18. 型と信念の衝突
寺の扉が勢いよく開き、フードを被った五つの人影が一斉に飛び出した。追われているのは、わずかに足を引きずりながらも、完璧な構えを崩さぬ金髪の少女――乃愛だった。
乃愛は外庭で急旋回し、湿った土の上に踵を突き立てた。肩に浅い傷を負っていながらも、その表情には一切の迷いがなかった。
「今は…倒れられない…」そう呟きながら、歯を食いしばる。
最初のフードの男が湾曲した短剣を振りかざして襲いかかってきた。乃愛は横にかわし、顎への鋭いアッパー一撃で地面に叩きつける。間髪を入れずに次の敵を回し蹴りで薙ぎ払い、三人目には腹への拳で地に伏せさせた。
だが、四人目が不意を突いてきた。
左脚に鋭い灼熱感が走り、叫び声を噛み殺した。太腿の下に短剣が突き刺さっていた。一瞬ふらついたが、怒りが痛みを上回った。顔を歪め、体重を乗せた拳を突き出し、襲撃者を数メートル吹き飛ばし、茂みの中に沈めた。
「くっ…クソッ…!」乃愛は脚を押さえ、額を汗が伝った。燃えるような痛みが脈打っていた。
最後のフードの男が素早い斬撃で襲ってきた。前腕に切り傷を受けたが、乃愛は止まらなかった。呼吸は荒くなり、視界もぼやけ始めたが、決意だけは揺らがなかった。
「負ける…もんかっ!」咆哮と共に、正確な連撃で相手を倒した。
倒れた敵たちの中、乃愛は木にもたれかかりながら後退した。震える手で脚に突き刺さった刃を一気に引き抜いた。その痛みに、奥歯が軋む。
血が太腿を伝い、土と混じって染みこんでいく。乃愛は目を閉じ、手の震えを必死に抑えようとした。
そのとき、寺の周囲の森が轟音で揺れた。
乃愛は目を見開いた。
「龍くん…?」小さく呟いた。
幹に寄りかかりながら、音のする方へと這うように歩き出す。足を引きずり、出血し、今にも倒れそうだったが、彼女は止まらなかった。
ついに辿り着いたその空き地には、衝撃の光景が広がっていた。太絆が木に叩きつけられ、荒い息を吐きながら倒れていた。幹は衝撃で裂けている。その前に立っていたのは、汗をにじませ、浮き出た血管が緊張している如月 龍だった。彼の瘴気が揺らめくように放たれ、その圧に乃愛は圧倒された。まるで目の前で何かが“変わっていく”かのようだった。
数秒間の静寂の後、太絆が声を上げた。狂信に染まった口調で。
「お前の命を、如月 龍…その命を捧げればいい!雄蓮さまを蘇らせる鍵となる!それが、お前の運命だ!」
龍はすぐには答えなかった。だが呼吸は落ち着き、目は闇と光を併せ持つように澄んでいた。
「運命…か?」
龍は首を傾げ、目に嘲りを浮かべた。
「その“ご大層な運命”なんざ、知ったこっちゃねえ。」
太絆は地面に血を吐き捨てた。
「お前は保有者と知られてから、この世界に捨てられた!追われ、刻印され、憎まれた!なぜそれでも守ろうとする?この腐った世界を!」
龍は一歩前に出た。
「黙れ。」
その言葉は、水面に石を落としたように響いた。太絆は動きを止めた。
「お前が何を繰り返そうが、俺には関係ない」
龍は声を荒げることなく言った。
「俺は力なんて欲しくない。興味もない」
太絆は口元に歪んだ笑みを浮かべたまま続けた。
「お前の血を流れているのは呪いなんかじゃない……遺産だ!お前の身体は普通じゃない。ただの強さじゃないんだ……雄蓮さまの意志と、あの化け物じみた力をも宿している。お前は選ばれし器なんだ!」
彼は一歩前に出た。森の風がその黒いローブをはためかせた。
「ならば……なぜ栄光を求めない?なぜ支配を目指さない、如月 龍?黒炎の継承者として世界を跪かせたいとは思わないのか?」
「そんなもの、いらない」
龍はため息をつき、一瞬だけ視線を落としてから、鋭く相手を見据えた。
「正直……自分が何者かを知った時から、全部がクソになった。もう何も意味がわからない。でも……こんなことが俺に起きてるなら……せめて、意味のあることに使いたい。俺にとって大切な人たちのために。たった一度でもいいから」
太絆は顔をしかめた。
「そんな力を、たった数人を守るために浪費するのか?家族か?友人か?この腐った世界で彼らが無事でいられるとでも?お前を誘拐しようとした連中がいたこと、忘れたか?お前は“脅威”として狙われたんだ。全員がお前の危険性を知っている。そんな中で、まだ人のために戦いたいと?あんな裏切り者のために?」
太絆は 圭哉 を指差した。
「黙れ。俺の力の使い道を、お前に決めさせはしない」
龍は静かに言い返した。
「脅威と思われようが、どうでもいい」
龍は顔を上げた。その冷静な様子は、この緊迫した空気とあまりにも対照的だった。
「俺に手を差し伸べてくれた人たちもいた。何も見返りを求めず、信じてくれた。……その人たちは、守る価値がある」
龍は一歩前に出た。太絆は思わず一歩後退した。
「俺が強くなりたいのは、支配のためじゃない。復讐のためでも、決められた運命を果たすためでもない」
彼は目を細め、その声には抑えた炎が宿っていた。
「家族を……友人を……そして、自分を守れない人たちを守るために、強くなりたいんだ」
乃愛は、腹の奥に何かが詰まる感覚を覚えた。
それは太絆の言葉にではなく――龍の言葉に、だった。
(守れない人を守るために……)
彼女の視線は、龍の背後で怯えながらうずくまっている 圭哉 に向けられた。
――彼女にとっては、守る価値があるとは到底思えない存在だった。
しかし、龍にとっては違った。
彼は圭哉を“荷物”でも“弱さ”でもなく、助けを必要としている“誰か”と見ていた。それだけで、彼は戦う理由になっていた。
(私は……何をしているの?)
乃愛は木にもたれ、力を込めた。
ナイフはもう抜けていたが、痛みはまだ残っていた。鋭く、確かな痛み。
(いつから私は、弱い人を切り捨てるようになったんだろう……?)
彼女は目を閉じた。その瞬間、父の姿が脳裏に浮かんだ。消えることのなかった古傷のように。
「強くなれば……見捨てられない」
彼女は、かすれた声で呟いた。
――けれど今、その言葉はもう、彼女を慰めなかった。
……彼女の首を絞めていた。
一瞬の静寂が、森の空き地を包み込んだ。風の音と、遠くで枝が軋む音だけが響いていた。
緒方はゆっくりと腕を下ろし、その瞳に冷たい光が宿る。
「そうか……じゃあ、お前は間違った選択をしたんだな」
その声には、もう甘さなど一切なかった。
「だが構わない。運命は、迷う者を待ったりしない。良い方法で駄目なら……力ずくだ」
そう言って、彼は顔を木陰に向ける。
木々の間で揺れる影たちへと。
拳を握りしめ、ゆっくりと掲げた。
茂みの奥では、乃愛が目を見開いてその様子を見ていた。
龍の言葉が、見えない槍のように彼女の胸を貫いた。
(強くなりたい……友達を守るために)
「見捨てられたくないから」ではなかった。
「必要とされたいから」でもなかった。
呼吸が乱れる。その“強さ”の意味は、彼女の信じてきたものと正反対だった。
唇を噛み締める。心臓の鼓動が加速していく。
心の奥底で、何かが揺らいでいた。
脚の震えは、もはや傷のせいだけではなかった。
今感じた“何か”のせいだった。
今、理解してしまったことのせいだった。
(強くなりたい、守るために)
「バカ……」と、彼女は呟いた。
だがその声には、怒りではなく、奇妙な敬意と、鋭く胸を刺す感情が混じっていた。
あの言葉には、痛みがあった。
嘘だったからではない。
彼女の信じてきたものすべてを否定されたようで、苦しかったのだ。
彼女も、強くなりたかった。だが、それは守るためではなかった。
見捨てられたくなかったから。
誰にも気づかれない存在になりたくなかったから。
代わりの利く人間になりたくなかったから。
――そして、まるでその言葉が封印された記憶の扉を開いたかのように、忘れていた光景が鮮明に蘇った。
大人たちの言い争い。
半開きのドアの向こうから差し込む淡い光。
そして、不安と焦りに満ちた母の声。
自分が聞いていないと、母はそう思っていたのだろう。
彼女が「離婚」という言葉を初めて耳にしたのは、十二歳の時だった。
彼女はベッドに座っていた。
鼻までシーツをかぶり、眠っているふりをして。
夏の夜なのに、部屋の空気はどこか冷たかった。
廊下の向こうから、両親の声が不気味なほどはっきりと聞こえていた。
「源三、こんなのもう限界よ。あなた、ほとんど家にいないじゃない。乃愛のこと、ほとんど私が一人で育ててるのよ」
「そんなことないさ。できるだけ時間を作って――」
「足りないのよ! あの子には安定した生活が必要なの! 畳と汗と格闘技だけの生活じゃない!」
彼女はごくりと唾を飲み込んだ。
目をきつく閉じる。
その言葉たちから、逃れようとするかのように。
「それに今度はこれ……あの子に兆候が出てるって? “保有者”の可能性があるって?!」
「綾乃、乃愛にはポテンシャルがある。だが制御できなければ、彼女自身が危険なんだ。だからこそ、鍛錬が必要なんだよ」
しばし沈黙が続いた。
そして母の声が、静かに、でも確かに震えていた。
「でも、私は……あの子に恐れながら生きてほしくない。普通の子として生きてほしいの……」
乃愛はシーツを握りしめた。
喉に硬く重い塊が詰まっていくのを感じる。
(パパはあまり家にいない……帰ってきたと思えば、いつも喧嘩してる。
全部、私のせいだ。
全部、私のせいなんだ……)
最初の亀裂は、そこで生まれた。静かに。見えないほどに。しかし、致命的だった。
現在に戻ると、乃愛はずっと龍を見つめていた。
彼との間にある圧倒的な違いが、頭から離れなかった。彼は誰かのために戦っている。彼女は――置いていかれないように戦っているだけだった。
そして、久しぶりに恐怖を感じた。(自分は、思っていたほど完璧じゃないのかもしれない)
(この強さだって…ただの壁だったのかもしれない)
あの夜を境に、乃愛は世界をまるで違うレンズで見るようになった。
両親の笑顔が以前のようには見えなくなった。どこか作り物めいて、どこか脆くなった気がした。彼女は、気まずい沈黙、夕食中に逸らされる視線、些細な仕草――普通の人なら気づかないようなもの――を読み取る名人になった。
心に不安を抱えながら生きていく子どもにとって、それは当然のことだった。
父・水原源三は、家にいるときはいつも優しかった。旅先で見つけた小さなお土産を渡してくれて、ぎゅっと抱きしめて、「お前のこと、誇りに思ってるよ」と笑ってくれた。
でも、滞在はどんどん短くなっていった。彼女が目覚める前に出て行く日もあれば、遅い夜に帰宅し、乃愛がすでにドアに背を向けて眠ったふりをしているときもあった。
母・水原 綾乃は厳しかったが、温かい存在だった。しかし、その姿も少しずつ変わっていった。常に忙しそうで、手にはスマホ。取引先、顧客、従業員とのやり取りが絶えない。いつも何かもっと大事なことを解決していた。
そして――別居が訪れた。
ドラマのような騒ぎではなかった。叫び声も涙もない。ただ、静かすぎる日曜の朝の会話だった。「お父さんは、別のマンションに引っ越すことになった。でも、これからも頻繁に会いに来るからね」と言われた。
乃愛は笑って、「わかった」と答えた。
でもその夜、彼女は父のトレーニングシャツを抱きしめたまま、涙が枯れるまで泣き続けた。
あの日から、彼女の中で何かが変わり始めた。
もっと激しく練習するようになった。源三が提案することは、何でも「うん」と受け入れた。技術、ルーティン、スパーリング――何でも。彼女が必死すぎて、時には彼の方が「もうやめとけ」と止めるほどだった。
乃愛は情熱でやっていたわけではない。
彼が褒めてくれるたび、「上達してるな」と言ってくれるたびに、(これで…また、そばにいてくれるかもしれない)と願っていた。
強くなればなるほど、こう思った。(私が役に立てば、私が上手くなれば…きっと、誰も私を置いていかない)
夜になると、誰にも見られずに、その言葉を呪文のように何度も何度も唱えていた。
そうして、彼女の中の「自分」は形を成していった。
少女としてではない。
強い者として。何も必要としない者として。誰の助けもいらない者として。
現在に戻ると、乃愛は深く息を吸い込んだ。
脚と腕の傷が燃えるように痛んでいたが、胸の奥を締めつけるような痛みに比べれば、大したことではなかった。
龍の言葉がまだ彼女の中で鳴り響いていた。
「強くなりたいんだ…守るために。支配のためじゃない。誰かに見せつけるためでもない」
その瞬間、乃愛は気づいた。
(今まで築いてきたもの…私を囲むこの「強さ」って、本当に強さだったのかな?)
(それとも、あの崩れていく家の中で震えていた、あの夜の子どもに戻りたくなくて――作り上げた仮面だったのかな?)
乃愛は目を閉じた。
そして初めて、その問いを避けることなく、自分の中に受け入れた。
乃愛の荒い息遣いが、風に揺れる葉の音にかき消されていった。脚の傷はまだズキズキと痛み、温かい血が膝の下をつたって大地を赤く染めていく。それでも、彼女は動かなかった。いや――動けなかった。
倒れた木の幹の陰に身を隠しながら、彼女の視線はその先で展開される光景に釘付けだった。
太絆が立っていた。全身を震わせながら。
その前には、龍。拳を握りしめ、あの時と同じ決意に満ちた顔をしていた。乃愛はその表情をよく知っていた。
だが、その場にはもう一人いた。龍の背後で、怯えながらうずくまっている少年――圭哉。
「全部お前のせいだ、クソ野郎!」
太絆が怒鳴り、怒りに任せて腕を振り上げた。
乃愛の目が大きく見開かれた。
だが、その拳が振り下ろされることはなかった。
「やめろって言ってんだよ!」
龍の声が響いたかと思うと、次の瞬間にはすでに太絆の目前にいた。
龍の拳が鋭く太絆の腹部に突き刺さり、彼は数歩後退して喉を押さえながらうめいた。
龍は、見捨てられたくて戦っているわけじゃない。
必要とされるために鍛えているわけじゃない。
誰かの期待に応えることで、自分の価値を測っているわけじゃない。
それでも、彼はそこにいる。まっすぐに、堂々と、自分という存在で――誰かに慕われている。
(私はいつから勘違いしてたんだろう)
(「強くなること」だけが、私の価値だと思い込んでた…)
乃愛の視界が揺らぎ、現在がかすれていく。
代わりに浮かび上がったのは――長い間心の奥に封じ込めていた、ある記憶。
雨が降っていた。窓に水滴が打ちつけられていた午後。
彼女はベッドの端に座り、拳をぎゅっと握っていた。
転校の数週間前、乃愛は気づき始めていた。母・綾乃が頻繁に電話をしていたことに。いつも小声で、一人で。そして部屋の空気に、どこか張り詰めた緊張が漂っていた。何か重大な話があるのに、誰もそれを口にできないような感覚。
ある日の夕食後、綾乃がリビングに彼女を呼んだ。
「乃愛、大事な話があるの」
穏やかに微笑んでいたが、その瞳はどこか沈んでいた。
アメリカにいる彼女の父――ホテルチェーンの現CEOが引退を決めた。
そして綾乃が、次のCEOに指名されたのだ。祖父が築いたすべてを継ぐ、その瞬間が訪れた。
「これって、すごいチャンスなの。新しい生活を始めよう。二人で、一緒に」
優しく頬を撫でながら、そう言った。
乃愛は、何も言えなかった。
沈黙を破ったのは源三だった。いつになく、はっきりとした声で。
「そんな簡単な話じゃない」
腕を組み、鋭く言い放つ。
「乃愛はもう、“目覚めてる”んだ。鍛えなきゃいけない。ここでな」
「源三!乃愛には安定した生活が必要なの。毎日が危険と隣り合わせの環境なんて、あり得ない」
「じゃあ、もし訓練しなかったらどうなる? もし力が暴走したら? 自分を傷つけるか、誰かを傷つけるかもしれないんだぞ。これはただの“能力”じゃない。責任なんだよ、綾乃」
言い争いは増えていった。
ふたりは乃愛には聞こえていないと思っていた。けれど、彼女には聞こえていた。壁越しに。布団を頭までかぶって。それでも、言葉はすべて突き刺さった。
(いつも…私のせいでケンカしてる…)
その思いが胸の奥を締めつけた。
最終的に、母は静かに諦めた。
「…わかったわ。彼女のためなら…あなたと一緒にいさせる。でも、忘れないで。私は乃愛を心から愛してる。離れるのは、どうでもいいからじゃない」
別れは静かだった。
涙はなかった。ただ、長く抱きしめ合い、言葉以上の想いを交わした。
乃愛は母を責めなかった。どうやって責めればいいのかわからなかった。
心のどこかで、(自分が“持ち主”じゃなければ…母は行かなくてすんだのかもしれない)と、思っていたから。
その日から、彼女の生活は一変した。
青山学園は、今まで通っていた学校とはまるで違っていた。
キャンパスは広く、最新設備が揃っていた。学問の棟と戦闘訓練の棟が分かれており、そこで“持ち主”であることは特別ではなく、当たり前だった。
――それが、かえって彼女には怖かった。
初登校の日、彼女は人より早く校門をくぐった。
制服の襟はきちんと整えられ、髪は一束に結ばれていた。
背筋をまっすぐに伸ばし、落ち着いた様子で歩いていたが――
シャツの下で、心臓は激しく鳴っていた。
視線が集まるのは時間の問題だった。拒絶ではなく、好奇心からだった。新入生。しかも、かつてプロ格闘家として名を馳せた水原源三の娘――その存在には、多くの期待が寄せられていた。
女子たちは彼女に近づこうとした。控えめに話しかける者もいれば、積極的な者もいた。しかし、乃愛は目に見えない一線を保っていた。礼儀正しく、だが確かに存在する壁。それは「ここまでで十分」と語っていた。
彼女が心から落ち着けるのは、ただ一つ。訓練だけだった。畳の上、走路の上、そこだけが安全な場所だった。打撃一つ、回避一つ。その全てが彼女にこう語りかけていた――(ここなら、コントロールできる。強くなれば、誰にも置いて行かれない)。
乃愛はまだ知らなかった。その日、青山に足を踏み入れた瞬間から、単なる適合者としての訓練だけでなく、「力の向こうにある自分」を見つける長い旅が始まっていたことを。
学校を変えたことは、彼女にとって大きな転機だった。環境はまるで違った。授業は厳しく、訓練は過酷。生徒たちはみな自信に満ち、強く見えた。――(私だけが、ここに立っているのがやっとのような気がする)。
女子たちは話しかけてくれた。彼女を受け入れようとしてくれた。でも、乃愛の内側は閉ざされたままだった。微笑み、礼儀正しく答え、たわいもない会話も交わす。だが、心はどこか遠くにあった。
(仲良くなっても、いつかはいなくなる)
その声が、彼女の中で絶えず囁いていた。
誰にも頼ってはいけない。そう決めた。
だから彼女は、ただひたすらに訓練した。空白を埋めるように。寂しさを打ち消すように。
学校が終わるたび、父との訓練に走った。一撃一撃、技のひとつひとつが、彼女に確かな「自分」を与えてくれた。強く、美しく、そして誰にも依存しない乃愛。
それが彼女のアイデンティティになった。
そして、それは確かに結果を出した。
彼女の成長は目覚ましく、やがてクラスでも一目置かれる存在となった。校内ではその名が尊敬と共に語られ、視線は憧れに変わった。女子たちもより積極的に関わろうとしてくれた。
けれど、心の奥では、乃愛はまだ戦っていた。
褒め言葉や「すごいね」という声が届くたび、それは全て「戦える自分」に向けられていると感じた。
(強くなければ、誰も見てくれない)
(弱さを見せたら、また置いて行かれる)
そうして、彼女は気づかぬうちに「弱さ」を恐れるようになった。転ぶ誰かを見れば、助けたいという気持ちよりも、距離を取ろうとする本能が勝った。それは、自分がそうなってしまう恐怖の裏返しだった。
(私は、倒れてはいけない)
(私は、重荷になってはいけない)
――
霧が木々の間からゆっくりと晴れていき、乃愛が倒したフード姿の男たちの身体が露わになっていく。彼女は一本の木にもたれ、傷ついた脚がほとんど立てないほど震えていた。太ももの傷は熱を持ち、腕は痛みに震えながら血を流していた。
それでも、その目はひとつの光景から離れなかった。
そこに、龍がいた。
彼の背中には深い切り傷がいくつもあり、息は荒く、それでも身体は崩れずに立っていた。まるで、意識を失った圭哉を守る壁のように。目の前では、太絆が不気味な笑みを浮かべながら立ち上がろうとしていた。以前の攻撃のせいで、動きには明らかな痛みが表れていた。
「なんでまだ立ってるんだよ?」太絆は息を荒げながらも、どこか嘲るような口調で言った。「傷だらけで、体も限界だろ…何を期待してんだ?」
龍は答えなかった。ただ拳を固く握りしめた。その周囲に濃密で純粋な瘴気が渦巻き、生きているかのように震えていた。
その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
太絆はそれに気づき、目を細めて 龍の構えを分析した。そして、にやりとした笑みを浮かべた。
「剛拳流流か……そうだろう?」
龍は否定しなかった。
「じゃあ、ミアズマの流れも知っているんだな……特別だと思うなよ、如月 龍」緒方は低く呟いた。「俺も、自分の血に流れるミアズマを制御できる。ただし……その使い方が少し違うだけだ」
緒方は静かに頭を下げ、奇妙な気配が彼の身体から滲み出す。両手を厳かに合わせ、胸の前で拳を作る。その目を閉じた瞬間、空気が震えた。
「何をしているんだ……?」龍は眉をひそめながら呟いた。
微かに呻き声が漏れた。意識を取り戻しつつあった圭哉が、かすれた声で必死に囁いた。
「……あれは……神生流だ……もう一つの流派……その技を使う者は……一時的にMSIを人間の限界を超えるほどまで高める……トランス状態に入るんだ……身体は数分間、倍の力を出せる……けど……代償がある……」
緒方の身体が次第に黒く染まり始めた。それはまるで影が肌と一体化していくようだった。腕や首の血管が不気味に浮かび上がり、脈打つように邪悪なエネルギーを宿していた。空気に重く、濃密な衝撃波が弾けた。
「この技は、学校では教えられない……神生流なんて聞いたことないだろう?」緒方は重々しい声で目を開けた。
(神生流……?)
「神生流とは、決して折れぬ意志の顕現……目的のために自らを穢すことすら恐れぬ覚悟だ」
乃愛の瞳が大きく見開かれた。遠くからでも、その変化の圧力が伝わってくる。緒方の周囲に漂うミアズマは、生き物のように脈打ち、混沌としていた。如月 龍はわずかに半歩後退した。それは恐怖ではなく――敬意だった。
「まさか……本当に見ることになるなんて……」乃愛は震える声で呟きながらも、意識を失わぬよう踏みとどまっていた。(何かが……変わる……)
緒方の身体からは、熱のような揺らぎが立ち上っていた。空間が歪み、金属音のような高音が空気を満たしていく。足元の砂埃が宙に浮き、空間の張り詰めた緊張により静止した。彼の筋肉は膨れ上がり、その瞳は深紅に輝いていた。
「覚悟しろ、如月 龍ッ!」緒方は吠え、地を踏み出した。
――そして、真の戦いが始まった。
こうして、余計な言葉は要らず、
相反する運命の戦いが幕を開けた――
一方は剛力に導かれ、
もう一方は不屈の信念に貫かれていた。
ここまで読んでくださり、心より感謝いたします!