19. 交差する銃声
「臆病者の圭哉が言っていた通りだ……神生流だ。高度な呼吸法とミアズマの流れを利用し、使用者のMSIをほぼ二倍まで高めることができる」
と、太絆が戦太鼓のように脈打つ体を揺らしながら説明した。
「肉体は極限まで緊張状態に入り、力、速度、感覚……すべてが人間離れした領域に達する。代償は大きいが、その力は……言葉にできない」
乃愛の目が大きく見開かれた。離れた場所からでも、その変化の重みが伝わってきた。太絆の血中ミアズマは生き物のように混沌と震え、龍は半歩だけ後退した。恐怖ではなく――敬意のために。
「神生流については読んだことがあるけど、持続できる使い手を見るのは初めて……」
と、乃愛は意識を保とうとしながらつぶやいた。(何かが変わろうとしている――)
太絆が一歩を踏み出した。
足元の地面が震えた次の瞬間、龍の視界から太絆が消え、まばたきの間にその拳が少年の腹部に突き刺さった。
鈍い音が響き、龍は内臓が押し潰されるような衝撃を感じた。体が反射的に折れ曲がり、唾を吐き出しながら肺の空気を失った。
反応する間もなく、太絆は体をひねって上方向に蹴り上げ、龍の頭部に命中させた。彼の体は数メートル吹き飛ばされ、地面を転がりながら岩や根にぶつかり、林の縁近くで止まった。
「龍!」
乃愛が叫んだ。痛む足を顧みず、彼を止めるために太絆へと突進した。
だが、犯罪者はその動きを予測していた。残酷な笑みを浮かべながらその攻撃を軽くかわし、片手で彼女の頭を掴んだ。
重さを感じさせずに持ち上げ、寺の端にある古びた石の井戸へと力強く投げつけた。乃愛の体は縁にぶつかり、地面に激しく倒れ込んだ。
「邪魔するな、このアマが」
と、太絆は軽蔑のこもった口調で吐き捨てた。
「お前とあのジジイのために、面白いオモチャをいくつか用意してあるんだよ」
寺を囲む森の中から、次々と影が現れた。根の上や木々の間から、十数人のフードを被った者たちが姿を見せた。刃物を持つ者、バットを持つ者、さらには銃を手にした者もいた。多くは民間人で、強制的に、あるいは盲目的な信仰により集められた。少数は下級のポートユーザーだった。
彼らは乃愛に殺到した。彼女はやっと立ち上がることができたが、足の傷が動きを鈍らせていた。それでも彼女は踏みとどまった。
脇腹をかすめるナイフをかわし、低い回転でその持ち主を拳で顎に打ち込んで倒した。
弾丸がかすめて飛び、負傷した腕を裂いた。乃愛は叫び声を上げたが、すぐに体を回転させて攻撃者の武器を奪い、それを使って別の者を殴った。
呼吸は乱れ、視界もかすみ始めていたが、彼女の意志は折れなかった。
(止まれない。倒れてはいけない。龍くんが戦っているんだから。圭哉は傷を負ってる。誰かが立ち向かわなきゃ――)
そして、体が悲鳴を上げても、乃愛は再び拳を構え、一歩を踏み出した。
龍は苦しみながら体を起こした。呼吸は荒く、唇の端から血が流れていたが、足はまだしっかりと地を踏んでいた。
彼は顔を上げ、鋭い視線で太絆を見据えた。その目には本能的な覚悟の炎が宿っていた。拳を握りしめると、彼のミアズマが呼応するように震えた――まるでその意志に応えるかのように。
太絆が嘲笑を漏らした。
「ああ……これはアカデミーじゃ教えてくれねぇよ、如月 龍」
と、ゆっくりと歩み寄りながら吼えた。
「殺しはしねぇけど、ちょっと遊んでやるよ。ムカついたからな……ほんのちょっとだけな」
龍は、太絆の表情が変わっていくのを見ていた。
――それは、血を求める者の顔だった。
「お前はただの反抗的な器にすぎないが、それでも 雄蓮さま の復活には役に立つんだよ!」と、太絆 は怒鳴り続けた。
「くだらないこと言ってんじゃねぇ!」と、龍が怒鳴り返し、咆哮と共にまっすぐ突進した。
衝突は凄まじかった。拳がぶつかり合う度に、空気が震えた。太絆は狂ったような笑みを浮かべながら、粗削りでありながらも圧倒的な力で一撃一撃を返していく。その力は爆発的に増していた。まるで巨人が振るうメイスのような重さだった。
「それで終わりかよ?」と、太絆は唾を吐くように言い放ち、右の拳を避けながら龍の脇腹に打ち込んだ。「訓練してきたって? 何のために? 他人を守るバカのままでいるためか?」
龍は腹部に一撃を食らい、血を吐きながら膝をついた。しかし、すぐに地面を蹴って反撃に転じ、太絆の顎にフックを叩き込んだ。その衝撃に太絆はよろめいた。
太絆は一歩後退し、意外そうな表情を浮かべたが、笑みは消えなかった。
ふたりは再び激しくぶつかり合った。今度はさらに激しく、空気はミアズマの圧で震えた。拳が風を切り、地面の土や枯葉を巻き上げた。龍は傷を負いながらも、太絆の動きを次第に読み取れるようになっていた。源三との訓練は無駄ではなかった。
龍は一歩下がり、荒く息を吐いた。口の中に広がる鉄の味など気にしない。目を閉じ、一瞬だけ意識を内に向けた。ミアズマの流れが腕を巡り、温かい力となって彼に活力を戻していく。浮かび上がる血管に沿って、淡い青い光が拳を包んだ。
(集中しろ。焦るな)と、源三の声が頭の中に響いた。(本当の一撃とは、速さではない。相手がもう避けられない瞬間に届く拳だ)
太絆が再び攻めてきた。速かったが、龍の反応はもはや本能ではなく、完全な読みだった。敵の一歩、体重の移動、すべてが情報として彼に伝わる。龍は上へ突き上げる拳をかわし、次に来た横殴りの一撃も避けた。足運びは正確で、傷ついた身体も、鋭く反応していた。
その時、隙が生まれた。太絆 が勢い余って回転し、右の脇腹を晒した。
龍はそれを見逃さなかった。
右腕にミアズマを集中させる。拳が低く唸るように振動し始める。龍は踏み込み、太絆のこめかみに強烈な一撃を叩き込んだ。その音は森の中に響き渡った。太絆の身体は吹き飛ばされ、地面を転がりながら数メートル先へと弾き飛ばされた。
龍は容赦しなかった。
同じミアズマの流れを脚に送り込み、叫びを抑えながら地を蹴った。跳躍し、太絆の勢いを乗せた回し蹴りが太絆の胸に炸裂した。太絆の身体は石造りの植物プラントに叩きつけられ、乾いた音と共にその一部が砕けた。
土煙が再び舞い上がる中、龍は肩で息をしながらも、構えを解かなかった。
その瞳に、迷いはなかった。
太絆の身体は数秒間、砕けたプラントの瓦礫の中に横たわっていた。額を一筋の血が伝い、砕けた石の上に滴り落ちる。呼吸は荒く、胸が激しく上下している。ミアズマに蝕まれた皮膚の下で、脈打つ血管がまだ動いていた。
そのとき、乾いた笑い声が彼の喉から漏れた。
最初は囁くように小さな声だった。しかしそれは徐々に大きくなり、やがて痙攣するような狂気に満ちた笑いへと変わった。森の中に響き渡る、不気味な残響だった。
太絆はゆっくりと起き上がった。震える手を地面につきながら。身体は傷で軋み、痛みで満ちていたはずなのに、その表情は完全に混沌に身を委ねた者のものだった。
「すごかった……すごかったよ、如月 龍……それが我が主の力か!」と、息を切らしながら叫んだ。顔は引きつった笑みで歪み、目は見開かれ、どこか焦点が合っていなかった。「やっと……やっと面白くなってきやがった!」
「……次の段階に進む時だ」
太絆はそう囁いた。
何の前触れもなく、彼は右手を胸の高さまで上げ、まるで真言のような形を作った。そして、しっかりとした構えを取る。目を閉じた瞬間、世界が静寂に包まれた。
太絆は大きく息を吸い、胸を膨らませた後、ゆっくりと吐き出した。それはまるで、ただの息ではなく、内に秘めた何かを解き放つかのようだった。奇妙な静けさが彼の周囲を包み込む。
その時だった。
彼の周囲に漂っていたミアズマが激しく振動し始めた。空気が震え、彼のオーラが不規則な渦を巻きながら脈動を始めた。それはまるで、彼の体内に流れるエネルギーが暴走し、より速く、より深く流れ出したようだった。
太絆は目を見開いた。瘴気に染まった虹彩が、不気味な光を放つ。
「生き流」
その声は囁きにも満たないほどの静けさだったが、その一言には重みがあった。
龍は無意識のうちに一歩後ろに下がった。その違いは明白だった。
ただの力や速さの向上ではない。
(これは……何だ?彼のエネルギーが……まるで意識を持っているみたいだ)
神生流、それだけでも基本形は凄まじかった。だが今の太絆は、生き流の効果によってただ昂っているだけではなかった。彼は瘴気と完全に同調していた。それは融合と呼ぶべき境地だった。
龍は歯を食いしばる。
(ここからが……本番か)
龍は黙ってその姿を見つめていた。心臓が喉元で鳴り響くほど高鳴っていた。震える手は、疲労のせいではない。もっと深いところからくる震え。生き延びるための戦いは、これが初めてだった。勝つためでもなく、鍛錬のためでもない。ただ、生きるための戦い。恐怖は現実だった。不安が心を食いちぎっていた。それでも——彼は退かなかった。退くわけにはいかなかった。背負っているものが大きすぎたから。
「これの何が最高か、わかるか?」と、頭を傾けながら続けた。「苦しめば苦しむほど、確信できる。お前は完璧な器だってな。雄蓮さま はお前の中で咲き誇るだろう……干上がった森に燃え広がる炎のようにな」
その言葉は毒だった。狂気だった。信仰に染まりきった妄信だった。
それでも、龍は一歩も引かず、ただ黙って見つめていた。ミアズマが体の中でまだ震えていた。まるでその脅威に魂そのものが応えているかのように。
再び、緊張が高まっていく。
戦いは、まだ終わっていなかった。
太絆が血走った目を光らせ、狂気に歪んだ笑みを浮かべながら、野獣のごとく突進してきた。龍は拳を握り締め、迎え撃つ構えだったが、それでも最初の一撃は避けられなかった。肩からぶつかってきた 太絆 に押され、何メートルも後退させられ、ひび割れた地面を引きずられた。
「来いよ、龍!俺を生かしてみろォッ!」と太絆が咆哮し、滅茶苦茶ながらも凄まじい連打を繰り出してきた。
龍は二発、三発を受け止めたが、やがてその動きを読み取り、体をひねって四発目をかわし、反撃のストレートを腹に叩き込んだ。太絆はそれをもろに食らったが、まるで何も感じていないかのように、さらに笑い声を高めた。口の端には泡が浮いていた。
「手加減すんなァ!殺すつもりでぶん殴れッ!」
一方で、戦場のすぐそばでも、混沌は続いていた。
乃愛は荒い息をつきながらも、立ち続けていた。負傷した脚はうまく動かず、切られた腕からは再び血がにじんでいた。それでも、彼女は退かなかった。地面に落ちていたナイフを拾って正確な一撃を放ち、銃撃の間を跳ね回り、フード姿の敵の攻撃をギリギリでかわしていた。服は破れ、血で染まっていたが、その瞳にはまだ炎が灯っていた。
倒した敵はすぐに新たな敵で埋められる。まるで終わりのない波と戦っているかのようだった。そして、彼女の脳裏にはただ一つの映像だけがあった。
(耐えて……お願い、負けないで。龍くん……)
背後から、フードの男がナイフを振りかざして迫ってきた。乃愛はとっさに反応し、肘を喉に叩き込んだが、その反動でバランスを崩し、地面を転がった。周囲に複数の敵が迫る。彼女は立ち上がろうとしたが、脚が言うことを聞かなかった。
そのとき、地面が震えた。
空気を裂くような轟音。
「うわああああっ!」と叫び声をあげながら、フードの男の一人が空へ吹き飛ばされた。
木々の間から、まるで人間戦車のように現れたのは、源三だった。その姿は圧倒的な威圧感を放ち、筋肉は鋼のように引き締まり、その顔には激しい怒りが浮かんでいた。
「誰だァ……俺の娘に手ェ出したのはァアアアア!!」と怒号を放ち、敵二人をぶつかりざまに木へと叩きつけ、まるで人形のように粉砕した。
乃愛は驚きながら叫んだ。
「お父さん!」
源三は、ベテランの如き正確な動きで拳を振るいながら、ガンと回し蹴りの合間に叫び返した。
「死ぬなよ、乃愛!俺はお前を埋めに来たんじゃねぇ!」
フードを被った男たちは、その凶暴な戦闘スタイルに一瞬たじろいだ。
源三は生ける壁のように、止まることなく前進し、小さな攻撃をものともせず、敵を紙のように打ち倒していった。
乃愛は、父の姿を見て、胸の奥で何かが燃え上がるのを感じた。
その衝動が、彼女をもう一度立ち上がらせた。
「置いていかれるわけにはいかない…」と、歯を食いしばって呟く。
そして彼女は源三とともに再び戦場へと身を投じた。
──その戦場から離れた場所。
地域の警察署の緊急電話が甲高い音を響かせた。
時刻は午前1時47分。仮眠中だった当直の警官は、半ば寝ぼけながら受話器を取った。
「首都警察です」
彼の声には慣れた日常の響きがあった。
しかし、受話器の向こうからは、焦った早口の声が飛び込んできた。
「銃声が…! 第四地区の古い寺で! 爆発音と叫び声も聞こえたんです…! 戦争みたいで何が起きてるのか分からないけど、とにかく誰かを送ってください!!」
警官は目を見開き、体が瞬時に緊張した。
彼はすぐに住所をメモした。
「あなたは安全な場所にいますか? どこからかけていますか?」
だが、通話は既に切れていた。
警官はインターホンに手を伸ばし、ボタンを押した。
「注意。第四地区の廃寺付近で武装事件の可能性あり。即時確認を要請する。石井巡査、対応可能か?」
「こちら石井。了解」
低く渋い声が返ってきた。
「座標を送信する。応援を連れていけ。深刻な衝突の可能性がある」
数分後、石井巡査──風に晒されたような顔立ちと無表情な表情を持つ男──はジャケットを羽織り、駐車場へ向かっていた。
そこに現れたのは、少し若くて痩せ型、落ち着いた動作をする上原巡査だった。
「一人で行くのは危ないっすよ、石井さん。俺が運転します」
すでにパトカーの鍵を手にしていた上原がそう言った。
石井は頷いた。「行こう。ただし慎重にだ。もしも通報通りなら…地獄かもしれん」
パトカーはエンジンを鳴らし、第四地区へと向かった。
最初の数分間、車内の空気は重く張り詰めていた。
その空気を和らげようと、上原が口を開いた。
「娘さんは元気っすか?」
「大学に通ってる」
石井は微笑みを浮かべた。「環境工学を学んでいる。誇りに思ってるよ。いろいろあったが…あいつは立派に育った」
「元奥さんとは?」
上原は道から目を離さずに尋ねた。
「六年前に離婚した。お互いのためにはそれが最善だった。だが娘とはもう連絡を取っていない。残念だよ」
さらに二十分が経過した。
石井は眉をひそめた。
「いつもの道と違うな…近道か?」
「ええ、数年前の作戦で使ってたルートです。より直線的に行けるかと」
だが、上原の声にはどこか違和感があった。
石井はカーナビを確認し、周囲の景色を見回した。
暗い通り。第四地区からは明らかに外れていた。
「上原さん…なぜまだこんなに離れてるんだ?」
石井の声は低くなった。
──車が停まった。
上原はエンジンを切った。
静寂が車内を包む。
返事もせず、彼はゆっくりとドアポケットからサイレンサー付きの拳銃を取り出し、しっかりと構えた。
「個人的なことじゃないんだ、石井」
穏やかで、どこか申し訳なさそうな声だった。
「本当に…すまない」
石井はわずかに顔を向け、目を見開いたまま、手を銃に伸ばそうとした——
パスッ。
こめかみに一発。すべてが止まった。
続けざまに二発、胸と首。彼が二度と息をすることはなかった。
石井の身体は地面に横倒しに崩れ、最後の痙攣とともに指先がかすかに動いた。
上原は銃をしまい、ため息をついてタバコに火をつけた。長く煙を吸い込み、死体を見つめた。
「娘さんが前を向いて生きていけるといいな……お前には、それくらいの価値はあったよ、じいさん」
死者に届くはずのない声で、呟いた。
彼は携帯電話を取り出し、番号を押して待つ。
やがて、慎重そうな男の声が応答した。
「……はい?」
上原は挨拶すらせず、
「第4地区で何が起きてる? 地元警察にバレたぞ」
怒りを抑えた声で言い放つ。
「さっぱりわかりません……」
声は不安げだった。
「だったら今すぐ調べろ、このバカ野郎!
お前らのどっかのクソ寄生虫が火遊びしてるに決まってる。
俺が現場にいなかったら、異能対策局の装甲部隊が三人は突っ込んで掃除してるところだったんだぞ。
“目立つな”って言葉の意味、まだ分かんねえのか?」
「……すぐに対処します」
「いいや、いますぐやれ。それから終わったら連絡しろ。
こっちは死体の処理がある」
一方的に電話を切り、彼はタバコの吸い殻を窓から投げ捨てた。
そして、石井の遺体に最後の一瞥を向ける。
「頭にも撃っといた。任務中の死に見えるだろ。せめてもの情けだ」
エンジンをかけ、静まり返った通りを反転して闇の中へと消えていった。
——
最後のフード付きの男たちが、森の根元に呻き声を漏らしながら倒れた。
源三は荒い息を吐き、戦いの終わりを示すように息を整えた。
乃愛は即席の包帯を腕に巻き、足には乾いた血。よろめきながら父に近づいた。
「大丈夫か?」と源三が問いかけた。まだ警戒を解かずに。
「うん……なんとか」乃愛は息を切らしながら答える。
「でも……もう残ってないと思う」
二人は辺りに転がる気絶した敵と、その一部が所持していた武器を見つめた。
源三は地面を顎で示した。
「武器を集めるぞ。まだ動けるやつがいたら面倒だからな」
無言で、二人は銃火器を集め始めた。
素早くマガジンを抜き取り、弾を裂けたコートの布切れで即席の袋に入れていく。
空にした銃はまとめて、開けた場所の隅に積み上げられた。動ける者の手が届かないように。
乃愛は額の汗をぬぐい、遠くから聞こえる衝撃音と叫び声に目を上げた。
ミアズマの震動が響く。あれは——間違いない。
「龍くん……」
二人はその声の先へと視線を向けた。
木々の間、龍と太絆がぶつかり合っていた。
激しい衝突。ミアズマのうねり。空気が切り裂かれ、怒りと速さが交錯する。
地面が、二人の足元で震えていた——。
乃愛は一歩前に出た。筋肉が本能的に緊張していた。声が震える。
「助けなきゃ……」
だが、しっかりとした手がその肩に置かれた。源三だった。
「駄目だ」低く、しかし落ち着いた声で言った。「彼に戦わせてやれ。あいつは覚悟を決めてる。今、お前が出ていけば……彼が求めてるものを奪ってしまうことになる」
乃愛は歯を食いしばった。身体は動きたがっていたが、父の声の中にあった何かがそれを止めた。視線を落とし、深く息を吸い込む。
——そして、思い出した。
如月龍と出会ったあの日のことを。
正直な目をした少年。まだ癒えていない傷を抱え、それでも恐怖も痛みも隠そうとしない姿。むしろ、それを奇妙な誇りを持ってさらけ出していた。
(強がってるんじゃない……)
最初から、龍は彼女が築いてきたものすべてに痛みを伴う対比を与えていた。
彼女は、捨てられるのが怖くて、強くなった。
彼は、他人を守るために、たとえ自分が壊れても、強くなろうとしていた。
彼女は、壁を築いた。
彼は、橋をかけてきた。
乃愛は拳を握りしめた。あの頃は、なぜ彼の脆さと決意の共存が自分を苛立たせるのか、理解できなかった。自分にとっては弱さでしかなかったそれが、龍の中では……勇気に見えたのだ。
そして、いつの間にか——どうしてかも分からないまま——彼を尊敬するようになっていた。
力のためじゃない。
彼の「愛し方」のために。
何もかも失ってもなお、龍は「守る価値がある」と信じていた。
その想いが……彼女に希望をくれた。
胸が痛むような、そんな希望。
密かに、でも確かに、自分も欲しいと願った希望だった。
龍の打撃は、どんどん正確さを増していた。ミアズマを巧みに操り、動きの一つ一つに強烈な力を宿らせていた。太絆ですら追いつけないほどに。その呼吸は荒くなっていたが、目は決して揺らがない決意を燃やしていた。龍は、彼を超えようとしていた。
龍が見せるその闘志は、戦場で磨かれた兵士そのものだった。身体は痛み、手足は鉛のように重く、それでも彼の意志は折れることなく、前進だけを見据えていた。
(神生流……すごい……動きがほとんど見えない)と、龍は心の中で思った。太絆が何度も立ち上がるのを見ながら。その身体は見えない炎のような気配に包まれていた。
神生流は、太絆を前進させていた。MSIは高水準を維持したまま、生き流の術式によって彼はトランス状態に入り、速く、強く、ほぼ止められない存在と化していた。エネルギーは血管を駆け巡り、痛みをかき消し、常人の限界を超えさせていた。——だが、代償は、徐々にその表情に現れ始めていた。
体は正確に動いていたが、顔は誤魔化せなかった。汗で濡れた肌、開いた口元、張り詰めたまぶた。呼吸は乱れ始め、短くなっていく。かつての傲慢さを宿していた瞳には、疲労の影が差し始めていた。まるで一秒ごとに、崩壊の淵へと近づいているように。
太絆は、顔面へ向かってきた拳をかろうじて避けたが、脇腹の一撃は防ぎきれなかった。大きくよろめく。歪んだ笑みがその瞬間、砕けた。ほんの一瞬、その瞳に恐れのようなものが浮かぶ。それは痛みのためではなく、内側から忍び寄る限界の気配に対する恐怖だった。
「クソが……」と吐き捨て、後退しながら体勢を立て直そうとする。
だがその時、不意に、空気を裂く乾いた音が響いた。
——バンッ!
銃声。
即座に衝撃が走った。
龍は咄嗟に身体をひねり、くぐもった悲鳴を漏らしたまま膝をついた。左脇腹に手を当て、そこから溢れ出す血がシャツを赤く染めていく。
「龍くんっ?!」
乃愛が心臓を凍りつかせるような叫び声を上げた。
暗闇の中から、優雅な雰囲気を纏った人影が静かに現れた。右手にはまだ煙を上げるリボルバーを持ち、長いコートが風に揺れている。暗いサングラスに隠された瞳には、一片の感情も浮かんでいなかった。
太絆は眉をひそめ、その姿を認めた。
「|旭《あさひ》…?何してんだ、ここで」
旭はゆっくりと銃を下ろした。
「上層部は、お前がやらかしてる茶番に気づいたんだよ」
その声は穏やかだが、刃のように鋭かった。
「それに──誰を巻き込んだかってこともな。今回の件で、お前はただじゃ済まないぞ、太絆」
「俺は状況を把握してた!」
太絆は唸るように言い返した。
旭は 龍のすぐ傍まで歩み寄った。彼はまだ血まみれの手で自分の腹を押さえ、何とか意識を保っていた。
「そうは見えなかったがな」
旭は太絆に目もくれずに言った。
「安心しろ。殺すつもりはない。まだ熟していないからな。今は、必要な段階じゃない」
彼はコートのポケットから金属製の小型装置を取り出し、スイッチを入れた。細く光るコードがゆっくりと伸び始める。
「家の専属医に預ける。ここよりはマシな環境で手当てできるだろう」
そのときだった。林の端から、ひときわ速い影が走り出た。
「そいつから離れろ!」
怒声と共に、加納 祐介が姿を現し、重い蹴りを旭の顔面に向かって放った。
だが──旭は並の相手ではなかった。
まるで何事もなかったかのように、彼は狙撃銃を片手で持ち上げ、その蹴りを受け止めた。強烈な衝撃で後ろに二歩退いたが、地面が軋んだだけで倒れることも、銃を落とすこともなかった。そのサングラスの奥の眼差しは、依然として冷徹だった。
「加納 祐介か」
旭は軽蔑のこもった声で銃を下ろした。
「あの老司令の忠犬……貴様まで首を突っ込むつもりか」
加納は龍と旭の間に着地し、闘う覚悟を込めて構えた。
「もう二度と、そいつに手を出させない」
膝をつき、血を流しながらも、龍はその声に顔を上げた。
「……加納……来てくれたんだ……」
加納の視線は一瞬たりとも旭から逸れなかった。
「もう少しだけ耐えろ、龍。今度は──俺が守る」
龍は奥歯を食いしばり、血に染まった衣服の下で、なおも燃える意思の炎を絶やさなかった。
旭は銃を肩に担ぎ、舌打ちをした。
「戦いに来たわけじゃない。だが、これ以上邪魔するなら……その口、後悔することになるぞ」
二人の間に漂う空気は、一触即発の緊張を孕んでいた。
旭は細めた目で睨みつける。その瞬間、風が一時的に止んだように感じられた。
「──なら、血を流す覚悟を決めろ。忠犬」
彼が一歩踏み出したとき、地面が軋んだ。
そして──嵐が始まった。
夕暮れの光が薄れていく中、二つの影が交差した。
一発の銃声が、全てを変えた。
その瞬間、誰もが気づいていなかった。
これは、ただの始まりにすぎないということに──。
読んでいただき、本当にありがとうございました。
次回も、どうぞお楽しみに──。