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15.選ばれし者

夜は静かに東京の街に降りていた。近隣の光が気だるげに瞬き、警備ドローンが空を滑空しながら、まるで都市の夜の歌の一部であるかのように控えめな羽音を響かせていた。


伝統的な意匠にモダンな要素を取り入れた一軒家の居間で、水原 乃愛(みずはら のあ)はポニーテールにした髪とキャミソール姿でコンピューターの前に座っていた。ゆるいパジャマのズボンを履き、片脚を曲げて椅子に乗せたまま、フラストレーションを滲ませた表情でキーボードを不規則に叩いている。


画面には曖昧な検索結果が並んでいた。


「ちっ……またダメか」

と呟きながら、首を少し傾けてストレッチした。隣にはレモン柄のストロー付きグラスに入ったジュースが、すっかり忘れられたまま置かれていた。


まぶたがゆっくりと瞬いたその瞬間、現在が止まったかのように、数時間前の記憶が彼女を引き戻した。


*数時間前*


乃愛(のあ)は苺クレープを片手に持ち、クラスメートの友人二人と歩道を歩いていた。笑い声が飛び交う。


「ちょっと!マジで、 先生が採点中に寝ちゃったのよ!」

そう叫んだ友人の一人に、三人はどっと笑った。


「で、乃愛(のあ)は何もしなかったの?」ともう一人が楽しそうに聞いた。

「私? いびきが聞こえた瞬間、そっと教室出たよ」

乃愛(のあ)も笑いながら答えた。


三人は彼女の家の前で立ち止まった。


「じゃあ、また明日ね?」

「そのクレープ、また持ってきて!」

と別の友人が言い、二人は歩き去っていった。


乃愛(のあ)は靴を脱ぎながら家に入り、笑みを浮かべていたが、廊下の入口で腕を組んで待っている水原 源三(みずはら げんぞう)の姿を見た瞬間、表情が引き締まった。彼がこうして出迎えるのは珍しい。


「何かあったの?」

彼女はバッグを脇に置いて尋ねた。


(りゅう)が今日、妙な言葉を聞いたって言ってた」

源三(げんぞう)は腕を組んだまま言った。


咳払いを一つしてから、彼は口を開いた。


「『沈黙の寺院が待っている……そこでは名前が、もう口にされることはない』ってな」


乃愛(のあ)は眉をひそめた。

「なにそれ、詩でも読んだの?」


「いや、違う。普通じゃない言葉だ。黒炎の教団(こくえんのきょうだん)の関係者の関係者から聞いたってさ」


源三(げんぞう)はため息をつきながら続けた。

「調べてみてくれ。もしかしたら本物の手がかりかもしれん」


乃愛(のあ)は頷き、すでに頭を切り替えていた。


*現在 ― 23時18分*


「お願い……何か出てきて……」

乃愛(のあ)は呟きながら、学術データベース、古いニュース、半ば隠された公的ファイルを渡り歩いていた。


最初に除外したのは、鬼熱地方(きねつ ちほう)にある名前のない教会だった。確かに条件に合いそうだったが、数年前の警察の手入れで解体されていた。


(それじゃない)

位置情報と年代を照らし合わせながら思った。背伸びをして再びキーボードを叩くと、ふと、ある記事が彼女の目を引いた。


スキャンが荒く、学術サイトの一角に埋もれていた記事のタイトル:


天照(あまてらす)の第一寺院に隠された真実」


「……天照(あまてらす)?」

乃愛(のあ)は呟いた。


彼女はすぐに読み進めた。記事は、東京第4区にかつて存在した太陽神・天照(あまてらす)に捧げられた古寺について書かれていた。長年に渡り忘れ去られていたその寺が、数十年前、黒炎教団と直接関係のある犯罪系保有者ユニットに占拠されたという内容だった。


「……まさか……」


彼女はページ下部のリンクをクリックし、それを開いた。60年以上前の新聞のデジタル化されたバージョンが画面に現れた。見出しはぼやけていたが、まだ読み取れる。


『太陽の神殿での惨劇:犯罪系保有者同士の戦闘で16名死亡、5名重傷』


記事は、神殿内で起きた凄惨な戦いについて語っていた。生き残った5名は逮捕されたが、事件の動機や内部抗争の理由については一切語らなかったという。


そして、記事の最後の一文が、乃愛(のあ)の背筋を凍らせた。


『グループのリーダーと思われる男は、処刑の直前に呪いの言葉を残した。

「この場所の名を口にした者は、その言葉を言い終える前に死ぬだろう」

以来、その神殿は社会的タブーとなり、人々はその存在すら語らなくなった。歴史家の間ですら忘れられた存在となった。まるで最初から存在していなかったかのように。』


乃愛(のあ)は長い沈黙を保った。室内にはパソコンの静かな駆動音だけが漂っていた。


そして、彼女は脚注に目を通した。


――神殿は、東華地方(とうかちほう)の首都・星ノ川(ほしのかわ)市に再配置された。


乃愛(のあ)は椅子にもたれ、腕を胸の前で組んだ。


「つまり……これが“名前を口にできない場所”……沈黙の寺院ってわけね」


彼女の目が鋭く細められた。


「そして、(りゅう)が“そこに待たれている”ってことは……」


不安が、胸の奥をひと筋走った。


乃愛(のあ)は冷えたグラスをテーブルに置き、目の前に浮かぶ半透明のホログラム画面に目を戻した。そこには古い都市記録から取り出された一枚の写真が投影されていた。過去10分ほど、彼女は古地図、放置されたフォーラム、そして流出画像の中をさまよっていた。


天照(あまてらす)大神の第一神殿」に関連する情報を追っていた彼女は、いくつか興味深い結果に行き着いていた。


最初の写真は、聖域への入り口を写したものだった。両側には古木が並び、その枝葉は上空で交差し、自然のアーチを作り出していた。黒ずんだ木製の看板が入口に立ち、そこには伝統的な書体でこう刻まれていた:


天照大神神殿(あまてらすおおみかみ)


その下には、小さく色あせた文字で歓迎と加護を祈る言葉が添えられていた。


次の画像は、さらに衝撃的だった。本殿そのものを写したもので、伝統的な様式美が写真越しでもはっきりと伝わってきた。屋根の細部には装飾が施され、吊るされた灯籠、捧げられた供物、そして静かな池に映る雲の姿が映っていた。かつて信仰と調和の象徴だったこの場所が、後に敵性保有者に占拠されることになったとは、到底信じられなかった。


乃愛(のあ)は目を離さずに、レモンジュースを一口すすった。


「……現地調査したほうがいいかもね」


その考えは、胸の奥で静かに火を灯した。神殿はすでに公式には封鎖されているはずだったが、周辺では今なお奇妙な目撃情報が後を絶たなかった。フードを被った人影、夜に揺れる怪しい光、儀式のような音。


もし黒炎の教団(こくえんのきょうだん)がどこかに拠点を構えているとすれば、こんな神聖な場所を狙うのは当然の流れだ。

汚し、ねじ曲げ、乗っ取るために。


(もし奴らが神殿を利用しているなら……異能対策局(いのうたいさくきょく)より先に知っておかなきゃ)


背筋に小さな寒気が走った。


そして、不意に、別の記憶が脳裏に蘇る。

それは、(りゅう)のことを考えるとき、決まってよみがえる場面だった。


最初の週。

五藤(ごとう)校長の執務室でのあの会話。

父・水原 源三(みずはら げんぞう)と共に呼び出されたあの時――。


「MSI値は……758.3mg/Lです」

五藤(ごとう)はそう言いながら、臨床報告書をテーブルの上に滑らせた。


乃愛(のあ)はその用紙を受け取り、眉をひそめながら目を通した。


「これは……年齢平均の倍じゃない」

彼女は低くつぶやいた。


源三(げんぞう)は腕を組んだまま、無言で額にしわを寄せていた。


「それだけじゃない」

五藤(ごとう)が続けた。

「飽和レベルが……常に変動している。まるで彼の体が、まだ内にあるミアズマに順応しきれていないように見える」


部屋の中に、重い沈黙が落ちた。


「お前も、俺と同じ疑いを持っているのか?」

やがて源三(げんぞう)が静かに尋ねた。


五藤(ごとう)はすぐには答えず、ゆっくりと立ち上がって窓際へと歩き、学園の中庭を見下ろした。


「長年、それはただの迷信だと思っていた。過去の亡霊に過ぎないと。だが――この少年だけは違う。偶然にしては……あまりに符号が重なりすぎている。

彼の遺伝的プロファイルは、本来存在し得ないはずなんだ」


乃愛(のあ)の胸の奥に、きゅっとした不安が走った。


「……どういう意味?」


五藤はゆっくりと振り返り、深刻な表情で口を開いた。


「彼の血に流れているのは、ただのミアズマじゃない。歴史そのものだ。

多くの者が、日本第一次崩壊の後に滅びたと信じた――そんな時代の、残響だ」


源三(げんぞう)は視線を逸らし、足元に力なく目を落とした。


「……本当に、彼がそうなのか?」


五藤(ごとう)は言葉を返さず、ただ静かにうなずいた。


――乃愛(のあ)は、そこで現実に戻った。

静かに息を吐き、手にしたグラスをぎゅっと握りしめる。


(彼は、助けを求めてきた。自分を鍛えてくれと、順応させてくれと、何より――探しに来る奴らから守ってくれと)


乃愛(のあ)は、(りゅう)のすべてを見てきた。

その鍛錬、一つ一つの夢。

そこに映る影は、時に彼自身よりも「生きて」いるように思える。

彼の目は変わり、身体も変わってきた。

そして彼自身が気づいていないとしても……彼女は感じていた。

中の“何か”が、目を覚まし始めているのだと。


(……彼が、自分の中に何を宿しているのかを知ったとき。

本当の自分が何者なのかを理解したとき……何が起こる?)


その時だった。

ホログラムで映し出されていた神殿の映像に、赤いノイズが走った。

読み込みエラーによる一瞬の歪みだったが、まるで現実に亀裂が入ったように見えた。


乃愛(のあ)は、その違和感を見逃さなかった。


(あの神殿に眠る何か。

そして、(りゅう)の中に眠る何か――

……もう、時間がない)


彼女は写真を見つめ続けた。

そこに映る神殿は、まるで二つの時代の狭間に浮かんでいるようだった。

一つは、かつての平穏な時代に属し、

もう一つは、現在の混沌の只中に沈んでいた。


だが、思考はすぐに別の方向へと流れていく。


いや、「別の誰か」へと。


(りゅう)


乃愛(のあ)はタブを閉じ、膝を抱えて顎をその上に乗せた。

思い浮かんだのは、ばらばらな記憶の断片だった。

一緒にした訓練。

彼が勢い余って転びそうになる場面。

しょうもない冗談と、何かを成し遂げたときに見せるあの笑顔。

汗まみれの顔で、あの時真剣に言い放った言葉。


「今日は……本気で、手応えあった気がする!」


乃愛(のあ)の口元に、小さな笑みが浮かぶ。

それは優しさと温かさが混ざったもので、頬にはほのかな赤みが差した。

ぎゅっと、膝を抱える腕に力を込めた。


「……バカ」


その言葉には、愛しさすら滲んでいた。


だが、その温もりはすぐに冷める。


――浮かぶのは、別の光景。


彼と、愛莉(あいり)


二人が並んで学園の廊下を歩いていた場面。

彼女には聞こえなかった何かを、二人は笑い合っていた。

(りゅう)はほんの少し身を傾け、

そして愛莉(あいり)は、彼をまるで世界で唯一の少年のように見つめていた。


乃愛(のあ)の表情から、ふっと光が消えた。

彼女は目を伏せ、眉間にかすかなしわを寄せた。


「……バカ」

再びそうつぶやいたが、その声にはどこか苦さがにじんでいた。


そして、さらに小さな声で――

「他の人に、あんまり情を移さないで……」


部屋の空気が、どこか重たくなった。

乃愛(のあ)は腕の中の自分を、ぎゅっと強く抱きしめる。


「……みんな、結局いなくなるんだから」

その囁きは、自分にしか届かないほど微かだった。


彼女は泣かなかった。そういう種類の悲しみではなかった。

それは、すでに慣れた痛み。

静かにそこにいる存在。

見ないふりをすればやり過ごせる……けれど、決して消え去らない痛みだった。


* * *


翌朝。

曇り空が町を覆い、湿気を含んだ空気が漂っていた。

街灯の自動ライトが徐々に消え、(りゅう)は整った制服姿で青山学園(あおやま がくえん)の門をくぐる。

その顔には、わずかに疲れの色がにじんでいた。


手にはスマホを持ち、何度目か分からないほどスレッドやSNSを確認していた。


――異能関連の事件や目撃情報、何か手がかりはないかと。


(……何もない)


写真も、証言も、噂すらない。

まるで何かが意図的に消されたかのようだった。


(りゅう)! 今日、天気最悪だな〜」

眠そうな声と共に、英夫(ひでお)がパンをくわえたまま背後から現れた。


(りゅう)は軽くうなずき、ホロをしまった。


「こんな日は、家で寝てたかったな」


「何見てたんだよ? そんなに真剣な顔して」

英夫(ひでお)はニヤリと笑って聞いた。


「……別に。水着のグラビアとか」


「マジで!? 見せろよ!!」

英夫(ひでお)の目が一気に覚める。


「冗談だよ、バカ女たらし」

(りゅう)は笑いながら肩をすくめた。


――こうして(りゅう)が、ここまで人と話せるようになるなんて。

入学して間もない頃の、あの無口で壁を作っていた彼からは、誰も想像できなかっただろう。


二人は他の生徒たちと混ざりながら校舎へと向かっていく。

途中で、英夫(ひでお)が再び話を切り出した。


「そういえばさ、今週木曜だろ? 次の試合。準備はバッチリ?」


「うん。相手は二年の先輩。あんまり知らないけど、遠距離技が得意らしい」


「……阿部(あべ)先輩か?」

英夫(ひでお)は自信満々に答えた。

「俺でも勝てそうな相手だぜ?」


「だから負けたんだよ、自信過剰で」

(りゅう)は苦笑する。


「ひでぇな、ちょっとは優しくしてくれよ、なあ兄弟!」

英夫(ひでお)は肩をすくめて抗議した。


* * *


一限目は生物の授業だった。

(りゅう)は席に崩れるように座り、重いため息をつく。

前に立つ教師は、すでにホワイトボードに分子構造式を描いていた。


ミトコンドリア、リボソーム、細胞代謝……

一つ一つの単語が、鉛のように重たく感じられる。


(……なんでこの授業だけ、毎回こんなに長く感じるんだ)


ノートの余白に、意味のない落書きを描きながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。


やがて、最初の休み時間が訪れた。

伸びをしながら立ち上がったその時、廊下から小さな声がした。


「……あの、如月くん?」


(りゅう)が振り向くと、すぐに見覚えのある少女の姿が目に入った。

栗色の髪に、静かな目。

前日、彼があの謎の少女と出会った時に、二階からじっと見ていた生徒だ。

制服を身にまといながらも、その所作には自然な気品があった。


「……山埼さん?」


「……少し、話せる?」

そう言って、(さえ)は彼に視線を向けた。


教室の席からは、隼翔(はやと)(れん)英夫(ひでお)が、にやけた顔や大げさな表情で様子を伺っていた。

(れん)はわざとらしく目を見開き、隼翔(はやと)はひじで彼をつついている。

まるで今ここで、(さえ)(りゅう)に告白するのではとでも思っているかのように。


(りゅう)は彼らを睨んだ。


「……バカども」


「え?」


「いや、なんでもない。……行こうか、山埼さん」


二人は校舎を出て、中庭へと向かった。

(れん)の花を模した小さな噴水のそばに腰掛けると、周囲にはちらほらと歩く生徒たちの姿。

いくつかの好奇心に満ちた視線が、二人に注がれていた。


山埼 咲(やまざき さえ)は模範的な生徒として有名だった。

その凛とした姿勢と確固たる態度は、多くの生徒たちの尊敬を集めていた。

常に成績上位に名を連ね、風紀委員も務めるその姿勢は、責任感の象徴ともいえる存在だった。

高く結ばれた栗色のポニーテールは、彼女の真っ直ぐな生き方をそのまま表しているようで、歩くたびに揺れるその髪すら、気品を感じさせた。

姿勢も、目線も、言葉遣いも――(さえ)という存在には自然と人を黙らせる「重み」があった。


「変なお願いだったらごめんね」

(さえ)はそう言って、指をもてあそびながら口を開いた。

「突然呼び出すなんて、ちょっと変かもしれないけど……」


「別に気にしてないよ。でも……噂になるかも」

(りゅう)は苦笑しながら、近くでこそこそと話している女子グループをちらりと見た。


(さえ)は小さく笑った。


「構わないわ。……昨日のことなんだけど。見たの。二階から。あの女の子と話してたでしょ?」


(りゅう)の表情に一瞬緊張が走る。


「……たいしたことじゃないよ」


「お願い、教えて」

(さえ)は食い下がるように言った。

「彼女何を言われたのか、知りたいの」


(りゅう)は彼女をじっと見つめた。


「……なんでそこまで気にするの?」


「……あの子の名前は、平林 光春(ひらばやし みはる)。あたしの親友なの」

(さえ)は目を伏せて続けた。

「でも最近、光春(みはる)は変わったの。あたしから距離を取るようになって……話もしなくなった」


「……」


「きっかけは、彼女のお兄さん。圭也(けいや)

その名前に、(りゅう)の意識が鋭く反応した。


「……圭也(けいや)?」


「うん。危ない連中と関わってるって噂は聞いたけど、詳しくはわからない。でも、きっと……光春(みはる)は兄の命令であなたに話しかけたの。あの子自身もどうしていいかわからなくて……」


しばしの沈黙。

やがて、(りゅう)は静かにうなずいた。


「……彼女はこう言った。『“沈黙の寺院”が待っている』って。意味はわからなかった。……暗号みたいだった」


(さえ)は拳を握りしめた。


「やっぱり……」


「やっぱりって……何が?」


「実はね、ずっと調べてるの。内緒で」

(さえ)の声が低くなる。

圭也(けいや)は危険なことをしようとしてる。自分自身も巻き込まれてるかもしれない。……光春(みはる)は、それを止めたいと思ってるの。でも兄を守りたい気持ちもあって、板挟みなの。……あたし、助けたいの。二人とも」


風が吹いた。

その風が、(りゅう)の前髪をわずかに揺らした。


(……)


(さえ)は深く息を吸い込んだ。

この話をすることがどれだけ危険か、彼女には分かっていた。

それでも、一歩踏み出した。疑念と決意の境界線を越えるように。


「如月くん……君は強いんだよね?」

その声はかすかに震えていたが、彼女の目は決して揺らいでいなかった。

「お願い……助けてくれない? 光春(みはる)ちゃんが、お兄さんのことで巻き込まれたの。どうして君にあんな言葉を残したのかも、近づいた理由も分からない。でも――」


|如月 (りゅう)《きさらぎ りゅう》は黙って(さえ)を見つめていた。

彼女の瞳に映る「助けを求める色」が、はっきりと伝わってくる。


「……光春(みはる)ちゃんを助けるの、手伝って。あの子、絶対に口にはしないけど……怖がってる。私も怖いの。失いたくない。全部が壊れる前に……」


(さえ)は、普段は教室で静かにしているだけの、ただのクラスメイト。

特別親しいわけでもない。けれど、今の(りゅう)の目には、切実に友を救いたいと願う一人の少女の姿が焼きついていた。

その言葉、その不安――なぜか、彼の心の奥底に響いた。


(……もしかしたら、オレのせいかもしれない)


光春(みはる)が何かに巻き込まれていたとしたら。

それが強制されたものだとしたら。

その原因に、自分が関わっている可能性は十分にある。


(全部、オレを中心に回ってる……そう感じるんだ)


責任――それは重たいものだった。

だが、(りゅう)の中には、それを背負う覚悟が生まれていた。


胸の奥に、子どもの頃から抱いていた「誰かを守りたい」という感情が、再び灯る。


「……助けるよ」

(りゅう)は静かに、だが確かな声で言った。

「何があっても、絶対に。まだ何が起きてるのかも分かってないけど……放っておけないんだ」


(さえ)はそっと目を伏せた。

その肩がわずかに震えたかと思うと、彼女は力強くうなずき、落ちそうになった涙をぬぐった。


「……ありがとう。如月くん」


(りゅう)はわずかに笑みを浮かべた。


 * * *


夕陽が沈みかけ、街のビル群が淡いオレンジ色に染まっていた。

白桜(しらざくら)女子学院(じょしがくいん)の正門前――

一本の街灯にもたれかかりながら、(りゅう)は静かに待っていた。


水色の制服を着た生徒たちが、ホロをいじったり笑い合ったりしながら校舎から出てくる。

誰もが一様にのんびりとした空気をまとっていて、胸の奥にある(りゅう)の緊張だけが浮いているようだった。


(……まだか)


一人ひとりの顔を確認するように視線を動かしていると、その中に見覚えのある後ろ姿があった。


平林 光春(ひらばやし みはる)――

黒髪を低めのポニーテールにまとめ、小さな革の鞄を手に持ちながら歩くその姿。

彼女の視線は下に落ちていて、まるで周囲を気にしていないようだった。


だが、顔を上げたその瞬間、(りゅう)はすでに歩み寄っていた。


「平林さん!」


女子生徒たちの視線が一斉に集まり、ざわめきが広がる。


「誰? あの人……」

「イケメン……」

「俳優か何か?」


光春(みはる)は驚いたように彼を見た。

一瞬足を止めたが、すぐにまた歩き出し、口を閉ざしたまま視線をそらす。


山埼 咲(やまざき さえ)が、君のことを頼んできた」

(りゅう)はそう言いながら、彼女の後ろを並ぶように歩く。


「……」

その名前に反応した光春(みはる)の肩がわずかに揺れた。

だが足を止めることはなかった。


数秒の沈黙の後、小さな声で答えた。


(さえ)ちゃんに……心配しないでって、伝えて。あたしは大丈夫だから」


「大丈夫には見えない」

(りゅう)の言葉には、柔らかな強さがあった。


門を離れ、周囲に人目がなくなると、光春(みはる)はようやく足を止めた。

そこは、苔むした壁とちらつく街灯に囲まれた静かな裏路地だった。


「……どうして、ついてくるの?」


「昨日、君が言ったことを知りたいんだ」

(りゅう)は言った。

「“沈黙の寺院”って……どういう意味なんだ?」


光春(みはる)は目をそらし、視線を逸らした。そのとき、スマホ が振動した。彼女は一瞬だけ画面を見て、小さくため息をついた。

(りゅう)の目に、通知が映る。(さえ)からのメッセージだった。


「……(さえ)ちゃんが言ってた。君を信じてって」

光春(みはる)は小さくつぶやいた。


短い沈黙が流れたあと、彼女はゆっくりと顔を上げる。


「お兄ちゃん……圭也(けいや)が、あの言葉を君に伝えてって言ったの。

彼……危険な目にあってるの。黒炎の教団(こくえんのきょうだん)っていう、すごく危ない集団に入っちゃって……。何かとんでもないことを企んでるの。しかも、お兄ちゃんは無理やりその計画に加わらされてる」


(りゅう)は眉をひそめた。


「じゃあ、逃げればいい。自首すればいいじゃないか」


「それができないの」

光春(みはる)の声が震えた。

「“抜けようとしたり、喋ったり、逃げたりしたら……目の前で殴り殺してやる”って脅されたの。……私の目の前で。だから、お兄ちゃんは……残るしかなかったの」


「……オレが、それと何の関係があるんだ?」

(りゅう)の声には戸惑いが混じっていた。


光春(みはる)はゆっくり首を横に振った。


「分からない。ただ……“君は重要な存在だ”って。それだけ」


(りゅう)は視線を落とす。

(……重要な存在? なぜ? 圭也(けいや)はオレの何を知ってる?)


光春(みはる)は胸元に手を当てた。


「全部が分からなくて、すごく怖い。でも……近いうちに、何か大きなことが起きる。そんな気がするの。

そして、君は……もう巻き込まれてるの。如月くん。自覚がなくても、もう逃げられない」


(りゅう)は奥歯を噛みしめた。

光春(みはる)の言葉、(さえ)の願い、そしてあの奇妙な夢……全てが、まるで捻れたパズルのピースのように繋がっていく。


「……なら、話をさせてくれ。圭也(けいや)に会わせてほしい」


光春(みはる)の目が大きく開いた。


「それは……無理。お兄ちゃん、三日前から行方不明なの。連絡も取れない。誰も居場所を知らないの」


再び重たい沈黙が落ちる。

街はいつもと変わらず賑やかに動いていたが、(りゅう)の中には、答えのない疑問だけが静かに渦巻いていた。


(りゅう)光春(みはる)にスマホの連絡先を求めた。

彼女は少し迷い、警戒と不安の入り混じった目で彼を見たが――

(さえ)の言葉を思い出したのだろう、ため息混じりにうなずいた。


「……(さえ)ちゃんが君を信じてるからよ」

そう言って、スマホ ホロの画面に番号を表示して差し出した。

「変なことに使わないでよね」


「ありがとう。約束するよ」


別れの言葉を交わし、(りゅう)は歩き去る光春(みはる)の背中を見送った。

街灯が灯り始める時間帯。

彼は連絡先を丁寧に保存し、真剣な表情で踵を返す。


夜風が頬をかすめる。

その空気には、いつもと違う“何か”が混じっている気がした。


 * * *


午後9時頃――


乃愛(のあ)は、古びた天照大神(あまてらすおおみかみ)の寺院跡地の近くで車を降りた。

運転手には「ついてこなくていい」と告げた。

これからやることは、自分一人でやらなければならない。


身に着けていたのは、まるでスパイ映画から抜け出したような、黒を基調とした機能的な服装。

頭にはフードをかぶり、顔の一部を隠していた。


周囲は時の流れに取り残されたような場所。

雑草に覆われ、ゴミが積もり、朽ちた木の道標が無造作に転がっている。

かつて神聖だったはずの参道も、いまでは半ば崩れ落ちていた。


足音だけが、枝や枯葉を踏みしめる音となって辺りに響く。


乃愛(のあ)は手に持ったスマホホロの画面を確認した。

ネット上から拾った古い画像。

目の前の朽ち果てた鳥居と比較する。

落書きに汚され、形も歪んでいたが、間違いなかった。


(……ここだ)


足元に注意しながら、ゆっくりと中へ進む。

朽ちた板、腐った柱、濡れ落ち葉の山を避けながら歩く。


この場所には、言葉では説明できない圧力があった。

まるで、壁の中に今もなお、古の儀式の残響が潜んでいるかのようだった。


そのとき——声が聞こえた。


乃愛(のあ)は立ち止まり、音を立てずに崩れかけた古い柱の影に身を隠した。

二人の男がすぐそばを通り過ぎ、小声で何かを話していた。

息を殺してじっと待つ。

男たちが闇に消え、再び静寂が戻ったのを確認してから、乃愛(のあ)は歩みを再開した。


やがて、かつての本殿と思われる建物の入り口にたどり着いた。

壁には無数の落書き、奇怪なシンボル、かすれた塗料で書かれた歪んだ文字。


その中のひとつが、彼女の目に留まった。

黒い太陽。その周囲を囲むように、分厚くゆらぐ炎の紋様。


乃愛(のあ)は眉をひそめ、その印を見つめた。

「……この印……(りゅう)くんの手首にあるのと、同じ……」


壁沿いに慎重に進みながら、建物の裂け目を見つけ、そこから中に忍び込んだ。

そこからは、中央ホールからの声がはっきりと聞こえた。


十人以上、もしかすると十五人ほどの人影が集まっていた。


その中の一人が、明らかに“指導者”の口調で話していた。

低く落ち着いた声だったが、どこか不気味な響きを持っていた。


「……火は夜明けと共に広がる。四十八時間以内に、あの区画は灰になる」


「……警備は?」

緊張気味に誰かが尋ねた。


「発電所は停止する。抑制装置も機能を失う。武器は揃っている。あとは、お前たちの忠誠だけだ」


「……はい! かしこまりました!」


会話は次第に混沌としていった。

逃走経路、トラック、ドローン、薬物……

乃愛(のあ)には全容が掴めなかったが、何か大規模で、危険な計画が進行中であることは明らかだった。


そして、そのとき——


「“選ばれし者”は?」

誰かが尋ねた。


「我らが未来の導師だ」

指導者の声は、まるで神を語るかのような敬虔さを帯びていた。

「まもなく姿を現す。無理強いはしない。炎が、彼を自ら導くだろう」


「伝言は? 届いたのか?」


その問いに、別の男がごくりと唾を飲み込んだ音が聞こえた。

「は、はい……あの少年に渡しました。でも、その後は……どうなったか……」


——バンッ!


乾いた音と共に、誰かが倒れた気配。

「役立たずが!」

怒鳴り声と共に、男の顔が床に叩きつけられる。


「言い訳はいらん。待たんぞ。あの者も、だ」


その瞬間、指導者は黙り込んだ。

周囲を見渡す。


「……気配があるな」

低く呟いたその声には、何かを感じ取った確信があった。

天照大神(あまてらすおおみかみ)の残響か……我らを見つめ、裁こうとしている。だが今度は清めるのではない。罰するのだ。瓦礫に隠れし者たちを!」


声が一気に高まる。


「出てこい……隠れた蛇よ!

さもなくば、黒き太陽がその魂を喰らうぞ!」


乃愛(のあ)の心臓が激しく脈打つ。

一歩、静かに後退した——が、


足元の枝が、パキッと音を立てた。


「そこだ! あっちだ!」


「誰かが盗み聞きしてるぞ!」


「逃がすな!」


だが乃愛(のあ)は、すでに走り出していた。

夜の静寂を破るように、息を荒くしながら木々と廃墟の中を駆け抜ける。


「逃がすなあああ!」

背後から指導者の怒声が響く。


そして、乃愛(のあ)の耳に届いた最後の一言。

それは、囁きにも似た、暗い予告だった。


「……蝕が来れば、黒き太陽は……再び生まれる」


* * *


家に戻った乃愛(のあ)は、玄関の扉をしっかりとロックし、壁に背を預けた。

汗が肌に張りつき、呼吸もまだ荒かった。


ホロスマホを取り出し、あの時撮ったグラフィティの画像を表示させる。


黒き太陽——

如月の手首にあるのと、同じ紋様。


「……一体、君は何に巻き込まれてるの、(りゅう)くん……」


 * * *


そのころ、東京の別の場所では——


光春(みはる)が熱いシャワーを浴びながら、ゆったりとしたひとときを過ごしていた。

髪をタオルで巻き、口ずさみながら微笑んでいる。


その少し前——

彼女のスマホに、(りゅう)からメッセージが届いていた。


『もし何か思い出したり、何かあったら……連絡して』


その文面を見て、光春(みはる)は柔らかく笑った。

迷わず、彼の連絡先を保存してから、風呂場へ向かった。


そして——


家の玄関の扉が、音もなく開いた。


それは――圭也(けいや)だった。


三日間の失踪の末、ようやく姿を現した彼は、まるで幽霊のようにゆっくりと歩いていた。

その瞳は虚ろで、肌は灰のように色を失っていた。

肩からずれ落ちそうなリュックを背負い、足を引きずるようにして部屋へと入っていく。


(もう限界だ……)

(もしアイツを寺に連れて行かなきゃ……何もしなければ……殺される。

でも……どうやって? どうやって説得すれば……?)


呼吸は乱れ、胸が苦しげに上下する。

圭也(けいや)はリビングまで辿り着くと、リュックを床に投げ出し、そのまま椅子に崩れ落ち、顔を手で覆った。


そのときだった。

テーブルの上で、ホロスマホの光がちらついた。


光春(みはる)の端末だった。

ロックが解除されたままで、画面には最後のメッセージが表示されていた。


その文面に何気なく目をやった圭也(けいや)の目に、「(りゅう)」の名前が映り込む。


——そして、雷に打たれたように身体が跳ね上がる。

その目に、新たな光が宿った。


(彼女は……彼を知っている!

番号まで持ってる!)


「……これだ……これなら、いける……!」


手を震わせながら、圭也(けいや)は素早く(りゅう)の連絡先を自分の端末に記録し、さらに光春(みはる)のホロスマホにいくつかの設定を施した。

そして、そのまま玄関へと向かおうとする。


だがその瞬間、光春(みはる)が髪を濡らしたまま部屋から出てきた。すでに着替えを済ませていた。


圭也(けいや)兄……? 戻ってたの……?」


彼はその場に凍りついたように立ち止まり、目を合わせようとせず、背を向けて呟いた。


「ごめん……」


「待って!」

光春(みはる)は慌てて彼の元へ駆け寄る。

圭也(けいや)兄っ!」


だが、彼は逃げるように走り去った。

光春(みはる)が目にしたのは、恐怖と絶望に歪んだ兄の顔だった。


混乱しながら、彼女はリビングに戻る。

ホロスマホは、まだ画面を灯したままだった。


それを手に取り、(りゅう)からのメッセージを見たとき、光春(みはる)は眉をひそめた。


圭也(けいや)の目……そのときの様子を思い出す。


そして、理解する。


(何が……何が起きてるの……?

圭也(けいや)兄……あなたに、何をさせられてるの……?)


手が小さく震えながら、彼女はチャットを開き、すぐにメッセージを打ち込んだ。


『如月くん、話したいことがあります。緊急です。明日、会ってください。』


 * * *


その夜——

(りゅう)は布団に入る前に、ホロスマホを最後に確認していた。


光春(みはる)から届いた新しいメッセージが表示された。


(……緊急?)


返信しようとしたその瞬間、画面が突然ノイズを発し、警告のように明滅した。


——『黒き太陽は目覚めた』


そのメッセージは、あの寺のエリアから届いたものだった。

圭也(けいや)が、(りゅう)の連絡先を登録していた。

そして、光春(みはる)のホロスマホをハッキングしていたのだ。


圭也(けいや)は完璧にやってのけた。

子供の頃から、彼は機械オタクだった。

プログラミング、システム、ネットワーク……どんな端末でも分解して遊んでいた。


中学時代には、遊び半分で校内ネットをハッキングしたこともある。

だが——これは、遊びではなかった。


「……よくやったな、圭也(けいや)

誰かの声が静かに響く。


その声の主は、寺の“指導者”だった。


彼の手が、|圭也《圭也(けいや)》の肩にそっと置かれる。


|圭也《圭也(けいや)》はうなずいた。

だが、その胸の奥で、何かが確実に崩れていた。


 * * *


その頃、(りゅう)の部屋——


突然、膝から崩れ落ちる。

息が乱れ、苦しげに胸を押さえる。


その腕に刻まれた“印”が——

赤く光っていた。


それは——


呼吸していた。

生きていた。


「……俺に……何が……起きてる……?」

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