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20. 望まれぬ宿主

「泥にまみれるより、暖房の効いた事務所に座っている方が似合うと思っていたが……」(あさひ)は薄く笑い、ゆっくりとライフルを回して肩に担いだ。「あの老いぼれは、お前を磨き上げた机の上の宝石にしておくと思っていたんだがな」


加納(かのう) 祐介(ゆすけ)は笑わなかった。一歩前へ踏み出し、その視線を逸らさない。


「俺は、書類の埃より泥の方が性に合っている」静かな声だったが、その響きには氷のような刃があった。


(あさひ)は肩をすくめ、皮肉な口調を崩さない。


「じゃあ、お前は思ってたほど大事にされてないんだな。ガキの子守りに回されたくらいだ、価値なんてその程度だろ?」


加納(かのう)の目が一瞬だけ陰った。だが言葉を返すことなく、彼は一気に間合いを詰めた。(あさひ)はライフルを構え、発砲しようとしたが、祐介(ゆすけ)は正確な回転でその銃口を上へ弾き上げた。衝撃で火花が散り、(あさひ)の一発は虚空へと消える。祐介(ゆすけ)の速さに、(あさひ)はわずかに目を見開いた。


互いに打ち合いが始まる。加納(かのう)は、影のような速さで滑り込む。その動きに、地面から 如月(きさらぎ) (りゅう)が目を見開く。(脈走(みゃくそう)……? あの技を使っているのか……)


(あさひ)は落ち着いた動きながらも、切り裂くような正確さを保っていた。加納(かのう)の一撃ごとに、必要最小限の防御で受け流す。そのライフルは、ただの遠距離武器ではなく、彼の手にかかれば盾であり、槍であり、鋼鉄の鞭となった。


速度は増し、大地が足元で軋み、周囲の木々が震える。やがて、両者は真正面から衝突し、武器と武器がわずか数センチの距離でぶつかり合う。全体重をかけて押し合いながら、(あさひ)が歯を食いしばって吐き捨てた。


「お前はいつだって清廉ぶって、優等生面してやがった……だが所詮、司令官の飼い犬だ。忠実な駒にすぎねぇ」


加納(かのう)の瞳が刃のように鋭くなる。言葉ではなく、短い咆哮で応え、腰を捻って(あさひ)の防御を弾き飛ばした。そのまま、機械的な造形を持つ拳銃を抜き、素早く三発放つ。しかし、(あさひ)は身を翻して全弾をかわした。


戦いは、まだ始まったばかりだ。


乾いた雷鳴のような衝撃音が響き渡る。加納(かのう)は片手に戦闘用ナイフ、もう片手に拳銃を握り、(あさひ)の改造狙撃銃の強化銃床とぶつかり合う。数秒間、二人は動きを止め、力比べのように押し合った。顔と顔が間近に迫る。


「相変わらず真っ直ぐだな……」(あさひ)は歪んだ笑みを浮かべる。「訓練校の頃、偉そうに演説してたのを覚えてるか? あれこそ笑い草だった。骨を投げてもらうのを待つ犬が、よくもまあ……」


加納(かのう)は唸り声を上げて押し返すが、(あさひ)は素早く反撃に転じた。ライフルの反動を利用して体を捻り、肩で加納(かのう)の胸を打ち、さらに回し蹴りで胴を撃ち抜く。衝撃で加納(かのう)は数メートル吹き飛び、土と枝を巻き上げながら転がった。


(あさひ)はすぐに追わなかった。ライフルの銃床を地面に立て、両手をその上に重ね、静かに加納(かのう)の落ちた先を見据える。沈黙が数秒続いた。


「フン……」軽く息を吐き、わずかに頭を下げる。「それで終わりか」


ゆっくりと振り返ると、数メートル先に (りゅう)が背を草木に預け、蒼白な顔で半ば瞼を閉じていた。隣では 乃愛(のあ)が膝をつき、布切れで必死に出血を止めようとしている。その手は震えていた。


「大丈夫よ、 (りゅう)くん……!」 乃愛(のあ)は声を震わせながら、特に致命傷となっている(あさひ)の弾丸が食い込んだ肋間部を必死に押さえていた。


(りゅう)は、必死に呼吸を整えようとしながらも、無理やり落ち着きを保っていた。


(あさひ)はゆっくりと、しかし確実な足取りで彼らに向かって歩き出した。


如月(きさらぎ) (りゅう)、お前は俺と来る」

その声は乾いていて、ほとんど命令のようだった。


乃愛(のあ)は息を荒げながら顔を上げた。(あさひ)の影が近づくのを見た瞬間、その瞳に決意の色が宿る。迷うことなく、地面に落ちていた戦闘用ナイフを手に取り、 (りゅう)(あさひ)の間に立ちはだかった。


「絶対に触らせない!」


(あさひ)は眉一つ動かさなかった。素早く正確な動きで、ライフルの銃身で彼女の手首を弾き、前腕で横へ押しやる。 乃愛(のあ)は横倒しになり、胸から空気が押し出されるような声を漏らした。


「お前は標的じゃない」

視線も向けず、低く呟く。


さらに数歩進み、(あさひ)(りゅう)の前で立ち止まった。少年は頭を上げることすらままならず、傷口から血を流し続け、呼吸も弱々しい。(あさひ)は感情を見せぬまま、わずかに腰を落とし、その瞳をまっすぐ見つめた。


「出血がひどいな、如月(きさらぎ) (りゅう)。もう長くはもたないだろう……だが、俺と来ればまだ助かる」


太絆(たいき)

(あさひ)は後ろを振り返りもせずに命じた。

「老人を抑えろ。これ以上、時間は無駄にできん」


呼ばれた太絆(たいき)は眉をひそめ、騒乱の最中に命令されることに明らかな苛立ちを見せた。歯を食いしばり、短く唸ってから、 源三(げんぞう)を横目で睨む。


「ちっ……面倒ごとはいつも俺の役目かよ」

毒づくや否や、太絆(たいき)源三(げんぞう)を食い止めるべく飛び出した。


一方、 (りゅう)は依然として植物の根元に背を預け、左脇腹を押さえていた。血は 乃愛(のあ)が応急処置として巻いた布を濡らし、痛みは鋭く、途切れることなく彼を苛んでいた。筋肉が焼けるように熱く、呼吸は浅く、鼓動のたびに身体の限界を思い知らされる。


だが、肉体の痛みよりも深く蝕んでいたのは――無力感だった。


(あさひ)は自分の所有物を回収するかのように、焦りもなくゆっくりと近づいてくる。 (りゅう)は胸の奥が締めつけられるのを感じた。それは傷のせいではなく、内側から湧き上がる重苦しい感情――悔しさ、恐怖、怒り(いかり)の入り混じった塊。動きたい、戦いたい、叫びたい……だが身体は応えなかった。


彼の意識はふと、別の場所へと飛んだ。


美山(みやま)


家の裏を流れる川の音、屋根の上で雲を眺める穏やかな午後。昼食に納豆が出るかどうか、それが唯一の悩みだった日々。


だが今は――血と傷と敵と秘密に囲まれ、命を賭してまで自分を守ろうとする人々がいる。


姉の顔が浮かぶ。必ず守ると約束したあの日を思い出す。

祖父の静かな瞳、その扉を悲しみが叩く未来を想像してしまう。

乃愛(のあ)の姿――傷つきながらも決して退かず、自分を守ろうとするその背中。

源三(げんぞう)――奪われまいと命を懸けて戦ってくれている。


その一つ一つが、胸の奥で何かを崩していく。


(俺は……みんなに迷惑ばかりかけてる……)


責任の重みが肩にのしかかる。賭けられているのは自分の命だけではない。自分を想い、自分を受け入れてくれた人たちの命もまた、危機に晒されているのだ。


(俺は……どうすればいい……? どうして、俺は追われている……?)


思考は行ったり来たりしながら、この状況がなぜ起きているのか理由を探していた。だが、考えるにはあまりにも不適切な時だった。


(本当なのか……俺が……藤名村(ふじなむら) 雄蓮(ゆうれん)の後継者だって?)

恐怖が心の奥に忍び寄る。それはあらゆる災厄をもたらす存在になってしまうかもしれないという恐れだった。


(あさひ)の足音が近づくたび、その響きが頭の中で反響し、絶望へと引きずり込もうとする。だが、その奥底で何かが抵抗していた。かすかな炎、弱々しい声。


「……立て」


それが自分の良心か、誇りか、それともかつて 源三(げんぞう)が言った言葉なのかはわからない。だが確かにそこにあった――静かな怒り(いかり)を秘めた抵抗の火花が。


(こんな終わり方は……許せない)


(あさひ)(りゅう)を見つめていた。いつものように、静かで、揺るがず、すべてがすでに決まっているかのような表情で。


その時、不意に鋭い音が空気を切り裂いた。


「……っ!」

(あさひ)は寸分の狂いもなくライフルを構え、迫る攻撃を防いだ。


そこに現れたのは、奈落の底から這い上がったかのような影――加納(かのう) 祐介(ゆすけ)だった。


弾丸は(あさひ)の首筋をかすめるほどの距離を通過した。その近さを感じた(あさひ)は、自らの首に手を当て、傷がないか確かめる。そして、銃口を向ける祐介(ゆすけ)の方を鋭く睨みつけた。


(クソ……飼い犬風情が)


祐介(ゆすけ)はためらいなく(あさひ)へ突進した。拳にはミアズマがまとわりつき、その表情には何年も押し殺してきた怒り(いかり)が露わになっていた。


(りゅう)! 逃げろ!」

(あさひ)(りゅう)の間に割って入りながら祐介(ゆすけ)が怒鳴る。

「彼女とガキを連れて、今すぐ行け!」


(……彼女?)

水原 乃愛(のあ)祐介(ゆすけ)の言葉を聞き、一瞬だけそんなことを考えてしまった。場違いだとわかっていても、頬が熱くなるのを止められなかった。


(りゅう)はまだ意識がぼんやりしていたが、祐介(ゆすけ)の切迫した声がその霞を吹き飛ばした。ちょうどその時、 乃愛(のあ)が駆け寄り、 (りゅう)の腕を掴む。


「行こう、 (りゅう)くん。早く」


圭哉(けいや)さん!」

乃愛(のあ)は茂みの陰に隠れていた少年に声をかけた。


恐怖で見開かれた目のまま、 圭哉(けいや)は数秒間固まっていたが、やがて震えながら駆け寄ってきた。手にはまだ土の跡が残っている。


「ほら! 一緒に運んで!」

乃愛(のあ)の声に圭哉(けいや)はこくりと頷き、二人で (りゅう)の身体を支えながら走り出す。寺を囲む森の小道へと入り、戦いの光に照らされる夜の闇の中を進んでいった。


だが、 乃愛(のあ)が突然足を止めた。


「……お父さん」

その声は震え、そして凍りついた。


少し先で、 源三(げんぞう)太絆(たいき)のアッパーカットをまともに受け、わずかに宙に浮き、乾いた鈍音とともに背から倒れ込んでいた。


「お父さんっ!」

乃愛(のあ)(りゅう)を放り出すように手を離し、父に向かって駆け出そうとした。


「先生っ!」

(りゅう)もまた絶望を滲ませた声を上げる。胸の鼓動が早まり、全てが自分のために起きているという事実が鋭く胸を刺した。


源三(げんぞう)は立ち上がろうとしていた。誇りを取り戻そうとするかのように――だが、太絆(たいき)は短く刈った髪を鷲掴みにし、古びた雑巾でも扱うようにその身体を押さえつけていた。


その光景はあまりにも痛ましく、 (りゅう)は自分のために戦っている者の苦しみを前に、ただ腕を組んで見ていることなどできなかった。


圭哉(けいや)はその場に凍りつき、拳を握りしめたままだった。目の前の光景が、彼の勇気を粉々に砕いていく。胸は暴れるように脈打ち、足は今にも崩れ落ちそうだった。


だが、 (りゅう)は違った。


胸の中心から熱が湧き上がってきた。それは熱病ではない。もっと濃く、もっと重いもの。血は液体ではなく――炎のように流れていた。銃弾の傷も、腹の切り傷も、打ち身も……すべてが消え去っていく。まるでその痛みが、眠っていた何かを養っているかのように。


呼吸が速まる。


周囲の空気が、別の密度で震えていた。


(……なんだ、これは……?)

瞳孔が開き、世界がくっきりと鮮明になる。身体は驚くほど軽くなっていた。


そして――何の前触れもなく、駆け出した。


圭哉(けいや)乃愛(のあ)が驚くほどの速さで、 (りゅう)太絆(たいき)との距離を一瞬で詰めた。


「な、何――っ!?」

振り向いた太絆(たいき)が声を上げる。


だが、もう遅かった。


(りゅう)の拳が真正面から顔面を捉え、骨が軋む音が響く。太絆(たいき)の顎が揺れ、巨体が後方へ吹き飛び、地面に叩きつけられた。


「なに……が、起きてるの……?」

乃愛(のあ)は目の前の光景を信じられず、呟いた。


(りゅう)は止まらない。


本能のままに繰り出す動き。その両腕を黒い炎のようなミアズマが包み込んでいた。放つ一撃一撃が新たな力を帯び、肉体も精神も限界を超えたかのように鋭く研ぎ澄まされていく。連打が太絆(たいき)を押し返し、反撃を試みるも、その腕は (りゅう)によって瞬時に封じられた。


「もう……誰にも……傷つけさせないっ!」

怒り(いかり)と純粋な決意が混じった声が、夜を震わせた。


次の瞬間、 (りゅう)の放った衝撃波が木々を揺らす。


太絆(たいき)は再び地面に叩きつけられ、今度はすぐには立ち上がれなかった。


圭哉(けいや)は口を開けたまま見つめ、 乃愛(のあ)は胸を高鳴らせながら、それが奇跡なのか危険な変化なのか分からなかった。


「……ただの力じゃない……」 乃愛(のあ)は呟いた。「……何かが……彼の中で変わった」


確かに、変わっていた。


それは新たな如月(きさらぎ) (りゅう)だった。


そして、この場にいる全員が――その事実を知ることになる。


拳が肉を打つ音が、葉や瓦礫の砕ける音と混ざり合う。 (りゅう)は一言も発しない。その顔は集中の色に染まり、呼吸は荒くも安定していた。一撃ごとに込められたのは、止めるため、敵の意思を砕くためという純粋な意志だった。


太絆(たいき)は辛うじて応戦するも、 (りゅう)の速度と威力に押され、一歩また一歩と後退していく。唇の裂け目から血が伝い落ち、筋肉は張り詰め、全身が防戦一方だった。


(りゅう)の拳はさらにミアズマを纏い、次々と振り下ろされる。その一撃ごとに空気が震え、腹へのフック、顔面への肘打ち、肋骨を狙った膝蹴りが炸裂する。太絆(たいき)の口から血の混じった唾が飛び散った。

その怒り(いかり)は沈黙のまま、しかし嵐のように激しく――雷鳴を必要としない恐怖となって襲いかかっていた。


その攻防の最中、二人は寺院の側面にある壁際へと移動した。そこは古い石と雑草が入り混じる場所だった。

そこで (りゅう)は、ほんの一瞬だけ構えを解いた。まるで時を止めたかのように。


乃愛(のあ)は全てを見つめながらも、状況が掴めずにいた。


(……何が起きてるの? どうして止まったの?)


太絆(たいき)は、その一瞬を逃さなかった。

両手を胸の前で組み、何かの印を描くように指を動かすと、短く息を吐く。


血界(けっかい)怒り(いかり)

低く呟いた瞬間――


太絆(たいき)の両腕の血管が黒く染まり、 (りゅう)と同じようにその肉体が膨れ上がったように見えた。


「……捕まえたぞ!」

吠えるような声と共に、腹部への鋭い蹴りが突き上げられる。


衝撃は容赦なく (りゅう)の体を折り曲げ、そのまま太絆(たいき)が獣のように襲いかかった。シャツの襟を掴み、苔むした石壁へ叩きつける。

鈍い音が森に響き、戦いのリズムを断ち切った。


太絆(たいき)の手にはいつの間にか短刀が握られていた。

素早く振り上げ、その切っ先を (りゅう)の首筋へ押し当てる。刃が皮膚を浅く裂き、赤い線を描く。


(りゅう)は動かない。息は荒く、額から汗が滴り、両腕は力なく垂れ下がっていた。限界に見えた。


太絆(たいき)は荒い呼吸を繰り返し、充血した眼に歪んだ笑みを浮かべる。


「もうガス欠か、小僧……?」

そう吐き捨て、刃をさらに押し込んだ。


(りゅう)は目を伏せたまま、応えない。


頭は前に垂れ、黒い前髪が目元を隠す。気を失ったか、折れたか――敵の力だけで立たされているかのようだった。

数秒間の沈黙。長すぎる静寂。


そして――ゆっくりと、 (りゅう)が顔を上げた。


その瞳は、もはや別のものだった。


そこに宿るのは、怒り(いかり)でも絶望でも痛みでもない。裁きだった。

十七歳の少年には似つかわしくない、冷ややかで古の影を宿す視線。表情は完全に変わり、静かで揺るがぬ威圧感――ほとんど神域のような気配を放っていた。

瞳孔はより暗く、顔色は青白く、首の筋肉は刃を意に介さぬほどに弛緩していた。


(りゅう)――いや、その瞬間に彼を満たしていた“何か”が、ゆっくりと右手を伸ばした。


それは攻撃ではなく、まるで子をあやす父親のように、柔らかく太絆(たいき)の頭へ触れる仕草だった。


そして、静かに言った。


「……もう来た」


ぞくり、と太絆(たいき)の背骨を何かが走った。

身体が思考より先に反応する。

その身を覆うオーラが震え、何か古く強大な存在を認識したかのようだった。


「……幽蓮さま……?」

かすれる声で呟き、信仰にも似た光を瞳に宿しながら、太絆(たいき)は一歩後退する。刃をわずかに下ろし――


その刹那、銃声が轟いた。


弾丸が太絆(たいき)の背を貫き、彼の体を横へ吹き飛ばす。 (りゅう)から引き剥がされるように。


祐介(ゆすけ)が、脇腹を流血させながら険しい表情で銃を構えていた。


(りゅう)っ、動け!」

掠れた声で叫び、まだ煙を上げる銃口を構え続ける。


(りゅう)の体がぐらりと揺れた。


表情が変わる。


圧し掛かるような気配が霧散し――瞳が元に戻った。


彼は再び、如月(きさらぎ) (りゅう)へと戻っていた。


困惑し、荒く息を吐き、記憶のない夢から覚めたかのように。


地面で太絆(たいき)は背の傷を押さえ、苦悶の声を漏らしながらも、 (りゅう)を見上げていた。

その瞳には恐怖と信仰が混ざっている。何が起きたのか分からない。ただ一つ、己の信じる神を見た――だが、その神は微笑まなかった。


少し離れた場所で 乃愛(のあ)は、胸を締め付けられる思いで見ていた。

その顔……あの冷たくも静かな表情……それは (りゅう)ではなかった。

正直で、不器用で、誠実なあの少年ではない。


そして、長い間感じることのなかった感情が胸を満たした。

それは――恐怖。

(りゅう)のためではなく、 (りゅう)の内に目覚めつつある“何か”のために。


乃愛(のあ)はすぐに駆け寄った。


(りゅう)くん! 大丈夫!? 私の声、聞こえる?」


(りゅう)は瞬きをし、困惑した表情で 乃愛(のあ)を見つめた。


乃愛(のあ)先輩……何が起こったのか……わからない……」


乃愛(のあ)は震えながらも、力強く彼を抱きしめた。


祐介(ゆすけ)はゆっくりと歩み寄り、銃をしまい込む。しかし、その視線は未だ (りゅう)に注がれたままだった。そこには心配と冷徹な計算が入り混じっていた。


(あれは単なる感情的な反応じゃない……あの少年……身体の中に、別の何かがいる)

そう考えながら、 乃愛(のあ)の腕の中にいる (りゅう)を見つめる祐介(ゆすけ)の表情は硬くなった。


――未知の危険。異常な存在。


(あれは……憑依か?)

再び歯を食いしばる祐介(ゆすけ)(りゅう)の表情はあまりにも異様で、あまりにも完璧だった。まるで、別人がその身体を操っているかのように。


「……ボスと話さなきゃ」

祐介(ゆすけ)は低く呟き、背中を冷たい汗が伝った。


(りゅう)はまだ荒い息をついていた。 祐介(ゆすけ)の影が、寺の灯籠の淡い光の中で長く伸びる。


「大丈夫か?」祐介(ゆすけ)は落ち着いた声で問い、 (りゅう)のそばにしゃがみ込んだ。


(りゅう)は疲労と痛みで目を細めながら顔を上げた。 乃愛(のあ)はずっと彼のそばにいて、フード付きの男から裂いた布で作った応急の包帯を傷口に押し当てている。


「……全身が痛い。でも……大丈夫、だと思う」 (りゅう)は苦笑混じりに呟いた。


「もう少しだけ耐えてくれ」祐介(ゆすけ)は素早く傷を確認する。「出血は少し抑えられた。区域を確保したらすぐに運び出す」


(りゅう)は壁に背を預け、なんとか自分で体を支えるまでに持ち直した。


「……あの男は?」彼が指しているのは、名を口にせずとも(あさひ)のことだとわかった。


祐介(ゆすけ)は少しの間沈黙した後、無表情で答えた。


「逃げた」


(りゅう)の顔がわずかに強張る。だが、それ以上は追及しなかった。祐介(ゆすけ)の声には、何かを隠す硬さがあった。


祐介(ゆすけ)は、(あさひ)が去る直前に口にした言葉を (りゅう)には伝えなかった。――あまりにも重く、まだ自分ですら処理しきれていない真実を、今この場で、立っているのもやっとの少年に背負わせるわけにはいかなかったからだ。


そのとき、 源三(げんぞう)が寺の脇から現れた。足取りは重く、片手で頭を押さえていたが、背筋はまっすぐだった。


「……くそ……頭が割れそうだ……」低く唸りながらも、「まだ状況は持ちこたえてるか?」


「お父さん!」 乃愛(のあ)は安堵の声を上げて駆け寄った。


源三(げんぞう)は疲れた笑みを浮かべ、娘の無事を確かめると、深く息を吐いた。


「大丈夫だ。これくらいは、何度も経験してきた」


地面には 太絆(たいき)が倒れていた。血に染まった法衣。呼吸はしているが、その瞳にはもう闘志はなく、ただ打ち砕かれた肉体と精神が残っているだけだった。


源三(げんぞう)はゆっくりと歩み寄り、その胸に足を乗せた。力を込めたわけではないが、それだけで十分な威圧を与える。


「妙な真似はするな」低く言い放つ。


太絆(たいき)は応えなかった。もはや言葉を発する気力すら残っていなかった。


そのとき、鋭いエンジン音が寺の外の静けさを破った。急ブレーキの音。


次の瞬間、異能対策局(いのうたいさくきょく)のエンブレムを掲げた装甲車が正門近くに停まった。黒い制服とバイザー付きのヘルメットを装備した十人ほどの武装隊員が降車する。


そのうちの一人が素早く祐介(ゆすけ)に近づき、直立して敬礼した。


加納(かのう)司令、できる限り急ぎました。現場は確保済みですか?」


祐介(ゆすけ)は頷く。


「はい。関係者全員の拘束を。フードの連中は無力化して搬送しろ。区域内の完全制圧を十分以内に。……負傷したポータ―も連れていけ」太絆(たいき)を顎で示す。「もう脅威ではない」


「了解」隊員は即座に応えた。


部隊は迅速に動いた。数名は放置された武器を回収・仕分けし、別の隊員は太絆(たいき)に手錠をかけ、鎮静剤を打ち、担架で装甲車へと運んでいく。その間、太絆(たいき)は一切抵抗せず、視線すら上げなかった。


「……つまり、あんたは異能対策局(いのうたいさくきょく)の司令官ってことか……」少年は驚きと緊張が入り混じった声で呟いた。


「そうだ……」 祐介(ゆすけ)は、隊員たちが武器を回収し、遺体を拘束し、区域を封鎖していく様子を見守りながら答えた。「言わなくてすまなかった。まだ早いと思ったんだ」


「いいよ、謝らなくて」 (りゅう)は軽く首を振り、続けた。「……イリナ姉さんには友達の家に泊まるって言っとく。病院に泊まるなんて言ったら心配させるだけだから」


戦いは終わっていた。


(りゅう)は、連行されていく 太絆(たいき)を、疲れで霞む目で見送った。


乃愛(のあ)は彼の隣に腰を下ろし、そっと手を握った。


「……終わったね……」彼女はかすかなため息と共に呟いた。


(りゅう)は頷いた。しかし、心の奥ではそれが真実ではないと分かっていた。今起きた出来事は、彼の世界が永遠に変わってしまった証に過ぎない。

それでも、廃墟と焦げた土の匂いの中で、二人の間に訪れたその小さな静寂は、一瞬だけ平穏に似たものをもたらした。


「なあ……」 (りゅう)がぽつりと声を漏らした。


乃愛(のあ)が顔を向ける。


「何?」


「……今気づいたんだけど……」 (りゅう)は痛みと苦笑を混ぜた顔で言った。「今日って……木曜だよな?」


乃愛(のあ)は瞬きをした。


「え? うん……たぶんそうだよ。なんで?」


(りゅう)は妙に真剣な顔で首をかしげた。


「今日、試合の日だったんだ……二回戦。トーナメントの」


一瞬の沈黙。 乃愛(のあ)は呆れた目で彼を見た。


「……こんな時にそれ考えてるの!?」


「ええ!? スポーツマンシップって大事だろ!」 (りゅう)は空いている手を上げて弁解した。


乃愛(のあ)は予想外に大きな声で笑い出した。


「まあ、いいけど」まだ笑いながら言った。「私も出ないと思うし。“井戸に投げ込まれました”って理由、きっと受け付けてくれないよね」


「俺は“肋骨の下に弾丸があって、木にぶつけられました”って言おうと思ったけど……審判に通じるかな」


二人は笑った。体は限界なのに、心だけは何とか日常にしがみつこうとするような、疲れたけれど真っ直ぐな笑いだった。


「……これで公式に失格ってことだね」 乃愛(のあ)は笑い涙を手の甲でぬぐいながら言った。


「まあ……死んでるよりはマシだ」 (りゅう)は灰色がかった空を見上げて呟いた。


「……ああ、そうね。肋骨は折れてるし、唇は切れてるし、ストレスで熱は出てるし……ついでに尊厳もゼロだけど」 乃愛(のあ)は皮肉っぽく返す。


「尊厳ゼロ? お前がボロボロなら、俺なんてどうなってんだ……」


「いつも通りだよ。髪はボサボサ、服は汚れてて、顔は困惑顔」


「おい!?」


再び二人は笑った。今度は少し穏やかに。

そしてほんの一瞬、あの恐怖も痛みも緊張も、すべてが宙に浮かび、世界が短い休息を与えてくれたかのようだった。


同じ頃、異能対策局(いのうたいさくきょく)の封鎖が進む中、 祐介(ゆすけ)の脳裏にはある考えがこびりついて離れなかった。


(あの眼差し……あの一瞬……あれは (りゅう)じゃなかった。別の“何か”だ。そして……それは目覚めつつある)


彼は司令官と話さなければならなかった。できるだけ早く。


空はやわらかな灰色に染まり始め、夜明けを告げていた。異能対策局(いのうたいさくきょく)の車両のライトが、寺院の廃墟と木々の間でまだ点滅を続けている。隊員たちは確保作業を進めていた。


少し離れた場所で、 (りゅう)はひび割れた柱に背を預け、簡易的に包帯を巻かれた傷を覆いながら、防寒シートにくるまって黙っていた。 乃愛(のあ)は隣で口を閉ざし、 圭哉(けいや)は邪魔をしないように距離を置いていた。


しかし (りゅう)の頭の中では、声が止まなかった。


(……あの言葉は……本当なのか?)


(俺の存在には……何か裏の目的があるのか? 想像もしてなかったような……もっと暗い……)


「“雄蓮(ゆうれん)”という名前が、遠くから響くように頭の中にこだましていた。思い出せないのに、なぜか体の奥が知っている気がした。」


(りゅう)の視線は、廃墟となった寺院の向こうへと彷徨った。


美山(みやま)は今や遠い場所のように感じられた……。


そこでは彼の生活はシンプルだった。家の手伝いをして、妹の面倒を見て、祖父の言葉に従い、読んでいた漫画のようなヒーローになる夢を見ていた。

だが、それはもう存在しなかった。


戦いの傷から血が流れていた。人が死ぬのを見た。恐怖を感じた。力を欲した。それは栄光のためではなく、生き残るために。


そして何よりも最悪だったのは、彼がみんなの足手まといになってしまった気がしていたことだった。

乃愛(のあ)源三(げんぞう)祐介(ゆすけ)圭哉(けいや)――自分の過ちを償おうとした圭哉(けいや)さえも、みんなが彼のために命を賭けていた。


(もし俺がいなければ、みんな無事でいられたかもしれない……)


痛みを無視して、拳を強く握った。疑念の霧の中で、新たな決意が芽生え始めていた。

もう逃げ続けることはできない。もし自分の存在が危険を引き寄せているのなら――立ち向かうしかない。

勝つか。

少なくとも……地獄へ引き込んでしまったと思う者たちを守るために。


その思考が交錯した瞬間、 (りゅう)の体は動かなくなった。

まるで力を一気に吸い取られたかのように、脚が崩れ落ちた。

積み重なったストレス、極度の疲労、戦いの生々しい傷――すべてが同時に牙をむいた。

まぶたは鉛のように重くなり……ついに意識を失い、地面に倒れ込んだ。


(りゅう)くん?) 乃愛(のあ)は動かない彼を見つめ、そう思った。


(りゅう)くん!」

乃愛(のあ)の叫びが壊れやすい静寂を突き破った。彼女は慌てて膝をつき、必死に揺すりながら、何か反応を求めた。


祐介(ゆすけ)は躊躇なく状況を確認し、通信機に手を伸ばす。


「搬送ユニット、至急こちらへ!――優先度1、患者はストレス性の意識喪失です。直ちに集中治療室へ搬送を」


乃愛(のあ)は手に血がついても気にせず (りゅう)を呼び続けた。


数時間後―― (りゅう)が救急搬送され、現場の者たちが撤収した後、異能対策局(いのうたいさくきょく)の封鎖線から数メートル離れた場所に、ひとつのパトロール車がゆっくりと止まった。

運転手がゆっくりと降りる。


それは上原(うえはら)という名のエージェントだった。制服は完璧に整い、顔は冷静、目は冷たい光を宿している。


彼は慌てることなく、ラテックス手袋をはめた。

続けてパトロール車の後部ドアを開けると、中には防弾チョッキに血が染みた石井(いしい)の無残な遺体が横たわっていた。胸に2発、側頭部に1発。


上原(うえはら)は長居せず、一気に遺体を車外へ引きずり出し、焦げた倒木の残骸の間、乾いた血の水たまりの近くに丁寧に置いた。


正確に、規則的に。遺留品である石井(いしい)の拳銃を手元に置き、現場を整える。

即興ではない。鑑識が納得するであろうシナリオを完璧に演出していた。


肩の無線機が鳴った。


「こちらユニット27。中央、本部、聞こえますか?」


「どうぞ、ユニット27」


上原(うえはら)は深呼吸し、痛みと興奮が入り混じったような声色を作った。


「犠牲者が出ました。エージェント石井(いしい)です。武装した容疑者との銃撃戦で三発被弾しました。私…彼のおかげで無事です。身を挺して命を救ってくれました」


短い沈黙。


「了解、ユニット27。増援と鑑識を派遣します。区域の安全は確認できていますか?」


「はい。異能対策局(いのうたいさくきょく)が現場にいました。繰り返します、石井(いしい)は任務遂行中に戦死しました」


「お悔やみ申し上げます。現場に留まってください」


通話を切り、上原(うえはら)はマイクを胸に静かに置いた。

遺体のそばに身をかがめて――


「すまない、古株……」

悔恨の色はなく、ただ淡々と呟いた。

「せめてヒーローとして逝けたな」


彼はタバコの箱を取り出し、ゆっくり火をつける。無関心な目で現場を見つめていた。


「娘のことは気の毒だったな……乗り越えられるといいが」


上原(うえはら)は振り返り、パトロール車へと戻っていった。

彼が残したのは、外見上は完璧に作られた現場だけだった。


街は真実を知ることはない。


だが、彼だけは知っていた。


そして、本当に頂点に立つ者たちにとって、それこそが唯一重要なことだった。

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