武恵妃の死
十一月、玄宗は例年通り、麗山温泉に行った。
武恵妃は、半年たっても体調が戻らず、長安に残った。
寿王、楊玉環はごきげん伺いのため同行した。
玄宗は、武恵妃の存在をすっかり忘れて楽しく過ごして、長安に帰ってきた。
帰ってきて、武恵妃に会った玄宗は、あまりの衰弱ぶりに驚いた。
武后様は黒猫を恐がっていたが、同じように武恵妃は幽霊を恐がっている。
霊のせいだということで、巫術も許可した。
だが効き目はなかった。
何人もの巫が来て、呪いを行ったが、効果は現れなかった。
三人の皇子たちの祟りだと噂されるようになった。
だが、もう体面を気にする余裕はないようだった。
美しさはかけらもなかった。
悪の報いを支払っているのだなあ。
気の毒と言えば、皇子たちに申し訳ない。
三人の皇子たちは、処刑という恐怖を経験したのだ。
罪なくしてな。
十二月に亡くなった。
苦しみ始めて、半年であった。
四十すぎての死であった。
教坊に、良くやったと連絡するように
と、高力士に言った。
一人、一役でちょうど良かった。
一人で三役出来ます、と言っていたが、半年もすれば、体を壊すところだった。
戦は余裕をもってすることが、大事だ。
あんなに苦しむとは、自分で罪を認めたようなもの。
それらしき事も口にしてたしな。
皇后に封じて、貞順皇后と諡をした。
翌年、開元二十六年(738年)
二月、貞順皇后を敬陵に葬った。
玄宗は難関を一ツ越えたと思った。
李林甫が時々、思い出したように、
皇太子位が空いております。
寿王様を封じてください。
と、口にした。
だが、玄宗は悩んでいる振りをして、なかなか決めなかった。
玄宗の心の中は決まっている。
決まらずにヤキモキしている連中を見て、楽しんでいたのだ。
高力士の言葉に助けられた形をとって、年長であり、情が深く親孝行で勤しみぶかい、好学な忠王を皇太子とした。
年長という言葉は、唐の国にとって、意味深い言葉である。
太宗様は嫡子の中の次男
高宗様は嫡子の中の三男
中宗様は嫡子の中の三男
叡宗様は嫡子の中の四男
そして朕は、庶子の三男
長子で跡を嗣いだ者はいないのだ。
誰だって、長子を跡継ぎとして、順当に相続させたいと思っている。
だが、朕の場合、中宗様を殺した葦后を討ち、太平公主を討ったから、嫡長子の寧王が、
功績のある者が跡を継ぐべき、
と言って譲ってくれた。
だから、朕が皇太子となったのだ。
今、改めて考えると、もし、兄上が皇太子になっていたら、朕に協力した連中が黙っていなかっただろう。
朕を唆かして、煽っただろう。
そんなの可笑しい、
と、言ってな。
自分たちも出世したいのだ。
そして、朕も煽られ、その気になっただろう。
二度の内乱を起こし、勝利した仲間たちだ。
それだけに、有利だ。
朕は、太宗様のようになったかもしれなかった。
だから朕は、謀叛を畏れる。
やりようによっては、難しくないからだ。
兄上が思慮深いお人でよかった。
相続の決まりは、ちゃんとせねばな。
それが出来るのは、皇帝のみだ。
俶が皇太子になれば、唐、初めての長子相続となる。
御先祖様たちの悲願だ。
忠王を皇太子にするのに、十年以上かかった。
これも、唐の大計のためだ。
あと少しの辛抱だ。
武恵妃が玉環に楽器と踊りの師匠をつけてくれた。
だから、玉環との生活が想像できて楽しみだ。
あと少しだ。
李林甫は、イライラしていた。
まさか、寿王が皇太子になれなかったなんて。
そして、いかにも凡庸そうな忠王が皇太子になるなんて、
寿王を皇太子にしようとしたのは、武恵妃との約束のためだけではなかった。
武恵妃が生きていたなら、少しでも長く宰相でいられるように動いてくれただろう。
そして立場を利用して、息子たちを良い地位につけたであろう。
寿王は、皇太子位のために動いた自分に感謝して、少少の過ちに目をつぶっただろう。
政のすべてを自分に委せたであろう。
見返りを考えての事だったのである。
忠王は多分、自分を嫌っているだろう。
虐めていたのである。
母親の腹にいた時は父親に殺されそうになり、廃后となった女子に育てられた皇子である。
どう見ても、明るい未来があると思えなかった。
虐めたせいで、髪が薄くなったりしていた。
それをまた笑っていたのである。
だが、皇子が産まれ、様子が変わった。
玄宗にとっては初孫である。
玄宗は、忠王の子を嫡皇孫として大切にしている。
以来、忠王は重用されている。
何等かの形で失脚させなければ、と思った。
皇帝になぞなられたら、仕返しが怖い。