気づいたら、この世界の貴族の子どもに生まれ変わっていた。
気づいたら、この世界の貴族の子どもに生まれ変わっていた。
物心ついたときから私はパトリシア・オールディントンで、なおかつ前世だった一日本人女性の記憶も持っていた。そんなちょっと人とは違った事情でオールディントン伯爵家の長女となった私だったが、貴族の令嬢として生を受けたことに、一つ懸念があった。
――ここがどのような世界なのか、全く見当がつかない。
前世の記憶を持ちながら貴族として生まれ変わったということは、まさかここはあの乙女ゲームの舞台というやつではないのか。明らかに前世の世界にはない頭髪の色を見ると、どうもそう疑わざるを得ない。
私は乙女ゲームのヒロインなのか、はたまた悪役令嬢か、それともただのモブ令嬢か。もしかしたらそんなものとは無縁のただの別世界なのかもしれないが、万が一ということもある。警戒しとくに越したことはない。そう思って幼少のころから、それはそれは慎重に生きてきた。
王宮へは上がりたくない。
主要な貴族の子息とは会いたくない。
お茶会や誕生日会には出たくない。
およそ貴族としてあり得ないような我儘を並べ立てて、両親をことあるごとに困らせた。その都度両親は渋い顔をし、兄は顰め面になったが、幸いなことにそう強く強制されることもなく、必要最低限適当にこなしながらなんとか無難に生きてきた。
そうやって高位貴族の子息や子女と出会うことを頑なに拒んできて、偏屈わがまま貴族子女の二つ名を欲しいままに手にした私だが、唯一たった一人だけ、その我儘が通らない相手がいた。
「またこんなところにいる」
かけられた声にぎょっとして顔を上げる。
「そんなことしてなにが楽しいの?」
栗色の柔らかそうな髪に、はっとするような青磁色の瞳。吊り目がちの大きな目が印象的なギャレット侯爵家子息、エリオットがそこに立っていた。
「ギャレット家のご子息様がこんなところになんの御用でしょうか」
「そのおちょくるような言い方、止めてって言ったよね?」
頬を膨らませた七歳児に、こっちも大人げなくつんとそっぽを向く。だって私だって、今生ではまだ五歳児だ。
「ねぇねぇ、なにしてるのってば」
「エリオットにとってはなにが楽しいのか分かんないような遊び! だから教えないもーん」
横から色々と口を出してくる煩い侯爵子息は無視して、もくもくと土を掘る。
「なんで庭師の真似事してるの?」
「将来なにが起こるか分かんないから」
「……どういうこと?」
「自分で食べ物を作れるようになっておいても、損はないと思って」
「ふぅん」
分かったのか分かってないのか、七歳児は訳知り顔でふむふむと頷いている。
「こんなとこにいても楽しくないでしょ、あっちに行ってお兄様たちと遊んだら?」
「んーん、いい」
そう返事をするとエリオットは私の隣にしゃがみこんでしまった。それに顔を顰めると、首を傾げてくる。
「服が汚れるからしゃがまないで」
「なんで? パティはしゃがんでるじゃない」
「私は作業服だからいいの! また怒られても知らないから。それにパティって呼ばないでって言ったでしょ」
「なんで?」
「なんでなんでって…パティって愛称はね、将来大事な人ができたときにだけ許すって決めてるから! それ以外の人は呼んじゃいけないの」
「ふぅん」
またまた訳知り顔で頷く七歳児を尻目に、私は黙々と畑仕事の真似事を続けた。
このエリオットだけは、なぜか出会った当初からこうやって私に纏わりついてくる。こうやって私のすることなすことになんでも「なんで?」と首を突っ込んできて、そのくせ律儀に答えてあげても「ふぅん」と対して興味もなさそうに返してくる。
侯爵子息ということで、将来万が一にも乙女ゲーム的なものがあったらいけないので、こっちからはできるだけ近づかないようにしてはいる。だが向こうから来る分は避けようがない。こうやって貴族なんか近寄らないだろう所に避難していても、この子どもはどうしてだかすぐに私を見つけ出すのだ。
「今日はなにしてるの?」
今日も今日とて私を見つけ出したエリオットは、父が雇っている護衛の騎士と対峙している私を見つけて、ぴくりと眉を動かした。
「護身術でも習おうと思って」
向かい合っている騎士は、半ば苦笑を浮かべている。
「こないだの畑はどうなったの?」
「……人には向き不向きがあるの! やってみなきゃ分かんないことって、あるでしょ?」
「ふぅん」
エリオットはまた例の「ふぅん」を発して腕を組んだ。
「それで、どうなの? 武術は向いていたの?」
よりによって私ではなく向かいの騎士へと尋ねられる。騎士ははっきりと首を横に振った。
それにむっとなって半ばやけくそで突進してみるが、あっさりと躱された上にそのまま転びかけた体を支えてもらう失態まで見せてしまう。
「ねぇ、なんで護身術なんか習ってるの?」
また「なんで?」の呪文を発動させた七歳児が、大きな目をきょとりとさせてボロボロの私の顔を覗き込んできた。
「将来なにが起こるか分からないから。自分の身は自分で守れるようになっておいたほうがいいと思って」
「ふぅん」
またもやエリオットはそう呟くと、ひたすら無駄な稽古に打ち込む私を飽きもせずに眺め始めた。
それから数年経って。
相変わらず「なんで?」ばっかり連発していたエリオットだが、このころは少し様子がおかしかった。どことなく元気がなくて、いつもの「なんで?」の呪文も精彩がない。
ある日、とうとう瞳に暗い影を落として黙り込んでしまったエリオットを目にして、私はしょうがなく彼に声をかけた。
「どうしたの?」
「……え?」
「なんだか最近元気ないけど」
「分かるの?」
大きな目に驚きを一杯に湛えて、エリオットはじっと見つめてくる。
「分かるのって、当たり前でしょ。そんなに分かりやすく落ち込まれて、分からないほうがおかしいよ」
「……そう。パティは分かるんだ」
なんだかもの言いたげにこっちを見つめてくるエリオットに、戸惑って見つめ返す。
「あっ、そうだ。ちょっと待ってて」
急な思いつきに立ち上がった私を、エリオットが視線で追ってくる。結局庭師が全部手入れを引き受けてくれた家庭菜園から、真っ赤に熟れたトマトを一つ、もぎ取ってエリオットに差し出した。
「……これは?」
「トマトだよ。知らないの?」
「いや、知ってるけど……」
戸惑いながら見上げてくるエリオットに、ぐいっと押し付ける。
「えっ、食べないの?」
もう一つ千切ってきてそのまま齧り付いてむしゃむしゃと食べ始めた私を、エリオットはこぼれ落ちるんじゃないかというくらいに目を見開いて凝視してくる。
「要らないならちょうだい。私が食べるから」
てっきり嫌いなのかと思って返してもらおうと手を差し出すと、エリオットは静かに首を振って躊躇いがちに齧り付いた。
「おいしい……」
なにやら感動したようにトマトを見つめながら呟くエリオットに、自分が育てた訳でもないのに胸を張る。
「……あのさ、なにを悩んでるのか知らないけどさ」
がぶりがぶりと汁が手に滴るのも構わずにトマトにかぶりついていると、エリオットはギョッとしたように凝視してくる。
「君って、私にはいっつも遠慮なく“なんでなんで”って聞いてくるくらい図太いんだからさ、そんなに悩んでいるならいっそのこと、一人で抱え込まずに相手に言ってみたらいいのに」
エリオットはこれ以上開けないだろうというくらいに見開いた目を、さらに見開いた。あんまりにも大きな目に、目玉がこぼれ落ちるんじゃないかと思って思わず受け止めるように手を差し出す。
なにを思ったのか、エリオットはその手を握り締めてきた。
「……うん。そうだよね」
エリオットは、私の言葉になにやら感動したようだった。
「言わなきゃ伝わらないよね。僕がどう思っているかなんて他人には知る由もないんだから、僕が思っていることは、自分でちゃんと言わなきゃならないんだ。……僕、ちゃんと伝えることにする」
「うん。そうしなよ。ところでこれ、君、よくこの汚い手を握る気になったよね」
「あっ……」
エリオットは気づいたようにパッと手を離すと、ばっちいものを触ったかのように慌ててハンカチを取り出して拭き始めた。
「それで、結局なにをそんなに悩んでたの?」
「ん? それは内緒」
自分はいっつもなんでなんでって聞いてくるくせに、いざとなったら内緒、かよ。
せっかくアドバイスしてやったというのに、つくづくつれないやつだ。
今度からなんでって聞かれても絶対に内緒って返してやると心の中で固く誓っていると、感慨深そうに名前を呼ばれた。
「パティ」
「だから、パティは大事な人にだけって……」
「ありがとね」
言葉を続けられなかったのは、振り返った先の笑顔が初めて見るものだったからだ。
かすかに口角を上げて、いつも吊り目がちな目を少し細めて。エリオットは微笑みを浮かべていた。
「……」
思わず言葉を失ったのは、その笑顔が素敵だと柄にもなく思ってしまったから。
「……いつもそんなふうに笑ってたらいいのに」
「え? 僕、笑ってた?」
「うん。少しね」
「そっか。僕、笑ってたかぁ」
エリオットはうーんと伸びをすると、急に吹っ切れたかのように立ち上がった。
「今日はもう行くよ。ちょっと用事ができちゃったから。またね、パティ」
ひらりと手を振って、エリオットは駆け出していく。
その後ろ姿にひらひらと手を振り返す。
この日からエリオットはよく笑顔を見せてくれるようになった。