登校を再開したとたんに絡まれる
久しぶりの登校の前、気合を入れる為に両手で頬を叩いた直後にキルさんに叱られた。令嬢が己の顔を叩くなどあってはいけないと言われれば、確かにその通りでちょっとばかり反省した所でエピさんに『わざとでは無いのですし』と仲裁に入られて、あわや当事者のあたしをほっぽって二人がお嬢様とは如何にあるべきかという話し合いを開始しかけた。
危ない危ない。せっかく登校しようってのにお二人さんに気不味くなられたら大変だ。のんべんだらりと過ごしていた田舎での楽しい仕事生活からきちんと頭を切り替えて、心機一転気合一発でやってやろうじゃあないかと宣言すると、話し合いは止まったものの二人から可哀想な子を見る目を向けられた。解せない。
エピさんに『止めなけりゃあ朝から晩まで仕事をしている生活のどこがのんべんだらりなのか』と聞かれたけれど、好きな事を延々やっていられるのはダラダラ過ごすのと一緒だと言ったら、雨でびしょ濡れの猫でも見かけた様な顔つきで『シオンさんは仕事についての見解をもう少し考えた方が良いと思います』と返された。解せない。
だってねえ、こう、鉄が粘土みたいに柔らかくなって、決まった型にはめるとは言え、道具袋に入れてあった押し型で模様を付けても良いよって言われたら、色々な押し方も出来るし楽しいよぉ?あのガチャガチャ連中が訪ねて来ない限りは。
元々一人でやる居職だったから、作業中は東西落語大全やら昭和の名人やらのCDを垂れ流していたんだけれど、こっちにゃあそんなものは無いから残念だとは思ったけれどいつも通り黙々とやっていた、つもりだったんだ。だったんだけれどね、何か聞こえなければ自分で話せば良いじゃないと思ったんだろうね、あたしの脳みそは。
時蕎麦から始まって、たがや、火焔太鼓、鰍沢、千早振る、蝦蟇の油、牡丹灯籠は栗橋宿といった件を結構な声量で喋りながら作業していたらしい。らしいってぇのは、全く自覚が無いんだよねぇ。あたしゃあそんなことを喋っていましたかってぇくらいだ。確かにね、作業中に独り言が多いのは認めるよ。相談する相手のいない作業なもんだから、ああした方良いとか次はこうしないとってぇ事をやたらめったら口に出して頭ん中を整理するタイプだってぇのは認める、
けどね、まさか集中している時に『今何時だい?』『へぇ、九で』何てぇ事を喋っているとは、家ん中にこもって作業しているこったし、お天道様でも気付かないたぁこの事だよぉ。
何か作業中の脇でやたらと休憩取ってる人が多いなって思っているうちに、何故か休憩用の椅子や机が設置されて、休憩なんだから和やかに話でもしながら茶ぁ飲んでりゃあ良いのに、雁首揃えてこっちぃ見て何が面白いんだろうねぇとは思っていたけれど、ありゃあ見てたんじゃぁなくて、聞いてたんだね。で、気にしない事にして作業に集中していたあたしは、『川開きって何ですか?』『水難防止祈願のお祭りだね』とか『熊の膏薬って何ですか?』『熊の脂肪から作れる薬だよ』ってぇ風に答えていたらしい。自分ながらにおっそろしいね。ユーさんの事以外で聞かれて困る事ぁ無いけれど、聞かれたら何でも答えそうだ。
だもんで、地元の方も歓迎、東方の話が聞けるってぇイベント会場になっていたらしい。金属グネグネ能力はそれなりに秘密ってぇ事になっているはずなんだけれどね、誰も作業にゃあ目を向けていなかったとか。まあ、そこいらは切れ者のキルさんやルーストさんがきちんと管理している筈だし、あたしの預かり知らぬとこだから何とでもなっているんだろうねぇ。
お上品なユーさんスマイルを浮かべながら「皆様、ご機嫌よう」と言いつつ教室に入れば、対角線上あっち側に移動する学生さん達。別に気にする事ぁ無い。
ユーさんの記憶にも心無い噂が流れて生徒さん達に距離を取られた事実がばっちり残っているし、学園で一番お偉い王子さんが婚約者候補であるユーさんを邪険にしたせいで、お貴族様の勢力関係の中でユーさんとのお付き合いは難しいもんになっていただろうしね。ユーさん自身は己の立場を考えて、それでも公明正大に誇り高く清廉潔白にと頑張った。傷付いてもそれを見せずに頑張った。で、出来て当たり前、出来なきゃ貶されるってぇ事になった。
全く、その場にあたしが居たら、ユーさんの孤高の決意は置いておいて、出来た事を盛大に褒めて、出来ない事をどうしたら良いのかってぇ話し相手くらいには慣れたのに。
まあ、別の世界に居たんだから絶対有り得ない事だけれど、気楽な歳上のお姉さん、ちょっとばかり別世界の人生経験を詰んだお節介おばちゃんとして、ユーさんの体を任された身として思うところもあるし、こっから学生としてやってやろうじゃぁないか。
無表情のキルさんと心配そうなエピさんに挟まれて席に着いたところで、アザレさんが勢いよく教室に飛び込んで来た。
「ちょっと、ウィス、王妃様に何を言ったの?」
たった一言の中に、ユーさん基準で不敬罪と不用意がたっぷり詰まっている。全く、このうっかりアザさんめ。
「ちょっと、無視しないで返事をしなさいよ」
キルさん調べによれば、アザレさんは学園の生徒達に愛される可愛いお嬢さんの地位を得ているらしいのだけれど、ユーさんに対するこの態度を見て、みんな何とも思わないのかねぇ?小言幸兵衛の鉄砲鍛冶じゃああるまいし、ポンポンポンポンいい通しだよ。そのうちマグロの土手に齧り付くのかね?
エピさんが机の下で手を握ってきたのでそっちを見れば、小さく頷いたので頷き返した。
再登校にあたって、アザレさんが今までみたいに失礼な態度をとったらエピさんかキルさんが対応するってぇ事にしているんで、ここは黙ってお任せする。
「メガイラ伯爵令嬢、その様に礼儀に整わず話しかけられてもお嬢様にはお言葉をお返しする義理がおありになりません。お話をなさりたいのであれば、マナーに則ってお願い致します」
「な、何で、いきなり?」
翡翠色の目ん玉をかっぴらいて口を半開きにしている様は、清澄庭園のお食事中の鯉さながらといったところかね。鯉の目ん玉は黒だけれど。
「え、えと、あ、貴女はウィスの取り巻きの地味な方ね」
取り巻きってぇ表現がどっから出て来たのやら。海苔巻きなら甘く煮た干瓢が好きだけれどさ。
◇◆少しあれな言葉説明◆◇
がちゃがちゃ:クツワムシ(文部省唱歌『蟲のこゑ』から)。古今亭志ん生(五代目)の唐茄子屋政談の一節。「がちゃがちゃじゃああんめぇし(カボチャばかり食べている訳じゃない)」
クツワムシは唐茄子を食べるという所から、がちゃがちゃ>カボチャ>カボチャ野郎>お馬鹿さん。
時蕎麦〜牡丹灯籠:全て落語の演目。
こったし:事だし。事であるし。
雁首揃えて:人がその場に集まる事。人の首や頭の乱暴な言い方。
小言幸兵衛:話の中の一節。マグロの土手(背側の切り身)に齧り付く。




