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14. 沈黙の寺院

月曜日の空は、青山学院の屋根の上に珍しく澄み渡っていた。


この時間、正門にはまるで川の流れが合流するかのように、生徒たちが次々と校舎に入っていく。


如月 龍(きさらぎ りゅう)は制服をきっちりと着こなし、片方の肩にカバンを掛け、落ち着いた表情を浮かべていた。疲れた様子もなく、怪我も、顔色の悪ささえも見られなかった。足取りは軽く、確かだった。まるで短い旅行から戻ってきただけのように……親友を救うために、ほとんどの血液を提供するという命がけの行動をした後だとは思えないほどに。


この週末は、嵐のようだった。次々に迫る決断、時間との戦い、必死の連絡。陽葵(ひまり)が容体を崩した瞬間から、すべてが時間との競争になった。搬送、安定化、短時間での適合ドナー探し……そして最後に、龍が自ら名乗り出て、実験的な二重採血で足りない分を補った。無謀とも言える選択。しかし、それは勇気ある決断だった。


手術は極めて危険だった。成功の可能性は低く、理論的にしか試されたことのない方法。しかし、それでも——奇跡のように——陽葵(ひまり)は目を覚ました。


もはや彼女は侵襲的な機器や人工呼吸器に繋がれていない。まだ経過観察は続いており、回復には数日を要するが、意識はあり、言葉を話し、笑顔を見せられるようになった。それだけで、皆にとっては十分な勝利だった。


(りゅう)は、そのことを口にしなかった。誇らしげな態度を取ることもなければ、弱さを見せることもなかった。その二日間に起こったすべて——病院、手術、血、叫び声、恐怖——それらは彼の内面の奥深くに閉じ込められていた。静かに、整理され、封印されたように。


たった二日しか経っていない……しかし、(りゅう)にとっては、丸一週間が圧縮されたような二日間だった。そして、その一週間は、彼を変えた。


それでも、今朝、彼は何事もなかったかのように、いつも通り教室へと向かっていた。


「如月か?」監督役の先輩が、驚きと困惑が混ざった声で言った。


「ここに何しに……?まだ入院中じゃ……」


「もう大丈夫です」(りゅう)は立ち止まらずに答えた。「もう終わったことです」


その声は驚くほど落ち着いていた。説明を加えることもなく、気まずさを笑みで誤魔化すこともせず、ただ淡々と廊下を歩き続けた。


二階の教室から、乃愛(のあ)がその姿をガラス越しに見つめていた。光が彼の顔を照らす前から、その歩き方だけで彼だとわかった。


(りゅう)くん……」彼女は小さくつぶやいた。


数日間胸の奥で張りつめていた何かが、ふと緩むような感覚だった。無意識のうちに、見ているだけで息がしやすくなった。(本当に歩いてる……信じられない)


学院中が、(りゅう)の行動を知っていた。


本人が語ったわけではなかった。そんなことを自ら話すタイプではない。しかし、イリナが校長と話し、緊急医療処置のための欠席について説明した。その話は教職員にも共有され……あとは噂の通り道。あっという間に生徒たちの間に広がっていった。


「親友を救うために、二倍の採血をした男」


「実験手術に身を投じた異能者」


最初は信じられないという反応だった。だが、次第にそれは尊敬へと変わっていった。かつて彼を避けていた者たちさえも、無言の敬意を抱くようになっていた。


そして、(りゅう)はその尊敬を求めていたわけではなかった。人を助けたいという純粋な想いが、彼に「英雄」の称号を許さなかった。


彼の表情は、いつものように穏やかだった。


しかし、乃愛(のあ)は彼を知っていた。誰よりも、彼の歩き方の微細な変化に気づいた。いつもよりも、一歩一歩が力強かった。決意が宿っていた。


(きっと……陽葵(ひまり)を守れたという実感が、彼を支えてる)


彼女自身も、あの姿を見て何かが変わったと感じていた。


あの回復は、常識ではあり得ない。誰もそんな短期間で戻れるはずがない。


——でも、彼はそこにいた。まるで痛みなどなかったかのように、堂々と。


(りゅう)!」(れん)が駆け寄り、笑顔で声を上げた。


「そんなに元気そうでどうなってんだよ!?」隼翔(はやと)が冗談交じりに言った。


「ドラゴンの血でも流れてんのか?」と英夫(ひでお)が笑った。


三人は彼の肩をバンバンと叩きながら、囲むようにして歩き出した。


乃愛(のあ)は教室の窓に手を当てながら、静かにその光景を見守っていた。彼女の教室はちょうど正門が見下ろせる位置にあり、(りゅう)が仲間たちに囲まれながら笑っているのがよく見えた。


その笑顔は、どこかぎこちなくて、でも確かに安心している時だけに見せるものだった。彼女が一番好きな——滅多に見られない——その表情だった。


乃愛(のあ)も思わず微笑みを浮かべた。


しかし、次の瞬間——その表情が凍りついた。


一人の少女が彼に近づいていた。親しげで、自信に満ちた態度。制服も自然に着こなし、話し方も軽やかだった。愛莉(あいり)だった。


あの日、(りゅう)を正門で出迎えた彼女。


そして今、彼の言葉に小さく笑いながら、まるで何事もなかったように、彼の隣を歩いていた。


乃愛(のあ)の胸がきゅっと締め付けられた。窓枠に置いた指がかすかに握られ、微笑みは消えていった。


(元気な姿を見て、あんなにあたたかい気持ちになったのに……)


その感情は、いつの間にか違うものへと変わっていた。嫉妬とは少し違う。けれど、どこか落ち着かない不安、そしてほんの少しの寂しさが混ざり合っていた。


(そっか……仲が良くても不思議じゃないよね)彼女は窓の外を見つめながら思った。(年も近いし……愛莉(あいり)ちゃんは可愛いし、自然体で明るくて、誰とでもすぐ打ち解けられるタイプ)


下唇を軽く噛んだ。その瞬間、自分の考えが子どもっぽく、独りよがりに思えて、少しだけ自己嫌悪を覚えた。


でも、止められなかった。


(……バカ。無事でいてくれて本当に良かったよ)


水原(みずはら)さん、ちゃんと前を向いていますか? それとも、外の方が気になりますか?」教師の声が彼女の思考を一気に引き戻した。


「あっ……すみません、先生」乃愛(のあ)は慌てて前を向き、姿勢を正した。


だが、体が正面を向いていても、心はまだ下の景色に囚われていた。


愛莉(あいり)の笑い声。


(りゅう)の微笑み。


そして——自分がその輪の外にいるような、あの妙な孤独感。


(……言った方がいいのかもしれない。遅くなる前に)


視線が一瞬、机の上へと落ちた。いつ、どうやって言えばいいのか、全く分からなかった。


けれど、たった一つ、はっきりと分かっていることがあった。


それは——あの笑顔が消えるのを見るなんて、耐えられないということ。


……それが、自分の隣じゃなかったとしても。


その頃、校舎の主廊下では、五藤校長が(りゅう)を待っていた。スーツのポケットに手を入れたまま、穏やかな顔で彼を迎える。


「如月くん」


(りゅう)は足を止め、一礼した。


五藤は一瞬、彼の姿を信じられないような表情でじっと見つめた。


「元気そうで良かった」そう言い、「お姉さんから連絡があって、欠席の理由を伺いました。友人のために君がしたことは……」一拍置いてから続けた。「とても立派だった」


「彼女も、同じことをしてくれたと思います」(りゅう)は静かに答えた。


五藤はゆっくりと頷いた。


「とはいえ、今日くらいは無理せず休んだ方がいい。今日の訓練は見送るべきだと思う」


「大丈夫です、本当に。それどころか……前より強くなった気がします」


校長は少し目を細め、まるで何か言葉にならない違和感を測るように、(りゅう)をじっと見つめた。


「……強くなった、か」


(りゅう)は黙って、もう一度頷いた。


その朝、目覚めた瞬間から——(りゅう)は、それに気づいていた。


感覚が……鋭くなっていた。


足音がやけにクリアに響く。匂いが強く感じられる。肌を撫でる風の感触が、まるで別物のように鮮明だった。


(俺の血……もう、前と同じじゃない)


何かが、その中で目を覚ましていた。


五藤は、静かに息をついた。


胸に広がる不穏な感覚を振り払うように、深呼吸する。今はまだ、決めつけるべき時ではない。


だが、彼はリスクを知っていた。


あの血の意味を——誰よりも深く、理解していた。


そして何より、限界を超えて押し出されたとき、特定の遺伝子が呼び覚ます「何か」も、彼は知っていた。


加速させないように、ずっと見守ってきた。慎重に監視してきた。時には、祈りにもすがった。


(どうか、そのままでいてくれ……)


だが、人生とはそううまくいかないものだ。


時に、もっとも高潔な行動が——最悪の扉を開くこともある。


五藤はゆっくりと自分の机へ戻った。


表情には静けさがあったが、その目の奥には、容易には消えない「憂い」の光が宿っていた。



教室のドアを開けた瞬間、ざわめきが彼を迎えた。


皆、すでにその話を耳にしていた。


イリナが学院に連絡し、五藤が事の詳細を伝えたのだった——(りゅう)が、自分の血で陽葵(ひまり)を救ったこと。


そして今……その本人が、何事もなかったかのように、そこに立っていた。


だが、誰の目にも明らかだった。


(……何かが、確かに変わった)


それは彼自身にも、感じ取れることだった。


午前の休み時間になり、何人かの生徒が外に出て軽食を取ったり、身体を伸ばしに行ったが——


(りゅう)は教室の窓辺に残り、風に揺れる枝葉をぼんやりと見つめていた。


(りゅう)」 


その時、そっと彼に声をかけたのは、愛莉(あいり)だった。


「少しだけ……外で、話せる?」


(りゅう)は迷うことなく、頷いた。


二人は学院の側道を歩き出す。丁寧に手入れされた植え込みの脇を通り、木々の影が涼しく続いている。


しばらくの間、二人とも口を開かなかった。


「週末、ずっと……君のこと考えてたの」愛莉(あいり)がようやく口を開いた。どこか照れくさそうに、でも真剣な表情で。


「大丈夫かなって……どんな状態なのかも分からなくて、不安だった」


(りゅう)はわずかに驚いた表情を見せ、それからゆっくり歩みを進めた。


「……複雑だったよ」少し目線を落としながら言った。「幼なじみの陽葵(ひまり)が、急に呼吸障害で倒れて。医者は手術を選んだけど、血液が足りなくて……彼女の型はすごく稀なんだ。イリナも困ってて……」


「……それで、君は?」


「足りない分、俺が出した。最初は普通の量だったけど、間に合わなくて……だから、もっと抜いてもらった」


「そんなの……危なくなかったの?」


(りゅう)はそっと微笑んだ。


「分からない。でも、彼女は今、生きてる。それだけで、十分だよ」


数秒の沈黙。


愛莉(あいり)の表情が真剣なものに変わっていく。


目の前の(りゅう)を見つめる。


以前は、ただ少し無口で落ち着いたクラスメート——それだけだったはずなのに。


今の彼の横顔には、それだけでは語れない「何か」が宿っていた。


それは……利己的ではない、本物の優しさだった。


滅多に見られない、真の行動。


愛莉(あいり)はそっと視線を落とし、しばらく黙っていた。


「……無事でいてくれて、ありがとう」

ようやく漏れたその言葉は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。


(りゅう)は横目で彼女を見た。すぐには意味をつかめなかったが、それでもあの不器用な笑みを浮かべた。その笑顔を見るたび、愛莉(あいり)の胸の奥で何かが動き出す。


「言ってくれればよかったのに。私……お父様に頼めば、誰かを通じて血液を手配できたかもしれない。お父様は異能対策局(いのうたいさくきょく)や医療機関にコネがあるから……」


「誰も巻き込みたくなかったんだ」(りゅう)は答えた。「君だって、いろいろ背負ってることがあるだろ」


愛莉(あいり)はその言葉に、ほんの少し眉をひそめた。落胆と不安が入り混じった表情だった。


「それでも……私は君を助けたいって思ってるの。(りゅう)、全部一人で抱えなくていいんだよ。頼ってくれても、いいんだよ?」


「分かってる。けど……人に頼るの、まだちょっと苦手でさ」

それは、どこか言い訳のような口調だった。


二人は、満開の桜の木の下で足を止めた。枝の隙間からこぼれる光が、やさしく地面を照らしていた。


「時々、思うの……君は、優しすぎるんじゃないかって」

愛莉(あいり)は、ほとんど無意識にそうつぶやいた。


(りゅう)は、彼女の言葉の意図を探るように視線を向けた。そして、柔らかく笑った。


「優しいなんてことないよ。ただ、大切な人を失いたくないだけなんだ。俺にできることがあるなら——やるだけさ」


その言葉に、愛莉(あいり)の胸がぎゅっと締めつけられた。


喉に小さな塊ができて、言葉がうまく出てこない。


(りゅう)……」

彼女は口を開いた。「私……最近、ずっと……その……」


だがその時——


父・長峰 誠(ながみね まこと)の顔が、ふと頭をよぎった。課せられた義務、八神タツキとの婚約、望んでいない未来——。


(ダメ……言っちゃダメ)


「……自分のことも、ちゃんと大事にしてね」

代わりに出てきたのは、その言葉だった。視線を落とし、無理やりの笑顔を浮かべながら。


その後の沈黙は、苦いものだった。言えなかった想いが、空気に溶けていく。


(りゅう)は小さく頷いた。何かを察したようだったが、深くは踏み込まなかった。


「気にしてくれてありがとう、愛莉(あいり)。ほんとに」


「……ずっと、君のこと気にしてるから」

その一言は、愛莉(あいり)の口から自然にこぼれていた。


その時——


チャイムが鳴った。


二人は校舎の方を見た。そして、お互いの顔を一瞬見つめ合う。


その瞬間は、もう過ぎてしまった。


でも、何かが残った。目に見えない、確かな何かが。


二人は並んで校舎へ戻った。


言葉は交わさなかったが、愛莉(あいり)の指先は、(りゅう)の制服の袖にそっと触れていた。


その震えは——まだ言葉にならない感情の表れだった。



午後の日差しが、青山学院の道場の窓から差し込んでいた。


源三は壁に貼られたカレンダーを確認しながら、軽く眉をしかめた。


「……あれだけのことやったんだ。今日は休むと思ってたのに」

頭をかきながら、ぼやく。


「今日は家でガウン着て、ポテチ食べながらB級アクション映画観る予定だったんだよな~……」


仕方なくタブレットで訓練メニューを調整しながら、ため息をついた。


もちろん、訓練は嫌いじゃない。むしろ好きだ。


——だが月曜くらい、サボりたかった。


そのとき。


道場の扉が開き、(りゅう)が現れた。


真新しいトレーニングウェアを身にまとい、引き締まった表情を浮かべていた。


「おはようございます、水原(みずはら)先生。今日のトレーニング、準備できてます」


源三は眉をひそめた。


「お前、本当にここに来ていいのか? あんなことをやったばかりだろうに……普通じゃないぞ。せめて二、三日くらい休んでも——」


それは心配と、できれば休んでほしいという希望の入り混じった言葉だった。


「今までで一番調子がいいんです、本当に。めまいもないし、ちゃんと動きたい。遅れを取りたくないんです」


源三はもう一度ため息をついたが、今度は笑み混じりだった。


(俺にだって休暇が必要だよ……)


「分かった分かった……だがな、準備運動の途中でぶっ倒れたら、俺が背負って保健室に運ぶからな? いいか?」


ウォームアップが始まった。ストレッチ、道場の周りのジョギング、腕立て伏せ。


源三は時おり横目で様子を確認していた。何かしらの異常が出るはず——そう思っていた。


だが、それはなかった。


(りゅう)は力強く、安定したリズムで動いていた。呼吸も整っており、姿勢も完璧だった。


(なんだって……? こいつ、普通なら真っ白な顔で倒れててもおかしくないのに……)


源三は腕を組み、じっと観察を続けた。


「……持久力が上がってる。重心の安定も増してる。これは……血の再生によるものか? それとも副作用か……?」


ブツブツと呟きながら、タブレットにメモを取り続けた。


次に始まったのは対人戦のトレーニングだった。


そこで(りゅう)の進化は、さらに明確になった。


動きがしなやかで速い。スパーリング用ロボットの攻撃を、発動前に見切るかのように避けていく。その攻撃も、一撃一撃に力強さがあった。ただ強すぎず、ギリギリ違和感のない程度に収めていた。


だが最も驚くべきは——その集中力だった。


視線が揺れない。思考が研ぎ澄まされており、全てを数秒前から計算しているかのようだった。


源三は歯を食いしばりながら、静かに頷いた。


(このまま成長すれば……数ヶ月で異能対策局(いのうたいさくきょく)の支援官クラスに届くかもしれん。いや、それ以上かもな……。こいつには、鍛えられる以上の何かがある。プレッシャーと極限状況で研ぎ澄まされる何かが)


一時間半後、トレーニングは終了した。


(りゅう)はシャワーへと向かった。まったく疲れた様子もなかった。


道場に残った源三は、手袋や防具、センサー類を片づけながら、いつものように心拍計を手に取った。


そして——記録を確認した。


「さて、今回はどんな感じだったかな……ん?」


眉をひそめる。


画面に表示されたグラフは、以前の記録と比べて異常だった。心拍数は前回の倍近くに跳ね上がっていた。


しかもおかしなことに、乱れたピークは一切ない。ずっと一定のリズムで、まるで心臓そのものが別のギアに入って、そのまま維持されているようだった。


「……これは普通じゃないな」


その時——


髪を濡らしたまま、タオルを首にかけた(りゅう)が戻ってきた。


「今日のトレーニング、ありがとうございました、先生。久しぶりに体を動かせて、気持ちよかったです」


源三はとっさに心拍計を防具の下に隠し、自然な笑みを浮かべた。


「……ああ、よく頑張ったな、如月。だいぶ腕を上げたじゃないか」


「ありがとうございます、先生。……今日の午後、先生の家でまたトレーニングしますか?」


「……もっとトレーニングしたいって? 本気か?」と、水原(みずはら)が驚いたように言った。


「もう言いましたよ、先生。体調は完璧です。ルーチンを崩したくないんです。それに、木曜日には二回目の予選試合がありますから、万全でいたい」


「はあ……」水原(みずはら)は、仕事が増えるときのようなため息をついた。「分かったよ、午後に家に来い」


(りゅう)は軽く頭を下げて廊下を後にした。


人気がなくなったのを確認してから、水原は静かにデバイスを再び手に取った。


(……これは隠しておけないな。保健室に、それと五藤にも報告するべきだ。この子に何かが起きている……それが良いことなのかどうかは、まだ分からん)


道場の灯りを消しながら、水原(みずはら)(りゅう)が去っていった扉の方を見つめた。


(変わったのは身体だけじゃない。目も……あれはもう、普通の少年のものじゃない)


午後の陽光が、蒼山学園の壁に柔らかい金色の光を投げかけていた。空は橙と紫が混ざり合うような温もりを帯びており、まるで時間が止まったかのような一瞬を演出していた。


(りゅう)は正門をくぐり、自宅へと向かっていた。肩にかけたバッグからは、湿ったタオルがはみ出している。


水原(みずはら)とのトレーニングを終えたばかりで、体はまだ熱を帯びていた。彼は下を向いたまま、今日のルーチンを頭の中で反芻していた。


そのときだった。校門の近く、柵のそばに立っている一人の少女に気づいた。


長くまっすぐな黒髪が、肩甲骨のあたりまで流れていた。制服は蒼山学園のものではなく、濃い青のプリーツスカートに、えんじ色のリボンが特徴的だった。手は前でぎゅっと握られており、それはまるで何かを押しとどめているようだった——緊張か、恐怖か、あるいはその両方か。


(りゅう)は困惑して歩みを緩めた。通り過ぎようかとも思ったが、そのとき彼女が顔を上げ、名前を呼んだ。


如月 龍(きさらぎ りゅう)……」


彼はすぐに立ち止まり、まばたきした。


「……はい?」と、警戒しながら応じた。


少女は一歩前に出て、ごくりと唾を飲み込んだ。


「……わたしからじゃないの」その声は震えていた。「でも……伝えるように言われたの」


その後の言葉は、囁くような声にかき消された。(りゅう)は眉をひそめる。


「何を伝えろって? 意味が分からない」


少女は彼の目を見つめた。一瞬だけ躊躇ったが、何かがその中で決壊した。


「……君の血が、何かを目覚めさせた」彼女の声は、先ほどよりもはっきりしていた。「君は、私たちの方に、思っているよりも近い」


背筋を冷たいものが走った。


返答しようとした瞬間、彼女は続けた。まるで誰かに暗記させられた言葉を繰り返すかのように。


「——沈黙の寺院が待っている。そこでは名前が、もう口にされることはない」


そう言い終えるやいなや、彼女は踵を返し、校門を背にして駆け出した。


「待ってくれ!」(りゅう)は思わず一歩踏み出し、声を上げた。「それってどういう意味なんだ!?」


だが少女は振り返ることなく、まるで重荷を手放すことでようやく呼吸ができたかのように、ただ走り去っていった。


(りゅう)は呆然とその場に立ち尽くしていた。彼女が姿を消したその一点に、視線を注ぎ続けた。


(……どういうことだ。「血が何かを目覚めさせた」って……? 「名前がもう口にされない寺院」って、一体……)


意味は全く分からなかった。


だが、彼の胸の奥底で、何かが確かに告げていた。


(——これで、もう元には戻れない)


二階のバルコニーのガラス越しに、ひとつの影がそっと動いた。

明るい髪を持つ少女の姿だった。心配そうな瞳が、すべてを見ていた。

唇がきゅっと引き結ばれ、拳が強く握りしめられる。


やがて、何も言わずにその場を離れた。


(あの子……)


(りゅう)は、その気配に気づいていた。


彼は校門の前で立ち尽くしていた。

少女が残した言葉が、主のいない残響のように頭の中で繰り返されていた。


夕方の光は完全に消えていた。


蒼山学園の影が背後に長く伸びる中、別の場所では、夜が静かにピアノの旋律に紛れて忍び込もうとしていた。


長峰 愛莉(ながみね あいり)は、背筋を伸ばしてピアノに向かっていた。

指先は鍵盤の上にきちんと揃えられていたが、その集中は次第に綻び始めていた。


「また……」


小さく呟いたその声は、悔しさをにじませていた。

またしても、43小節目で音を外してしまった。

愛莉(あいり)は目を閉じ、苛立ったように手を膝の上に置いた。


土曜日にはちょっとした試験が控えている。先週の出来事で、レッスンの進み具合も遅れていた。


唇を引き結び、大きく息を吸ってから時計に目をやる。


「……あと五分だけ」


自分に言い聞かせるように、ベンチにじっと座り込む。

部屋は静かで、集中するには理想的な環境だった。

……はずだった。


けれど、心は沈まらなかった。むしろ、彷徨い始めていた。


そして、前触れもなく思い出がよみがえった。

校庭。風に揺れる葉の音。そして——あの瞬間、彼が目の前にいた光景。


あの時の言葉。

胸がドクドクと脈打ち、彼に聞こえてしまうのではないかと思ったほどだった。

そして——声に出す勇気をようやく見つけた瞬間に、何も言えなくなってしまった。


「うわあああ!」


愛莉(あいり)は子どもじみた声を上げ、頭をキーボードに突っ伏した。

不協和音が部屋に響く。


「バカ、バカ……なんで言えなかったの……」

頬を膨らませながら小声で責める。


再び背筋を伸ばし、自分自身を抱きしめるように両腕を回す。

頬はほんのり赤く染まり、唇には悔しさと優しさの入り混じった半端な笑みが浮かんでいた。


「……でも、言ったところで何かが変わったのかな?

あの人はいつだって……ずっと先を見て走ってる。もっと遠くへ……」


譜面に目をやるも、もう弾こうとはしなかった。

頭の中には、まだあの昼下がりの会話が残っていた。


「怖かったわけじゃないのかも。ただ……言うなら、ちゃんと彼が聞く準備ができたときがいいって、思っただけ」


目を閉じ、深く息を吐く。

その想いは、静かに漂う一音のように、彼女の中にとどまっていた。


——ほんのしばらくの間だけ。


一方その頃——


カチャ。

静かな音を立てて、鍵が閉まった。


(りゅう)は、玄関の扉に額を軽く預け、家の静寂を受け入れるように深呼吸した。


さっきの出来事は、まだ心の奥で脈打っていた。


(「君の血が、何かを目覚めさせた」……

「名前がもう口にされない、沈黙の寺院が待っている」……)


眉をひそめ、靴を片足ずつ脱ぎながら、無意識に首の後ろをこすった。


「……どういう意味なんだよ、それ」


あの少女の震える声が、まだ耳に残っていた。

あれは怯えだった——もしかすると恐怖そのもの。


(冗談で済むような話じゃない)


廊下を進む。人感センサーで灯った薄明かりの下を通りながら、リビングに差し掛かったその時——


青い光が壁際にパッと点滅した。


そこにはホロフレーム(ホロフレーム)が埋め込まれていた。

短時間のメッセージを投影するための装置で、数ヶ月前にイリーナが取り付けてくれたものだった。


家ですれ違うことが多い兄妹にとって、連絡手段として役立っていた。


イリーナのミニチュアサイズの三次元映像が小さな台座の上に現れ、いつもの気楽そうで飄々とした表情を浮かべながら浮かんでいた。


「お〜い、ちびちゃ〜ん♪」

いつも通りのからかうような声で、彼女は陽気に歌うように話し始めた。


「今日はちょっと大学に残るね。ほら、例のマッドサイエンティストごっことか色々。ヒマリのサンプル、再構成できるか見てるところ。難しそうだけど、まあまあ楽しいよ〜」


「とにかく〜!悪さしないで、キッチン燃やさないで、ごはん残しておいてね。じゃないと骨折られたい?って話♪

では、あなたの大好きなワンエーサンからの伝言でした〜!ばいば〜い!」


ブゥンという軽い音とともに、映像は消えた。


(りゅう)は小さく笑った。ほんの数秒だけでも、その声に救われた気がした。


「……ったく、リナ姉さんは相変わらずだな」


鞄をソファに投げ、制服の襟元を緩めると、まっすぐに食料棚へ。

チョコ味のポッキーの箱を取り出し、片手に持ったまま、ソファに深く腰を下ろした。

もう片方の手には『レッドホーク』の新刊。


ページをめくるものの、集中できなかった。

あの少女の顔、あの言葉、そして「寺院」の謎が、何度も頭をよぎった。


(……でも、こんなことで午後を台無しにするつもりはない)


そう思い直して立ち上がり、着替えに向かった。

水原(みずはら)家に行って、練習をする予定だった。頭を整理するにはちょうど良い。


歩きながら、スマホの画面を顔のすぐ前に近づけていた。


「……ヒデオ、お前なぁ……」


思わず吹き出しそうになりながら、指で画面をスワイプ。

英夫(ひでお)がグループチャットに投稿した画像が映っていた。


アプリの名前は「リネコ(リネコ)」。今一番人気のインスタントメッセージアプリだった。

グループ名は「蒼山の啓蒙者たち」。

……誰がつけたか、もう誰も覚えていなかった。


投稿には、雑誌からの切り抜きのようなスーパーモデルの画像とともに、ヒデオのメッセージが添えられていた。


「これだ。俺の子どもたちの未来の母親。」


(れん)が即座に返信した。


「落ち着け、チャンピオン。」


そして、隼翔(はやと)が続けた。


「またその子? 今週だけで何人未来の母親がいたっけ?」


(りゅう)は吹き出した。


「尊敬すべきか、入院させるべきか分からんな、ヒデオ」


そう書き込みながら笑っていたが、角を曲がって水原(みずはら)家の前に差し掛かる頃には、表情が少しずつ引き締まっていた。

練習、そして大会。

気を引き締めなければならなかった。


「頭、切り替えよう」


大会は目標のひとつだ。

でもその先にある何か——もっと大きなもののために、準備しなければならない気がしていた。


水原 源三(みずはら げんぞう)は、道場の入口で腕を組んで立っていた。

いつものように、半分呆れ顔、半分無表情。


「遅いぞ、如月」


「五分くらいだよ、もう……」


(りゅう)は道場に入り、靴を脱いだ。


道場の中は静かだった。

かすかに風の音が隙間から入り込むほかは、何も聞こえない。


(りゅう)が準備運動をしている間、源三は腕を組んだまま、道場の中心でじっと彼を見つめていた。

その眼差しは、若さに満ちた弟子と対照的に、真剣そのものだった。


「よし、如月。今日は前回やったことをさらに強化していくぞ」

水原 源三(みずはら げんぞう)はそう言いながら、等身大の練習用マネキンの前に(りゅう)を立たせた。

「右腕に流れを集中させてみろ。ただし、今度は安定させることを意識しろ。血撃の練習だが、今回はコントロール重視だ」


(りゅう)はうなずき、目を閉じた。

深く息を吸い込みながら、体内の瘴気を経路に沿って導き、右腕に集中させていく。

周囲の空気がわずかに震える。

皮膚が張り、静かに赤黒く光る血管が浮かび上がった。


しかし——拳を放とうとしたその瞬間、激しい痛みが二の腕から肩にかけて走った。


「っ……!」

(りゅう)は歯を食いしばりながら動きを止め、右腕を押さえた。


源三がすぐに一歩踏み出した。


「痛むか?」


(りゅう)は短くうなずいた。


「……ああ。中から裂けたような感じ。瘴気を流す前に、腕をちゃんと固めなかったせいだろ?」


「その通りだ。焦りすぎたな」

源三はため息をつき、どこか諦めたような笑みを浮かべた。

「体ってのは、ただのパイプじゃねぇ。エネルギーを通すたびに、代償もある。……さあ、ちょっと休憩だ。座れ」


二人は道場の側面にある壁際に腰を下ろした。

源三は冷たいタオルとエナジードリンクを手渡す。


「いいか、お前の成長スピードは正直予想以上だ。でもな、その速さこそが足元をすくうこともある。自分の体の声を聞け」


(りゅう)は息を整えながら、まだ少し痛む腕をさすった。


「……もっとコントロールできると思ってた」


「できてるさ。だが、お前はまだ自分の器を知らないだけだ」

源三は指で軽く(りゅう)の頭を小突いた。

「それも修行のうちだ。大事なのは——バランスだ」


(りゅう)は小さく笑った。

「バランス、ね……なんかヒーロー漫画みたい。でも筋肉痛付き」


「それにピチピチのスーツはないがな」

源三は笑った。


二人の間に、やわらかな笑いが広がった。外はすっかり暗くなっていた。


水原(みずはら)先生」

突然、(りゅう)が口を開いた。

「“名を失いし沈黙の寺院”…って、聞いたことありますか?」


源三の眉が上がる。その口調に何かを感じ取ったのか、すぐに真剣な表情に変わった。


「そんな言い回しは初めてだな。……ことわざか? それとも何かの暗示か。どこで聞いた?」


「ちょっと複雑で……」

(りゅう)は視線を下に落とした。


源三は腕を組み、考え込むように目を細めた。


「沈黙の寺院、か。……実在する場所を指している可能性もある。忘れ去られた神社や、古い聖域、あるいは監獄のような……

“名を失った”というのは、死んだ者、あるいは……」


「忘れ去られた者?」

(りゅう)が口を挟む。

「戦争や災害で失われた人々の記憶のような場所……?」


「あるいは、比喩かもしれん」

源三は続けた。

「力を持った者たち、つまり“持たざる者”にされた存在——ポータ―……いや、“異端”とされた者たちの記録かもしれない。もしくは……もはや人間と呼べない存在を指しているのかもな」


(りゅう)はうなずいたが、その表情にはまだ不安が残っていた。


「……何か、大きなものに繋がってる気がして」


「気をつけろ、如月」

源三は静かに、しかし強い眼差しで彼を見た。

「一度見てしまったものは、もう見なかったことにはできない」


静けさが場を包む。

やがて源三が立ち上がり、軽く(りゅう)の肩を叩いた。


「さあ、まだ半分残ってるぞ。“魔の血を引く少年”が、こんなもんで音を上げてどうする」


(りゅう)は苦笑いしながら立ち上がった。


「はいはい……手加減だけは頼みますよ?」


道場の灯りが一瞬ちらついた。

そして再び、訓練が始まる——

その心の奥で、あの言葉の残響を抱えたまま。


夜はすっかり落ちていた。


知られた道の果て、あらゆる座標から抹消された場所——

技術の光が届かぬその地に、時の執念だけで立ち続ける廃墟があった。

湿気と放置によって黒ずんだ壁は、朽ちた屋根をかろうじて支えている。

乾いた枝の間を吹き抜ける風と、きしむ木材の音だけが、深い静寂を裂いていた。


一つのフード付きの影が、傾いた両開きの扉の前に現れた。

扉は錆びた蝶番で歪みながら吊るされていた。

その人物は注意深く押し開ける。

蝶番が鳴らす不気味な軋み音が、闇に警鐘のように響いた。


中は、濃厚な薄暗さに包まれていた。

壁一面の棚は空っぽで、空気は古びた埃と、石、そして灰の匂いが混じっていた。


その中心——油のランプのほのかな灯りの下、もう一人のフードの人物が机に向かって座っていた。

彼の指先は、古びた黒い革の表紙の本のページを素早くめくっていた。

その口元からはかすかな呟きが漏れていた。

それは言葉の形を成さない、ただの囁きだった。

だが、それを聞く者には、禁忌の重みがはっきりと感じられた。


新たに来た者は静かに頭を垂れた。


「伝言は渡しました」

しゃがれた声が暗闇に響いた。

「“選ばれし者”が次の一歩を踏み出すのは……時間の問題です」


呟きは止んだ。

本が静かに閉じられた——まるで古き輪廻を封じるかのように、儀式的な所作で。

その音が、乾いた静寂の中に鈍く響いた。


読者はゆっくりと立ち上がった。

手を伸ばし、来訪者の肩に静かに指を置く。


「よくやった」

冷たく、かすかな声が落ちた。


彼の唇がわずかに笑みを描いた——だが、その目の奥までは決して届かない笑みだった。


「これで……待つ時間は終わりだ」

――ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。


如月 龍(きさらぎ りゅう)の物語は、静かに、しかし確実に転機を迎えました。


この章を境に、物語は新たな段階へと進みます。


日常は少しずつ歪み始め、登場人物たちの運命も大きく揺れ動いていくでしょう。


ここからは、これまでのような穏やかな時間だけでは済まされない展開が待っています。


それでも、龍は歩みを止めません。


次回もまた。


心からの感謝を込めて。


──著者

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