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11. 包帯では癒せない痛み

学院での生活は、ゆっくりと、しかし確実に変わりつつあった。如月 龍(きさらぎ りゅう)は、次第にクラスメートとの関わりに慣れてきており、その「居場所がある」という感覚が彼に力を与えていた。ここにいたい──彼はそう思っていた。中には英夫(ひでお)隼翔(はやと)(れん)のように、彼を誘って一緒に行動してくれる友人もできた。


すべては順調だった。


源三(げんぞう)との特別訓練のおかげで、彼の実力は学院内でもトップクラスに並んでいた。身体能力はもはや普通の高校生のレベルではなかった。年齢の基準をはるかに超えていた。彼は自らを試すために、校内大会への参加を決めた。もう自分は足手まといではない──そう証明したかった。そして、実際にそれを成し遂げつつあった。


それでも──あの誘拐未遂事件で味わった恐怖は、自分の実力を深く疑わせた。


あの決定的な瞬間、どれだけ訓練していようと、どれだけ速く動けようと、どれだけ持久力があろうと、意味を成さなかった。恐怖が彼の体を縛った。身体は動いても、心は追いつかず、判断は鈍った。自分を守ることすらできず……周囲の人々を守る余裕などなかった。


あの時、震えながら引きずられていった自分の姿。無力感に包まれたあの瞬間は、まるで影のように彼を付きまとった。これほどの力を得たのに、なぜ肝心な時に使えなかったのか? 本当の危機を前にして、なぜ心が折れてしまったのか?


(自分はただ……ヒーローの真似をしているだけなのか? 本当に、なれるのか?)


道場の静けさを破るのは、龍の足が畳に打ちつける乾いた音、荒い息遣い、そして強化された標的に拳を打ち込む連打の音だけだった。一つ一つの動きに、内に秘めた怒りと焦りが込められていた。それはまるで、自分を蝕む不安を拳に乗せて吐き出しているようだった。


「休め、如月(きさらぎ)。過剰な鍛錬は、かえって逆効果だぞ」

水原(みずはら)先生が静かに言った。彼の目は、龍の動きを鋭く見つめていた。


彼らは水原先生の自宅で訓練をしていた。水曜日を稽古日と決め、定期的に会っていた。学院長も源三も、もう少しペースを落とすように勧めていたが、龍は止まろうとはしなかった。


「大丈夫です、先生。まだやれます」

そう言って龍はボトルの水を飲んだ。


「まあ、それでもいい。少し座れ。今日は話しておきたいことがある」

源三は自宅の軒先に腰を下ろしながら言った。

「そろそろ“制御技術”について教える時期だ」


龍は好奇心を込めた目で彼を見た。


「…流れの制御技術、ですか?」


「そう。瘴気を扱う戦いの基本だ。MSIが高くても、制御できなければ意味がない。力に制御がなければ、何も生み出せない」


源三は指を一本立て、要点を示した。


「“制御技術”にはいくつかの流派があるが、まずは自分の中の瘴気を“感じて”、それを“流す”ことから始まる。体内で自在に動かし、そして最終的には外へと放つ」


「どんな技が使えるようになるんですか?」


「流派による。身体強化を重視するもの、外部への干渉を得意とするもの、感覚を高めるもの、そして応用の効くもの。人によって向き不向きがある」


「先生の得意な流派は?」


源三は誇らしげに微笑んだ。


「俺のは“剛拳流”だ。単純な話、瘴気を圧倒的な出力で放出し、力でねじ伏せる。繊細さなんて不要。ただの暴力的なスタイルさ」


龍の目が輝いた。


「僕もそれ、習えるんですか?」


「ああ。まずは俺のスタイルを教える。だが、いずれは自分の“適性”を見つけることになる。」


「…はい!」

龍は拳を握りしめ、胸を高鳴らせた。


「まずは基本から始めよう。呼吸、集中、そして内部循環だ。大きな流れは、すべて内から始まる」

龍は真剣な表情でうなずいた。

(この訓練は、きっと俺にとっての転機になる――そんな予感があった)


源三は立ち上がり、手で合図して龍を呼んだ。

ふたりは中庭の中央へ向かって歩いた。そこには黒いシートが敷かれ、いくつかの滑らかな石が円形に並べられていた。


「では、まずは基本中の基本だ」

源三はそう言い、円の中央を指さした。

「目を閉じて、足を組んで座ってみろ。そこだ」


龍は言われた通りに座った。


「呼吸に意識を集中させろ。ゆっくり、深く……まだ何も制御しようとするな。ただ……感じるんだ」


源三も正面に膝をついて座った。その口調はいつになく静かで、まるで儀式のようだった。


「お前の中には流れがある。それが血に宿る瘴気だ。最初は気づきにくい。感覚と混ざり合っているが……注意深く意識すれば、必ず感じ取れる」


龍は深く息を吸い込んだ。先ほどまでの訓練の疲れがまだ体に残っていたが、徐々に力が抜けていった。

吸って……吐いて……また吸って……


――静寂。


(……これか)


腹の奥から温かな流れが感じられた。それは胸を通って、腕へと伸びていく。不快ではないが、確かな熱を持ち、心臓の鼓動に合わせて脈打っていた。


「……感じる……動いてる……」

目を閉じたまま、龍が小さくつぶやいた。


「よし。それが内なる流れだ。今感じているのは、静止状態の流れだ。これからは、それを導く訓練をしていく」


源三は、拳ほどの大きさの丸い石を龍の前に置いた。小さいが、重みのある石だった。


「目を開けて、手のひらを石に向けろ。触れるな。ただ、流れを石に向けて導くんだ。無理に押し出すな。腕を通して、お前の意志を静かに染み込ませるように……」


龍はゆっくりと目を開き、右手を石の前に差し出した。

指を軽く曲げ、手のひらだけを石に向けて集中する。


(……行け……俺の中の……流れ)


数秒間、何も起きなかった。だがその時――空気がわずかに揺れた。

まるで夏のアスファルトに立ち上る熱のような、波紋のようなゆらぎが、手と石の間に現れた。

石が、かすかに震えた。


「……できた……!」

思わず龍が声を上げた。


「まだ喜ぶのは早い」

源三が淡々と言った。

「これはまだ第一段階の基礎にすぎない。だが、確かに良い始まりだ」


龍は手を下ろし、軽く汗をかいていた。わずかな瞬間だったが、重いものを意志だけで押したような感覚があった。


「この訓練は、毎週水曜に繰り返すぞ」

源三が続けた。

「これは清潔道を修める者が最初に習得すべきことだ。感じる、導く、そして投影する。それができなければ、他の技など飾りにすぎん」


龍はまだ早鐘のように鳴る胸を押さえながら、深くうなずいた。

(今日……俺は確かに、一歩を踏み出せた)


タオルで汗をぬぐいながら、龍は地面に座り直し、源三の言葉に耳を傾けた。


「休まず訓練ばかりしていてはダメだぞ。体を休ませることも必要だって、いつも言ってるだろう」

「……はい、先生」

龍は少しうつむきながら答えた。


「そこまで頑固になるってことは、譲れない目標があるってことだろ?」

源三は真剣な眼差しで龍を見つめた。


「ちょっと恥ずかしいですけど……はい。どうしてもあきらめたくない目標があるんです。でも最近は、正直、ついていくのが少しつらくて……」


「それを聞いて嬉しいよ。この数ヶ月で、お前は本当に立派な規律を身につけた」


「……ありがとうございます、先生」


「目標を話したくないなら無理に聞かない。でも、これだけは覚えておけ。毎日、一歩でも前に進め。たった一日でも足を止めたら、心地よさか……忘却に囚われるかもしれないぞ」


(やっぱり……水原 源三(みずはら げんぞう) 先生の言葉には重みがある)


龍 は真剣な眼差しで聞き入っていた。彼の言葉に心を揺さぶられた。目指すべきものはあまりにも大きくて、見失ってはならない。止まっている暇などなかった。


「先生にも、大きな目標があったんですか?」


「あるさ。そして、それを叶えた。だが……手にした以上に多くを失った。夢はな、『全国に名を轟かせる最強の格闘家になること』だった。それは叶えた。五年連続で一位だったよ」


「ネットで少し調べました。すごい経歴ですね」


「ありがとうよ、坊主。あそこまで行けたのは、死ぬほど努力したからだ。でも、人生ってやつはな、助けてくれるよりも殴ってくる方が多かった。最後には引退するしかなかった。乃愛(のあ) がまだ小さくてな、家族のために全部捨てたんだ。大事にしてた仲間との縁も切れちまった……だが、失って得たものもある。まずは、何よりも愛してる娘だ。そして……お前と出会って気づいた。この新しい立場、『指導者』ってやつも悪くない。大好きなことを、こうして続けられるんだからな」


(水原先生……そんな過去があったんだ)


龍は、源三が語る過去を静かに見つめた。その顔には寂しさと穏やかさが共存していた。


「よく聞け、龍。目の前にあるものに集中しろ。頭の中は目標だけに向けろ。過去はもういい。変えられないことに力を注ぐな。そうすれば、お前は絶対に間違えない」


(……その通りだ。前に進むしかない)


過去に縛られている時間なんてない。日々はどんどん遠ざかっていく。


道場の入口から、乃愛が静かにふたりを見守っていた。その目は少し潤んでいて、父の誠実な想いに胸を打たれているようだった。


「龍くん、お茶でも淹れようか?」と優しく声をかける。


「乃愛先輩、そんな……気を遣わないでください」


「気なんか遣ってないってば、バカ!今、私が淹れるって言ったんだから素直に受けなさい。疲れてるんでしょ?少しは甘えなさいよ」


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


「お、おお……!乃愛!まるで旦那さんを労わる奥さんみたいな口ぶりじゃないか!なんということだ、我が娘が大人の階段を……父として耐えられん!」


源三は頭を抱えて大げさに嘆き、泣き真似をして見せた。


「パ、パパ!?ほんとバカ!!何言ってるのよ、やめてよっ!」


乃愛は真っ赤になって父の口を押さえ、慌ててその芝居を止めようとした。


龍はそのやり取りを呆気に取られた顔で見ていたが、ふと笑いを漏らした。


「心配しないでください、先生」龍はにこやかに言った。「僕が、乃愛先輩を守りますから」


「ほう……墓の下に埋められたいとはいい度胸だな、坊主」


「お、落ち着いてください、先生……冗談ですよ、冗談」


日が沈んだ頃、龍は道場を後にして帰路についた。体にはまだ訓練の疲れが残っていたが、心には暖かい何かが灯っていた。


(……これは、嬉しさなのか。それとも、大切な人たちの存在のおかげか)


「おかえり、問題児くん!」イリナがリビングから叫んだ。「どうだった?デートは楽しかった?」


「デートじゃないよ」龍はソファにバッグを放り投げた。「ただの訓練だってば。それに、俺のこと覗くのやめてくれよ」


「はーいはい。『訓練』ね。可愛い先輩とふたりきりの超スパルタ訓練……ってやつでしょ?あたしが昨日今日で生まれたと思ってんの?」


「違うな。千年前に生まれて、いまだに俺の邪魔してくるおばあちゃんだよ」


「このクソガキ、聞こえてるわよっ!」


浴室のドアが閉まる音が、一時的な勝利の合図だった。

熱いシャワーで全身の痛みが和らいだ後、(如月 龍)は髪を濡らしたまま、首にタオルをかけ、パジャマ姿で部屋に戻った。手には半分空になったいちごポッキーの箱を持っていた。


窓際まで歩き、少しだけ開けると、夜風が頬をなでた。

街の光が遠くに広がり、ネオン、浮かぶ広告、屋上を巡回するドローンの微かな羽音が響いていた。

唇でポッキーをくわえたまま、龍 はしばらく無言でその風景を眺めていた。


不意に、記憶の一陣が襲った。


「零司さんが待ってるよ。」


あの声。自分を誘拐した男のものだ。あの嘲るような口調。あの無意味に思えた脅し……いや、そう思いたかっただけだった。だが今、その名前が再び脳裏に響いた。


(零司……)


そうだ。思い出した。市場の近くで見かけた色あせたポスター。

黒いスーツの若者の顔。鋭い目と、何とも言えない笑み。

政府が発行した「指名手配」の紙に載っていたその男――星川 零司(ほしがわ れいじ)

報奨金の額が、その危険性を物語っていた。


零司(れいじ)……」と、龍 は口元にぶら下がるポッキー越しに呟いた。


何かが、影の中で動いている気がしてならなかった。

まるで全てがどこかで繋がっていて、

自分自身が、その見えない網の中心にいるかのように。


(くそっ……何なんだよ、これ全部……)


喉を鳴らしながら空を見上げる。

答えのない疑問ばかりが積もっていく。


だが一つだけ確かなことがあった。

この名前は、しばらく頭から離れそうにない――。


六月最初の木曜日――

それは、青山学院の校内大会予選が始まる日だった。


早朝から、校内中央体育館の空気は一変していた。

いつもなら体育の授業で使われるコートには、電子テープが張られ、戦闘用のリングが浮かび上がっていた。

天井に浮かぶドローンたちが白い光を放ちながら、試合の様子を録画していた。


壁に設置されたデジタルモニターには、リアルタイムで対戦カードが表示されていく。

参加者の名前、学年、所属ブロック、そして事前報告による大まかな戦闘レベルが記載されていた。


観客席は空席のままだった。

予選は一般非公開であり、関係者以外の立ち入りは禁止されていた。

だが、それでも館内には、打撃音、審判の声、走る足音が力強く響いていた。


龍 は、体育館の入り口近くで、メインスクリーンをじっと見つめていた。


手が自然と拳を作り、首筋には冷や汗が滲む。

鼓動が速まる。まるで既に試合が始まっているかのように。


やがて、緑色の文字がスクリーンを滑りながら次々と表示されていく。

一年生ブロックの新しい対戦カードが発表された。


Aブロック・第一試合:五十嵐 一馬(いがらし かずま) vs 野村 拓海(のむら たくみ)

Bブロック・第二試合:怜杜 怜奈(みつき れいと) vs 相馬 陽翔(そま はると)

Cブロック・第三試合:如月 龍(きさらぎ りゅう) vs 柴田 竹男(しばた たけお)


「……出た……」と、龍は小さく呟いた。


(やるしかない……)


対戦相手の名前を見た瞬間、龍 の目が止まった。


(柴田 竹男(しばた たけお))。


聞いたことがあった。

同じ一年生だが、C組の所属。話したことはなかったが、その名はすでに廊下で噂になっていた。

どうやら入学試験の時、彼はほとんど無傷でグループ全員を打ち負かしたらしい。

ある者は「完璧な技術を持っている」と言い、またある者は「彼の特殊能力――スピードは危険だ」と語っていた。


(最悪……よりによって、そいつかよ)


龍は唾を飲み込んだ。


(いや、大丈夫。ただの予選試合だ。まだ何も決まってない)


深く息を吸い、数秒だけ目を閉じる。そして再びスクリーンを見る。間違いなかった。

柴田 竹男。一年生。


「龍ーっ! おーい、龍ーっ!」

元気な声が廊下の奥から響いた。


その声は間違いようがなかった。あのエネルギーは、あいつしかいない。


(……まったく、どこまで目立つんだか)


英夫の姿が、遠くから駆け寄ってくる。まるで遠足に来た子供のように両腕を振り回しながら。


「お前も戦うのか?」

「当然だろ、龍! 俺はそのためにここに来たんだからなっ!」

と、誇張したポーズを決めながら叫んだ。

「俺の夢は、日本の次世代格闘王になることだ! ナンバーワンになるって決めてるんだ!」


「……それが夢? へえ、意外だな」


「なんだよ、どう思ってたんだ?」


「てっきり、お前はエンジニアとかプログラマー志望の優等生タイプかと」


「全然違うっ!」

英夫はアニメの悪役のようにわざとらしく笑いながら叫んだ。

突然タブレットを取り出し、それを高く掲げる。


「見ろっ! 成績は下降の一途だ!」


龍 は画面を覗き込む。科目の半分は見るに堪えないほどの低成績だった。


「そんなの誇るなよ、バカ」


「だって、最近はずっと訓練に集中してたんだ! 弱点を克服するためにさ……まあ、そんなに多くはないけどな!」


「ハイハイ、また口が止まらないな」


「すまん、つい話しすぎるんだよな……」

そう言って英夫は頭をかきながら、照れ笑いを浮かべた。


「なあ、龍。お前の初戦、何時からだ?」


「あと十分後。なんで?」


「俺のは三十分後だからさ。お前の試合が早く終わったら、俺の圧倒的勝利を見に来てくれよ」


「早く終わって、しかも無事だったらな。もしかしたら行けるかも」


「如月龍、英雄として名を馳せる男が、まさか負けるわけがない!

一年生で最高のMSI保持者の試合なんて、二分もかからないって!」


「……お前がそう思うならな」


「絶対だからなっ!」


(相手はスピードに優れるが、打たれ弱い。タイミングさえ見極めれば勝てる)

――水原先生の言葉が、ふと脳裏に蘇る。


龍 は、血流を腕に集中させる訓練を積んできたことで、打撃の威力が大きく向上していた。

脚への応用はまだ難しかったが、それでも遅いわけではない。


(今までの訓練……成果を出す時だ)


自分の強み――打撃の強さと敏捷性に集中すると、彼は心に決めた。


両者はリングに上がり、正式な礼を交わすと、それぞれのコーナーへ戻っていった。


龍 は、戦闘初心者らしく、体の中を緊張が駆け巡っていた。彼の戦闘用ユニフォームはシンプルで、白の半袖Tシャツに青山学園のロゴが胸に入り、黒いショーツ、肘と膝のプロテクター、そして指の空いたグローブを着けていた。

一方、対戦相手の竹男(たけお)は同じデザインの反転カラー――黒いTシャツに白いショーツ――を着ていた。見分けをつけるためのシンプルながら必要な違いだった。


(有名な学園大会にしては、ずいぶん地味な格好だな…)と、龍は意図的に頭をそらそうとした。


「試合は三ラウンド構成です」

審判がタブレットを手にしながらはっきりとした声で告げた。

「勝敗は三本勝負で決まります。また、戦闘不能、降参、または場外で敗北とします。よろしいですか?」

「はい」

二人は目を逸らさずに返事をした。


龍の表情が引き締まる。目の前の相手をまっすぐに見据え、必要であれば打ち砕く覚悟を決めていた。

一方、竹男の立ち姿はどこか緩く、やる気のなさそうな雰囲気さえ漂わせていた。見た目からは秀才にもアスリートにも見えなかったが、その瞳には不思議な静けさがあった。まるで、すでに結果を知っているかのような――。


(警戒しろ。きっと俺より経験がある…)


自分のコーナーに戻った龍は、自分の脚がわずかに震えているのに気づいた。それをなんとかごまかしながら、内心では今にも集中力が崩れそうなほどの重圧を感じていた。

これが彼にとって初の公式戦だった。緊張するのは当然だった。

だが、それは失敗を許す理由にはならない。


「準備はいいですか?」

審判の声に、二人はうなずいた。


「始め!」


竹男はすぐさま前に出た。目にも止まらぬ速さで、彼の得意技が素早い動きであることを明白に示した。

龍は 源三 先生の助言に従い、その場から動かず冷静に相手の動きを観察した。


竹男の低い蹴りが龍の脚を狙い、一気に倒そうとしてきた。だが龍は反応し、すぐに後方へ跳び避けた。ぎりぎりの回避だった。

竹男は次の瞬間には体勢を立て直し、鋭いアッパーカットを龍の顎に打ち込んできた。龍は数歩後退し、片膝をついた。


「立て!そんなもんで諦めるな!戦え!」

畳の外から、力強い声が響いた。


それは、水原先生の声だった。観客席にいることすら知らなかった龍は、瞬間的に体の中を電気のような衝撃が走るのを感じた。

(先生に、見られてる…今は、絶対に負けられない)


竹男は攻撃の手を緩めなかった。龍の胴体を狙い、猛烈な速度で連打を放った。龍は両腕でなんとか防ぎ、その猛攻に耐えた。


(すげえ速さだ…!)

全神経を集中させ、なんとか動きを読み取ろうとした。


しかし、打撃のひとつひとつに目が慣れていく。最初はただの残像だった竹男の攻撃が、次第に明確な動作として見えてくる。

反応速度が研ぎ澄まされていった。


(あと少し…あと、ほんの一瞬の隙があれば…)


その時、竹男が低く速い動きで左脚を払った。龍はバランスを崩し、一瞬の隙を作ってしまう。

そこを逃さず、竹男は龍の肋骨に正確な一撃を叩き込んだ。龍は再び後退する。


だが今回は違った。龍は即座に反応し、強烈な突きで竹男を畳の隅へと吹き飛ばした。


「速いな」

息を荒げながら龍が認める。


「ありがとう、それが俺の武器さ」

竹男は敵意よりも友情をにじませた笑みを浮かべて答えた。


一瞬のやり取りだったが、両者ともに警戒を解かなかった。


竹男が再び踏み込み、勢いよく突進してきた。


「ここで決める!」


だが、龍はもう見切っていた。


竹男が間合いに入ったその瞬間、龍は体をひねって回転しながら相手の右腕を掴み、その勢いを利用して腹部へ渾身の一撃を叩き込んだ。


その拳は鋭く、正確に、そして破壊的な力で相手の体を貫いた。

竹男の体が自然と前屈みに折れ曲がった――。


竹男 は立ち上がろうとしたが、足元がふらつき、息を整える暇もなかった。龍 はその隙を逃さず、決意の叫びと共にもう一撃、顔面へと渾身の拳を叩き込んだ。それは彼が訓練で磨き上げた集中の一撃。腕に集中した血流が、年齢を超えた異常な力を生み出していた。


柴田の身体はバイクに轢かれたかのように吹き飛ばされ、プラットフォームの外へと転がり落ちた。息ができず、立ち上がる力も残っていなかった。


審判がすぐに手を挙げた。


「勝者、如月 龍!」


戦いは終わった。第一ラウンド、場外負けによる勝利。


「早かったな……いや、早すぎたと言うべきか」

源三 は腕を組み、微笑を浮かべた。


「ありがとうございます、先生。来てくれてるとは思いませんでした」

龍はまだ息を荒くしながらも、感謝を口にした。


「俺の初めての弟子のデビュー戦を見逃すわけにはいかんだろう」


龍は深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます、水原先生」


「最初は少し戸惑っていたが、よく適応したな。相手のスピードを読み、リズムを掴んだ。分析力の高さは今後、武器になるだろう。……だが、これから先は、これほど甘くはないぞ」


龍は静かにうなずき、試合の余韻を噛み締めつつも、少し顔を曇らせた。


「柴田、大丈夫かな……最後の一撃、ちょっとやりすぎたかもしれません」


源三は穏やかに首を横に振った。


「心配するな。ポーターユーザーの身体は戦闘に適応している。回復力は一般人の比じゃない」


「それに――」源三は軽く笑みを浮かべた。「あのグローブは抑制技術が使われている。致命的な怪我や切り傷を防ぐ設計になってるんだ」


龍は目を見開いた。


「だからあんなに柔らかい感触だったんですね……すごい技術だ」


そして改めて決意を込め、再び頭を下げた。


「先生。どうか……もっと強くなるために、これからもご指導お願いします!」


「龍、お前はもう十分礼儀正しい。そんなに下を向くな」


「す、すみません」

龍は照れくさそうに笑った。


「龍くん、すっごくかっこよかったよ!」


その時、温かくて聞き慣れた声が軽やかに近づいてきた。 乃愛だった。人混みの中でも彼女の存在はひときわ目立っていた。まるで磁石のように周囲の視線を引き寄せていた。


彼女も龍と同じく、白黒の規定ユニフォームを身に着けていたが、すべてが完璧に見えた。動きの一つ一つに、自然な気品が漂っていた。


(なんて明るい子なんだ……)

龍はそのエネルギーに少しだけ元気づけられ、そっと微笑み返した。


「とっても早い試合だったね、龍くん、そう思わない?」


「うん……そうかも。先輩、もう戦ったんですか?」


「うん、もちろん!」


「結果は聞くまでもないですよね?」


乃愛は可愛らしく笑った。


「そんなに僕を信じてくれるの、うれしいよ……でも、運よく半ラウンドで終わらせられたんだ。」


「だと思ったよ。」


龍は、水原 乃愛(みずはら のあ)の強さをよく知っていた。彼女とほぼ毎日一緒にトレーニングしてきたことは、自分が思っていた以上のことを教えてくれた。彼女の才能は疑う余地がなかった。


「如月!」


近くから声がかかり、二人は振り返った。そこには 竹男がしっかりした足取りで近づいてくるのが見えた。彼は二人の前で深く頭を下げた。


「いい試合だった。あまり抵抗できなかったけど、有名な新人と戦えて嬉しかったよ。おめでとう。」


龍も真剣に頭を下げて答えた。


「ありがとうございます、柴田さん。とても強い相手でした。次の試合、応援してます!」


竹男は親しげに笑った。


「どうぞ、『竹男』と呼んでくれ。」


「わかりました……よろしくお願いします、竹男さん。」


遠くから、源三と 乃愛がその光景を見守っていた。二人とも、龍の中に起きている大きな変化を感じ取っていた。


かつては練習中も声をほとんど発さず、内気で孤独だった少年。その龍が今、堂々と立ち、自身の力だけでなく、謙虚さと敬意、そして確かな自信を示していた。


(確かに……何かが目覚めようとしている)


「龍のデビュー戦を祝って、みんなで食事に行くのはどうだ?」と水原先生が提案した。


「いいですね!龍くんも一緒に行こうよ!」


「そうだな……うん。」


「決まりだね!」


「すみません、先に英夫を応援するって約束してたんで、ちょっと様子を見に行きます。」


龍が勝利への第一歩を踏み出すその時、彼の動きを闇の中から監視する視線があった。


明かりのちらつく薄暗い廊下。その静寂を破るように、正確なリズムで足音が響く。黒いスーツに身を包み、赤い模様の仮面で顔を隠した男が、ゆっくりと進んでいた。彼の後ろには、二人のフードをかぶった人物が無言で付き従っていた。


男はある金属扉の前で立ち止まり、そこに設置された生体認証パネルを見つめた。


「アクセス許可」電子音声が告げ、男の虹彩をスキャンした後、扉が機械的な音を立てて開いた。


中には広く暗い部屋があり、数枚のモニターがトーナメントの様子をリアルタイムで映していた。


その中の一つには、 龍が戦っている姿が映っていた。


「これが……あの末裔か……」仮面の男は背中で指を組みながら、低く呟いた。


フードの一人が一歩前に出る。


「拉致しましょうか?」


「まだだ。先日の件で十分に苦しんだはずだし、今は護衛もついているだろう。今は…どこまで行けるかを見たい。完全に覚醒する前に。血脈の本質を知る前に、途切れさせるわけにはいかん。」


一呼吸置いてから、男は再びモニターを見つめた。


「……それに、その身体……使えるかもしれんな。」


別のモニターに、白衣を着た科学者の顔が映し出された。


「報告を。刻印に反応は?」


「直接的な反応はありません。しかし、最後の一撃の直後にMSIがわずかに上昇しました。この年齢では考えにくい数値です。おそらく、ストレスによる変動か……あるいは、もっと古い本能によるものかと。」


仮面の男は静かに頷いた。


「上出来だ。監視を続けろ。手出しは無用。まだだ。」


彼はすぐそばにある展示ケースに目を向けた。その中には、防弾ガラスで厳重に封印された古代の遺物が納められていた。


それは、妖しい黒光りを放つ魔の文様が刻まれた短剣だった。おぞましい気配が、薄く周囲に漂っていた。


「もうすぐだ……魔が、人の世を再び歩む時が来る。」


東京の最も暗い場所で、闇がその糸を紡ぎ続けている中、体育館の強い光の下では、トーナメントが粛々と進行していた。


龍の友人である英夫の試合がすでに始まっていた――だが、状況は芳しくなかった。


龍が会場に着いた時、そこに広がっていたのは、あまりにも厳しい現実だった。


英夫は、二年生の先輩に圧倒されていた。膝をつき、地面にうずくまりながら、すでに力を失いつつある体を必死に支えていた。


「頑張れ、英夫!立ち上がれ!諦めるな!」龍がラインの外から叫んだ。


その声を聞いた英夫は、わずかに笑った。その微かな笑みが、彼に最後の力を与えた。


渾身の力で拳を振り上げようとしたが、その膝は誇りよりも重かった。


そして――彼は、静かに畳の上に倒れた。


「勝者、衛藤 守!」

審判の力強い声が場内に響いた。


龍は沈黙のまま友人を見つめていた。悔しさで唇を引き結びながら、彼が形式的なお辞儀をしようともがいているのを見ていた。それは、今の彼が一番やりたくないことだっただろう。


「おい、ヒデ…」

慰めるつもりで近づいた龍が口を開いたその時、


英夫は手を挙げて制し、晴れやかな笑みを見せた。


「一歩ずつだよ、相棒。これは目標への一つのステップにすぎない。今回負けたって…次は必ず勝つ。」


龍は何も言わなかった。ただ、その強靭な精神力に胸を打たれていた。日々努力し、己を鍛え続ける友の姿を、彼はずっと見てきた。ただの格闘家ではない、人間としても成長しようとする姿勢に、深く感動していた。


彼らの友情は確かな絆で結ばれていた。


「如月くん!」

突然の女性の声が龍を思考から引き戻した。


愛莉(あいり)さん、おはようございます。」


「勝ったんでしょ?」


「ええ、なんとか…」


「すごいよ! 負けるわけないって思ってたもん! 本当に強いね!」

愛莉は目を輝かせ、両手で龍の手を握りしめた。


「ありがとう…その勢い、すごいね。」


「他の試合も一緒に見ようよ、ね?」


龍は少し迷った。英夫の敗戦後、そばにいるべきではないかと感じていた。しかし彼を探して振り返ると、英夫はにこやかに親指を立てて応えていた。


(もう何か勘違いしてるな…)

龍は少し顔を赤らめた。


「わかりました、愛莉さん。一緒に行きましょう。」


数メートル離れたところ、人混みの中から 乃愛が静かにその様子を見つめていた。


愛莉が龍の手を取った瞬間、その喜びよう、そして龍が少し照れたように笑う姿…どれも彼女の視線をとらえて離さなかった。


乃愛は一瞬唇を噛み、すぐに視線をそらした。まるで、何も気にしていないと自分に言い聞かせるかのように。


だが、胸の奥に小さな刺のような痛みが走った。


(バカみたい)

自分でもその感情が理解できなかった。龍はただの後輩だったはず。…だったはず、なのに。


乃愛は拳を軽く握りしめ、再び試合場へと目を向けた。


「ちょっとトイレに行ってくる。すぐ戻るよ。」


「うん、待ってるね。」

愛莉は手を振りながら優しく答えた。


トーナメントの喧騒から離れた廊下は静かだった。

洗面所に入った龍は洗面台に手をつき、冷たい水を手に取り、それを顔に当てた。目を閉じて、深く息を吐く。


(長い一日だな…)

だが、疲労は肉体だけのものではなかった。耳の奥に微かな振動音が響いていた。まるで、肌の下で何かが共鳴しているような感覚。


鏡を見ると、自分の顔は青白く見えた。


ふと、包帯で覆った手首に視線を落とす。

一瞬躊躇したが、ゆっくりと包帯をほどいていった。


布が落ちた瞬間、龍の動きが止まった。


そこにあるはずの奇妙な形をした母斑は、もう「ただのアザ」ではなかった。


炎で刻まれたような鮮明な文様。

漆黒に近い紫色の太陽のような部族模様が、彼の肌を焼き付けていた。


「…なんだ、これ…」

かすれた声が漏れる。


耳鳴りが強くなった。呼吸が乱れる。

理解が追いつかない。これは能力の一部か? 試合後の反応か? それとも、訓練による影響なのか?


身震いがした。後ろに一歩下がると、背中が壁にぶつかった。


体のすべてが「これは普通じゃない」と訴えていた。


その時、携帯が震えた。


画面を見ると、そこには

陽葵(ひまり)の母さん」

の文字が表示されていた。


すぐに応答する。


夏美(なつみ)さんですか?」


「りゅ、龍くん…ごめんなさい、急に。陽葵が…また倒れて…」


龍の心臓が一瞬止まった。


「……え?」


「さっき病院に戻ったばかりなの。意識がなくて…先生たちは、状態が危ないって…」


最後まで聞かずに通話を切った。


携帯をポケットに押し込み、龍は駆け出した。

廊下を風のように突っ走り、光、観客のざわめき、仲間たちさえも置き去りにして。


控室にも立ち寄らなかった。


ただ、走った。


手首の印が灼けるように熱かった。


空が、ゆっくりと暗くなり始めていた。



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