2. 隠された可能性
如月 龍にとって、今日は二日目の登校日だった。火曜日の今日は、「状態検査」と呼ばれる身体検査と血液検査の日だった。
龍は初めて電車を使って通学することになった。今まで公共交通機関を使ったことがなく、ましてやラッシュアワーなど初めての体験だった。アナウンスの声、人々のざわめき、行き交う人の波――そのすべてが彼を圧倒した。
「こんな混雑の中でどうやって迷わずに進めるんだ?」
乗り換えのためにホームを移動しながら、龍はなんとか他人とぶつからないように足元を気にしていた。
「案内板を見ればいいのよ。迷ったら誰かに聞けばいいし、誰も食べたりしないわよ」
そう言いながら、イリナは人混みの中をためらいなく進んでいく。
「それに、もっと早く出ようって言ったでしょ!」
「火曜日なのに、こんなに人が多いなんて思わなかったよ……」
電車に乗り込むと、龍はまるでロケットにでも乗っているかのように、手すりをしっかり握りしめた。一方で、イリナはスマートフォンをいじりながら落ち着いた様子だった。
「大学はどう?」
「今のところは落ち着いてるかな。けど、もうバイオエシックスのレポート出さなきゃでさ」
画面から目を離さずにそう答える。
「そっちは? 友達できた?」
「まあ、そこそこ。初日からずっとついてくるやつがいるんだけど……ちょっと変わってるけど、いいやつだよ」
「なんか重そうね」
「うん……かなりね」
イリナは小さく笑った。
「でも、そういう人が近くにいるのも悪くないわ。いつ本当に友達が必要になるかわからないし。……経験者は語る、ってね」
「うーん、たぶんね。でも、俺にはちょっと難しいかも」
龍は俯きながらそう答える。
「なんかさ……周りと馴染めない気がして」
「今はそう思うだけよ。全部が新しいから。焦らなくていいの。みんなと仲良くする必要なんてない、ちゃんと価値のある人とだけでいいんだから」
電車の揺れの中、龍はその言葉を反芻していた。
窓の外を、高層ビルや電子広告、チカチカと光る照明が流れていく。ついこの前まで山と林道に囲まれて暮らしていた彼にとって、それはまるで別世界のように感じられた。
イリナはそんな弟を横目で見て、そっと笑った。何も言わなかったが、こんなに異なる世界に飛び込んでいく弟の姿を、心の中では誇りに思っていた。
電車はアナウンスを繰り返しながら進んでいく。龍は変わらず車窓を眺め、イリナは一人でくすくす笑っていた。
電車を降りると、二人は路面電車に乗り換えるために歩き出した。学園エリアへ続くその街並みは、どこか洗練されていて、清掃の行き届いた歩道、整然と並んだ街路樹、そして角ごとに設置された監視カメラが印象的だった。
ようやく正門をくぐると、龍は顔を上げた。
目の前にそびえるのは、青山学園。
まだ信じられなかった。自分がここに通っているなんて。
「さて、今日もがんばるか」と、肩にかけたリュックを軽く直した。
しかし、校舎に向かって二歩踏み出した瞬間──
「おはよう、如月くん!」
「ねえ、電話番号教えてくれない?」
「わたしにもお願い!」
女子たちに囲まれてしまった。
「さあさあ、お嬢さんたち。うちの友達の番号が欲しいなら、学食の日替わりメニューを俺に奢ってくれれば、喜んで教えてあげますよ〜」と、英夫はニヤリと笑った。
「ま、その前にまず俺が聞き出さないとな……」と小声で呟きながら、龍を押しながら連れ去っていく。
「ちょっと、中野くん(なかのくん)ったら、でしゃばりすぎ!」と、女子たちが口々に文句を言う。
「俺の番号を飯で売る気かよ? 最低だな……」と、龍が呆れ気味に言う。
「いや〜、俺にとっては最高のビジネスだよ。お前みたいなイケメンなら、女の子が次々と寄ってくるに決まってるだろ? で、もし誰かを振ったら…その子のハートを癒すのは俺ってわけ。完璧な作戦だと思わね?」と、英夫は悪びれずに笑った。
龍は苦笑しながら言った。
「ほんと、お前ってやつは……」
龍は苦笑しながら首を振ると、保健室へと向かった。
「はい、如月さん。ベッドに横になってくださいね〜。電極をつけますので」
「それから、少し採血もします。あなたのMSIを調べるためです」
「MSI…?」
龍は目を丸くする。
看護師は微笑みながら電極を彼の肌に貼っていった。
「正式には〈瘴気飽和指数〉って言います。血液中にどれだけ瘴気が含まれていて、体がどれくらい吸収できているかを見る指標です。血中酸素濃度を測るようなものですね」
「へぇ…で、それが分かるとどうなるの?」
「瘴気を電気に例えてください。あなたの体は回路。MSIは、どれだけの電力に耐えられるかを測るものです」
「もし電力が強すぎたら?」
「機械に過電流が流れれば壊れるでしょう? 体も同じです。MSIが高いまま訓練しなければ、身体に負担がかかってしまいます」
その言葉に、龍はふと目を伏せた。
──あの頃を思い出す。突然の動悸、咳き込み、そして血。
「……血を吐く、みたいな?」
看護師の手が一瞬止まった。
「……そういう例もありますね」と、少し真剣な声で答えた。「でも安心してください。この検査でちゃんとあなたの状態がわかりますから」
龍は静かに目を閉じた。
電極の冷たさが肌に触れ、針が腕に刺さる感覚が微かに伝わってくる。
《──こんなの、何度でも乗り越えてやる》
イリーナの言葉が浮かぶ。
『あなたがいる場所に立ちたいって思う人、きっといるわよ』
それは大げさに聞こえるけれど、龍は少しだけ、胸の緊張が和らいだ気がした。
「心拍数は安定してます。瘴気レベルは……平均より少し高めですね。ちょっと珍しいですけど、鍛えればちゃんとコントロールできますよ」
「……そうだといいけど」
「昔から、心臓が急にドキドキしたりしたこと、ありますか?」
「ある。子供の頃から。そうなると、だいたい血を吐いて……足の感覚がなくなるんだ」
それまで穏やかな口調で話していた女性検査官が、ふと黙り込んだ。
視線がわずかにモニターへと流れ、まるで見落としていた何かを探すかのようにデータを見つめていた。
そして再び龍の方を見やったときには、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せていた。
「……子供の頃から、って言いましたか?」
声色は変わらない。しかし、どこか分析的な響きが混ざっていた。
「頻繁ではないですけど、はい」
龍が答えると、検査官はゆっくりと頷き、タッチパネルにいくつか指を滑らせて情報を入力した。
その表情はあくまで冷静だったが、指先が机の上で小さくリズムを刻んでいるのに龍は気づいた。
「……ふむ、変ね」
小さく呟いたその声は、自分に言い聞かせるようだった。
「血中の瘴気量が影響してるのかもしれません。君の体には多すぎるのかも。でも、それはもう少し時間が経って、鍛えていけば見えてくるでしょう」
その一瞬だけ、龍は検査官の視線に妙な違和感を覚えた。
まるで“何か見てはいけないもの”を彼の中に見つけたような、そんな目だった。
検査はその後も続き、午前中いっぱいかけてようやく終わった。
龍は渡された封筒を手に、結果を読みながら廊下を歩いていた。
「……なにこれ、全然わかんねぇ」
頭の中でぼやきながら、出口へと向かう。
《ランク分けされてるっぽいけど……あとでイリーナに聞くか》
彼が検査室を出た直後、検査官はすぐに電話を取った。
「後藤所長、今少しお時間いただけますか? ……はい。如月くんの件です。……少し、気になることがありまして」
授業はすでに始まっており、龍が教室へ戻ったのは一限が終わる直前だった。
休み時間になると、昨日の騒動の中心にいた少女が、少し戸惑いながらもこちらに歩み寄ってきた。
「如月さん、ですよね?」
「うん?」
「その……昨日は助けてくれて、ありがとう。勇気、あったと思う。別に関係なかったのに……」
そう言って、彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「気にするなよ。あれが正しいって思っただけだから」
龍はそう答えると、鞄からイヤホンを取り出して耳にかけた。
「私は 長峰愛莉 って言います。クラスの委員をしてるの。よろしくね」
「よろしく」
「もし何かあったら、いつでも言ってね!」
「ありがとう」
その一言で龍は会話を切り上げた。
愛莉はまだ何か言いたげに龍を見つめていたが、彼がイヤホンをつけて視線を外したのを見て、口をつぐんだ。
別に冷たくはなかった。だが、それ以上話す余地はもうなかった。
気づけば、彼の姿はすでに廊下の向こうへと消えていた。
龍にとって、友達を作ることに対する関心はそれほど高くなかった。
田舎で一人で過ごすのが当たり前だった彼にとって、旧友たちは皆、故郷に残してきた存在であり、
「ここで一からやり直す」なんて考えは、あまり現実味がなかった。
そんな彼の様子に気づいたのか、 愛莉は控えめな笑顔で彼の気分を変えようとした。
そして出席簿を持って、教室を出て行った。
偶然にも、図書室で彼女は再び龍と出会った。
今回は、彼が本の背表紙に指を滑らせながら、真剣な表情で何かを選んでいる姿が目に入った。
(真面目な顔……)
愛莉は少し緊張しながらも声をかけた。
彼女は女の子同士ではよく話すが、男子相手になると急にぎこちなくなる。
それでも、龍には何となく話しかけられそうな気がした。
「本、好きなの?」
彼女の優しい笑みに、龍はちらりと視線を向けたが、すぐに棚へと目を戻した。
「マンガしか読んだことないけど……そろそろ別のも読んでみようかって」
「じゃあ、何か探してるの?」
「いや、特には。ただ、面白そうなやつ」
そう言って手に取ったのは、歴史の本だった。なぜかはわからないが、心惹かれた。
愛莉は少し身を乗り出して、タイトルを覗き込んだ。
「あ、それは……ポーター同士の古代戦争について書かれた本だよ。ちょっと難しいけど、面白いデータが載ってる」
「ふーん、いいかも」
龍はページをぱらぱらとめくりながら、そう答えた。
それを見た愛莉は、会話が続けられるかもしれないと希望を抱いた。
「もしもっと知りたいなら、文芸部に入ってみるのもいいかも。そこではいろんなジャンルの小説や本について話してるんだよ。理論書だけじゃなくて」
「部活なんて、あるんだな」
龍は意外そうな声を漏らした。
「少ないけど、ちゃんとあるよ。授業ばかりじゃ、息が詰まっちゃうし」
「……まあ、そうかもな」
龍の反応は淡々としていたが、愛莉は諦めきれなかった。
「よかったら、校内を案内しようか? 広いところだし、最初は迷っちゃうよ。……その、無理にってわけじゃないけど……お礼のつもりで」
彼女の声はだんだん小さくなっていった。自分から男子に何かを提案するなんて、慣れていないのだ。
龍は本から視線を外し、彼女を見つめた。
一瞬だけ、何かを考え込んだような顔をしたが、すぐにやんわりと笑った。
「聞いてくれ、委員長。そんな必要ないよ。君には何の借りもない。ただ、無事でいてくれたらそれでいい」
その笑顔に、愛莉は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
何かを返そうと口を開いたが、言葉は出てこなかった。
「……そ、それじゃ、何かあったら……いつでも言ってね。わ、私、クラスの委員だから」
彼女の声は少し震えていた。
顔は次第に赤くなり、視線を落とす。男子とここまで近くで話すのは、ほとんど初めてだった。
「ありがとう。君はいいクラスメイトだ」
そう言って再び本に集中する龍。
愛莉はその場にしばらく立ち尽くし、唇を噛みしめた。
(結局……何もちゃんと話せなかった)
その瞬間、チャイムが鳴り、二人は急いで教室へ戻ることになった。
歴史の本を片手に、龍は静かに教室に入った。
周囲では生徒たちが次の授業に備えて席についていた。
「おい、どこ行ってたんだよ? 探してたぞ、相棒!」
そう声をかけてきたのは、友人の秀夫だった。
手を差し出して、ハイタッチを求める。
「図書室にいた」
龍はそう答えたが、手は出さなかった。
そのすぐ後ろから、愛莉が戻ってきた。顔はほんのり赤く染まっていて、先ほどの会話がまだ頭から離れていないようだった。
彼女のそんな様子を見た秀夫は、何か勘違いをしたようだった──
――ふむ、相変わらず速いな、親友よ――と彼は小声でつぶやいた。
休憩の後、戦闘戦術の初授業が始まった。初めての実技授業だった。
龍 とそのクラスメートたちは、訓練用のメインホールに案内された。そこは巨大な施設で、両脇に機材が並び、大規模な戦闘を模擬できるほどの高い天井を備えていた。
――ミアズマ――先生は力強い声で口を開いた――それは我々の肉体を強化するものです。その血中濃度は個人差があり、それによって身体能力が決まります。
彼女は話しながら黒板の前を歩き、その声は自信に満ちていた。
――厳密には、ミアズマは魔力でもなければ、霊的な物質でもありません。一部の人が信じているようなものではないのです。それは、百年以上前に作られた人工の合成細胞です。人間の体内に取り込まれることで、内部から遺伝子構造を変化させました。現在では、その細胞は血液の中に存在し、保有者の体内で自然に増殖しています。
数人の生徒は急いでノートを取っていた。
龍のように、黙って静かに耳を傾けている者もいた。
――血中のミアズマ濃度が高いほど、耐久力、速度、再生能力、さらには知覚能力まで高まります。ただし――と彼女は人差し指を立てて付け加えた――ミアズマは無限ではありません。枯渇することもあるし、限界を超えて使えば、内側から身体を蝕み始めます。
教室に短い沈黙が流れた。
――だからこそ、私たちは訓練するのです。それを制御し、管理する術を学ぶために。訓練を受けていないミアズマ保持者の肉体は、安全装置のない武器と同じ。確かに強力ですが、最悪のタイミングで暴発する可能性もあるのです。
龍は腕を組みながら、「また退屈な講義か」と思った。
――通常、1年生の保有者はミアズマの濃度が低めです。平均的なISM数値は347。それが中級と呼ばれる範囲です。訓練を積むことで、体の耐久性を高めたり、能力を伸ばしたりできます。
数人の生徒が顔を見合わせた。
――しかし、例外も存在します。時折、初期数値が異常に高い者が現れるのです。そして今年は――特別なケースが一つあります。
その瞬間、先生の視線が 龍 に突き刺さった。
――如月 龍。
室内の空気が一気に重くなった。
――君のステータス評価によれば、君の数値は上級と分類されました。
沈黙が支配した。
――えっ……?
――一年生でそれってありえるの?
――何かの間違いじゃ……
龍は唾を飲み込み、冷静を装おうとしたが、身体は言うことを聞かなかった。
「上級……?俺が?」
なぜ皆が驚いているのか分からなかった。だが、先生の表情と周囲の反応――それら全てが、これは異常なことだと示していた。
英夫を見るような眼差しで龍を見つめる秀夫の姿があった。まるで宝を発見した少年のように。
思考の重みが心に積み重なっていく中、突然、腕に鋭い痛みが走った。あの腕だった。あの日、色が変わったあの腕。
先生はうっすらと微笑んだ。
――如月 龍……君は、思った以上に面白い存在かもしれないね。
その言葉を理解する間もなく、教室の扉が勢いよく開かれた。
――失礼。だが、如月と話がある。今すぐにだ。
その声は鋭く、圧のあるものだった。
――校長、後藤 六郎がそこにいた。
視線が再び龍に集まる。彼はただ、もう一度唾を飲み込むしかなかった。
――とんだ火曜日だな……――小声でつぶやいた。
どうすることもできず、龍は出口へと歩を進めた。胸の奥に奇妙な感覚を抱えながら。
その先に何が待つのかは分からない。ただ、確かなのは――
この会話の後、すべてが変わるということだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
第二話では、龍の特別な一面が少しずつ明らかになってきましたね。
これからさらに世界観が広がっていくので、ぜひ次回もお楽しみに!