エリオットは無情にも私を強引に抱きかかえながら、やたら優雅にステップを踏み始めた。
「ちょ、ちょちょちょっ! なにしてんのなにしてんの!」
「なにしてるのって、ダンスだよ」
エリオットは無情にも私を強引に抱きかかえながら、戸惑いながら奏でられているワルツに合わせてやたら優雅にステップを踏み始めた。会場のほとんどの人々が王太子殿下たちを見守る中、たった二人だけでホールを回る私たち。
……なんだこれ。どういう状況。今まさに乙女ゲームのなんらかの場面――おそらく攻略対象者とヒロインによる断罪か、もしくは悪役令嬢によるざまぁの場面だ――が繰り広げられているというのに、どうして私たちは呑気にダンスなんか踊っているんだ?
そのとき、王太子殿下と二人のご令嬢を囲む人混みのほうからスパァンと景気のいい音が響いてきた。それに思わず血の気が引く。
――今のはなんの音だ。断罪された悪役令嬢が叩かれた音か。それともざまぁされたヒロインが蹴落とされた音か。
「……ねぇ今の音、なに? 私たちも様子を見に行ったほうがいいんじゃない?」
そしてそのついでに、もう帰ろう。
縋るようにエリオットを見上げるけど、彼はどこ吹く風でステップを踏んでいる。
「きっと僕たちの初々しいダンスに誰かが拍手してくれたんじゃないかな」
「んなわけあるかいっ!」
あまりにも適当すぎる。まるでエリオットにとっては目の前の騒ぎなんて、気にする価値もないとでもいいたげだ。彼はちらちらと人だかりを気にする私の注意を引こうとした。
「ねぇ、せっかくのファーストダンスなんだから、もっとちゃんと僕を見てよ」
「いや……ねぇ、いやいや……」
いやいや、ごめんけど今はそんな甘い雰囲気に胸をときめかせられるような状況じゃないから。きらきらしい笑顔はとても眩しいけど、私は笑えないから。
「ねぇなんで? エリオットはなんでそんなにダンスにこだわるの?」
「分からない?」
諦めて遠い目になった私を、至近距離から悪戯っぽく輝く青磁色の目が覗き込んでくる。
「パティのファーストダンスは絶対に僕が踊るって決めてたから。なんてったって僕たち婚約者同士だし」
「え……えぇぇえぇ!?」
思わず大きい声を上げた私に、何人かがちらりと振り返ってくる。慌てて口を噤みながら、頭上にある吊り目の大きな瞳を睨む。
「婚約者ってどうゆうこと!? そんなの初めて聞いたよ!?」
「えっ、知らなかった? 大分前に決められてたよ?」
「知らないよそんなの! 誰も教えてくれなかった!」
なんでだ、どうしてだ。
エリオット本人も、私の両親もお兄様も、誰一人そんな大事なこと教えてくれなかった。
混乱する頭を抱えた私をエリオットはどこか面白そうに見遣りながら、まるまる一曲ダンスを踊り終えると、エスコートしてくれる。
「ま、僕が言わないでって言ってたんだけど」
しれっと爆弾を投下してチロリと舌を出して笑ったエリオットに殺意が沸いたのは、仕方がないことだと言えるだろう。
「はぁ? はぁあ!? それって一体どういうこと? お願いだからちゃんと説明して!」
「だって知らせたら、パティって逃げ出すでしょ」
的確に私の思考を突いている。そんなエリオットに、今度はうっと言葉が詰まる。
「パティのそばにいるために、パティのことはよーく見てたんだからね。君はことあるごとにすぐ僕を遠ざけようとしてくるんだから」
だから、「なんで?」の呪文だったのか。
やたらめったら聞きたがる好奇心旺盛な子どもかと思っていたが、もしかしてあれは彼なりに私を理解しようとしてくれていたのか。
「……私って随分とエリオットに素っ気なかったと思うんだけど、どうしてそうまでしてこの婚約関係を続けようと思えたの」
「そりゃあ、パティと一緒にいると面白いからに決まってるよ。それに……」
私たちがダンスを終わらせたことで、合奏団はホッとしたように演奏をやめた。会場はもうダンスどころじゃなくなっている。誰も会場の隅で言い合いしている私たちなんて気にする者はいない。
真っ赤な髪のグラマラスな悪役令嬢は長身のイケメン貴公子に支えられながら、足早に会場をあとにしている。ということは断罪の場面だったのか、と思いきや。
ピンクの髪の可愛らしい令嬢は泣きながら、優しそうな青年に抱きかかえられてこちらも会場をあとにしている。
ん?? これってどういうこと? 結局今のは、悪役令嬢のざまぁだったの。それともヒロインの断罪だったの。
「……知らなかったわ、エステバン様がじつは密かにずっと、レイラ様に想いを寄せていたなんて……レイラ様が殿下の婚約者だからと、絶対に悟られないようにと人知れず忍んでいらっしゃったのね」
「私、エステバン様のこと、狙ってたのに……」
「仕方がないわよ、あれだけ美人で優美で、家柄も人柄もなにもかも完璧なレイラ様には誰も勝てないわよ」
「王太子殿下には婚約破棄されてしまったけど、でもエステバン様と結ばれるのならかえってそっちのほうがよかったかもね。あーん、私もエステバン様と婚約したかったー!」
ふむふむ、そっかそっか。今のは一応悪役令嬢が断罪されるシーンだったか。
「おい、あのピンクのかわいい子は結局なにがしたかったんだ?」
「なんか、王太子殿下に気に入られて仲良くしていただけなのに、レイラ様に目をつけられるわ仲間外れにされるわで、ずっと怖い目に遭ってたらしいよ」
「でもそれって、彼女が王太子殿下の婚約者の座を狙ってたからなんじゃないの?」
「って思われていたみたいなんだけど、でも結局はあの幼なじみの奴といい感じだったみたいだな」
「あー、あいつ、なんかいい奴そうだしな……」
「え? でもそれって、もしかしてあの子に入れ込んでいた王太子殿下の勘違い……」
「しー! みなまで言うなよ! 王太子殿下が惨めだろ!」
「そうだぞ! 真実の愛を見つけたとか吹聴していた王太子殿下が恥ずかしいだろ!」
うんうん、君たちが一番失礼だから。
でも、ということは。
これって結局、ざまぁでもあり、断罪でもあり、まぁつまりは女癖の悪かった王太子殿下のただの自業自得、ってこと、になるのか……?
「ね、パティ、今は大事な話をしてるんだから、いい加減にこっちを見てよ」
私をバルコニーに連れ出したエリオットが珍しく真剣な顔でそんなことを言ってきた。あまりにもその顔が切実そうだったので、彼らのことは一旦おいておくことにして、私は月明かりに照らされているエリオットに向き合うことにした。
「パティってさ、昔っから奇想天外で破天荒なことばかりしててさ。見てるといつも、すごくハラハラした。なんでだろう、僕が守ってあげなきゃって思ってしまうんだ」
「そりゃたしかに私はこんなんで一般的な令嬢とは違うし、そう思われても仕方がなかったのかもしれないけど……でもとてもじゃないけど、婚約者に選ばれるような要素はないんだけど……」
「そうだね。そうかもね。でもそんなことは小さなころから知ってることだし、今さらだね」
そこまでわかっておきながら、この男は私を娶ろうと覚悟しているのか。
一種の感動を覚えながらエリオットを見上げると。いつもとは違う色を孕んだ青磁色の瞳が、思ったよりも間近に迫っていた。
「僕はただ、いつまでも君とこうしていたい。……パティ、君のことが好きなんだよ」
その拍子に柔らかな唇が私の額に落とされる。
いつも飄々としたエリオットからは想像できないような、優しい感触だった。
「君のことをパティって呼んでいいのは、僕だけにして」
「エリオットっ……」
不意打ちの言葉に顔を赤くした私に、エリオットは今まで見たことないくらいに甘く微笑んでいる。
「君はイヤ? 僕とは結婚したくない?」
「イヤじゃ、ない、けど……」
ただ私に、エリオットの妻なんて務まるか不安で。
「みんな僕たちのこと祝福してくれたよ? 父もオールディントン伯爵もとても喜んでくれた。僕たちはお互い変わり者同士だから、気の合う結婚相手が見つかって本当によかった、って。お互いがお互いを逃したらもう次は見つからなかったかもしれないねって」
お父様、たしかにそれは真実だけど。実の父親にさえそんなふうに思われていたことにただ情けなくなる。
「それもこれも、あのときの君のおかげだ」
「……ん? 私?」
「うん。あのとき」
微かに苦笑いを浮かべたエリオットは、軽くおでこをつついてきた。
「君がもぎたてのトマトをくれたとき。あのときじつは父からほかのご令嬢を婚約者にと進められていてね。でも僕はずっと一緒にいるなら君がいいと思っていたから、思い切って父に相談してみたんだ。僕はパティとじゃないと一生一緒にいられる気がしません、って」
「……侯爵様はなんて?」
「そうだろうな、って。おまえのなんで攻撃に耐えられるのはオールディントン伯爵令嬢しかいないに決まってるって。でも卿は頷かないだろうとも言われた。オールディントン伯爵令嬢は誰とも婚約を望んでいないって有名だから。だけどだからって諦めきれるわけもなくて、だから思い切ってオールディントン卿に直談判しに行った。そこで思ってることを正直に話したら、パティのことをそこまで想ってくれているのならって、なんと僕の熱意を認めて頷いてくれたんだ! 必ずパティを幸せにすると血判を押すならと迫られて、僕は迷わずに親指を切った。その覚悟も気に入ってくれたみたい」
いやいや、迫るお父様もお父様だが、躊躇わずに受けいれるエリオットもエリオットだろう。
「あのときパティが背中を押してくれたから、僕たちはこうして無事に婚約できたんだよ」
まさかの婚約話の背中を押したのが自分だったという。
でもなにはともあれ、あんなに恐れていた乙女ゲームの舞台には結局足を踏み入れることはなかった。あんなに過剰に恐れていた事態は、なに一つ起こることはなかった。
私はヒロインでもなければ悪役令嬢でもなかったし、前座で死ぬモブ令嬢Aでもなかった。なんならアリバイに利用されるモブ令嬢Bですらなかった。
私はエリオットのおかげで穏やかな幸せを手に入れられた、いたって普通のただの令嬢になれたんだ。
「ねぇ、パティ」
柔らかな青磁色の瞳は、小さいころからずっと一心に私に注がれている。
「勝手に色々と決めて悪かったとは思ってるよ。でも、僕だって自分なりに考えたんだ。君のことを小さいころからずっと見てきて、そしてこれからも君がどんな人生を送っていくのか、それを見守るのは僕がいい。そしてそれは僕以外の誰にもできないとも思ってる。だから、どうかお願い」
骨ばった大きな手が伸びてきて、そっと壊れものを扱うように頬を撫でてきた。
「僕だけに、パティって呼ぶ権利をくれない?」
まるで慈しむかのように笑いかけてくるエリオット。
……降参だ。いつもはこんな表情なんてしないくせに、こういうときだけこんな顔をされてしまったら敵わない。
「エリオットが後悔しないといいけど……」
「なんで?」
相変わらず「なんで?」の呪文を唱える彼が可笑しくて、思わず笑い声を上げてしまった。
いつの間にかエリオットに促されるままに王宮を出て、行きとは違う馬車に乗せられ、行きとは違う道を辿っていた。
このあと馬車の目的地がオールディントン家ではなくギャレット家であり、騙し討ちのように連れて来たエリオットがびっくりするほどの急ピッチで式の話を詰めようとしてまた一悶着あったけど、それはまぁ、今思えば笑えるようなハプニングだったということだけ、簡単に記しておこう。
以上が、パトリシア・オールディントンに生まれ変わった私と、ギャレット侯爵子息エリオットが結婚するまでのあれこれである。