表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/28

16. 囚われの継承者

如月 龍(きさらぎ りゅう)の顎から汗が滴り落ち、体にぴったりと張り付いたトレーニング用のシャツを濡らしていた。水曜日の太陽が青山学園(あおやま がくえん)の体育館の大きな窓から差し込み、戦闘用のリングを照らしていた。その中心で、ひとつの影が抑えきれない力を纏いながら動いていた。


「気を抜くな!もう一度だ!」

源三(げんぞう)の声が岩のように重く響く。


(りゅう)は一歩後ろに下がり、膝を軽く曲げてから前に踏み出す。拳の連撃。最初の一撃は源三(げんぞう)の前腕で構えられたパッドに正確に当たり、次のアッパーはもし実戦だったら相手の息を奪っていただろう。


「今だ、回れ!考えるな、動け!」

源三(げんぞう)の声に、(りゅう)は左の踵を軸に回転し、鋭い回し蹴りを放った。風を切る高音が鳴り、蹴りは指導者の顔すれすれで止まった。


源三(げんぞう)は軽く鼻を鳴らし、パッドを下ろして口元に僅かな笑みを浮かべた。


「だいぶ良くなったな。」


(りゅう)は足を下ろし、激しく息を吐いた。朝のトレーニングはピークに差しかかっていたが、今日は何かが違った。体の反応が鋭くなり、筋肉の動きも迷いがない


源三(げんぞう)もそれを感じていた。


一歩一歩に確かな重みがあり、動きに新たなリズムが生まれていた。

もうただの「身を守ろうとする少年」ではない。流れに乗り始めている。


「拳の打ち方が変わってきたな。」

源三(げんぞう)(りゅう)の肩を乾いた音で軽く叩いた。


(りゅう)は額の汗を前腕で拭いながらうなずいた。


「まだ一部の動きは繋がりにくいけど……前ほどドンくさく感じないです。」


源三(げんぞう)はまた微かに笑った。それは彼にしては珍しい表情だった。


「それは、お前が『戦う』ことを考えるのをやめて……体の声を聞き始めたからだ。この一ヶ月、お前にとっては最高の時期だったな。」


(りゅう)は深く息を吸い込んだ。胸に満ちるのは空気だけではなく、静かな達成感だった。


「次のラウンド、もう準備できてます。」


誇張ではなく、確信を持った声でそう言った。


源三(げんぞう)はしばらく黙って(りゅう)を見つめ、その決意を見極めた後、うなずいた。


「次の予選はもっと厳しい。でもこの調子なら……驚かされる者も出るかもな。学生だけとは限らん。」


(りゅう)は眉をひそめた。


「誰のことですか?」


「お前自身だ。」


その言葉のあと、道場には重く意味のある沈黙が流れた。


天井では扇風機がゆっくりと回り、まるで新しい (りゅう)の歩みにリズムを与えるかのようだった。より強く、より速く――そして、自分という存在の核心へと近づいている。


木の床に響く足音に、龍は注意を向けた。


「もうヒーローごっこは終わり?龍くん?」


その声に集中が破られた。顔を上げると、乃愛(のあ)が道場の入口に立っていた。制服は完璧、髪はいつものように下ろし、その笑みはほんの少し意地悪そうだった。昼の光が窓から差し込み、彼女をまるで輝かせているかのようだった。


(りゅう)は首の後ろを掻き、少し恥ずかしそうに息を整えた。


「ヒーローごっこじゃないって……ただのトレーニングさ。」


「で、そのトレーニングはどう?」

乃愛(のあ)は手を背中に組みながら近づいてきた。


水原(みずはら)先生が、上達してるって。」

(りゅう)は軽く笑った。

「動きも前よりスムーズになって……もう力任せじゃないって。」


乃愛(のあ)はうなずき、(りゅう)の前で足を止めた。


「やっとね。いつまでも技術なしでゴリ押しするわけにはいかないでしょ。」


「おい……」


彼女はくすっと笑った。


「安心して、それなりに褒めてるのよ。私なりに。嬉しいわ。次のラウンドで、それ全部必要になるから。」


(りゅう)は首をかしげた。


阿部 彰紀(あべ あきのり)のこと?」


「そのとおり。調べてみた?」


(りゅう)は首を横に振った。


「調べて損はないよ。阿部(あべ)くんは去年の大会にも出て、ベスト8まで行った選手。得意なのはスタミナ。何分でもペースを崩さず戦えるの。動きはゆっくりに見えるけど、忍耐強い。相手のミスを待って、そこを突いて一気に叩くタイプ。」


「つまり、典型的な“タンク”ってやつか。」

(りゅう)は少し笑った。

「RPGによくいるじゃん。動かずに耐えて、最後にはジリ貧で勝つやつ。」


乃愛(のあ)は穏やかに笑った。


「まさにそれ。去年も、それで何人も油断して負けたんだよね。」


「なら、やつのペースに飲まれないようにしないと…」

(りゅう)は小さく呟いた。

「素早く動いて、距離を保って、捕まらないようにする。攻撃を誘って、ミスを引き出して、その隙に反撃。水原(みずはら)先生が言ってたんだ。“強く打つ”よりも“正しいタイミングで打つ”ことが大事だって。相手の力を利用して、それを返すんだ。」


「それと、集中力を切らさないこと。」

乃愛(のあ)の声は少し真剣になった。

「彼が狙ってるのはそこ。焦った瞬間に…潰される。」


(りゅう)はうなずいた。


「ありがとう、乃愛(のあ)先輩。本当に。いつも的確だな。」


彼女は肩をすくめたが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。


「お礼はいいから。その試合、勝ってよ…そしたらまた話そう。」


心地よい沈黙が流れた。乃愛(のあ)は一瞬だけ目線を落とし、マフラーの端をいじりながら、少しだけ勇気を出したように言った。


「ねえ…放課後、予定ないなら一緒にモール寄らない?ちょっとだけ見るだけ。それで、もしよかったら…うちに来ない?パパもきっと会いたがってると思うし、トレーニングの前にね。」


(りゅう)は驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔になった。


「ちょうど、放課後にちょっとだけ寄るところあるんだ。すぐ終わると思うから、あとでそっち行くよ。あまり時間かからない。」


乃愛(のあ)は瞬きをし、わずかにその笑みが硬くなった。


(今朝、愛莉(あ いり)が校門で(りゅう)くんに手を振ってた…)

(まさか、あの“用事”って……いや、そんなこと考えちゃだめ。意味ない。でも……胸が苦しい。)


「そう…わかった。」

声が少しだけ小さくなった。


(りゅう)はその微妙な変化に気づいたが、その理由までは読み取れなかった。


乃愛(のあ)は踵を返そうとしたが、その前に立ち止まり、後ろを向かないままつぶやいた。


「ねえ、(りゅう)くん…」


「ん?」


「……忘れないで。君は一人じゃない。信じてる人が、ちゃんといるから。」


(りゅう)乃愛(のあ)の背中を静かに見送った。

胸の鼓動は、さっきまでのトレーニングよりもずっと激しかった。

その理由は、迫る試合だけではなかった。


乃愛(のあ)は廊下をゆっくり歩いていたが、胸の中では何かがざわついていた。


(“ちょっとした用事”って……)


(りゅう)の言葉が頭の中を何度もリピートされた。

そこに、彼が口にしなかった何かが隠れているように思えてならなかった。


疑う理由なんてないはずだった。

(りゅう)はそんな子じゃない。信じられる人だ。

だけど、それでも、なぜか胸の奥がちくりと痛んだ。


(朝、愛莉(あ いり)が笑顔で(りゅう)くんを迎えてた姿が……頭から離れない)

(もしあの“用事”が彼女だったら……もし、もう私と話す必要なんてないって思ってたら……)


軽く頭を振った。

(だめだ。こんなこと考えても仕方ない)


そもそも、自分は彼に何を期待してるのかも分からなかった。

彼は恋人じゃない。もしかしたら、そういう風に思ってすらいないかもしれない。

きっと、自分はただの…彼を支えるひとりに過ぎないのだろう。


――だけど。

彼が真剣な眼差しで自分を見つめたとき。

言葉のひとつひとつを大事に受け止めてくれたとき。

何気なく褒められて、照れたように笑うその笑顔を見たとき。


(……そんなの、好きになるに決まってるじゃん)


乃愛(のあ)は図書室に提出する書類を届けに、空き教室へと入った。

紙を机に滑らせる音だけが、静かな空間に響いた。


「……バカ、(りゅう)くん」

小さく呟いたその声には、怒りではなく、優しさと少しの苛立ちが混じっていた。


窓の外に目をやると、校庭にはもうほとんど人が残っていなかった。


「……置いていかないでね。ねぇ、(りゅう)くん」


その声は誰にも届かなかった。

だけど、乃愛(のあ)にとっては、それでよかった。


――その頃、(りゅう)はトレーニングの記録を確認していた。

スマホ が小さく震えたのはそのときだった。


目の前にホログラム通知が浮かび上がる。


平林 光春(ひらばやし みはる)からのメッセージだった。


『こんにちは、如月くん。今日の17:30に、私の通ってる学校の近くの公園に来れますか?』


(りゅう)は少し驚いたが、嫌な気はしなかった。

すぐに返信を打つ。


『いいよ。行くね』


リュックを肩にかけ、軽い足取りで教室を出る。


それから約10分後、再び通知が浮かび上がった。


『ごめん、場所変更。今、嵐場駅(あらしば えき)の東口近くにいるの。そこで会いましょう』


嵐場(あらしば )……?」

(りゅう)は眉をひそめた。あまり詳しくないエリアだった。


ちょうどそのとき、部活動棟から出てくる隼翔(はやと)を見かけた。

手を振って呼びかける。


「おーい、隼翔(はやと)!」


「ん? どうした?」


「この学校から嵐場駅(あらしば えき)に行くには、どうしたらいい?」


「嵐場? ええと……H2線の路面電車が使えるよ。20分おきに出てるから、急げば目の前のコンビニ前の停留所から乗れるはず。」


「助かる、ありがとう!」


「デートか? 秘密の~?」

隼翔(はやと)はからかうような声で言った。


「違うってば!」

(りゅう)はそう叫びながら、足早にその場を離れた。


太陽が地平線に沈みかける頃、(りゅう)嵐場駅(あらしば えき)で路面電車を降りた。

辺りは異様なほど静かだった。

周囲には細い路地と、錆びついた門を持つ古びた寺があるだけだった。


周囲を見渡す。

だが、光春(みはる)の姿はどこにもなかった。


(もしかして、早く着きすぎたか……?)


スマホを取り出してメッセージを確認しようとしたその瞬間――


背後に気配を感じた。


「時間ぴったり。律儀だね」


反応する間もなく、後頭部に強烈な衝撃が走った。

膝をつき、意識が揺らぐ。

フードを被った人物が両肩を掴んできた。


「押さえろ!」


複数の手が(りゅう)の身体を拘束する。

次の瞬間、首筋に針が刺さる感覚。

冷たい液体が血管を流れ、体内を凍らせるようだった。


ミアスマを呼び起こそうとするが、視界が滲み始めた。


「……なに……が……起きて……る……」


十人ほどの影が彼を囲む。

そして、意識が闇に沈む直前、誰かの声が聞こえた。


「黒き太陽の刻印は、確かに彼の中にある。ついに、選ばれし者が堕ちたか……」


――


その頃、光春(みはる)はスマホを三度確認していた。

時刻は17時47分を示している。


彼女は白桜(しらさくら)女子学院(じょしがくいん)の前、公園の小さな噴水のそばに立っていた。

如月への贈り物が入った袋が風に揺れている。


「遅れてるのかな……?」


(りゅう)が遅れること自体は珍しくない。

だが、今回は到着の連絡すらなかった。


空を見上げる。夕焼けに染まる雲。

再びメッセージを送ろうとしたが、なぜか指が止まった。


胸に、言葉にできない違和感が残っていた。


――


一方、青山学園(あおやま がくえん)の校内では、乃愛(のあ)が廊下を歩きながら、(りゅう)の番号を何度もリダイヤルしていた。


「お願い、出てよ……」


焦りと不安が混じった声が漏れる。


そのとき、ちょうどジムから汗だくで出てきた隼翔(はやと)の姿が目に入る。

彼はタオルで顔を拭きながら、深呼吸していた。


西村 隼翔(にしむら はやと)!」


呼びかけに驚いたように彼が振り返った。


水原(みずはら)先輩? どうしたんですか?」


(りゅう)くん見てない?」


(りゅう)? いや……でも、30分くらい前に嵐場駅(あらしば えき)の行き方を聞かれたよ。あの辺、よく知らないって言ってたから、H2線の路面電車で行けるって教えたんだ」


乃愛(のあ)の眉がぴくりと動く。


「……嵐場?」


その名を呟いたとき、背筋を冷たい何かが走った。


H2線――それは、あの天照大神の旧寺近くの通りを通る路線。

監視カメラも少なく、車通りも人通りも少ない。

そして何より、黒炎の教団(こくえんのきょうだん)の最後のアジトがあった場所に近すぎる。


乃愛(のあ)の胃が、きゅっと縮まった。


「……だめ……」

乃愛(のあ)はそう呟きながら、ポケットからスマホを取り出した。

「西村くん、ありがとう。もう行かなきゃ」


返事を待つこともなく、彼女は廊下を駆け出した。

階段を飛ぶように駆け下り、玄関を目指して一直線に走る。

その玄関先には、すでに彼女の運転手が車を用意していた。

彼女の様子に気づいた運転手は、すぐに反応した。


嵐場駅(あらしば えき)までお願いします!急いで!」


「何かありましたか、お嬢様?」


「まだわからない」

そう言って後部座席に乗り込み、すぐに番号をタップする。

「でも、何かがおかしいの」


通話が繋がる。

電話口からは、源三の落ち着いた声がすぐに聞こえてきた。


乃愛(のあ)か。何かあったのか?」


「お父さん……(りゅう)くんが危ないかもしれない。色々と変なの」


車が街中を走り抜けていく中、乃愛(のあ)は状況を説明した。

突如変更された集合場所、不自然なメッセージ、そして――嵐場という怪しい立地。


「気をつけろ」

源三の声には張り詰めた緊張が混じっていた。

「無理はするなよ。無謀な行動は絶対に避けろ」


「今向かってる。何かわかったら、すぐに連絡する」


車は駅の前に停まった。

ブレーキが完全に効く前に、乃愛(のあ)はドアを開けて飛び降りた。

その足音がホームのコンクリートに鋭く響く。

心臓が、鼓膜を叩くように高鳴っていた。


そして、見つけた。


街灯の柱の下に落ちていたスマホ。

画面にはひびが入っていたが、まだ光っている。

ブルブルと震え続けるその画面には、「乃愛(のあ)」の名前が着信表示されていた。


「……(りゅう)くん……」


胸が締め付けられるのを感じながら、乃愛(のあ)はしゃがみこんでその端末を拾い上げた。

それは間違いなく彼のスマホだった。

指紋認証もパスコードも設定していないことを知っていたので、すぐに中を確認する。


直近のメッセージ欄には、光春(みはる)からのメッセージが並んでいた。


「今、学校前の公園にいるよ。待ってるね!」


その下にはもう一件。


「時間守らないと、罰金取るからね~!」


乃愛(のあ)は目を細める。

胸の中に巣食っていた不安が、確信という名の影に変わる。


「おかしい……」

唇が自然と動いた。

「この子が公園にいるなら、どうしてここに呼んだの……?」


迷わず、彼女はその端末から光春(みはる)の番号に発信した。

数秒で応答があった。

向こうからは明るい声が飛び出す。


「やっと!電車で寝ちゃったのかと思ったよ、如月くん。もうすぐ着くなら――」


(りゅう)じゃないわ」


乃愛(のあ)の声は冷たく、はっきりとしたものだった。


一瞬にして、電話の向こうは静寂に包まれた。

ただ、遠くでかすかに風の音が聞こえるだけ。


「……誰?」


水原 乃愛(みずはら のあ)よ」

彼女の声は静かだが、内に強い感情が秘められていた。

「今、如月くんのスマホを使ってるの。嵐場駅(あらしば えき)で落ちてたわ。彼、電話にも出ない。そしてあなたは……まだ公園にいる。説明、できるかしら?」


光春(みはる)は数秒間沈黙した。

そして次に発せられた声は、困惑と不安に満ちていた。


「えっ……? 落ちてた? そんなはずない……彼、来るって言ってたのに! 一体、何が起きてるの……?」


「はっきりとは分からない」

乃愛(のあ)は駅の静まり返った構内を見回しながら答えた。

「でも、嫌な予感がする。そこにいてくれる? 今から迎えに行く」


「う、うん……分かった」

光春(みはる)は明らかに動揺しながらも応じた。

「噴水のそばにいるね。明るい服を着てるし、髪は長くて黒いから、すぐに分かると思う。人もそんなにいないし……」


「よし。二十分後に行く。待ってて」


通話を切ると、乃愛(のあ)はすぐに開かれていた車のドアへと向き直った。

運転手はすでに出発の準備を整えていた。


「予定変更。白桜(しらさくら)女子学院(じょしがくいん)までお願い。彼女を迎えに行く。それと、父に連絡を取って。協力が必要になるわ」


車が加速し、東京の街を駆け抜けていく。

その途中、如月のスマホがもう一度震えた。


画面に浮かび上がったのは、セキュリティシステムからの警告だった。


『追跡モジュールに不正アクセスを検出。侵入操作が行われました。』


乃愛(のあ)は目を細め、スマホを強く握りしめた。


「一体、何をされたのよ……(りゅう)くん……」


夜の湿気が窓ガラスに曇りを作る中、車は光の川のように瞬く通りを走り抜けていく。

乃愛(のあ)は後部座席からその景色をじっと見つめていた。


(りゅう)くん……私には何も言ってくれなかった)


ミハルと会うことも、この駅に向かった理由も、すべて黙っていた。

家を出るときでさえ、何も告げていなかった。


(……私には信頼してないの?)


その疑問が胸に刺さるように響いた。

振り払いたくても、心に絡みついて離れなかった。


(りゅう)くんはいつも、自分のことを話さない。何を考えてるかも、何を感じてるかも、全然分からない)


思い出すのは、何気なく笑う彼の顔。

けれど、今になって思えば、その笑顔の奥にあったのは――


(……恐怖。私たちを巻き込みたくないっていう、あの沈黙は……)


乃愛(のあ)は知っていた。

その恐れの意味を。

それは父の背中に、幾度となく見てきたものだった。


だが、それを知っているからといって、受け入れられるわけではない。


「……本当にバカなんだから、(りゅう)くん」

スマホを握りしめたまま、彼女はぽつりと呟いた。

「それでも……大事な人なんだよ」


***


白桜(しらさくら)女子学院(じょしがくいん)の向かいにある公園。

その中央にある噴水は、淡い光を灯しながら、数秒ごとに色を変えていた。

時間はすでに夜。周囲にはほとんど人影がなかった。


噴水の石柵に腰掛ける一人の少女。

薄手のジャケットに身を包み、黒髪をラフに後ろで束ねている。

手元のスマホには、猫のイラストが描かれたケースがついていた。


乃愛(のあ)は一目で彼女だと分かった。

彼女もまた若々しい雰囲気を持っていたが、どこか普通の女子とは違う印象があった。


乃愛(のあ)はためらいなく歩み寄った。


光春(みはる)さん?」

近づきながら呼びかける。


少女は軽く頷き、ゆっくりと立ち上がった。


「あなた……(りゅう)のスマホで電話してきた人?」

「はい。私は水原 乃愛(みずはら のあ)。彼とは少し前から一緒に訓練してるの」


短い沈黙が流れる。

光春(みはる)乃愛(のあ)をじっと見つめ、やがて興味深そうに眉をひそめた。


「……あなたたち、どういう関係? 彼女とか、そういうの?」


その質問に、乃愛(のあ)はわずかに呼吸を止めた。


「え? い、いや……まあ……そんな感じかな」


落ち着いた口調で答えたが、頬にうっすら赤みが差す。

それでも、声のトーンは変わらず、感情を隠していた。


光春(みはる)はその様子を見て、何も言わずに微笑んだ。


二人は近くのベンチに向かって歩き出す。

公園の柔らかな灯りと、遠くを走る電車の音が、妙に穏やかな雰囲気を作り出していた。

だが、その静けさの裏に張りつめた緊張が漂っていた。


光春(みはる)はすべてを説明した。

朝届いたメッセージ、会う予定だった場所、そして時間。

如月からの返信があり、約束の時間と場所も確認されたという。


「でも……来なかったの。催促のメッセージにも返事がなかった」

そう言って、スマホを取り出して乃愛(のあ)に見せた。


乃愛(のあ)は、(りゅう)のスマホに届いていたメッセージと見比べた。

内容は同じだった。

だが、一通目のメッセージの口調が――何か違っていた。


「これ……あなたが書いたの?」


「ううん」光春(みはる)は眉をひそめた。「二通目のメッセージは送ってない。私が送ったのは最初のだけ」


「じゃあ、誰かが……あなたを装って送ったってこと……」

乃愛(のあ)の声が低くなり、瞳に鋭い光が宿る。


「たぶん、兄の仕業……」光春(みはる)の表情が陰る。「名前は圭也(けいや)。数日前から連絡が取れない。でも……これが彼のやったことなら、如月さんは――」


言葉の代わりに、重苦しい沈黙が場を支配した。


乃愛(のあ)は唇をきつく結ぶ。

空を見上げると、街の光の隙間に、かすかな星が浮かんでいた。


(ひとりで……全部背負わせてしまったんだね)


「見つけなきゃ」

強い決意を込めて、乃愛(のあ)は言った。


光春(みはる)もうなずき、その表情には先ほどまでになかった覚悟が浮かんでいた。


二人は立ち上がった。

乃愛(のあ)(りゅう)のスマホをポケットにしまい、もう一度噴水に目をやる。

水面が風に揺れ、かすかに波紋を描いていた。


(もう少しだけ、待ってて。(りゅう)くん)


(今度こそ、ひとりにはさせないから)


――


冷たい空気が漂っていた。

風ではない。空調でもない。

それは壁に染みついたような寒さで、骨にまで染み渡る冷気だった。


(りゅう)はゆっくりとまばたきをした。

視界がぼやけている。まるで曇ったガラス越しに世界を見ているようだった。

頭が割れるように痛く、喉が乾いてひりついていた。


「……ここは……どこだ……?」


腕を動かそうとするが、力が入らない。

足首も反応しなかった。


そこでようやく、意識が完全に戻ってきた。


手首は革のベルトで金属製の椅子のアームに縛られていた。

足首も、椅子の脚に固定されている。

背もたれは固く、クッションもない。

床はコンクリートで、壁は灰色のまま、装飾など一切なかった。

天井からは、ちらつく蛍光灯が一本だけ吊るされている。

隅の古いカメラが、赤いLEDを光らせながらこちらを見ていた。


(牢屋か……地下室か……?)


叫ぼうとしたが、喉から出たのは、かすれたうめき声だけだった。

体はまだ重く、血管の中を何かが流れている感覚があった。

冷たい毒の残滓のように、鈍く全身を巡っている。


(薬を打たれた……)


心臓が大きく跳ねた。

一拍一拍が胸を打つ戦鼓のようだった。


「おお……目覚めたか!」


部屋の奥から、やけに陽気な声が響いた。


カチリという音とともに、どこかの扉が解錠され、金属の床に靴音が反響しながら近づいてくる。


暗闇の中から、男が現れた。


若い男だった。三十代にも満たないだろう。

白金色の髪をオールバックにし、琥珀色の瞳は異様な輝きを放っていた。

黒のローブには金色の装飾が施されており、それはまるで儀礼服のようだった。


彼は(りゅう)の前で立ち止まり、何も言わずに膝をついた。


「……ああ、我が主よ……」


震える声。興奮と敬意が入り混じったような響きだった。


「この時を、何年も待っておりました」


(りゅう)は凍りついた。


(主……? 何の話だ……?)


男は頭を深く垂れたまま、祈るように両手を床につけていた。


「私の名は、緒方 太絆(おおがた たいき)

あなたの最も忠実なる信徒にございます。

最初に声を受けた者。

あなたの魂をこの腐った世界に呼び戻すと誓った者です」


そして顔を上げた。

その表情には、狂信的なまでの熱情、涙の気配、そして盲目的な崇拝が浮かんでいた。


「あなたの印は明らか……その痕跡に疑いなどありません。

あなたこそ、黒き太陽の継承者!

かつて卑怯者どもによって封印された、あの大いなる者の末裔!

この腐敗した時代を焼き払う、浄化の炎なのです!」


(りゅう)の胃がねじれるように痛んだ。

何を言っているのか、理解できない。

だが――どこかで、誰かの記憶でもない、深い深い意識の奥底で、何かが震えた。


「なにを……言ってるんだ……」


かすれた声で、ようやく言葉を絞り出す。


太絆(たいき)は笑った。

その笑顔は、広く、恍惚としたもの。まさに狂信者のそれだった。


「魂はまだ思い出しておらぬでしょう……だが、血は覚えているのです。

我々は見ました。印を。MSIの数値を。運命の兆しを」


彼は目を閉じ、両手を天に掲げた。


「我は〈闇の火の使徒〉と語らいました。

彼らが我らを導いてくれたのです。

『大いなる使徒の転生は近い』と。

そして今……あなたはここにおられる。

肉体も、精神も……魂までも」


(りゅう)は唾を飲み込んだ。

身体が震える。寒さのせいではない。毒のせいでもない。


(こいつ……一体、俺に何をする気だ……?)


その瞬間、胸に鋭い痛みが走った。

まるで、苦いデジャヴのように。


数日前の拉致未遂が脳裏によみがえる。

フードを被った人影。


背後から押さえつける、荒れた手。


胸を圧迫する感覚。溢れるアドレナリン。


そして、あの声――全てが闇に呑まれる直前、自分の名を叫んだあの声。


(どうして……どうしてまた、こんなことが……?)


背中を冷たい汗が伝う。

だが、身体は動かなかった。


今度こそ逃げられない。

走ることも、叫ぶこともできない。


そして何より恐ろしかったのは――

目の前の狂信者が、自分を殺そうとしているのではないということ。


いや、違う。

まるで、崇拝しているようだった。


ゆっくりと立ち上がった緒方 太絆(おおがた たいき)の足音が、コンクリートの床にこだました。

彼は部屋の片隅にある錆びた小さなテーブルへと歩き、そこにかけられた埃まみれの布を慎重に外した。


中から現れたのは、装飾の施された一本の短剣だった。


湾曲した鋼の刃は、吊るされたランプの光を受けて不気味に輝いていた。

それは単なる反射ではない。まるで自らが呼吸しているかのような微光を放っていた。

柄は赤い紐で巻かれており、刃には見たことのない奇怪な文様が刻まれている。

それは――(りゅう)が夢の中で見たことのある、あの模様だった。


太絆(たいき)はその短剣に両手を添え、まるで儀式でも始めるかのように厳かに叫んだ。


雄蓮(ゆうれん)さま……時は満ちました! あなたの復活は、すぐそこに!」


(りゅう)の背中に、寒気が走った。


雄蓮(ゆうれん)さま……?)


その名は記憶にあった。

黒炎の教団(こくえんのきょうだん)に関する資料の中で目にした、あの名。


堕ちた救世主と呼ばれた存在――

その子孫を通じて転生を試みたとされる、伝説の魔神。


「そんな……嘘だろ……」

呼吸が乱れ、(りゅう)は呟いた。

「ただの作り話だったはずなのに……!」


太絆(たいき)の瞳が狂気に輝く。

まるで神を前にした信徒のように、彼は熱に浮かされた声で叫んだ。


「師よ! あなたこそが選ばれし者! 雄蓮(ゆうれん)さまの血を継ぎし御身、その器なのです!」


彼は短剣を高く掲げた。

刃は妖しく震え、不気味な輝きを放っていた。


そのまま、(りゅう)に歩み寄る。

刃が、まるで意志を持つかのように脈動する。


そして、その瞬間――


(りゅう)の胸に灼熱の痛みが走った。

身体が反射的に跳ね上がる。


「うっ……ぐ、うあああああっ……!」


手首の刻印が、焼きごてを押し付けられたかのように燃え上がる。

そこから黒い血管のようなものが、腕を伝って全身に広がっていく。


脳裏で何かが唸り声を上げていた。

内側から、何かが目覚めようとしている。


「ご安心を、師よ」

太絆(たいき)はまるで(りゅう)の思考を読んでいるかのように囁いた。


「誰にも、あなたには触れさせません。

この命を懸けてでも……私はあなたを王座へとお返しします。

歴史が奪ったその座へ。」


彼は誇らしげに立ち、片腕を(りゅう)に向かって差し出した。

まるで目に見えぬ群衆へ、復活した神を紹介するかのように。


「この命にかけて誓います――黒炎の教団(こくえんのきょうだん)の名において。

そして、ここに共に在る天照大神にかけて。

世界は、あなたの復活を知ることになるでしょう。」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ