13. 陽と影の胎動
空は灰色の雲に覆われていた。まだ雨は降っていなかったが、空気には雨の気配が漂っていた。補習校の前にある小さな公園の木々の葉が、風に揺れていた。
「また勝ったよ、龍!」
陽葵が腕を高く上げて勝利のポーズをとった。
龍は息を切らしながら、湿った芝生に倒れ込んだ。彼の笑い声は陽葵の軽やかで移るような笑いと混ざり合った。遠くで学校のチャイムが一日の終わりを告げていた。
二人は一時間以上も遊び回り、追いかけっこをし、馬鹿げた話を作って、漫画や叶いそうにない夢を語り合っていた。まさに純粋な子供時代だった。
しかしその時、何かが彼の注意を引いた。
公園と学校の建物を隔てるフェンスの向こうに、一人の人物がゆっくりと歩いていた。顔を隠すように黒いフードをかぶっており、ときおり立ち止まっては周囲をじっと観察していた。
龍は笑うのをやめた。動かず、その人物を見つめた。空気がひやりと冷たくなったように感じた。
「どうしたの?」
陽葵が彼の沈黙に気づいて尋ねた。
「…なんでもない」
彼はそう呟き、ちょうどその時、聞き慣れた声が彼らを呼んだ。
「龍!陽葵!早く、雨が降りそうよ!」
イリーナが歩道から手を振っていた。肩にリュックを背負っている。
二人は振り返ることなく、彼女のもとへ駆けていった。
通りには灰色の車が待っていた。運転席には陽葵の母・奥村 夏美がいて、窓を少し開けたまま笑顔で迎えてくれた。
「乗って乗って!楽しかった?」
龍はうなずき、後部座席に座った。隣では陽葵がまだ何か一人で笑っていた。
だが彼の視線は、バックミラーに釘付けだった。学校のフェンスのところに――もうそこには誰もいなかった。
背筋に冷たいものが走った。
(あの記憶…何かおかしい)
その時、空が激しく鳴り響いた。
龍は目を見開いて飛び起きた。
病院の白い部屋が、耳鳴りと胸の冷たさを伴って彼を迎えた。
汗をかいていた。
呼吸は乱れていた。
「…夢、か」
彼は乾いた喉でそう呟いた。
しかし、それはただの夢ではなかった。その記憶は――陽葵が事故に遭った前日そのものだった。あの日、彼の人生は永遠に変わってしまったのだ。
朝焼けの光がブラインドの隙間から差し込み、白い病室の壁を淡い橙色に染めていた。空調のかすかな唸り声と、遠くの病室から聞こえる心拍モニターの音以外、すべてが静まり返っていた。
見慣れない天井は、最初ぼんやりとしていた。体は痺れていて、腕は重く、まるで全ての力が抜け落ちたかのようだった。ここがどこなのか、理解するまでに数秒かかった。
病院――。
龍はまばたきをし、ゆっくりと首を横に向けた。腕には点滴の針が刺さっており、隣に吊るされた小さなバッグから、透明な液体が一定のリズムで滴っていた。
部屋の反対側では、イリーナが椅子に座って眠っていた。折りたたみテーブルにうつ伏せになり、制服の上着を肩に羽織っている。普段は真面目な顔も、今は穏やかに見えたが、疲れの色は濃く残っていた。
(姉さん…)
龍はわずかに眉をひそめた。彼の最後の記憶は、手術室だった。腕の圧迫感、献血の感覚、そして――暗闇。
すべてが一瞬の出来事のようだった。
まるで時間が歪んでいたような感覚。たった一日が、一週間分の重さを持っていたようだった。
陽葵の容体が急変した。深刻だった。突然、状況は危機的になった。医者たちは小声で、それでも切迫した口調で話し合っていた。時間がなかった。ミスは許されなかった。手術は即決。そして、血が必要だった。大量に。
適合者、三人。わずか一時間以内に三人。
病棟全体が混乱に包まれていた。龍は覚えている。唇をきつく結んだ看護師が、リスクを説明していたことを。電話口で誰かと激しく議論していた医者の姿を。廊下を走り回る人々。助けを求めて叫ぶ声。時計の針が無情に進んでいく。
そして、彼は申し出た。迷わずに。
彼の血。通常の二倍の量。無謀だと言われた。命の危険もあると。しかし、それは必要なことだった。
次の場面は手術室だった。冷たい感触。照明の光。指先の痺れ。視界が霞んでいく。まばたき。そして――虚無。
そして今、彼はここにいる。生きている。だが、すべてが崩れ落ちた直後の、あまりにも速い展開にまだついていけず、頭の中は混乱していた。
呼吸が徐々に落ち着いていく。陽葵のことばかりが頭から離れなかった。手術はうまくいったのか。目を覚ましたのか。今も生きているのか。
龍は弱々しく拳を握った。
(暗闇が、残りの記憶を持っていった。でも…この胸の痛みだけは、まだここにある)
病室のテレビで流れている医療番組を見つめながら、彼は思い出した。学校に無断で早退したこと。そして今日も休む予定であること。きっと怒られるだろう。
(今日、金曜日か…練習サボっちまうな)
その時、病室のドアが静かにスライドして開いた。
「お、目を覚ましたか」
そう声をかけたのは、陽葵の手術と治療を担当していた医師――高杉だった。手にタブレットを持ち、安堵の微笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
「それは、いいニュースだな」
龍は体を起こそうとしたが、高杉は片手を上げて制した。
「まだ動こうとしないで。体が回復するまでには時間が必要だ。推奨量の…二倍も採血したんだぞ。おかげで医師免許を返上するところだったよ」
龍は目を細めながら、かすかに笑みを浮かべた。
「…陽葵は?」
医師はうなずいた。
「生きてる。リスクは高かったし、君のST3型血液と彼女の遺伝マーカーとの反応も予測できなかった。でも、手術は成功した。今は君と同じように、休んでいる」
龍の胸に、安堵の波が静かに広がっていく。目を閉じたのはほんの一瞬。だが、その瞬間、彼は無意識のうちに張り詰めていた緊張を解放した。
医師は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した後、再び口を開いた。
「君の血液は…改造された血漿と予想外の反応を示したんだ。モニタリングの最初に奇妙なピークが出て、正直、危ないと思った。でもその後、急に安定した。まるで彼女の体が…君と同調したかのように」
龍はまだ眠気の残る目で彼を見つめた。
「…それって、いいことなんですか?」
「…興味深いことだ。もっと調べたい。そして、数週間は定期検査に来てほしい。念のためにね」
「わかりました」
龍の返事は、かすかなささやきだった。
医師は彼の肩を軽く叩き、立ち上がった。
「ゆっくり休め。よく頑張ったな」
扉が静かに閉じた。龍はもう一度、まだ眠っているイリーナの方に首を向けた。何も言わず、ただ天井を見上げる。その胸の奥には、疲労と安堵――そして、まだ言葉にできない問いが、確かに息づいていた。
イリーナは龍のベッド脇の椅子で目を覚ました。背中が痺れていた。軽く伸びをしてからベッドの端に寄り、龍を見下ろした。
「…姉さん?」
龍がかすれた声で呼びかけた。
彼女はほっとしたように微笑んだ。
「やっと起きたね」
「よかった…僕は大丈夫だけど、陽葵は…?」
「陽葵も…今のところ安定してる。手術は数時間前に終わったばかり」
「…よかった。来てくれてありがとう、姉さん」
イリーナは微笑んだ。
「ちょっと彼女のところに行ってくるね。目覚めたときに一人じゃ可哀そうだし」
龍は静かにうなずいた。
「…ありがとう」
「すぐ戻るから。休んでて」
イリーナは立ち上がり、音を立てないように病室を後にした。
陽葵の病室は薄暗く、彼女は深く眠っていた。いくつものチューブに繋がれたその姿は、まだ顔色は優れないものの、どこか穏やかに見えた。
イリーナはそっと部屋に入り、音を立てずに椅子に腰かけた。陽葵の髪をそっと直し、しばらく無言で見つめ続けた。
長い夜だった。そして今、ようやく――呼吸を整えることができた。
数分後、控えめなノック音が彼女を驚かせた。
「はい?」
彼女は小声で返事をした。
扉がわずかに開き、中年の男が顔をのぞかせた。整った髪に、こめかみに少し白髪が混じっている。清潔感のある黒いコートを着ていた。表情はどこか険しい。
「失礼します…あなたが陽葵さんの友達、イリーナさんでしょうか?」
「はい」
イリーナは慎重に立ち上がりながら答えた。
「あなたは…?」
男は一歩中に入り、静かにドアを閉めた。
「長峰 誠と申します」
その声には、かすかに感情がにじんでいた。
「彼女の父です」
イリーナは言葉を失ったまま、その名を反芻した。それは、以前にも聞いたことがある名前だった。
――“誠…陽葵の父親よ。もう何年も、連絡なんてないけどね”
数ヶ月前、陽葵の母――奥村 夏美が、どこか虚ろな目でそう話していたことを、彼女は思い出した。
「…連絡は取ってないって聞いてたけど」
イリーナの声には、わずかな冷たさがにじんでいた。
長峰は視線を落とし、まるで罪の重みに押しつぶされるかのようだった。
「…その通りだ。そして…毎日後悔してる。離れた理由は…当時は説明できなかったんだ」
イリーナは腕を組み、不信感を隠そうともしなかった。
「娘を見捨てる理由って、そんなに正当化できるものなの?」
彼は悲しみと覚悟が入り混じった眼差しでイリーナを見つめた。
「守るためだった。陽葵と、彼女の母親を。俺の人生には…闇があった。危険な人間たちもいた。近くにいるだけで、二人を巻き込む恐れがあった。だから…せめて遠くから見守ることしかできなかった」
イリーナは彼を見つめた。直感は警戒を解かなかったが、その目に宿るものは…本当の罪悪感か、よくできた演技か――判断がつかなかった。
「陽葵に何が起きたかを知って…彼女が東京に移されるよう、裏で手を回したのは俺だ」
長峰はそう続けた。
イリーナは彼の姿勢を警戒しながら、指先をさりげなくナースコールのボタンに近づけたまま視線を外さなかった。
長峰は静かにベッドに近づいた。無言のまま陽葵を見つめ、ほんの一瞬だけ、彼女の指先に自分の指を重ねた。
「…こんなに大きくなったんだな」
イリーナは唇をきつく結び、感情を押し殺した。
「話すつもり? 陽葵に」
長峰は首を振った。
「今は…無理だ。こんな状態で、こんなタイミングじゃ。何年も顔を出してなかった人間が、いきなり現れていいわけがない。彼女の回復を妨げたくないんだ。お願いだ、イリーナさん…彼女に俺が来たことは、まだ言わないでほしい」
そう言って、彼は静かに頭を下げた。
イリーナは眉をひそめた。
「つまり…私に嘘をつかせようとしてるの?」
「違う。彼女を守ってほしい、それだけだ」
イリーナはしばし沈黙し、そして小さくため息をついた後、うなずいた。
「…わかった。でも、いずれ本当のことを言う時が来たら、ちゃんと彼女と向き合ってよね」
長峰は目を見て、静かにうなずいた。その表情には、どこか本物の哀しみが宿っているようにも見えた。
「…向き合うさ。必ず。ありがとう。陽葵のこと、見てくれて。…それと、お願いがあるんだ。夏美さんにも…俺がここに来たことは言わないでくれ。とても…顔を合わせる勇気がないんだ」
そう言って、俯いた彼の声は、本当に弱々しく響いた。
イリーナは胸の奥に渦巻く怒りを押さえつけながらも、言葉を選ぶことなく答えた。
彼女はドアに向かい、立ち止まって小さく呟いた。
「…私よりずっとマシにやってるわね」
そのまま、彼女は廊下の闇へと姿を消した。
イリーナはその場に立ち尽くしていた。
(…ただの再会じゃない。何か、もっと深いものが絡んでる)
そう感じていた。
「…臆病者」
イリーナは小さく毒づいた。
陽葵の方に目を向け、まだ眠っている彼女の髪を優しく撫でた。
「どうか…あんな人のせいで、もう傷つかないで」
部屋には、心電図モニターのかすかな音だけが響いていた。窓の外では、冷たい光を放つ都市の鼓動が、止まることなく続いていた。
イリーナは静かにドアを閉め、陽葵を休ませたままにした。
しばらく、手をドアノブに置いたまま、深く息を吐いた。
「…思ってたより、ずっと重かった」
彼女はそう呟いた。
廊下の先に目をやる。足音、酸素機器の作動音、自動ドアの開閉音が空間を満たしていた。
イリーナはバッグからぶら下がった書類ホルダーを整え、小さく呟いた。
「私は…ただ見舞いに来ただけじゃない。彼女を助けに来たの」
足取りを固め、集中治療エリアの事務窓口に向かう。そこには、端末の記録を確認している看護師が一人いた。
「失礼します」
イリーナは学生証を見せながら声をかけた。
「東京臨床研究学院のバイオメディカル学科三年生です。機能回復リハビリ科の実習プログラムに参加しています」
看護師は無表情のまま、眼鏡越しに彼女を見た。
「どうされましたか?」
「奥村 陽葵の件で来ました。術後の呼吸リハビリに関する追跡プロジェクトに関わっています。最近のカルテを確認させていただきたいのですが。指導チームからの許可もあります」
「高杉先生をご存じですか? このエリアの担当です」
「はい。前の学期、彼の授業を受けていました。今回の件についても、特定のケースでの関与を許可されています」
イリーナはそう言って、病院の公印が表示されたタブレットのデジタル書類を見せた。
看護師は数秒その書類をじっと見つめ、無言でうなずいた。
「確認いたします。高杉先生に伺ってきます」
そう言って、彼女は「関係者以外立入禁止」の札がかかったドアの奥へと姿を消した。
――その頃、高杉は苛立ちと戸惑いの狭間にいた。
自室の薄暗いオフィスでパソコンに向かいながら、複数のタブを切り替えていた。科学論文のデータベースと、医療系のフォーラムを交互に。再び検索バーに名前を入力する。
“ドクター・ボルテックス”
…結果は、ゼロ。
本名も、顔写真も、所属先もない。学術的な信用に足る情報は一切見つからない。あったのは、裏通りのようなフォーラムや、匿名ブログ、そして信頼性の低い医学系掲示板に投稿されたわずかなコメントだけ。
それでも――いや、それだからこそ不気味だった。
その“ドクター・ボルテックス”が書いた処置方法は、機能してしまったのだ。
それどころか、命を救っていた。
彼は再び「ニューロファージ」のサイトを開いた。
見た目は古びたブログ。更新も止まっており、出典へのリンクもない。
だが、そこには確かに書かれていた。仮説。分子計算。リスク計算。吸収経路。すべてが、理にかなっていた。
(…完全な闇雲だったわけじゃない。それでも…もし誰かに追及されたら、どう正当化できる?)
高杉は顔を手で覆った。
この件を報告されたら、処分される可能性もある。
医師免許を剥奪されるかもしれない。
それ以上のことがあるかもしれない。
それでも――後悔はしていなかった。
今こうして、陽葵が静かに呼吸している姿を思い出すたびに。
そしてそれが、別の意味で背筋を凍らせた。
「…これは、素人の手によるものじゃない」
画面を見つめながら、彼はぽつりと呟いた。
「…本物の知識だ。外科医並みの精度…」
しばらくの間、彼は沈黙したまま、画面のグラフや細胞吸収の図式、反応経路のダイアグラムを見つめていた。
その時、ドアが軽くノックされ、静かに開いた。
「失礼します、高杉先生」
看護師が顔をのぞかせた。
「実習プログラムの学生が、奥村さんのカルテへのアクセスを求めています。術後の呼吸追跡プロジェクトに関連しているとのことです」
高杉は画面から目を離し、看護師に目を向けた。
「名前は?」
「イリーナ・キサラギさんです。この書類を提示されました」
彼女はタブレットを差し出した。
高杉はそれを手に取り、表示された名前を確認した。
「イリーナ…キサラギ。あのドナーの――姉か」
彼はゆっくりと頷いた。
頭の中で、何かのピースが静かに繋がっていくように。
「覚えていますよ。頭が良くて、几帳面な子でした。確か、先学期に私の授業を受けていましたね?」
「はい、先生。特定のケースに関して、先生からの許可があったと申しています」
「ふん…おそらく、私が独立研究プロジェクトについて話した時のことを、都合よく解釈したのでしょう」
高杉はパソコンを閉じ、立ち上がった。
「ですが、イリーナであれば、権限を乱用するようなことはしないと思います」
「では……?」
「一時的なアクセス権を与えてください。まずは患者の術後経過から確認させましょう。どんな考察をするか見てみたい」
「承知しました、先生」
看護師が退室すると、高杉はしばらく立ったまま、黒くなったモニターを見つめていた。
そして静かに椅子に腰を下ろした。
――自分は、越えてはならない一線を越えてしまった。
だが、それはもしかしたら、
従来の医学では到達できなかった新たな扉を開く“始まり”なのかもしれない。
「記録はすべて残してください。実施した処置は一つひとつ、毎日報告書としてシステムに提出すること」
看護師はそうイリーナに告げた。
「もちろんです。本当にありがとうございます」
イリーナは書類ファイルを抱えてカウンターを離れた。歩きながらそれを開き、慎重に報告書を読み込んでいく。
術前の診断、手術結果、そしてリハビリ計画の概要…。
彼女は眉をひそめた。
「…これじゃ足りない。精密に進めなければ、肺機能は回復しないわ」
そう呟き、やがて決意のこもった声で続けた。
「もっと良いプランを立てようね、陽葵。約束する」
ラボに向かって歩きながら、彼女の姿は病院の喧騒の中へと溶けていった。
――イリーナはもう、ただの“心配している友達”ではなかった。
内部から支える“味方”になっていた。
* * *
その頃、病院から離れた青山学園の一年生教室では、生徒たちがまばらに残っていた。
金曜日の長い一日が終わり、何人かはすでに帰宅していた。残った数人があくび混じりに荷物をまとめる中――
どこか奇妙な“欠落感”が教室を包んでいた。
石川 蓮は窓枠に寄りかかりながら、外の校庭をぼんやり眺めていた。
手にはスマホ、口には無気力そうに噛むガム。
「……ダメだ。音沙汰なし」
スマホを下ろしながら、そう呟いた。
隼翔と英夫が、数学の課題をやりながら振り返った。
「また送ったのか?」
「うん。昨日から。既読のまま」
その時、水原 乃愛が教室に入ってきた。
リュックを背負いながら、ほんの少し心配そうな表情をしていた。
「みんな…まだ龍くんのこと、何もわかってないの?」
(の、乃愛先輩!? 一年生の教室に!?)
三人の心の中で、同じ驚きが走った。
「うん」
西村が顔を上げて答える。
「なんか、おかしいよな」
乃愛は、そっと 龍の机にリュックを置いた。
その仕草は、まるで何かの儀式のように丁寧だった。
彼女は無人の席を見つめ、険しい目をしていた。
「昨日も…今日も来てない。あの子、何も言わずに休むなんて絶対ないのに」
蓮は腕を組んで、黙ったまま考え込んだ。
乃愛はスマホを取り出し、一瞬だけ迷った後、素早くメッセージを打ち始めた。
「龍くん……大丈夫? 来てなくて心配してた。せめて何か返事してね。―乃愛」
そう書いて送信し、ため息をつきながらスマホをしまった。
数秒の沈黙のあと、端末の微かな振動が同時に鳴り響いた。
全員が画面を見た。――同じメッセージが届いていた。
【龍 - 10:37】
元気だよ。心配してくれてありがとう。いろいろあったけど、月曜には戻る。あとで話すね。じゃ、気をつけて。
蓮が小さく笑い、鼻で息を漏らした。
「やっぱ龍だな」
隼翔もほっとした様子で微笑んだ。
「質問攻めにしてやろう」
乃愛は少しだけうつむき、ふっと笑みを漏らした。
(よかった……無事で)
「よかった……元気そうで。本当によかった」
そう小さく呟きながらも、胸の奥には温かな安堵の光が灯っていた。
「……じゃあ、またね」
と彼女は控えめに言ってその場を離れようとした。
「お、おう、バイバイっす、先輩!」
男子たちが慌てて声をかけた。
「なあ、乃愛先輩って、いつも俺らのこと冷たい目で見てない?」
蓮が疑問を口にする。
「だよな? あの顔されると、“どけ、寄生虫ども”って言われてる気分になるんだよ」
英夫が真顔で応じる。
「でもさ……今日は普通に話しかけてくれたよな。変じゃね?」
「まさか……乃愛先輩と龍って……?」
隼翔が疑惑を投げかけた。
「うわっ、マジで羨ましいっ!!」
英夫がジタバタしながら嫉妬の叫びを上げる。
「やるな、俺の友よ、龍……」
蓮が肩をすくめながら笑い、隼翔と一緒に英夫の嫉妬を面白がるように眺めた。
教室の窓から夕陽が差し込み、空気を金色に染めていた。
空席のままの龍の机を包むその光は、まるで――
(もうすぐ戻ってくることを、知っているかのようだった)
* * *
病院では、奥村 陽葵の病室のドアが静かに軋んで開いた。
龍が顔をのぞかせた。
顔色はまだ青白く、疲労が残っていたが、点滴をつけながらも自分の足で立っていた。
病院のガウンを着て、ぎこちないが確かな足取りでゆっくりと室内へと入っていく。
ドアを静かに閉めると、ベッドへと歩み寄った。
陽葵はまだ眠っていた。
穏やかな表情で、唇はわずかに開いていた。
柔らかな光が彼女の頬に影を落としている。
龍はその横に立ち、しばらくの間じっと彼女を見つめた。
「……なあ」
声はかすかだった。
そっと彼女の包帯を巻かれた手を両手で握り、自分の頭を垂れた。
その目はうっすらと涙で滲んでいた。
――やっと、呼吸ができるようになったのに、喉の奥の詰まりはまだ消えていなかった。
「……やったな」
震える声で、彼はそう囁いた。
心電図のモニターが、静かに一定のリズムを刻み続けていた。
まるで時間のテンポを測る柔らかなメトロノームのように。
龍はそっと指を彼女の指に滑らせるように触れ、それから立ち上がった。
――彼女の眠りを妨げたくない、というように。
最後にもう一度だけ彼女を見て、背を向けかけた――その時。
モニターの音に、わずかな変化が走った。
ほとんど気づかれないほどの微細なズレ。けれど確かに、何かが変わった。
龍の足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
陽葵のまぶたが、ほんのわずかに震えた。
小さな痙攣。そして――
ゆっくりと、目が開かれた。
彼女の瞳と、龍の瞳が重なった。
その視線にはかすかな光が宿っていた。
だが、それだけで――
暗がりを貫くには、十分だった。
(永遠のような、一瞬だった)
龍は息を呑んだ。信じられないように。
「……陽葵……?」
陽葵の視線が合うまで、数秒かかった。遠くから戻ってきたような、かすんだ瞳。
だが、次の瞬間、その唇に微かな笑みが浮かんだ。
そして、かすれた声で、ほとんど囁きのように言った。
「……遅いよ、バカ……」
龍は震えるような笑い声を漏らし、涙をこらえきれずにいた。
「……ごめん、遅れた」
場面はそのまま静止した。
手を取り合い、涙は静かに流れ、朝のやわらかな光が希望の再生を優しく包んでいた。
すべてが、少しずつ――良い方向へと変わり始めていた。
* * *
しかしその頃、病院から遠く離れた場所では、すべてが順調とは言えなかった。
首都の喧騒からも離れたその場所でも、医療処置は行われていたが、それは人命を守るためのものではなかった。
発電機の唸る音が、裸の壁に機械的な心音のように反響していた。
天井に取り付けられた青いネオン管が明滅し、錆びた金属の手術台や器具トレイに断続的な光を投げかけていた。
施設の中央では、球形のガラスカプセルがゆっくりと自転していた。磁場によって空中に浮かぶその内部には、黒い雫が一つ漂っていた。
漆黒で濃く、時折光が触れると表面に紫の反射が浮かぶ。わずかに脈動し、まるで呼吸しているかのようだった。
異能対策局の捜査官、荒川 赳は金属製のベッドに腰掛けていた。
上半身は裸でセンサーが取り付けられ、二十代半ばの鋭い顔立ちに濃いクマが刻まれていた。
彼はその黒い雫を眺めながら、指でベッドをリズムよく叩いていた。
その瞳には、魅了と嫌悪が交錯していた。
「おい、誰か! ここでの退屈をどうにかしてくれよ!」
荒川は助手たちに向かって怒鳴った。
その場の者たちは、彼を恐れている様子だった。
「なんか持ってこいよ、漫画でも、エロ本でもいいからさ!」
「……バカばっかりだな」
と彼は侮蔑を込めてつぶやいた。
その時、研究室の奥から足音が聞こえた。荒川は首をひねり、不安げに目を向けた。
「おい! どこほっつき歩いてたんだよ! すぐ戻るって言ったじゃねぇか。異能対策局がこの辺のエネルギーパターンを調べたら、マジで面倒なことになるぞ!」
暗がりから現れたのは、一人の男だった。
背が高く、スーツを着こなし、やや白髪交じりの髪にサングラスをかけた男――長峰 誠だった。
「娘に会ってきた」
「またかよ?」
荒川は皮肉っぽく笑ったが、その声にはどこか居心地の悪さもにじんでいた。
「こんな時に家族愛とは、いい身分だな、叔父さん……」
荒川 赳は長峰 誠の甥であり、異能対策局の闇取引監視部門に所属していた。
「ところでさ、叔父さんって何人目の嫁だっけ? 七人くらい?」
「黙れ」
と長峰は冷たく言い放った。
「準備しろ、もう始める」
「女ったらしのくせに、全然愛想ねーな……」
助手たちが慌ただしく装置と器具を準備し、長峰の周囲を整えていく。
「叔父さん、娘が多すぎるならちゃんと名前教えとけよな? 間違って従妹に手を出したら最悪だからな」
長峰は返答しなかった。ただ黒い手袋を外し、無造作に器具トレイに投げ捨てた。
「時間がない。横になれ。これは……痛むぞ」
荒川はごくりと喉を鳴らし、観念したようにベッドに横たわった。そして自らマウスピースを装着した。
「とにかく、成功させてくれよな」
長峰は手術支援システムを起動させた。
天井からロボットアームが降下し、レーザーメスや鋭利な器具がうなりを上げて点灯した。
研究室の空気には、オゾンと血と金属の匂いが満ちていた。
「助手たち」
長峰 誠が声を上げると、すぐにスタッフたちが動き始めた。
手術台のそばに、濃い琥珀色のアダプトゲンが入ったバイアルが三本、透明なカプセルに封入された複数のチップ、そして古びた革に包まれたパッケージが並べられた。
「まずは神経モーターのインプラントから始める。お前の中枢神経系が拒絶反応を起こさないことを祈る」
鋭い注射針が、荒川 赳の首の付け根に突き刺さった。
彼は激痛に背を反らし、マウスピースを噛み締めた。
続いて行われたのは骨強化処置だった。腕と脚にマイクロインジェクションが次々と打ち込まれ、脊髄に反応して作動を始めた。
その音は鈍く、まるで身体の内部から骨が砕けるかのようだった。
チップは脊柱と後頭部基底部に直接埋め込まれた。
長峰は小さくコードを呟きながら、それぞれのチップを自身のマスターインプラントと同期させていく。
「お前は最初の一人だ」
長峰はホログラフィック・ディスプレイのパラメーターを調整しながら言った。
「プロトタイプだ。これが成功すれば、ただ強くなるだけじゃない。効率的に、致命的に、制御不能に……」
プロセスが完了すると同時に、荒川は意識を失った。
長峰は手術用のグローブを外し、再び黒い雫のあるカプセルへと歩み寄った。
長い間、その雫を見つめた。
ガラスに映る彼の目は、飢えに満ち、野心に輝いていた。
「その時が来たら……今度こそ試す。血清でも、試薬でもなく、生の肉体で」
彼は無意識のままの荒川へとわずかに目を向けた。
「最初の被験者は……お前だ」
違法なインプラントのリストは、ほとんど適用済みだった。
骨の補強、神経増幅、心臓の背後に埋め込まれた熱吸収核……
それは、ある意味では新しい兵士のかたちだった。
しかし、まだ完璧ではない。まだ未完成だ。
長峰は再びその円筒へと近づいた。
(もしかして、これは……)と考えた。
ひとつ、脈動。
もうひとつ、脈動。
そのとき、雫がわずかに伸びた。
まるでその思考に反応するかのように。
長峰は目を細めた。
この反応パターンを、以前にも見たことがあった。
――黒炎の教団の文書の中で。忘れられた実験記録の中で。
彼らは“ある答え”を探していた。
「……もしこれが試料じゃなくて、“種”だったら……?」
彼は静かに呟いた。
その背後で、ピッという音が鳴った。
荒川のモニターが異常なパルスを記録していた。
わずかな乱れ――一瞬の高まり――そしてすぐに平常へ戻った。
だが長峰はそれに気づかなかった。
彼の視線は依然として、雫に釘付けだった。
「……別種の兵士の“種”……」
その指先が、興奮にわなないた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
第二話では、龍の特別な一面が少しずつ明らかになってきましたね。
これからさらに世界観が広がっていくので、ぜひ次回もお楽しみに!