりにも異様で、あまりにも完璧だった。まるで、別人がその身体を操っているかのように。
「……ボスと話さなきゃ」
祐介は低く呟き、背中を冷たい汗が伝った。
龍はまだ荒い息をついていた。 祐介の影が、寺の灯籠の淡い光の中で長く伸びる。
「大丈夫か?」祐介は落ち着いた声で問い、 龍のそばにしゃがみ込んだ。
龍は疲労と痛みで目を細めながら顔を上げた。 乃愛はずっと彼のそばにいて、フード付きの男から裂いた布で作った応急の包帯を傷口に押し当てている。
「……全身が痛い。でも……大丈夫、だと思う」 龍は苦笑混じりに呟いた。
「もう少しだけ耐えてくれ」祐介は素早く傷を確認する。「出血は少し抑えられた。区域を確保したらすぐに運び出す」
龍は壁に背を預け、なんとか自分で体を支えるまでに持ち直した。
「……あの男は?」彼が指しているのは、名を口にせずとも旭のことだとわかった。
祐介は少しの間沈黙した後、無表情で答えた。
「逃げた」
龍の顔がわずかに強張る。だが、それ以上は追及しなかった。祐介の声には、何かを隠す硬さがあった。
祐介は、旭が去る直前に口にした言葉を 龍には伝えなかった。――あまりにも重く、まだ自分ですら処理しきれていない真実を、今この場で、立っているのもやっとの少年に背負わせるわけにはいかなかったからだ。
そのとき、 源三が寺の脇から現れた。足取りは重く、片手で頭を押さえていたが、背筋はまっすぐだった。
「……くそ……頭が割れそうだ……」低く唸りながらも、「まだ状況は持ちこたえてるか?」
「お父さん!」 乃愛は安堵の声を上げて駆け寄った。
源三は疲れた笑みを浮かべ、娘の無事を確かめると、深く息を吐いた。
「大丈夫だ。これくらいは、何度も経験してきた」
地面には 太絆が倒れていた。血に染まった法衣。呼吸はしているが、その瞳にはもう闘志はなく、ただ打ち砕かれた肉体と精神が残っているだけだった。
源三はゆっくりと歩み寄り、その胸に足を乗せた。力を込めたわけではないが、それだけで十分な威圧を与える。
「妙な真似はするな」低く言い放つ。
太絆は応えなかった。もはや言葉を発する気力すら残っていなかった。
そのとき、鋭いエンジン音が寺の外の静けさを破った。急ブレーキの音。
次の瞬間、異能対策局のエンブレムを掲げた装甲車が正門近くに停まった。黒い制服とバイザー付きのヘルメットを装備した十人ほどの武装隊員が降車する。
そのうちの一人が素早く祐介に近づき、直立して敬礼した。
「加納司令、できる限り急ぎました。現場は確保済みですか?」
祐介は頷く。
「はい。関係者全員の拘束を。フードの連中は無力化して搬送しろ。区域内の完全制圧を十分以内に。……負傷したポータ―も連れていけ」太絆を顎で示す。「もう脅威ではない」
「了解」隊員は即座に応えた。
部隊は迅速に動いた。数名は放置された武器を回収・仕分けし、別の隊員は太絆に手錠をかけ、鎮静剤を打ち、担架で装甲車へと運んでいく。その間、太絆は一切抵抗せず、視線すら上げなかった。
「……つまり、あんたは異能対策局の司令官ってことか……」少年は驚きと緊張が入り混じった声で呟いた。
「そうだ……」 祐介は、隊員たちが武器を回収し、遺体を拘束し、区域を封鎖していく様子を見守りながら答えた。「言わなくてすまなかった。まだ早いと思ったんだ」
「いいよ、謝らなくて」 龍は軽く首を振り、続けた。「……イリナ姉さんには友達の家に泊まるって言っとく。病院に泊まるなんて言ったら心配させるだけだから」
戦いは終わっていた。
龍は、連行されていく 太絆を、疲れで霞む目で見送った。
乃愛は彼の隣に腰を下ろし、そっと手を握った。
「……終わったね……」彼女はかすかなため息と共に呟いた。
龍は頷いた。しかし、心の奥ではそれが真実ではないと分かっていた。今起きた出来事は、彼の世界が永遠に変わってしまった証に過ぎない。
それでも、廃墟と焦げた土の匂いの中で、二人の間に訪れたその小さな静寂は、一瞬だけ平穏に似たものをもたらした。
「なあ……」 龍がぽつりと声を漏らした。
乃愛が顔を向ける。
「何?」
「……今気づいたんだけど……」 龍は痛みと苦笑を混ぜた顔で言った。「今日って……木曜だよな?」
乃愛は瞬きをした。
「え? うん……たぶんそうだよ。なんで?」
龍は妙に真剣な顔で首をかしげた。
「今日、試合の日だったんだ……二回戦。トーナメントの」
一瞬の沈黙。 乃愛は呆れた目で彼を見た。
「……こんな時にそれ考えてるの!?」
「ええ!? スポーツマンシップって大事だろ!」 龍は空いている手を上げて弁解した。
乃愛は予想外に大きな声で笑い出した。
「まあ、いいけど」まだ笑いながら言った。「私も出ないと思うし。“井戸に投げ込まれました”って理由、きっと受け付けてくれないよね」
「俺は“肋骨の下に弾丸があって、木にぶつけられました”って言おうと思ったけど……審判に通じるかな」
二人は笑った。体は限界なのに、心だけは何とか日常にしがみつこうとするような、疲れたけれど真っ直ぐな笑いだった。
「……これで公式に失格ってことだね」 乃愛は笑い涙を手の甲でぬぐいながら言った。
「まあ……死んでるよりはマシだ」 龍は灰色がかった空を見上げて呟いた。
「……ああ、そうね。肋骨は折れてるし、唇は切れてるし、ストレスで熱は出てるし……ついでに尊厳もゼロだけど」 乃愛は皮肉っぽく返す。
「尊厳ゼロ? お前がボロボロなら、俺なんてどうなってんだ……」
「いつも通りだよ。髪はボサボサ、服は汚れてて、顔は困惑顔」
「おい!?」
再び二人は笑った。今度は少し穏やかに。
そしてほんの一瞬、あの恐怖も痛みも緊張も、すべてが宙に浮かび、世界が短い休息を与えてくれたかのようだった。
同じ頃、異能対策局の封鎖が進む中、 祐介の脳裏にはある考えがこびりついて離れなかった。
(あの眼差し……あの一瞬……あれは 龍じゃなかった。別の“何か”だ。そして……それは目覚めつつある)
彼は司令官と話さなければならなかった。できるだけ早く。
空はやわらかな灰色に染まり始め、夜明けを告げていた。異能対策局の車両のライトが、寺院の廃墟と木々の間でまだ点滅を続けている。隊員たちは確保作業を進めていた。
少し離れた場所で、 龍はひび割れた柱に背を預け、簡易的に包帯を巻かれた傷を覆いながら、防寒シートにくるまって黙っていた。 乃愛は隣で口を閉ざし、 圭哉は邪魔をしないように距離を置いていた。
しかし 龍の頭の中では、声が止まなかった。
(……あの言葉は……本当なのか?)
(俺の存在には……何か裏の目的があるのか? 想像もしてなかったような……もっと暗い……)
「“雄蓮”という名前が、遠くから響くように頭の中にこだましていた。思い出せないのに、なぜか体の奥が知っている気がした。」
龍の視線は、廃墟となった寺院の向こうへと彷徨った。
美山は今や遠い場所のように感じられた……。
そこでは彼の生活はシンプルだった。家の手伝いをして、妹の面倒を見て、祖父の言葉に従い、読んでいた漫画のようなヒーローになる夢を見ていた。
だが、それはもう存在しなかった。
戦いの傷から血が流れていた。人が死ぬのを見た。恐怖を感じた。力を欲した。それは栄光のためではなく、生き残るために。
そして何よりも最悪だったのは、彼がみんなの足手まといになってしまった気がしていたことだった。
乃愛、 源三、祐介、圭哉――自分の過ちを償おうとした圭哉さえも、みんなが彼のために命を賭けていた。
(もし俺がいなければ、みんな無事でいられたかもしれない……)
痛みを無視して、拳を強く握った。疑念の霧の中で、新たな決意が芽生え始めていた。
もう逃げ続けることはできない。もし自分の存在が危険を引き寄せているのなら――立ち向かうしかない。
勝つか。
少なくとも……地獄へ引き込んでしまったと思う者たちを守るために。
その思考が交錯した瞬間、 龍の体は動かなくなった。
まるで力を一気に吸い取られたかのように、脚が崩れ落ちた。
積み重なったストレス、極度の疲労、戦いの生々しい傷――すべてが同時に牙をむいた。
まぶたは鉛のように重くなり……ついに意識を失い、地面に倒れ込んだ。
( 龍くん?) 乃愛は動かない彼を見つめ、そう思った。
「 龍くん!」
乃愛の叫びが壊れやすい静寂を突き破った。彼女は慌てて膝をつき、必死に揺すりながら、何か反応を求めた。
祐介は躊躇なく状況を確認し、通信機に手を伸ばす。
「搬送ユニット、至急こちらへ!――優先度1、患者はストレス性の意識喪失です。直ちに集中治療室へ搬送を」
乃愛は手に血がついても気にせず 龍を呼び続けた。
数時間後―― 龍が救急搬送され、現場の者たちが撤収した後、異能対策局の封鎖線から数メートル離れた場所に、ひとつのパトロール車がゆっくりと止まった。
運転手がゆっくりと降りる。
それは上原という名のエージェントだった。制服は完璧に整い、顔は冷静、目は冷たい光を宿している。
彼は慌てることなく、ラテックス手袋をはめた。
続けてパトロール車の後部ドアを開けると、中には防弾チョッキに血が染みた石井の無残な遺体が横たわっていた。胸に2発、側頭部に1発。
上原は長居せず、一気に遺体を車外へ引きずり出し、焦げた倒木の残骸の間、乾いた血の水たまりの近くに丁寧に置いた。
正確に、規則的に。遺留品である石井の拳銃を手元に置き、現場を整える。
即興ではない。鑑識が納得するであろうシナリオを完璧に演出していた。
肩の無線機が鳴った。
「こちらユニット27。中央、本部、聞こえますか?」
「どうぞ、ユニット27」
上原は深呼吸し、痛みと興奮が入り混じったような声色を作った。
「犠牲者が出ました。エージェント石井です。武装した容疑者との銃撃戦で三発被弾しました。私…彼のおかげで無事です。身を挺して命を救ってくれました」
短い沈黙。
「了解、ユニット27。増援と鑑識を派遣します。区域の安全は確認できていますか?」
「はい。異能対策局が現場にいました。繰り返します、石井は任務遂行中に戦死しました」
「お悔やみ申し上げます。現場に留まってください」
通話を切り、上原はマイクを胸に静かに置いた。
遺体のそばに身をかがめて――
「すまない、古株……」
悔恨の色はなく、ただ淡々と呟いた。
「せめてヒーローとして逝けたな」
彼はタバコの箱を取り出し、ゆっくり火をつける。無関心な目で現場を見つめていた。
「娘のことは気の毒だったな……乗り越えられるといいが」
上原は振り返り、パトロール車へと戻っていった。
彼が残したのは、外見上は完璧に作られた現場だけだった。
街は真実を知ることはない。
だが、彼だけは知っていた。
そして、本当に頂点に立つ者たちにとって、それこそが唯一重要なことだった。




