10. 最初の襲撃
午後六時ちょうど、如月 龍は学校を出たままの姿で、リュックを背負ったまま病院に到着した。待合室には、奥村 陽葵の母親が座っており、手には着替えの入った袋と数枚の書類を持っていた。
「如月くん、来てくれてありがとう。陽葵がきっと喜ぶわ」
優しく言ったその声には温かさがあったが、その目の下には、眠っても消えないようなクマが浮かんでいた。
「いえ、大丈夫です、奥村さん。よくなられてよかったです」
「ええ…でも、これからも気をつけないとね」
奥村さんはほほえみながらも、どこかにかすかな疲れを滲ませていた。
エレベーターが「ピン」と静かな音を立てて扉を開き、中から奥村 陽葵が現れた。自分で車椅子をゆっくり押している。薄桃色のセーターにコットンパンツという楽な服装で、髪は低めのポニーテールにまとめられていた。顔は少しほっそりしていたが、その瞳は以前と変わらず輝いていた。
「龍…」
「陽葵!」
龍は彼女のもとへ駆け寄ったが、無茶にならないよう直前でしっかりと止まった。陽葵は手を差し出し、龍はそれをそっと握った。
「見て、時間ぴったりに来てくれたなんて」
「今日は頑張ったんだ、ほら、俺も変わりつつあるんだよ」
「やっとね」
陽葵は笑ったが、その笑みにどこか不自然なものが混じっていた。すぐに小さな咳を一つこぼし、もう片方の手で口元を覆った。母親はその様子を横目で見て、緊張した面持ちになった。
龍はその違和感に気づいたが、あえて口には出さず、見なかったふりをした。
「リュック、持とうか?」
「大丈夫よ、紳士さん。でもありがとう」
病院の廊下を出口に向かって並んで歩く二人。龍は車椅子の横を歩きながら、白い病室の外に出られた陽葵を見て、心から嬉しさを感じていた。しかし、その奥で小さな不安がくすぶっていた。
(今度こそ、少しでも長く病院の外にいられますように…)
生徒会棟の火災で陽葵の身体は目に見えない傷を負った。三週間にわたる集中治療の末に一命を取り留めたものの、長時間の煙の吸入によって肺は深刻なダメージを受けた。そのうちの片方は部分的に機能が失われ、呼吸は常に困難を伴うものとなった。さらに、酸素不足と高熱により心臓も弱り、血液を効率よく送り出す力を失っていた。血流の悪化は、陽葵に時折ふらつきや疲労、歩いた後に唇が紫色に変色するなどの症状をもたらした。
この二年間、陽葵は幾度も再入院を余儀なくされた。些細な風邪でさえ深刻な症状を引き起こし、わずかな日差しの中での散歩ですら、救急外来に駆け込むこともあった。それでも彼女はこうして笑っていた。前髪が風に揺れるその姿は、まるでこの先にある希望を信じているかのようだった。
道のりは、龍が思っていたよりも短かった。奥村さんが前を歩き、龍と陽葵はその後を並んでついていった。
「病院のすぐ近くに住んでたのか?」
龍が少し驚いた声を出す。
「うん、最近引っ越してきたの」
陽葵はやわらかい微笑みを浮かべて答えた。
「ママがね、もしものときすぐ来られるようにって。それに、職場にも近いんだって」
「それは便利だな…」
龍は周囲の静かな通りを見回しながら言った。
角を曲がると、半ばほどの位置に二階建ての控えめな建物が見えた。入口の横には手書きの名字が並んだ木のプレートがあり、その中に「奥村」の文字があった。
脇のスロープを上っていくと、奥村さんが先に玄関を開けてくれた。陽葵は中へと入ると同時に、小さく息を吐いた。それはまるで、ここ数日の重みを一気に解き放つかのようだった。
「おかえりなさい」
「如月くん、どうぞ上がって?」
「よろしいんですか? ご迷惑じゃなければ…」
「全然。きっと陽葵も、少し話したいと思ってるわ」
龍は遠慮がちに小さなアパートの中に足を踏み入れた。部屋はこぢんまりとしていたが、居心地のよい雰囲気があった。シンプルなソファに、二脚の椅子が置かれたテーブル、そして窓際に並ぶいくつかの観葉植物。飾り立てられたところはなかったが、どこも清潔で整っていた。
彼は陽葵がソファに座るのを手伝い、その間に母親が緑茶を小さな湯飲みに注いだ。
「少し、いてくれる?」
陽葵が静かに尋ねた。
「もちろん。今は特に予定もないし」
陽葵は小さく笑った。
「変わらないね、本当に」
しばらく、ふたりの間に沈黙が流れた。湯飲みからは湯気が立ち上り、窓の外からは夕焼けの橙色の光が差し込んでいた。外の喧騒が嘘のように、ここでは時間がゆっくりと流れていた。
「たまに、美山が恋しくなるの」
陽葵は少し小さな声で言った。
「静かすぎる場所だったけど…」
「うん。でも、毎晩星が見えたよな」
「あと、虫が飛び回っててさ。うわぁ〜あれは本当に嫌だった!」
「向かいの家のおじいちゃんもいたな。毎朝怒鳴ってた」
「そうそう! 『またこのポンコツ郵便屋め!』って!」
陽葵は低い声を真似して、そして笑い出した。
「小さいころ、あのおじいちゃん、ちょっと怖かったな」
ふたりで笑い合ったあと、陽葵は湯飲みを見つめた。
「この街に、慣れられると思う?」
「慣れるさ。良い街だし」
「んー…でも、なんか全部速すぎてさ。人も、音も…」
龍は肩をすくめて笑った。
「でももう病院は出たんだし、新しい学校も探さないと」
陽葵はほっぺをぷくっと膨らませてから、くすっと笑った。
「そっか…でも今のあんたは、大会とか、新しい友達とか、可愛い子たちとかで忙しいんじゃない? 私なんて忘れちゃいそう」
「えっ? そんなわけないだろ」
「忘れたら文句言うからね! 家まで押しかけて、ドア蹴っ飛ばしてやるんだから!」
「それって…脅しか?」
「約束だよ!」
またふたりは笑った。そして、陽葵はあくびをして目をこすった。
「ちょっと、寝ようかな…でもその前に…」
彼女は龍のほうに体を傾け、指をぴっと向けた。
「絶対、また来てね。いい?」
「わかったよ。でも、甘いものとか高いものは期待しないでね」
「来てくれるだけで、十分だよ」
陽葵はやさしく微笑んだ。
「じゃあ…また近いうちに」
陽葵はくすっと笑った。
龍は手をひらひらと振って別れの挨拶をした。廊下に出ると、陽葵の母親がドアまで彼を見送ってくれた。
「来てくれてありがとう。君がいると、陽葵はずっと元気そうだよ」
「こちらこそ、お邪魔させていただきありがとうございます」
歩道から、龍は窓を見上げた。陽葵がそこにいて、明るい笑顔で手を振っていた。
彼も手を振り返した。
病院を出た龍は、少しだけ気が楽になったものの、まだ頭の中はぐるぐると回っていた。近くの公園に立ち寄り、木製のベンチに腰を下ろす。肩が少し落ちていた。夕方の穏やかな風が木々を揺らし、遠くから街のざわめきを運んできたが、彼の心は別の場所にあった。
(陽葵のことを考えていた)
初めて彼女を見た日のことを思い出す。まだ二人とも幼くて、龍は7歳、陽葵は5歳だった。陽葵は家の前の階段にぽつんと座っていた。同じ通りに住んでいた彼には、その姿が印象的だった。彼女は手に本を持っていて、それをじっと見ていたけれど、小さな指はページをめくることもなかった。龍は何も考えず、ただ好奇心で近づいた。
「何してるの?」と彼は尋ねた。
陽葵は少し驚いたように顔を上げ、本を膝の上に隠すように置いた。
「読んでるの」と答えたが、その頼りない声は本当かどうかを疑わせた。
龍は無邪気に首をかしげた。
「どんな話?」
陽葵は数回瞬きをして、緊張した様子だった。まだちゃんと読めなかったので、とっさに空想の話を作った。空を旅する魔法の動物たちの物語だという。
龍はすぐに嘘だと気づいたが、笑ったりはしなかった。代わりに、彼女の隣に座り、にっこりと微笑んだ。
「読んであげようか?」
陽葵は驚いたように見つめた後、静かにうなずき、本を差し出した。龍はゆっくりとした、はっきりした声で読み始めた。陽葵はその声を魔法のように聞いていた。目は輝き、口元にはほんのりとした笑みが浮かんでいた。それが始まりだった。
その日から、二人はいつも一緒だった。通りで遊び、公園の木の下で絵本を読み、まるで世界に二人しかいないかのように秘密を共有していた。友情は自然と育ち、約束も条件もなく、子供の純粋さだけが築き上げたものだった。
今、何年も経った今でも、龍の目には彼女は変わらず映っていた。壊れやすい少女ではなく、多くのことに耐えて、それでも笑っている彼女だった。
(彼女のためにも、全力を尽くさなきゃ)
そう思いながら、龍は新京の夕日を背に歩き出した。
ベンチには長く座らなかった。灰色の空が、やがて降る雨を予感させていた。彼は立ち上がり、足早に歩き出した。
あまり進まないうちに、前方を歩くひとつの姿が目に入った。どこか見覚えのあるシルエットの少女。
(愛莉?あんな場所に、生徒会長が何を…?)
この辺りは学校の区域内でもあるため、偶然誰かに会うのは珍しくなかった。しかし、愛莉の歩き方には何か違和感があった。早足で、まるで何かから逃げているようだった。龍は眉をひそめ、本能的にただならぬ気配を感じた。
彼は彼女をこっそり追いかけることにした。
愛莉は脇道に入り、さらに狭い路地へと進んでいった。ちょうどその時、白い車がゆっくりと通りを走り抜けた。龍はかろうじてその車に気づいたが、スモークのかかった窓のせいで運転手の姿は見えなかった。
胸が高鳴った。愛莉のような子が一人でこんなところにいるのは、どう考えても不自然だったし、その様子も普通ではなかった。
愛莉はさらに暗い通路の奥へと進んでいく。そして、ふと足を止めた。誰かの声が聞こえてきたのだ。
「おい、沢田、例のブツは手に入ったか?」
「そうだよ。苦労したけど、あの頑固なジジイから奪ってきた。二発も撃つ羽目になったんだ。」
「殺すなって言っただろ!」と、ひとりが叫んだ。
「どうしろっていうんだよ?!あのジジイ、どうしても渡さなかったんだぞ。さっさと箱を開けろよ、ブツを見たい。」
「よし……これは今風だな。前に使ってたのより短いじゃねえか……」
壁の裏に隠れていた愛莉は、息をひそめていた。男たちは三人。全員武器を持っていた。一人がバッグの中の短銃を物色していた。彼女はゆっくりと後ずさりした……が、足元の缶を踏んでしまった。
カランッ!
「……しっ、今の音聞こえたか?」
「聞こえた。誰かいるぞ。」
愛莉の体が凍りついた。恐怖が腹から喉元まで這い上がってくる。逃げようとしたが、体は動かなかった。
「この新しいオモチャ、どれくらい当たるかな……」
男のひとりが銃を構えて角を曲がった……だが、そこには誰もいなかった。ゴミ袋の上に立っている一匹の猫だけだった。
「チッ……ただの汚ねえ猫かよ。もう行くぞ。この雨、クソみてえだ。」
男たちが立ち去る中、龍は愛莉の口を手で押さえ、物音を立てさせないようにしながら壁に押しつけていた。彼女は震えていたが、彼に助けられたことを理解していた。
龍は無言のまま、通りの向こうに消えていく男の腕を見た。そこに刻まれていたのは、見覚えのある刺青だった。
それは、あの本に載っていた印。黒炎の教団の紋章。
黒き炎の太陽。
(あの形……俺の母斑と同じだ)
背筋に冷たいものが走った。
それが何を意味するのかは分からない。ただ、偶然ではないと本能が告げていた。
危険が去ったことを確認し、龍はようやく手を離した。二人とも、安堵の息をついた。
「大丈夫か?」と、彼は囁いた。
「う、うん……」
「行こう。こんなところに一人じゃ危ない。」
しばらくの間、無言で歩いた。雨は止んでいたが、空気はまだ湿っていて冷たかった。
「どうして、あんな場所にいたんだ?」
「ただ……ちょっと考えたくて。たいしたことじゃないよ」愛莉は目を逸らしながら答えた。
龍は横目で彼女を見た。まだ緊張していて、寒さのせいか自分の体を抱くようにしていた。何も言わず、自分のジャケットを脱いで差し出した。
「これ、着ろよ。」
「えっ?でも、龍は……?」
「大丈夫。ほんとに。」
愛莉は少し戸惑ったが、やがて受け取った。
「ありがとう……」
沈黙の中、数秒が過ぎた。やがて龍がぽつりとつぶやいた。
「なぁ……もしかしたら、化学の手伝い、頼むかも……」
「今、なんて言ったの?」
「試験の手伝い、頼むって言ってるんだよ」
龍は少し大きな声で繰り返した。
愛莉は震える声のまま、微笑んだ。
「一つだけ条件があるの。」
「何だ?」
「もう“委員長”って呼ぶのやめて。『愛莉』って呼んで。」
「愛莉さん……?」
「“さん”はいらない。愛莉でいいよ」
彼女は小さくそう言い、微笑んだ。
角に差しかかったところで、愛莉が立ち止まった。
「私の家、あれだよ」
そう言って指さした先には――
龍は言葉を失った。
そこには庭付き、装飾ライトに噴水まである大きな屋敷が建っていた。
「……まるでホテルみたいだな。」
「驚いた?」
「ちょっとな。」
「びしょ濡れじゃん。そのまま帰るのはダメ。」
「平気だって、ほんとに。」
「ダメ。私と一緒に入って。風邪ひかれたら私のせいだもん」
そう言って、彼女は龍の手をしっかりと握った。
龍は断ろうとしたが、彼女に強引に玄関へと引っ張られた。
しばらくして、一人の女性がドアを開けた。
「愛莉ちゃん!びしょ濡れじゃない!この男の子は?」
「カミラさん、この人は学校のクラスメイト。変なこと言わないでよ!」
「ふーん……ま、入りなさい。タオル持ってくるわ。」
龍が玄関を一歩入った瞬間、そこはもう別世界だった。
家の中は広くて豪華で、目を見張るものばかりだった。
(ここ、ほぼ学校と同じくらい広いじゃん……)
龍は玄関ホールから周囲を見渡しながら、ただただ驚いていた。
しばらくして、愛莉がタオルを持って階段を降りてきた。
顔はまるで信号の赤のように真っ赤だった。
「なんでそんなに赤いんだ?風邪でもひいた?」
「そ、そう……かも。寒いから……」
彼女は目を逸らしながら、慌てて答えた。
「じゃあ、なんで俺の顔見ないんだよ?」
「な、なんでもないよ!」
(カミラさんのバカ……!)
愛莉は数分前のことを思い出していた。タオルを探していた時、使用人にこう言われたの愛理だ。
「愛莉ちゃん、正直に言いなさい。もうキスしたの?」
「してないよ!バカなこと言わないで!ただのクラスメイトだってば!」
「ふ〜ん、それは信じられないなぁ。私はここに全部、あなたの秘密をしまってるのよ?」
「信じてよ、本当なんだから!」
愛莉は顔を真っ赤にしながら、ぷいっと顔を背けて言った。
「逃しちゃだめよ、愛莉ちゃん。イケメンで優しくて……そういう男の子、なかなかいないわよ?」
カミラは両肩に手を置きながら、まるで人生の使命かのように語った。
「もうっ、くだらないこと言ってないで!タオルちょうだい!」
愛莉が怒りながら立ち去るのを、カミラはくすくす笑いながら見送った。
でも彼女には分かっていた。まだ“恋”とは呼べないかもしれないけれど――
愛莉の中で、あのちょっと不器用な男の子への特別な想いが、確かに芽生え始めていた。
「すぐにパパのシャツを持ってくるね」 龍の前で、彼女は現実に戻ったように言った。
「いや、大丈夫だよ。シャツを絞るだけでいいから、バスルームを借りてもいい?」龍は少し恥ずかしそうに答えた。これ以上、迷惑をかけたくなかった。
その時、横のドアが開き、低く響く声が静けさを破った。
「愛莉、どこにいたんだ?少し心配したぞ。」
現れたのは、背の高い男だった。整えられたオールバックの髪に、洗練された佇まい。圧倒されるような存在感を放っていた。
「パパ、その話はあとで。」
「そうか。待とう。…その子は?」
「如月 龍。よろしくお願いします。」龍は丁寧にお辞儀をしながら名乗った。続けて右手を差し出す。
男の視線が彼の手首に向けられた。一瞬、その目が龍のあざに強く留まった。表情が、わずかに変わる。無表情から、どこか驚きと認識が混ざったような表情へと。
しかし、何も言わず、静かに手を取った。
「初めまして。…ずぶ濡れじゃないか。」男は柔らかく笑いながら言った。「カミラ、乾いた服を用意してくれ。」
「いえ、本当に大丈夫です、そんなお気遣いは…」
「遠慮するな。」
「私は長峰 誠。ファーマシー・サンテックの代表をしている。もし君が風邪でも引いたら、会社の面目に関わるよ」そう冗談めかして微笑んだ。
愛莉の父、 誠の話し方はどこか冷たく、威圧感があったが、それと同時に強い威厳も感じさせた。視線は龍の全身を隅々まで観察しているようだった。
(この人、完全に俺のことを値踏みしてるな…)と龍は思い、落ち着かない気持ちで立っていた。
やがて、乾いた服を渡され、龍はそれに着替えた。濡れた服は吊るして乾かしておくことに。洗面所の鏡の前で、自分の姿をしばらく見つめる。フォーマルな服装に身を包んだ姿は、まるで他人のようだった。
(…なんか、すごく真面目すぎる…)と、シャツの襟を整えながら思った。
部屋を出ると、長峰がすでに別の落ち着いた応接室で待っていた。テーブルには淹れたばかりの急須から、湯気がふわりと立ち上っていた。
「如月さん、お茶を用意してもらったよ」彼は声を張ることなく言った。
「お気遣い、ありがとうございます」龍は再び軽く頭を下げた。
「構わないよ。…少し、君のことを聞かせてくれ。」
「僕のことですか? ええと…美山出身で、今は妹と一緒に新京に住んでいます。」
「ご両親は?」
龍は一瞬、視線を伏せた。その声も少し沈んだ。
「両親は…僕が生まれて間もなく亡くなったと、祖父が言ってました。」
短い沈黙が流れた。誠は無言でじっと龍を見つめていた。手を膝の上で組んだまま、動くことなく、ただ話を聞いていた。
(あのあざ…どこで見た…?)と誠は思いながら、龍の右手首にさりげなく視線を移す。その不規則な形、暗い色味、そして何よりも異様な存在感。どこかで、確かに見た記憶があった。
龍は空気の緊張に気づき、居心地の悪さを感じたが、それを顔に出さないよう必死だった。
壁のすぐ後ろから、愛莉がおそるおそる顔をのぞかせていた。明らかに緊張している様子だった。
「愛莉」
真琴は振り向くことなく穏やかな声で呼びかけた。
「友達を家まで送ってあげなさい」
「え? う、うん!もちろん…」
「落ち着いたら戻ってきていい。君のことは信じているよ、如月さん。私はこれで失礼する。少し仕事があってね」
そう言って、真琴は静かに立ち上がり、別の廊下へと姿を消した。部屋には二人の若者だけが残された。
やがて、玄関で愛莉と龍は出発の準備を整えた。彼らを送る車は最新式の自動運転車で、雑誌に載っていそうな洗練されたデザインだった。
龍の近くまで到着すると、愛莉は運転手に頼んで家の前まで歩くことにした。
「お父さん、普段はもう少し明るいんだけど…今日は少し緊張してたみたい」
愛莉はシートベルトを整えながら言った。
「ごめんね、なんか気まずくさせちゃって」
「気にしないで。本当に大丈夫だったよ。真面目そうな人だけど、誠実な印象を受けた」
「うん、そうなの。ただ…ちょっと過保護なところもあるけどね」
「それも無理ないよ」
龍は窓の外を見ながら小さく笑った。
「今日は君を一人にするには危なすぎた。誰かにつけられてるように見えたし…」
愛莉はしばらく沈黙した。指をもてあそびながら、視線を落として、やがて小さくつぶやいた。
「…その通りだったの」
龍は愛莉を横目で見つめた。
「僕が見たとき…君、辰輝から逃げてたんだね」
「八神?」
龍は眉をひそめた。
愛莉は小さくうなずいた。
「病院にいたの。大事なことで付き添うって言われて…その、手続きとか。でも、二人きりになったときに、あの人…変なことをしようとしてきて。怖かった。嫌だって言って、チャンスを見て逃げたの」
龍は奥歯をかみしめた。胸の奥に、怒りと共に重苦しい感情が湧いてきた。
「…あの白い車は?」
「うん…あれ、辰輝の。運転手も一緒だった。少しの間つけられたけど、どうにか巻いたの。君が見つけてくれる前に」
「じゃあ…どうしてまだあんな奴と付き合ってるの? もうやめたらいいじゃないか」
愛莉はすぐには答えなかった。唇を噛みしめ、目には涙がにじんでいた。
「簡単にはいかないの、如月くん…」
やっとの思いで言葉を絞り出した。
「今は…話せない。でも、いつか話すから…」
視線をそらし、さらに声を落とした。
「今は…何も変えられないの」
龍は無言で前を見つめた。怒りを抑えながら、内心では葛藤していた。
(どうしてこんなことに巻き込まれてるんだ? あの男、一体何を考えてる…?)
「それは全然良くない。でも、君が望まない限り僕からは何も言わない」
龍は最後にそう答えた。
「でも、また何かされたら、絶対に言ってくれ。いつでもいい」
「…もしまた何かされたら、君はどうするの?」
「必要なことは全部する。あいつに、ちゃんと償わせるよ」
愛莉はまた視線を落とした。だが今度は、わずかに微笑んでいた。
「ありがとう、如月くん」
「前にも言ったけど、“龍”でいいよ」
そう答えた龍の声は、穏やかであろうとしたが、どこか怒りを隠しきれていなかった。
愛莉は恥ずかしそうに微笑みながらうなずいた。
「うん……龍」
彼女は彼のそばにいると安心できた。もう以前のように緊張したり恥じらったりすることはなかった。
「じゃあ……私、行くね。そろそろ家に入ったほうがいいよ」
愛莉はまだほんのりと頬を染めながらそう言った。
「そうだな。また明日な、愛莉」
龍は穏やかな笑みで答えた。彼女が望んだとおりに名前で呼ぶことは、思ったより自然にできた。
「え、えへへっ、ば、ばいばい龍! また明日ね!」
愛莉は元気に手を振りながら、嬉しそうに返した。
日々は 龍が意識するよりも速く過ぎていった。予選大会が近づくにつれ、プレッシャーも増していった。
「俺の拳から目を離すな、小僧!」
源三は拳を連打しながら怒鳴った。
「地形を覚えろ。視覚に頼るな!」
龍は顎へのストレートをぎりぎりでかわし、背中から倒れ込んだ。息を荒くしながら、焼けるような筋肉の痛みに耐えていた。しかし、諦めはしなかった。源三のトレーニングは以前より遥かに苛烈で、全ての動きが速く、鋭く、そして重かった。明らかにレベルが上がっていた。
「ひとまず休め」
そう言って源三は彼に近づいた。
「短期間でここまで成長するとはな。驚いたぞ」
龍は荒い息を整えようとしていた。胸が破れそうなほど鼓動が速い。
「なあ、龍……」
「……はい?」
声を絞り出すように返事をした。
源三は眉をひそめ、龍の右腕を取った。
「これ、以前にもあったか?」
龍は自分の腕を見て沈黙した。手首から肘まで、血管が異様に浮き出ていた。まるで墨が流れているように黒く、太かった。その全ては、彼の母斑の場所から広がっていた。
「はい。最近、激しく訓練したときにこうなります。でも……もう痛みはありません。ただ現れるだけで」
「普通じゃないな。痛みがなくても、これは異常だ」
源三は深刻な表情で言った。
「医務室で診てもらえ。状態確認の再検査を受けろ。念のためにな」
「わかりました、先生」
混乱しながらも、龍は素直に従った。
看護師はデジタル診断書を目を見開きながら見つめていた。一方、主治医は画面のデータを驚きの表情で追っていた。二人はひそひそと何かを話し合いながら、時折龍のほうを見た。
龍はただ黙って、膝に手を置いて座っていた。
「入学時のデータと比べると……君のMSI、ほぼ百ポイントも上昇している」
医師は画面を見ながらようやく口を開いた。
「これは極めて異例だ。一年生の学生で見たことがない」
「それって……いいことなんですか? それとも悪いこと?」
龍は平静を装って尋ねた。
「理論上は良いことだ」
医師はそう答えた。
「だが、一つ問題がある」
(問題……?)
「君のMSIは758.3だった。だが今は834.7。これは異常飽和域の境界線に近い数値だ。軍属の訓練済み成人でも稀にしか見られないレベルだ」
「それって、どういう意味ですか?」
「このままのペースで訓練を続けて、MSIがこんなにも急激に上昇し続けたら、君の体が適応できないかもしれない。君はまだ十六歳だ、如月 龍くん。体はまだ発展途上だ。無理をしてはいけない限界もある。」
「慎重に鍛えてます。自分なら大丈夫です」龍は目に決意を宿しながら言った。
「その覚悟は立派だが、私の責任として警告しておく。君のトレーナーとも話すつもりだ。望ましいのは、セッションの強度を落とすことだ。訓練を減らし、もっと休息をとる。少なくとも、君の数値が安定するまではな。」
龍が診察室を出ようとした時、医者は声をかけた。
「龍くん、他にも何か異常な症状があったら……少しでもおかしいと思ったら、すぐに戻ってきなさい。このままだと君は限界を超えるかもしれない……あるいは、体の方が先に壊れるかもしれない。」
医務室を出た龍は、本校舎の廊下を静かに歩いた。外はもう夕暮れが始まっていた。
(今は止まりたくない……今じゃない。)
彼は拳を握りしめた。自分の体を危険にさらしていることは理解していたが、それでも賭ける価値があると感じていた。
空はすでに暗くなり始めていた。龍はスマホを手に、家への帰路についていた。気分転換にSNSでも見ようかと画面をタップしたその瞬間、バイブが鳴った。
ビデオ通話:乃愛先輩
「乃愛先輩?今度はなんだ……?」龍は少し不思議そうに呟き、通話を受けた。
画面にはすぐに乃愛の姿が映し出された。部屋の中、カメラの前に座っていて、ラフなポニーテール姿で落ち着いた表情をしていた。
「こんにちは、龍くん。体の調子はどう?」
「ちょっと悔しいかな……」龍は歩きながら歩道を渡った。「医者に、訓練のペースを落とせって言われた。」
「知ってるよ」乃愛は少し笑みを浮かべながら言った。「だから電話したの。うちの父がもう校長と話してあるの。」
「えっ、訓練中止になるの……?」龍は心配そうに聞いた。
「そんなことないよ」彼女は首を横に振った。「やり方が変わるだけ。」
その瞬間、奥から声が響いた。
「変わるんじゃない! 良くなるんだ!」
乃愛の背後から水原 源三が姿を現し、腕を組み、眉をひそめてカメラに顔を近づけた。
「せ、先生……?」龍は画面越しに彼を見て、少し驚いた。
「聞け、坊主。もうこれまでのように体に負荷をかける訓練はできん。お前は順調だが、瘴気の流れを制御できなければ、その蓄えた力がお前自身を食うことになる」源三は厳しい口調で言った。
「瘴気の流れ……?」龍は困惑したように問い返した。
「そうだ。瘴気で変化した血を、体の特定部位に流す術だ。筋肉、反射、視覚、なんでもいい。血からエネルギーを引き出すみたいなもんだ。」
「それって……鍛えられるの?」
「もちろんよ。だけど、それを上手くできる人は少ないの。だからこそ重要なの」乃愛がカメラを少し調整して、自分の顔がよく映るようにした。「あなたは《清血道》の修行を始める時が来たの。ポート者のための戦闘スタイルよ。」
「清血道、って言った?興味あるな……」
「私も修行中よ。」
「お前の力とスピードは、制御能力より早く成長している。このままじゃ、伸び悩むどころか、倒れるぞ」源三はそう言って眉をひそめた。
龍はごくりと唾を飲み込んだ。「倒れる」という言葉はどう聞いても良い響きではなかった。それでも、彼の内側では何かが熱くたぎっていた。
「じゃあ…どう始めればいい?」
源三は満足げに頷いた。
「まずは、肉体的な消耗を減らして、精神的な集中を増やすことだ。神経系の制御、呼吸、そして瘴気の流れの制御を鍛える。それが、今後お前がうちでやるべき課題だ」
「了解です」
「それとね、龍くん」乃愛が温かい笑みを浮かべて言った。「今まで通り、家に来てもいいよ。全部がハードなトレーニングってわけじゃないし。もっと軽めのルーティンとか…理論の勉強とか」
「勉強…それはキツそうだな」彼は冗談めかして言い、二人はくすっと笑った。
龍は笑顔のまま通話を切った。夜の空気が少し軽く感じられた。責任の重さは増したが、それ以上に、成長したいという気持ちも強くなっていた。
(とんでもない一日だったな)空を見上げて、微笑みながらため息をつく。彼はまだ知らなかった──新しい感情が、彼の中で目覚めようとしていることを。
その穏やかな気配は、次の瞬間、地に崩れた龍の姿で崩壊した。
手首の痣が燃えるように痛み、息をすることすら困難になっていた。空気を求めて必死にもがき、口で何とか呼吸を試みて、わずかに時間を稼ぐ。
(継承者よ、もうすぐお前を借り受けよう)
耳元で囁かれるような声。龍は周囲を見回したが、誰もいなかった。
(そんなに焦るな。死にはしない、少なくとも今日はな)
「だ…誰…だよ…?」声にならない声で空気に問いかける。
だが、声は空中に溶けるように消えていった。龍は家の前で倒れたまま、やっとのことで呼吸を整え始めた。徐々に落ち着きを取り戻していく。
「おおっと、ここに傷ついた犬のように倒れてるじゃないか、かわいそうに」
「はは、もっと手こずるかと思ったぜ」
背後から二つの声が聞こえた。龍には立ち上がる力が残っておらず、助けを呼ぶこともできなかった。声を上げることさえできない。
「…リナ姉さん…リナ姉さんッ…!」かすれた声を振り絞る。
「無理すんなって、悪化するだけだぞ」
男たちは彼を抱え、街灯の届かない影に隠れた車へと連れ込んだ。龍の体を押し込み、車は静かに加速していった。
その瞬間、イリナが家の扉を開けた。何かを聞いたような気がして外に出たが、見えたのは遠ざかっていく車の影だけだった。
(呼ばれたような気がしたのに…)彼女は首をかしげたまま、考え込んでいた。
「ったく、誰かに見られるかと思ってヒヤヒヤしたぜ」一人がぼやいた。
「ビビりすぎだって、アリマ。もっと肝据えてけよ」
「くだらねえこと言ってねえで、急げ。零司さんが待ってるぞ」
(零司…その名前…)龍の意識がぼんやりとしながらも、その名を聞き取った。そして、通りで見た指名手配のポスターを思い出した。
二人の男は笑いながら話していたが、運転手は一言も発しなかった。
龍は手足を座席に縛りつけられ、身動きが取れなかった。口も布で塞がれており、声を出すことすらできなかった。目も見えず、話せず、動くこともできない。
車は闇の中を進み続け、その中で、龍の恐怖はますます膨れ上がっていった。
15分ほど経っていた。誰も口を開かず、議論に疲れ切った空気が車内を包んでいた。運転手も一言も発していなかった。龍はもう動こうともしなかった。まるで死を受け入れたかのように、静かに座っていた。
車は左に曲がり、見知らぬ方向へと進んだ。
「すみません、ガソリンが足りません。このガソリンスタンドで少し停まります」
「さっさとしろよ、バカが。待たせるんじゃねえ」
「すぐに戻ります、旦那」
ガソリンタンクはほとんど空だった。車は古びたガソリンスタンドに停車した。建物の灯りは点いていたが、中には誰の姿もなかった。
車は、薄暗くて古ぼけたガソリンスタンドに停まった。照明はちらつき、不気味な静けさが漂っていた。運転手は無言で車を降りた。
「少し外に出ろ」そう命じた。
二人の誘拐犯は従い、龍をまるで荷物のように引きずり出した。
「店員はどこにいる?」一人が辺りを見回しながら言った。
「…その辺にいるだろう」運転手は目を合わせようともせずに答えた。
龍は立っているのがやっとだった。心臓の鼓動が激しく、頭の中が真っ白になっていた。
そのとき、誘拐犯の一人が何かを呟いた。その瞬間、龍は反射的に身をよじり、抵抗した。もみ合いの末、袋がずれて視界が開けた――そして見たのは、信じられない光景だった。
運転手が拳銃を取り出し、ためらいなく引き金を引いたのだ。
最初の男は音もなく崩れ落ちた。壊れた人形のように。
二人目は振り向く暇もなく、後頭部を撃ち抜かれた。
バン。バン。
すべては一瞬だった。無駄がなく、冷酷で、そして静かだった。
血は地面を濡らし、降り始めた雨と混じり合っていた。龍は叫びたかったが、声が出なかった。震えるだけだった。
男は正確に銃をしまい、静かに近づいてきた。
「安心しろ。お前に害はない」
その声に殺意は感じられなかった。龍は震えながらも、その場で動きを止めた。
「……誰だ、お前?」
「加納だ。お前を守るよう頼まれている」
「守るって……誰に?」
「それは言えない。ただ、俺はお前に危害を加える者ではない。それだけは信じてくれ。さあ、家に帰ろう」
遺体から遠ざかるその途中、龍は倒れている男の腕に刻まれた刺青に気づいた。思わず息を呑む。
「それ……あの印だ。教団の……!」
「そうだ」加納は振り返らずに答えた。「奴らは“教団”の人間だった」
加納は何も言わず、手際よく死体を埋めた。錆びたゴミや廃車の隙間に、何の感情もなく埋めていく様は、まるで何度も繰り返した作業のようだった。
龍は、少し落ち着きを取り戻し、拘束を解かれた。車に乗り込んだが、まだ頭の中は混乱していた。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「ひとつ、聞いてもいい?」
「構わん」
「……どうして、あんなことを?」
「お前を守るように頼まれている。家の外に出るたび、俺はいつも近くにいる」
「誰がそんな命令を出したんだ?」
「それを君に話す許可はない」
「じゃあ、なぜ俺を守る必要がある?」
「君は、自分の周囲で何が起きているのか、まだ全てを知らないようだ。だが、それを話すのも俺の役目じゃない。……いずれ分かる時が来る」
再び沈黙が訪れた。 龍はまだ緊張したまま、これまでの出来事を思い返していた。
「誘拐犯たちは……あの印を持っていた。奴らは、俺に何を……?」
男はすぐには答えなかった。視線は道路に向けたまま、表情を変えずに運転を続けていた。
「それも……俺が話すことじゃない」
龍は少し顔を伏せた。悔しさと戸惑いに包まれながらも、深く息を吸い込んだ。
「ありがとう、加納さん。あなたがいなければ……俺はもう死んでた」
「間に合ってよかったよ」加納はかすかに笑みを浮かべて言った。「俺の務めだからな」
家に着いた頃には、もう午前三時近くになっていた。家の灯りはまだついていた。
「このことは誰にも話すな。少なくとも、今は。いつも通りの生活を送れ。……何かあれば、俺はすぐそばにいる」
「……分かった」
「ゆっくり休め。恐れることはない」
龍は車から降りた。ドアをノックした瞬間、イリナが勢いよく飛び出し、彼を抱きしめた。
「龍、バカっ! どこに行ってたの!? 何があったの!?」彼の疲れた顔を見て叫んだ。
「大丈夫だよ、ねえさん。ちょっと遅くなっただけ」
「もう、気が気じゃなかったんだから! コーヒー淹れといたよ……飲む?」
「うん、ありがとう」龍はぎこちない笑顔を見せた。「でも泣かないでよ。なんか……罪悪感湧くからさ」
イリナに連れられて中へ入る時、龍は一度だけ後ろを振り返った。車は、もうどこにもなかった。
街の別の場所――暖かさから遠く離れた場所。
長峰 誠、愛莉の父は、地下のような研究施設の中に立っていた。
冷たい白色灯が、ステンレスの作業台やコード付きのガラス瓶、複雑な医療グラフが表示されたモニターを照らしていた。空気にはかすかに消毒液の匂いが漂っていた。
彼の足元には、あの車の本当の運転手――任務を全うできなかった男が、担架の上で気を失って横たわっていた。
長峰は、指に挟んだタバコから立ち上る煙を見つめながら、しばらく無言で佇んでいた。背後のモニターには血中MSIのグラフと、機密性の高い医療データが並んでいた。
彼は携帯電話の番号を押した。
「はい」返ってきたのは男の声だった。
「……あいつには守護天使がいるらしいな」
「ええ。状況が変わりました。いくつかの駒を動かす必要がありますね」
「こんなチャンスは多くない。……失敗は許されない」
「じゃあ、あの日付は……?」
「ああ。あの日に動く。今度は――俺自身が出る」
「了解しました」
通話を切ると、彼は最後の一服を強く吸い、金属製の灰皿にタバコを押し付けて消した。
意識を失ったままの男にもう一度だけ目を向け、呟いた。
「この街に……嵐が来るぞ」
その足音だけが、研究所の闇に静かに消えていった。
あの夜――それは最初の失敗だった。
盤面は動き出し、闇に潜む駒たちが姿を現し始めた。
龍はまだ知らなかったが、彼の存在はすでに均衡を崩していた。
彼は、ただの標的ではない。
彼は、脅威だ。
そして次こそ……同じ過ちは繰り返さない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もぜひお楽しみに!