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18. 型と信念の衝突

寺の扉が勢いよく開き、フードを被った五つの人影が一斉に飛び出した。追われているのは、わずかに足を引きずりながらも、完璧な構えを崩さぬ金髪の少女――乃愛(のあ)だった。


乃愛(のあ)は外庭で急旋回し、湿った土の上に踵を突き立てた。肩に浅い傷を負っていながらも、その表情には一切の迷いがなかった。


「今は…倒れられない…」そう呟きながら、歯を食いしばる。


最初のフードの男が湾曲した短剣を振りかざして襲いかかってきた。乃愛(のあ)は横にかわし、顎への鋭いアッパー一撃で地面に叩きつける。間髪を入れずに次の敵を回し蹴りで薙ぎ払い、三人目には腹への拳で地に伏せさせた。


だが、四人目が不意を突いてきた。


左脚に鋭い灼熱感が走り、叫び声を噛み殺した。太腿の下に短剣が突き刺さっていた。一瞬ふらついたが、怒りが痛みを上回った。顔を歪め、体重を乗せた拳を突き出し、襲撃者を数メートル吹き飛ばし、茂みの中に沈めた。


「くっ…クソッ…!」乃愛(のあ)は脚を押さえ、額を汗が伝った。燃えるような痛みが脈打っていた。


最後のフードの男が素早い斬撃で襲ってきた。前腕に切り傷を受けたが、乃愛(のあ)は止まらなかった。呼吸は荒くなり、視界もぼやけ始めたが、決意だけは揺らがなかった。


「負ける…もんかっ!」咆哮と共に、正確な連撃で相手を倒した。


倒れた敵たちの中、乃愛(のあ)は木にもたれかかりながら後退した。震える手で脚に突き刺さった刃を一気に引き抜いた。その痛みに、奥歯が軋む。


血が太腿を伝い、土と混じって染みこんでいく。乃愛(のあ)は目を閉じ、手の震えを必死に抑えようとした。


そのとき、寺の周囲の森が轟音で揺れた。


乃愛(のあ)は目を見開いた。


(りゅう)くん…?」小さく呟いた。


幹に寄りかかりながら、音のする方へと這うように歩き出す。足を引きずり、出血し、今にも倒れそうだったが、彼女は止まらなかった。


ついに辿り着いたその空き地には、衝撃の光景が広がっていた。太絆(たいき)が木に叩きつけられ、荒い息を吐きながら倒れていた。幹は衝撃で裂けている。その前に立っていたのは、汗をにじませ、浮き出た血管が緊張している如月 龍(きさらぎ りゅう)だった。彼の瘴気が揺らめくように放たれ、その圧に乃愛(のあ)は圧倒された。まるで目の前で何かが“変わっていく”かのようだった。


数秒間の静寂の後、太絆(たいき)が声を上げた。狂信に染まった口調で。


「お前の命を、如月 龍(きさらぎ りゅう)…その命を捧げればいい!雄蓮(ゆうれん)さまを蘇らせる鍵となる!それが、お前の運命だ!」


(りゅう)はすぐには答えなかった。だが呼吸は落ち着き、目は闇と光を併せ持つように澄んでいた。


「運命…か?」


(りゅう)は首を傾げ、目に嘲りを浮かべた。


「その“ご大層な運命”なんざ、知ったこっちゃねえ。」


太絆(たいき)は地面に血を吐き捨てた。


「お前は保有者と知られてから、この世界に捨てられた!追われ、刻印され、憎まれた!なぜそれでも守ろうとする?この腐った世界を!」


(りゅう)は一歩前に出た。


「黙れ。」


その言葉は、水面に石を落としたように響いた。太絆(たいき)は動きを止めた。


「お前が何を繰り返そうが、俺には関係ない」

(りゅう)は声を荒げることなく言った。

「俺は力なんて欲しくない。興味もない」


太絆(たいき)は口元に歪んだ笑みを浮かべたまま続けた。

「お前の血を流れているのは呪いなんかじゃない……遺産だ!お前の身体は普通じゃない。ただの強さじゃないんだ……雄蓮(ゆうれん)さまの意志と、あの化け物じみた力をも宿している。お前は選ばれし器なんだ!」


彼は一歩前に出た。森の風がその黒いローブをはためかせた。


「ならば……なぜ栄光を求めない?なぜ支配を目指さない、如月 龍(きさらぎ りゅう)?黒炎の継承者として世界を跪かせたいとは思わないのか?」


「そんなもの、いらない」

(りゅう)はため息をつき、一瞬だけ視線を落としてから、鋭く相手を見据えた。


「正直……自分が何者かを知った時から、全部がクソになった。もう何も意味がわからない。でも……こんなことが俺に起きてるなら……せめて、意味のあることに使いたい。俺にとって大切な人たちのために。たった一度でもいいから」


太絆(たいき)は顔をしかめた。


「そんな力を、たった数人を守るために浪費するのか?家族か?友人か?この腐った世界で彼らが無事でいられるとでも?お前を誘拐しようとした連中がいたこと、忘れたか?お前は“脅威”として狙われたんだ。全員がお前の危険性を知っている。そんな中で、まだ人のために戦いたいと?あんな裏切り者のために?」

太絆(たいき)圭哉(けいや) を指差した。


「黙れ。俺の力の使い道を、お前に決めさせはしない」

(りゅう)は静かに言い返した。

「脅威と思われようが、どうでもいい」


(りゅう)は顔を上げた。その冷静な様子は、この緊迫した空気とあまりにも対照的だった。


「俺に手を差し伸べてくれた人たちもいた。何も見返りを求めず、信じてくれた。……その人たちは、守る価値がある」


(りゅう)は一歩前に出た。太絆(たいき)は思わず一歩後退した。


「俺が強くなりたいのは、支配のためじゃない。復讐のためでも、決められた運命を果たすためでもない」


彼は目を細め、その声には抑えた炎が宿っていた。


「家族を……友人を……そして、自分を守れない人たちを守るために、強くなりたいんだ」


乃愛(のあ)は、腹の奥に何かが詰まる感覚を覚えた。


それは太絆(たいき)の言葉にではなく――(りゅう)の言葉に、だった。


(守れない人を守るために……)


彼女の視線は、(りゅう)の背後で怯えながらうずくまっている 圭哉(けいや) に向けられた。

――彼女にとっては、守る価値があるとは到底思えない存在だった。


しかし、(りゅう)にとっては違った。


彼は圭哉(けいや)を“荷物”でも“弱さ”でもなく、助けを必要としている“誰か”と見ていた。それだけで、彼は戦う理由になっていた。


(私は……何をしているの?)


乃愛(のあ)は木にもたれ、力を込めた。

ナイフはもう抜けていたが、痛みはまだ残っていた。鋭く、確かな痛み。


(いつから私は、弱い人を切り捨てるようになったんだろう……?)


彼女は目を閉じた。その瞬間、父の姿が脳裏に浮かんだ。消えることのなかった古傷のように。


「強くなれば……見捨てられない」

彼女は、かすれた声で呟いた。


――けれど今、その言葉はもう、彼女を慰めなかった。


……彼女の首を絞めていた。


一瞬の静寂が、森の空き地を包み込んだ。風の音と、遠くで枝が軋む音だけが響いていた。


緒方(おおがた)はゆっくりと腕を下ろし、その瞳に冷たい光が宿る。


「そうか……じゃあ、お前は間違った選択をしたんだな」

その声には、もう甘さなど一切なかった。

「だが構わない。運命は、迷う者を待ったりしない。良い方法で駄目なら……力ずくだ」


そう言って、彼は顔を木陰に向ける。

木々の間で揺れる影たちへと。


拳を握りしめ、ゆっくりと掲げた。


茂みの奥では、乃愛(のあ)が目を見開いてその様子を見ていた。

(りゅう)の言葉が、見えない槍のように彼女の胸を貫いた。


(強くなりたい……友達を守るために)


「見捨てられたくないから」ではなかった。

「必要とされたいから」でもなかった。


呼吸が乱れる。その“強さ”の意味は、彼女の信じてきたものと正反対だった。


唇を噛み締める。心臓の鼓動が加速していく。

心の奥底で、何かが揺らいでいた。


脚の震えは、もはや傷のせいだけではなかった。


今感じた“何か”のせいだった。


今、理解してしまったことのせいだった。


(強くなりたい、守るために)


「バカ……」と、彼女は呟いた。

だがその声には、怒りではなく、奇妙な敬意と、鋭く胸を刺す感情が混じっていた。


あの言葉には、痛みがあった。

嘘だったからではない。

彼女の信じてきたものすべてを否定されたようで、苦しかったのだ。


彼女も、強くなりたかった。だが、それは守るためではなかった。


見捨てられたくなかったから。

誰にも気づかれない存在になりたくなかったから。

代わりの利く人間になりたくなかったから。


――そして、まるでその言葉が封印された記憶の扉を開いたかのように、忘れていた光景が鮮明に蘇った。


大人たちの言い争い。

半開きのドアの向こうから差し込む淡い光。

そして、不安と焦りに満ちた母の声。


自分が聞いていないと、母はそう思っていたのだろう。


彼女が「離婚」という言葉を初めて耳にしたのは、十二歳の時だった。


彼女はベッドに座っていた。

鼻までシーツをかぶり、眠っているふりをして。

夏の夜なのに、部屋の空気はどこか冷たかった。

廊下の向こうから、両親の声が不気味なほどはっきりと聞こえていた。


源三(げんぞう)、こんなのもう限界よ。あなた、ほとんど家にいないじゃない。乃愛(のあ)のこと、ほとんど私が一人で育ててるのよ」


「そんなことないさ。できるだけ時間を作って――」


「足りないのよ! あの子には安定した生活が必要なの! 畳と汗と格闘技だけの生活じゃない!」


彼女はごくりと唾を飲み込んだ。

目をきつく閉じる。

その言葉たちから、逃れようとするかのように。


「それに今度はこれ……あの子に兆候が出てるって? “保有者”の可能性があるって?!」


綾乃(あやの)乃愛(のあ)にはポテンシャルがある。だが制御できなければ、彼女自身が危険なんだ。だからこそ、鍛錬が必要なんだよ」


しばし沈黙が続いた。


そして母の声が、静かに、でも確かに震えていた。


「でも、私は……あの子に恐れながら生きてほしくない。普通の子として生きてほしいの……」


乃愛(のあ)はシーツを握りしめた。

喉に硬く重い塊が詰まっていくのを感じる。


(パパはあまり家にいない……帰ってきたと思えば、いつも喧嘩してる。

全部、私のせいだ。

全部、私のせいなんだ……)


最初の亀裂は、そこで生まれた。静かに。見えないほどに。しかし、致命的だった。


現在に戻ると、乃愛(のあ)はずっと(りゅう)を見つめていた。


彼との間にある圧倒的な違いが、頭から離れなかった。彼は誰かのために戦っている。彼女は――置いていかれないように戦っているだけだった。


そして、久しぶりに恐怖を感じた。(自分は、思っていたほど完璧じゃないのかもしれない)


(この強さだって…ただの壁だったのかもしれない)


あの夜を境に、乃愛(のあ)は世界をまるで違うレンズで見るようになった。


両親の笑顔が以前のようには見えなくなった。どこか作り物めいて、どこか脆くなった気がした。彼女は、気まずい沈黙、夕食中に逸らされる視線、些細な仕草――普通の人なら気づかないようなもの――を読み取る名人になった。


心に不安を抱えながら生きていく子どもにとって、それは当然のことだった。


父・水原源三(みずはら げんぞう)は、家にいるときはいつも優しかった。旅先で見つけた小さなお土産を渡してくれて、ぎゅっと抱きしめて、「お前のこと、誇りに思ってるよ」と笑ってくれた。


でも、滞在はどんどん短くなっていった。彼女が目覚める前に出て行く日もあれば、遅い夜に帰宅し、乃愛(のあ)がすでにドアに背を向けて眠ったふりをしているときもあった。


母・水原 綾乃(みずはら あやの)は厳しかったが、温かい存在だった。しかし、その姿も少しずつ変わっていった。常に忙しそうで、手にはスマホ。取引先、顧客、従業員とのやり取りが絶えない。いつも何かもっと大事なことを解決していた。


そして――別居が訪れた。


ドラマのような騒ぎではなかった。叫び声も涙もない。ただ、静かすぎる日曜の朝の会話だった。「お父さんは、別のマンションに引っ越すことになった。でも、これからも頻繁に会いに来るからね」と言われた。


乃愛(のあ)は笑って、「わかった」と答えた。


でもその夜、彼女は父のトレーニングシャツを抱きしめたまま、涙が枯れるまで泣き続けた。


あの日から、彼女の中で何かが変わり始めた。


もっと激しく練習するようになった。源三(げんぞう)が提案することは、何でも「うん」と受け入れた。技術、ルーティン、スパーリング――何でも。彼女が必死すぎて、時には彼の方が「もうやめとけ」と止めるほどだった。


乃愛(のあ)は情熱でやっていたわけではない。


彼が褒めてくれるたび、「上達してるな」と言ってくれるたびに、(これで…また、そばにいてくれるかもしれない)と願っていた。


強くなればなるほど、こう思った。(私が役に立てば、私が上手くなれば…きっと、誰も私を置いていかない)


夜になると、誰にも見られずに、その言葉を呪文のように何度も何度も唱えていた。


そうして、彼女の中の「自分」は形を成していった。


少女としてではない。


強い者として。何も必要としない者として。誰の助けもいらない者として。


現在に戻ると、乃愛(のあ)は深く息を吸い込んだ。


脚と腕の傷が燃えるように痛んでいたが、胸の奥を締めつけるような痛みに比べれば、大したことではなかった。


(りゅう)の言葉がまだ彼女の中で鳴り響いていた。


「強くなりたいんだ…守るために。支配のためじゃない。誰かに見せつけるためでもない」


その瞬間、乃愛(のあ)は気づいた。


(今まで築いてきたもの…私を囲むこの「強さ」って、本当に強さだったのかな?)


(それとも、あの崩れていく家の中で震えていた、あの夜の子どもに戻りたくなくて――作り上げた仮面だったのかな?)


乃愛(のあ)は目を閉じた。


そして初めて、その問いを避けることなく、自分の中に受け入れた。


乃愛(のあ)の荒い息遣いが、風に揺れる葉の音にかき消されていった。脚の傷はまだズキズキと痛み、温かい血が膝の下をつたって大地を赤く染めていく。それでも、彼女は動かなかった。いや――動けなかった。


倒れた木の幹の陰に身を隠しながら、彼女の視線はその先で展開される光景に釘付けだった。


太絆(たいき)が立っていた。全身を震わせながら。


その前には、(りゅう)。拳を握りしめ、あの時と同じ決意に満ちた顔をしていた。乃愛(のあ)はその表情をよく知っていた。


だが、その場にはもう一人いた。(りゅう)の背後で、怯えながらうずくまっている少年――圭哉(けいや)


「全部お前のせいだ、クソ野郎!」

太絆(たいき)が怒鳴り、怒りに任せて腕を振り上げた。


乃愛(のあ)の目が大きく見開かれた。


だが、その拳が振り下ろされることはなかった。


「やめろって言ってんだよ!」

(りゅう)の声が響いたかと思うと、次の瞬間にはすでに太絆(たいき)の目前にいた。


(りゅう)の拳が鋭く太絆(たいき)の腹部に突き刺さり、彼は数歩後退して喉を押さえながらうめいた。


(りゅう)は、見捨てられたくて戦っているわけじゃない。

必要とされるために鍛えているわけじゃない。

誰かの期待に応えることで、自分の価値を測っているわけじゃない。


それでも、彼はそこにいる。まっすぐに、堂々と、自分という存在で――誰かに慕われている。


(私はいつから勘違いしてたんだろう)


(「強くなること」だけが、私の価値だと思い込んでた…)


乃愛(のあ)の視界が揺らぎ、現在がかすれていく。

代わりに浮かび上がったのは――長い間心の奥に封じ込めていた、ある記憶。


雨が降っていた。窓に水滴が打ちつけられていた午後。

彼女はベッドの端に座り、拳をぎゅっと握っていた。


転校の数週間前、乃愛(のあ)は気づき始めていた。母・綾乃(あやの)が頻繁に電話をしていたことに。いつも小声で、一人で。そして部屋の空気に、どこか張り詰めた緊張が漂っていた。何か重大な話があるのに、誰もそれを口にできないような感覚。


ある日の夕食後、綾乃(あやの)がリビングに彼女を呼んだ。


乃愛(のあ)、大事な話があるの」

穏やかに微笑んでいたが、その瞳はどこか沈んでいた。


アメリカにいる彼女の父――ホテルチェーンの現CEOが引退を決めた。

そして綾乃(あやの)が、次のCEOに指名されたのだ。祖父が築いたすべてを継ぐ、その瞬間が訪れた。


「これって、すごいチャンスなの。新しい生活を始めよう。二人で、一緒に」

優しく頬を撫でながら、そう言った。


乃愛(のあ)は、何も言えなかった。


沈黙を破ったのは源三(げんぞう)だった。いつになく、はっきりとした声で。


「そんな簡単な話じゃない」

腕を組み、鋭く言い放つ。


乃愛(のあ)はもう、“目覚めてる”んだ。鍛えなきゃいけない。ここでな」


源三(げんぞう)乃愛(のあ)には安定した生活が必要なの。毎日が危険と隣り合わせの環境なんて、あり得ない」


「じゃあ、もし訓練しなかったらどうなる? もし力が暴走したら? 自分を傷つけるか、誰かを傷つけるかもしれないんだぞ。これはただの“能力”じゃない。責任なんだよ、綾乃(あやの)


言い争いは増えていった。

ふたりは乃愛(のあ)には聞こえていないと思っていた。けれど、彼女には聞こえていた。壁越しに。布団を頭までかぶって。それでも、言葉はすべて突き刺さった。


(いつも…私のせいでケンカしてる…)


その思いが胸の奥を締めつけた。


最終的に、母は静かに諦めた。


「…わかったわ。彼女のためなら…あなたと一緒にいさせる。でも、忘れないで。私は乃愛(のあ)を心から愛してる。離れるのは、どうでもいいからじゃない」


別れは静かだった。

涙はなかった。ただ、長く抱きしめ合い、言葉以上の想いを交わした。


乃愛(のあ)は母を責めなかった。どうやって責めればいいのかわからなかった。

心のどこかで、(自分が“持ち主”じゃなければ…母は行かなくてすんだのかもしれない)と、思っていたから。


その日から、彼女の生活は一変した。


青山学園(あおやま がくえん)は、今まで通っていた学校とはまるで違っていた。


キャンパスは広く、最新設備が揃っていた。学問の棟と戦闘訓練の棟が分かれており、そこで“持ち主”であることは特別ではなく、当たり前だった。


――それが、かえって彼女には怖かった。


初登校の日、彼女は人より早く校門をくぐった。


制服の襟はきちんと整えられ、髪は一束に結ばれていた。

背筋をまっすぐに伸ばし、落ち着いた様子で歩いていたが――


シャツの下で、心臓は激しく鳴っていた。


視線が集まるのは時間の問題だった。拒絶ではなく、好奇心からだった。新入生。しかも、かつてプロ格闘家として名を馳せた水原源三(みずはら げんぞう)の娘――その存在には、多くの期待が寄せられていた。


女子たちは彼女に近づこうとした。控えめに話しかける者もいれば、積極的な者もいた。しかし、乃愛(のあ)は目に見えない一線を保っていた。礼儀正しく、だが確かに存在する壁。それは「ここまでで十分」と語っていた。


彼女が心から落ち着けるのは、ただ一つ。訓練だけだった。畳の上、走路の上、そこだけが安全な場所だった。打撃一つ、回避一つ。その全てが彼女にこう語りかけていた――(ここなら、コントロールできる。強くなれば、誰にも置いて行かれない)。


乃愛(のあ)はまだ知らなかった。その日、青山に足を踏み入れた瞬間から、単なる適合者としての訓練だけでなく、「力の向こうにある自分」を見つける長い旅が始まっていたことを。


学校を変えたことは、彼女にとって大きな転機だった。環境はまるで違った。授業は厳しく、訓練は過酷。生徒たちはみな自信に満ち、強く見えた。――(私だけが、ここに立っているのがやっとのような気がする)。


女子たちは話しかけてくれた。彼女を受け入れようとしてくれた。でも、乃愛(のあ)の内側は閉ざされたままだった。微笑み、礼儀正しく答え、たわいもない会話も交わす。だが、心はどこか遠くにあった。


(仲良くなっても、いつかはいなくなる)


その声が、彼女の中で絶えず囁いていた。


誰にも頼ってはいけない。そう決めた。


だから彼女は、ただひたすらに訓練した。空白を埋めるように。寂しさを打ち消すように。


学校が終わるたび、父との訓練に走った。一撃一撃、技のひとつひとつが、彼女に確かな「自分」を与えてくれた。強く、美しく、そして誰にも依存しない乃愛(のあ)


それが彼女のアイデンティティになった。


そして、それは確かに結果を出した。


彼女の成長は目覚ましく、やがてクラスでも一目置かれる存在となった。校内ではその名が尊敬と共に語られ、視線は憧れに変わった。女子たちもより積極的に関わろうとしてくれた。


けれど、心の奥では、乃愛(のあ)はまだ戦っていた。


褒め言葉や「すごいね」という声が届くたび、それは全て「戦える自分」に向けられていると感じた。


(強くなければ、誰も見てくれない)


(弱さを見せたら、また置いて行かれる)


そうして、彼女は気づかぬうちに「弱さ」を恐れるようになった。転ぶ誰かを見れば、助けたいという気持ちよりも、距離を取ろうとする本能が勝った。それは、自分がそうなってしまう恐怖の裏返しだった。


(私は、倒れてはいけない)


(私は、重荷になってはいけない)


――


霧が木々の間からゆっくりと晴れていき、乃愛(のあ)が倒したフード姿の男たちの身体が露わになっていく。彼女は一本の木にもたれ、傷ついた脚がほとんど立てないほど震えていた。太ももの傷は熱を持ち、腕は痛みに震えながら血を流していた。


それでも、その目はひとつの光景から離れなかった。


そこに、(りゅう)がいた。


彼の背中には深い切り傷がいくつもあり、息は荒く、それでも身体は崩れずに立っていた。まるで、意識を失った圭哉(けいや)を守る壁のように。目の前では、太絆(たいき)が不気味な笑みを浮かべながら立ち上がろうとしていた。以前の攻撃のせいで、動きには明らかな痛みが表れていた。


「なんでまだ立ってるんだよ?」太絆(たいき)は息を荒げながらも、どこか嘲るような口調で言った。「傷だらけで、体も限界だろ…何を期待してんだ?」


(りゅう)は答えなかった。ただ拳を固く握りしめた。その周囲に濃密で純粋な瘴気が渦巻き、生きているかのように震えていた。


その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。


太絆(たいき)はそれに気づき、目を細めて (りゅう)の構えを分析した。そして、にやりとした笑みを浮かべた。


剛拳流(ごうけんりゅう)流か……そうだろう?」


(りゅう)は否定しなかった。


「じゃあ、ミアズマの流れも知っているんだな……特別だと思うなよ、如月 龍(きさらぎ りゅう)緒方(おおがた)は低く呟いた。「俺も、自分の血に流れるミアズマを制御できる。ただし……その使い方が少し違うだけだ」


緒方(おおがた)は静かに頭を下げ、奇妙な気配が彼の身体から滲み出す。両手を厳かに合わせ、胸の前で拳を作る。その目を閉じた瞬間、空気が震えた。


「何をしているんだ……?」(りゅう)は眉をひそめながら呟いた。


微かに呻き声が漏れた。意識を取り戻しつつあった圭哉(けいや)が、かすれた声で必死に囁いた。


「……あれは……神生流(しんせいりゅう)だ……もう一つの流派……その技を使う者は……一時的にMSIを人間の限界を超えるほどまで高める……トランス状態に入るんだ……身体は数分間、倍の力を出せる……けど……代償がある……」


緒方(おおがた)の身体が次第に黒く染まり始めた。それはまるで影が肌と一体化していくようだった。腕や首の血管が不気味に浮かび上がり、脈打つように邪悪なエネルギーを宿していた。空気に重く、濃密な衝撃波が弾けた。


「この技は、学校では教えられない……神生流(しんせいりゅう)なんて聞いたことないだろう?」緒方(おおがた)は重々しい声で目を開けた。


神生流(しんせい)……?)


神生流(しんせいりゅう)とは、決して折れぬ意志の顕現……目的のために自らを穢すことすら恐れぬ覚悟だ」


乃愛(のあ)の瞳が大きく見開かれた。遠くからでも、その変化の圧力が伝わってくる。緒方(おおがた)の周囲に漂うミアズマは、生き物のように脈打ち、混沌としていた。如月 龍(きさらぎ りゅう)はわずかに半歩後退した。それは恐怖ではなく――敬意だった。


「まさか……本当に見ることになるなんて……」乃愛(のあ)は震える声で呟きながらも、意識を失わぬよう踏みとどまっていた。(何かが……変わる……)


緒方(おおがた)の身体からは、熱のような揺らぎが立ち上っていた。空間が歪み、金属音のような高音が空気を満たしていく。足元の砂埃が宙に浮き、空間の張り詰めた緊張により静止した。彼の筋肉は膨れ上がり、その瞳は深紅に輝いていた。


「覚悟しろ、如月 龍(きさらぎ りゅう)ッ!」緒方(おおがた)は吠え、地を踏み出した。


――そして、真の戦いが始まった。



こうして、余計な言葉は要らず、

相反する運命の戦いが幕を開けた――

一方は剛力に導かれ、

もう一方は不屈の信念に貫かれていた。


ここまで読んでくださり、心より感謝いたします!

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