1. 田舎の少年と秘密だらけの都市
西暦2093年――。
人類の進化は、思いがけない方向へと進んだ。
この物語は、"力"と"運命"に抗う少年の話――。
謎めいた印を持つ彼が、やがて世界を揺るがす存在になるなんて、
この時はまだ、誰も知らなかった。
第1章、開幕です。
どうぞ最後までお楽しみください!
夢というのは、ときに混乱していて奇妙だ。
またあるときは、まるで何かの暗示や予兆のように、意味を秘めていることもある。
如月 龍 の見る夢は、そのすべてに当てはまった。
特に不気味なのは、その夢を何度も繰り返し見ることだった。
そして夢の中の光景を目にするたび、彼は必ず、肺に空気を残さず目を覚ますのだった。
──真夜中。
空は黒いキャンバスのようで、かすかに瞬く星がいくつか、闇に抗うように浮かんでいた。
龍は辺りを見渡した。そこには、焼け落ちた小さな村の残骸が広がっていた。
まさに戦場だった。空気に漂っていたのは、死の匂いだけだった。
首にかけられた古びた懐中時計。
いくつかの時間帯が鋭利な何かで抉られたように消されており、針も一本しかなかった。
その針は、ちょうど九時を指していた。
「……寒いな」
そう思いながら、龍は自分の体を抱きしめた。
そして、かすれた声で呟いた。
「ここは……どこだ?」
そのとき、不意に足音が近づいてきた。
龍はすぐに踵を返した。
そこにいたのは、人間のようなシルエット。
だが、その顔は歪んでおり、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
一歩一歩が、龍の耳に重く響いた。
その存在は、明らかに邪悪な気配を放っていた。
「お前は誰だ? お前が……この場所を滅ぼしたのか!? 答えろ!」
世界が、まるで溶けるように崩れ始めた。
シルエットが近づくにつれ、龍の腕に激しい痛みが走った。
血管が浮き上がり、破裂しそうなほどに張っている。
《……痛いっ……!!》
恐怖と混乱が、彼の中で渦巻く。
その圧倒的な存在感に支配され、彼は手元に視線を落とした。
赤黒く染まった自分の手。
《これ……血か……?》
間違いない。それは、自分の血だった。
目眩が襲い、膝をつく。
もはや、体は限界だった。
「もう……やめてくれ……」
そう願った瞬間、あの“何か”が龍の顔を掴み、無理やり視線を合わせさせた。
その存在に顔はなかったが、確かに──声はあった。
耳元で、囁くようにこう言った。
「もうすぐだ、継承者よ……」
──そして、夢は終わった。
「リュウ!……リュウーっ!」
妹・イリナの叫び声が、まるで家の外で戦争でも起きているかのように響いた。
最後の一声とともに、如月 龍は驚いて目を覚まし、そのままベッドから転がり落ちた。
寝る前に読んでいたヒーロー漫画は、勢いよく吹き飛んでしまった。
「早く起きなさいってば!タクシー行っちゃうよ、バカ寝坊!」
「うるさいなぁ……」と龍は布団をかぶりながらつぶやいた。
「その態度で朝をぶち壊さないでよ」
「今起きたばかりなのに、そんなに喋るなよ……」
「はぁ……」
イリナはため息をつき、
「ほんと、いつも変なのよね。バカな弟」と言って、わざとらしく軽く蹴りを入れた。
「な、何すんだよ、バカ!」
龍の脳裏には、まだ夢の光景が焼き付いていた。
何度も見る夢──だが、何度見ても、それはまるで悪夢のように現実味を帯びていた。
《あの時計……今回は九時だった。毎回、数字が一つずつ増えている……》
前に見たときはもっと小さい数字だった。
時間が経つにつれて、針の指す時間が増えている気がする。
「……まぁ、ここで寝転がってても仕方ないか」
気を取り直し、龍は立ち上がった。
椅子の上には、整えられた制服──白いシャツ、濃い色のズボン、そして青山学院 の エンブレムが入ったジャケット。
着替える途中で、彼の手首があらわになった。
そこには、彼が物心ついたときからずっとあった、ブレスレットのような形の痕があった。
鞄を手に取り、階段を降りると、イリナが腕を組んで待っていた。
「ベッドの中で死んでるかと思ったわ」
「おはようくらい言えよな……」
彼女はリンゴを投げつけてきた。
「朝ご飯の時間はないから、さっさと動いて」
二人は急いで家を出た。
タクシーに向かいながら、龍は深く息を吸い込んだ。
イリナはいつも通り、よく喋る。龍は窓の外をぼんやり眺めていた。
「休み中ずっとそのヒーロー漫画読んで、夜更かしばっかしてたんだから。これからは早く寝なさいよ。毎朝遅刻してたら意味ないでしょ」
「はいはい……」と、皮肉気に答える龍。
「それとね、ケンシさんの工房でのバイト、取ってきてあげたの」
「えっ、マジで?」と、龍は驚いてまばたきをした。
イリナはにっこり笑ってうなずいた。
「でも、土曜日だけね」
「それは嬉しい!ありがとう、ねえ…いや、その…感謝してる」
龍は少し照れながらも、真面目に言い直した。
バイク好きの彼にとって、新しい仕事の話は最高のニュースだった。
イリナの終わりなきお喋りを適当に聞き流しながら、龍は通っていく学校のパンフレットを読み始め、手にしていたリンゴを食べ終えた。
『龍、お前はポータ―なんだ……お前の血は変異している。お前は特別なんだ……』
一瞬、目を閉じた。
その言葉は、祖父が言ったものだった。あまりにも重々しく、彼の人生を根底から揺るがすものだった。
――「S-Type3血液保有者特別教育・更生センター」
《更生、ね……つまりは、色々な奴が集まるってことか》
ため息をついて、タクシーの窓に額を押し当てた。
《とてつもない力、か……》
彼の思考は、新たに始まる一年へと向かっていた。
新しいクラスメート、見知らぬ教師たち……間違いなく、人生の転機だった。
首都・神京に来てから数日経ってはいたが、未だに都会の生活には慣れなかった。
人との接触が少ない、山に囲まれた静かな村で育った彼にとっては、まるで別世界だった。
如月 龍 は、江戸国のごく普通の十六歳の少年だった。
いつもは控えめで、ヒーロー漫画ばかり読んでいた。
そんな彼でも、気心の知れた友人たちとバカなことをして笑い合った日々があった。
美山の 白い山々は、今や遠い記憶となり、
首都・神京の喧騒とはあまりにも対照的だった。
四季が緩やかに巡るだけの田舎での暮らし。
何も変わらない平凡な日常に身を委ねていたあの頃──それが、全て過去のものとなった。
何も問題のない普通の少年だった。
未来に大きな期待もせず、静かに過ごすはずだった。
だが、祖父からのある一言が、そんな彼の人生を大きく変えてしまった。
龍は、S-Type3血液のポーターだった。
それが何を意味するのか、なぜ祖父が今になって話してきたのか、彼には分からなかった。
ただ、その名前──「S-Type3」という響きが、どこか冷たく、自分とは無縁な存在のように感じられた。
幼い頃から、彼だけは定期的に医療検査を受けさせられた。
難解な名前の検査ばかり。よく分からない質問をされることも多かった。
「大したことじゃないよ。ちょっと特別な体質なだけ」
そう説明されてきた。
だが今、龍は初めて、その「特別」が持つ意味を実感していた。
それは、ただの医療用語ではなく、確かな現実だった。
そんなことを考えていると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、龍の表情は少し柔らぎ、静かに微笑んだ。
幼なじみの陽葵からのメッセージが届いた。
「初日、がんばってね!応援してるよ!」
『本当に、お前はいつも気にかけてくれるよな……。うん、運は必要だ。』
彼の口元がわずかにほころんだ。
目的地に到着した。深く息を吸い込み、リュックを整えてタクシーを降りる。
「頑張ってくださいよ、如月さん。」
運転手が優しく声をかけた。
その時、イリナが急に真面目な顔をして、彼の肩をつかんだ。
「龍、卒業するまで役に立つアドバイスをあげるわ。」
彼女は一呼吸おいて、真剣な口調で言った。
「いい人でいて、やらかさないこと。分かった?」
「アドバイスに全力出さなくていいよ。」
彼は皮肉っぽく返した。
「じゃあね、お兄ちゃん!頑張ってね!」
イリナはタクシーに乗り込み、手を振りながら去っていった。
『はぁ……行くか。』
彼は深いため息をつきながら、長いエントランスを歩き出した。ネクタイはゆるく、イヤホンの音量は最大。周囲は人の海で、校門さえも見えにくい。何百人もの話し声が混ざり合い、耳を塞ぎたくなるほどだった。
『青山学園か……。』
校舎の外観は特別なものではなかった。ただの建物にしか見えない。彼は目を閉じ、拳を握りしめて前へ進んだ。だが、入口から教室までの道のりがやけに遠く感じた。坂のように思えて、途中でベンチに座ることにした。
「ねえ、あのベンチに座ってる子見た?」
「うん、すごくカッコいいよね!」
「しっ、聞こえちゃうって!」
女の子たちのひそひそ声が聞こえる。どうやら、彼は注目の的だった。
平均的な身長に、灰色がかった髪。澄んだ青い瞳が印象的で、本人は目立ちたくなくても、自然と人の目を引いてしまう。
その視線に気づき、彼は身をよじった。腕を組み、視線を逸らし、スマホをいじるふりをする。しかし、周囲のざわめきが逆に神経を刺激する。
彼は再び体勢を直し、拳を握って心の中でつぶやいた。
「長い一日になりそうだな……。」
目を閉じ、時間が早く過ぎることを願った。教室で自己紹介をするのがすでに憂鬱だった。うまく話せるか、自分のことをどう伝えるか……不安が尽きない。
逃げたいわけじゃない。怖がってるつもりもない。ただ、もし時間を早送りできるなら、迷わずそうしただろう。目の前にかかる橋を、一気に渡り切ってしまえたらと願うほどに――
彼の頭の中は、まるで霧のようにぼんやりとしていた。
「バイクが好きで、サッカーも…でも、そんなこと誰が興味あるんだよ?ああ、もう何話せばいいか分かんねぇ…」
如月 龍は、自分の自己紹介について頭の中であれこれ考えていた。
その時、不意に茶色の髪に気さくな笑顔の少年が近づいてきて、じっと彼を見つめた。
「……何だよ?」と龍が尋ねると、
「一年の新入生、君だろ?」と少年が言った。
龍は少し警戒しながらも答えた。
「まあな。」
「よっしゃ!俺は 中野 英夫。君の名前は?」
「如月 龍。」
「へえ、如月か。どうやら俺たち、同じクラスみたいだな。一緒に行こうぜ!」
返事をする間もなく、英夫は龍の背中を軽く押して校舎へ向かわせた。その馴れ馴れしさは少し鬱陶しかったが、なぜか悪い気はしなかった。
教室に入ると、複数の女子たちの視線が彼に集まり、こそこそと笑い声が聞こえてきた。注目されるのは苦手だった。
「おお、もうファンができたみたいじゃん」と英夫がからかうように笑った。
龍はため息をついた。「ほっといてくれ。」
彼はドア近くの席に座り、ノートを取り出した。その時、長い髪の少女がじっと彼を見つめていることに気づいた。
視線が合った瞬間、少女は慌てて目をそらし、本に視線を落とした。頬が少し赤らんでいるように見えた。
「ふ〜ん、面白いな……」英夫がニヤニヤしながら呟いた。
龍はそれを無視し、教室の壁に掛けられた時計に目を向けた。その瞬間、またあの夢の映像が頭に浮かんできた。
授業が始まろうとしていた。新しい生活の始まり。しかし、心の奥で龍は感じていた。
この日々が、ただの平凡な学園生活では終わらないと。
――そして、夢に出てきたあの時計の針が、いつか十二時を指す時が来るのだと。
「なあ、連絡先――」と英夫が言いかけたその時、
「全員着席ー!」
教師の怒鳴るような声と共に、不快なチャイムの音が教室中に響いた。
「みなさん、気づいていると思いますが、新しい生徒が来ています。前に出て自己紹介をお願いします。」
龍は唾を飲み込み、ゆっくりと立ち上がった。緊張で心臓が早鐘のように打っていた。目立つのは苦手だったが、失礼にはなりたくなかった。
教壇の前に立ち、深呼吸してから口を開いた。
「初めまして。如月 龍です。宮間という町から来ました。」
それだけだった。短く、簡潔な自己紹介。これ以上話そうとすれば、絶対に噛んでしまう自信があったからだ。
クラスは如月 龍 を 温かく迎え入れた。みんなが拍手し、親しみを込めた笑顔を向けてくれた。龍はまだぎこちない様子だったが、先ほどよりも幾分か落ち着いて見えた。
「思ったより悪くなかったな」
そう思いながら自分の席に戻ると、いくつかの好奇の視線を感じた。
授業中、なんとか集中しようとしたが、周囲のささやき声がどうしても耳に入ってしまう。黒板と窓の外を交互に見ながら、注目を浴びているという感覚から逃れられなかった。
教室は静まり返っていた。歴史の教師が黒板に文字を書いている音だけが響いていた。
「ミアズマは、我々の文明を想像もできなかった形で変えてしまいました」
教師は黒板から振り返り、教室全体を見渡しながら続けた。
「社会構造だけでなく、経済、技術、そして政治までも再定義されたのです」
龍は興味の薄い教科ではあったが、要点だけでもと鉛筆を取ってノートに記した。
「ミアズマ保持者の起源は、1903年に遡ります。ある軍事実験の失敗が、江戸の歴史上最大級の衛生危機を引き起こしました。当時、青函戦争に備えていた政府は、あらゆる過酷な環境に耐えられる改造兵士を作ろうとしました。そのために、身体能力を強化する特殊な血清が開発されたのです」
数人の生徒が筆を止め、教師の話に耳を傾け始めた。
「しかし、実験は失敗しました。血清は兵士たちの体を強化するどころか、内側から崩壊させてしまったのです。ですが、最も深刻だったのはそこではありません」
教師は少し間を取り、教室に緊張感が広がった。
「試験段階でその物質が江戸の水道システムに漏れ出し、国中の何百万人もの人々に広がってしまったのです」
教室内にざわめきが走る。
「最初は、多くの人が細胞の異常変異によって命を落としました。しかし、わずかに生き延びた者たちが存在しました。そして、その子孫こそが最初のミアズマ保持者となったのです。それ以来、江戸の人々の遺伝子は永久に変化しました」
龍は眉をひそめた。これほど詳しい話は聞いたことがなかった。
「最初の生存者たちはS-Type1と分類されました。極端な肉体的変異と短命を特徴とする、不安定な世代です。次に現れたのがS-Type2。多少安定はしたものの、生命維持のためには定期的な医療強化措置が必要でした」
教師は教室の前をゆっくりと歩きながら話を続けた。
「そして、ついに第三世代──通称S-Type3が登場し、変異は安定に至ります。Sは“Synthetic(合成)”の頭文字であり、これがこの血の主な特徴です。現在では、この合成血液はミアズマ保持者において完全に遺伝的に組み込まれており、唯一“生存可能かつ遺伝可能”とされているタイプです」
「現在、保持者は国民のかなりの割合を占めており、その能力は有用である一方で、ミアズマを巡る議論は今なお続いています。進化の一形態と捉える者もいれば、全てを脅威と見なし、ミアズマそのものを完全に根絶すべきだと考える過激派も存在します」
また教室にざわつきが広がった。龍は顔をしかめた。
根絶する…?
そんなこと、可能なんだろうか。
チャイムが鳴り、授業の終了を知らせた。生徒たちが一斉に荷物をまとめる中、龍はしばらく席に座ったままでいた。
やがてゆっくりと立ち上がり、教師の机へと向かった。
「先生、これについてもっと詳しく知るには、どこで読めばいいですか?」
教師は少年の好奇心に少し驚いたように眉を上げたが、すぐに微笑んだ。
「図書室に一冊いい本があるわ。“瘴気と現代社会の歴史”。読んでみるといいわよ」
如月 龍はこくりとうなずき、心の奥に不思議な好奇心が芽生えるのを感じた。
正直、授業の内容はほとんど理解できなかった。ついていかないと、と思った。
「初日で歴史の授業とは、運が悪いな」
後ろから話しかけてきたのは英夫だった。
「図書室に行くよ」龍が答えた。
「一緒に行こうか?」
「いや、大丈夫。ありがとう」
「お前って本当につれないな!」
龍は教室を出ていったが、英夫が後を追ってきた。
その途中、不意に誰かの肩にぶつかってしまった。
「すみません!」と謝ってそのまま進もうとしたが、振り返ると、そこには長い髪の少女が立っていた。彼女の瞳はまるで天使のようで、見る者を惹きつける美しさを放っていた。
彼女は一冊の本を胸に抱きしめており、もう一人の少女と一緒にいた。
そのとき、彼女と龍の目が合った。
一瞬、学校の喧騒が消えたような感覚に包まれた。
「愛梨? 愛梨ってば!」
隣の少女が彼女の名を呼ぶ。
「え? ごめん、ちょっとボーッとしてた」
「ふふっ、やっぱりね〜」
その子はくすりと笑いながら、龍のせいだと言わんばかりに視線を向けた。
その空気を破るように、背の高い不良風の男子生徒が彼女に近づき、後ろから肩に手を回した。
明らかに歓迎されていない雰囲気で、隣にいた少女は彼に敵意すら込めた視線を送っていた。
「おいおい、そんなに荷物を持ってちゃダメだろ。手伝ってやるよ」
彼は得意げな笑みを浮かべて、まるで恋人のように振る舞った。
「お前、持てよ」
その男は横にいた取り巻きに命令した。取り巻きの少年は怯えた顔で本を受け取ろうとした。
「大丈夫です、八神さん。自分で持てますから」
「なんだよその言い方。俺の名前すら呼んでくれないとは、親父さんが知ったら悲しむぜ?」
「父とあなたの関係なんて、私には関係ありません。放っておいてください」
そう言って、彼女は彼の手を払いのけた。
彼女が教室に入ろうとした瞬間、男は再び肩を掴み、彼女を引き戻した。
「バカなこと言うなって、俺は心配してるんだぜ?」
その顔にはもう優しさのかけらもなかった。
(なんてうっとうしい奴だ)
隣にいた少女はその様子を黙って見ていた。まるで周囲の音がすべて消え、二人のやりとりだけが浮かび上がっていた。
如月 龍はその様子を見ていた。
そして、我慢の限界に達した。
彼はその男の腕を掴み、少女から引き離した。
「おい、聞こえなかったのか? 彼女は“やめてくれ”って言ったんだ」
龍は鋭い目つきで八神を睨んだ。
誰も彼のやり方に口出ししたことなどなかった。
「失礼、突然の登場で驚かせたね。僕のことは知らないだろうけど――八神巽 と申します。彼女、愛梨の婚約者だ」
巽は傲慢な態度でそう言い放ち、愛梨を指差した。
そして彼は愛梨に小声で囁いた。
「――君の両親の未来がどうなってもいいのか?これ以上、生意気な態度を取るなら……」
愛梨の指が本を握りしめ、震えていた。背筋に冷たいものが走る。
言い返したい、逃げたい――でも脚が動かない。
「愛梨、本当なの?あの人が婚約者なの?」
隣にいた友人が困惑した様子で尋ねたが、愛梨は答えられず、ただうつむいたままだった。
「お前が誰だろうと関係ない。彼女を放っておけ」
如月 龍が間に入って言い放った。
「強情なやつだな。あまり調子に乗らない方がいいぜ」
巽は脅すように龍の肩に手を伸ばしたが――龍はすかさずその腕を掴んだ。
「何様のつもりだ……?」
龍はその腕を離さなかった。
ほんの一瞬、妙な満足感が胸をよぎった。
普段の自分なら感じないような感情。だが、八神の腕を握っているその感触が――どこか心地よく感じた。
内なる何かが目覚めそうになる。
だが、龍は意識的に手を離し、自制した。
「彼女は……君に帰ってほしいと言ってる」
我に返った龍が静かにそう言った。
腕を離し、自分の席へと戻ろうとする。
ふと、自分の右腕を見た。血管が黒ずんで浮かび上がっていた。
彼はすぐにシャツの袖でそれを隠した。
少女――愛梨は、呆然とその様子を見つめていた。
予想もしていなかった展開に、言葉も出ない。
その時、ざわつきが廊下を走った。
「先生が来るぞ!」
誰かの小声が教室に響く。
「ちっ……また後で会おう、プリンセス」
巽は舌打ちをしてから嫌味っぽくそう言い、龍に冷たい視線を投げかけて立ち去った。
空気にはまだ緊張が残っていたが――
やがて、担任の先生の姿が教室の入り口に現れると、全ての音が一気に消えた。
愛梨は依然として固まったままだった。
龍は肩の力を抜き、静かにため息をついた。
ひとまず、衝突は終わったのだ。
「愛梨! しっかりして!」
隣の少女が声をかけた。
「大丈夫?」
そう尋ねる彼女に、愛梨はようやく顔を上げた。
そして、龍の姿を見た瞬間――頭の中が真っ白になった。
「うん……あ、ありがとう……」
かすれた声で、彼にというより自分自身に言い聞かせるように呟いた。
次の授業が始まると、教室の空気は少しずつ平常を取り戻し、先ほどの騒動も過去のもののように流れていった。
何事もなく時間は進み、やがて放課後を迎えた。
龍はゆっくりと荷物をまとめていた。
その時――教室の入り口に、ひときわ存在感のある人物が現れた。
「如月くん、今日の初日はどうだったかな?」
穏やかな声が教室に響く。
それは、校長の後藤だった。
「校長先生、ちょっと騒がしかったですが……大丈夫です」
「それは良かった。さあ、案内してあげよう。校内を見て回らないとね」
教師や生徒との距離感とは違い、後藤とのやり取りは妙に落ち着いていて、心地よかった。
訓練区域は学園の大部分を占めており、キャンパスの右側に位置していた。ここは異能者のための学び舎であり、理論だけでなく実践にも重点が置かれている。
医務室、図書館、そしてクラブ活動のための教室も完備されている。普通の高校と同じく授業やクラブ活動があるが、ミアズマ保持者に適応した形で運営されているのだ。一日で全てを覚えるのは不可能だった。
「さて、君はこれからここで学ぶことになる」
と校長の五藤は言い終えた。
「はい、良い場所ですね」
と如月 龍は応えた。
「初日は施設に慣れるために使いなさい。明日、君の適正試験を行う」
案内が終わると、五藤校長は彼を解放し、龍は少し早めに家に帰ることにした。学園を出ると、彼は深く息を吐き、思わず叫びたい衝動をこらえた。
『こりゃあ、長い一年になりそうだな……』
龍は自分のアパートのドアを重く閉め、ため息をついた。今、彼の頭にあったのは熱いシャワーだけだった。すでに夜の気配が漂い、街灯が灯り始めていた。
「おっ、おかえり! どうだった?」
とイリナはキッチンから目を離さずに言った。
「バカに殴りかかりそうになった」
「な、なにやってんのよ!?」
と彼女は驚き、振り返って声を上げた。
「大丈夫だって、結局は何もなかったから」
と龍は肩をすくめた。
イリナは深いため息をつきながら鍋に戻った。
「早くしてよねー、ご飯もうできるし、めちゃくちゃいい匂いするんだから~」
と陽気な妹はよだれを垂らしながら言った。
ベッドに寝転び、天井を見つめながら、龍は再びため息をついた。
『レッドホークだったら、あいつに一発くれてやってたよな』
壁に貼ってある彼のヒーロー、レッドホークのポスターを見つめながら、そう思った。
幼い頃から、彼は漫画のヒーローたちに憧れていた。中でもレッドホークは特別だった。どんな時でも弱き者を守る、迷いなき正義の象徴。自分もそうなりたかった。でも現実は違う。八神との対峙は衝動的だったが、他に選択肢はなかった。
『俺には、まだまだ足りない……』
彼は右手首を見つめた。薄い袖の下に隠された、かすかな痣のような痣。その部分に、妙な熱さが走った。
そうだ――八神との口論の最中。あの時、衝動に駆られる寸前、彼の静脈が黒く浮かび上がり、まるで何かが目覚めようとしていたかのようだった。
体を起こし、再びポスターを見つめる。レッドホークは、いつも通り拳を高く掲げていた。
だが今は、以前ほど彼が遠くに感じなかった。
そして、朝に見た夢を思い出した。
あの、誰だか分からないシルエットが自分に語りかけてきた声――
「継承者よ」
如月 龍の心臓が一瞬、強く脈打った。
静寂が戻る。
そして、夜が深まっていった。
誰にも見えない何かが、少しずつ動き出している。
自分の中でうごめく“黒”の正体も、
身体を蝕む痛みの理由も、
そして、あの日からずっと見続ける夢の意味も――
まだ何ひとつ、分からない。
けれど、ここから逃げるわけにはいかない。
「……本当に、長い一年になりそうだな」
少年は知らない。
彼がこの地に足を踏み入れたことで、幾つもの運命が動き出したことを。
これは、運命に抗う少年の物語。
そして――