安祿山と史そつ干
安祿山という者、唐を語かたる上で、外せない男である。
営州の雑胡・ソグド人といわれているが、出は営州ではないであろう。
母親は巫と言われている。
蕃族の中で、巫と言えば一目おかれる。
未来を占うが、病も治す。
誰もが世話になる、有り難い存在なのである。
父親は早々に死んだという。
母親は、突契の安延堰と再婚をした。
部落が襲われ、義父の甥と逃げた。
それからは“安”の姓を名乗った。
また、史そつ干という者もいた。
安祿山と同郷の者であり、誕生日も一日違いだった。
環境も似ていたせいか、長ずるに及んで、お互い仲良くなった。
皆で市牙郎となった。
市牙郎とは市で商売をする仲買人である。
安祿山も史そつ干も、各地を転々とした経験から、五、六カ国語を喋れたのである。
ソグド人は子供が生まれると、蜂蜜をなめさせ、手にニカワを塗ると言う。
大人になったら、甘い言葉をしゃべり、手に握った金を離さないようにとのマジナイである。
ソグド人は、商人なのである。
玄宗お気に入りの張守珪と、安祿山の出会いは、安祿山が羊を盗んだことによる、とされている。
罰せられようとした安祿山が、
契丹や奚を滅ぼしたくはないのですか?
なぜ、私を殺すのですか?
と、訴えたので刑はとり止められ、張守珪の部下となった、との次第である。
羊を盗んだのは、張守珪との縁を結ぶためであったとも言われている。
ずる賢いといわれる所以である。
安祿山は、言葉通り、討撃使となり、少しの部下を連れて出かけては、数十人もの者を捉えて、連れ帰ってきた。
しかし、安祿山は、醜く太っていたので、身なりを気にする張守珪に嫌われないように、お腹いっぱい食べることはなかった。
また、太らないための運動らしきものも、したという。
それなりに、気を使っていたのである。
そんな安祿山を気に入り、張守珪は養子にした。
ある時、平盧討撃使かつ左驍衞将軍である安祿山が、奚と契丹の謀反者を討とうとした際、自分の力を過信して敵陣深く入り、敗北した。
四月、張守珪は安祿山に罪を問うて、死刑にしようとした。
大将軍、奚や契丹の悪者を亡ぼしたくはないのですか?
どうして、祿山を殺すのですか?
また、同じことを言った。
だが、張守珪はそれを聞くと、その勇猛さが惜しくなった。
そこで、手柄を書いた書状を添え、
如何にすべきでしょうか?
と、安祿山を長安に送った。
張九齢が言った。
昔から、軍令は守られるべき。
と、
斉の司馬穣苴が荘賈を、孫武が王のお気に入りの宮嬪を切りました。
張守珪が、軍令通り行えば、祿山の死は免れません。
玄宗は書状に書かれた祿山の業績をみて、その才を惜しみ、無官とし罪を許そうとした。
だが、張九齢が強く反対して云った。
祿山は決まりを守れていません。
法において、殺さない訳にはいきません。
おまけに、あの者の面構えには、謀叛の相があります。
殺さなければ、必ず、後の災いになるでしょう。
玄宗は
卿は、王夷甫が石勒を見たことを言っているのか?
契丹や奚を討つ忠義な者を、悪意で見て殺してはいかん。
玄宗は安祿山を許した。
石勒とは?
王夷甫は洛陽で商売をしている石勒を見た。
まだ、十代の若者であった。
通りすぎたが、どうしても、その顔に反逆の相が見てとれたので、もう一度、その場に帰ってみた。
だが、立ち去った後であった。
その後、石勒は世に出て、最後に、後趙の始祖となった。
だが、王夷甫は、世に出る途中の石勒に会い、殺されたのである。
史そつ干は、かって公金を使い込み、奚に逃げ込んだ。
奚の遊撃隊に捕まり、殺されそうになった。
そつ干は、
私は唐の和親使節である。
私を殺せば、災いがそなたの国におよぶだろう。
と、偽った。
遊撃隊はそれを信じた。
史そつ干を奚王に会わせた。
そつ干はおじきをしなかった。
奚王は腹がたった。
だが、唐を畏れて殺さなかった。
史そつ干が入朝するので、百人、兵を随行させようとした。
そつ干は言った。
随行が多すぎる。
聞くところによると、 瑣高という立派な将軍がいるのこと。
入朝にどうして、その者を使わないのか?
奚王は、瑣高と精衞三百人を、そつ干の入朝に遣わすことにした。
平盧節度使に着く前に、軍使の裴休子に使いをやり、
奚の瑣高が入朝すると云って、精鋭と供に来ている。
その実、城を襲おうとしている。
宜しく、計画して備えてくれ。
休子は、軍を迎え館に招き入れ、兵をことごとく殺した。
瑣高は幽州に送られた。
張守珪は、史そつ干を有能と認め、褒めて、朝廷に上奏した。
史そつ干は将軍となった。
安祿山と史思明は、仲がいいだけ、二人はずる賢いところがよく似ていた。