裴耀卿の曹運案
九月に入ってから、雨が続くな。
この様子では、不作かも知れない。
また、洛陽に行かねばならないのか?
忠王も言ったが、面倒なものだ。
特に、下の者は歩きだから、尚、嫌だろう。
二、三年まえ、斐耀卿が租米の漕運を改良したい、と申していたな?
朕も年だ。
あまり、無理はしたくない。
斐耀卿を呼んでくれ。
話を聞いてみたい。
陛下、なにかご用でしょうか?
卿、そなた前に、朕に、漕運を良くしたいと、申していたな?
はい、私、各地の刺史を経験させていただきました。
その時、租米を納品するのに、農民が苦労するのを見ました。
特に、船での漕運が慣れてなくて、苦労しているように見受けられました。
良く、変えたいのだな?
はい、陛下。
そなたは、どういうふうにしたら良いと考えているのか述べてみてくれ。
はい、陛下。
それでは、あらかじめ、河の様子をご説明します。
黄河でも、淮川でも、広済渠(隋での通済渠)、山陽とくでも、長安に来るには、どの河も、逆流なのです。
流れに乗って進めないのです。
まあ、空船の帰りは、流れに乗って楽に帰れますが。
ですから、租米を乗せ長安に向かう船は、いつも、引かなければならないのです。
引き手は、綱が体に食い込まないよう胸に板をあて、綱を体に斜めにかけ、引きます。
その綱が、よく、切れるのです。
綱の交換は時間の無駄になります。
だから、より強い素材の綱にしたら良いのではと、考えています。
では、出発点を揚子江の江都として、話させていただきます。
江都から淮陰までを山陽とくと言います。
そして、淮河にでると、淮河を遡ります。
この距離は長くはありません。
広済渠に入るためです。
あっ、大切なことを言い忘れていました。
船が違う川に入るのは、時間がかかるのです。
河はそれぞれ、水位が違うのです。
上流が大雨だった時は、水位が高いし、干魃の時は、水位が低い。
そんなことは、着いてみなければわかりません。
似たような水位になるまで、そこで待つのです。
だから、待つ船が並ぶことになります。
時間の無駄です。
山陽とくの、淮河の河口から淮河に入るのも、水位を待たねばなりません。
淮河から通済渠の川口に着き、水位を待って、広済渠を北に遡ります。
そして、黄河に入ろうとしたら、また、水位の高さが同じ位になるまで待ちます。
待って、黄河に入りまた遡ります。
だから、広済渠が黄河に入る所、二つの河の合流する場所に倉庫を作り、そこに、租米を入れて、水位を待たずに、船をそのまま帰すのです。
この倉庫のある港が、二つの河に接するから、広済渠から倉庫にいれた租米を、黄河に浮かぶ船に移動させるだけで、待つ必要がなくなります。
水位を気にしなくて、よくなります。
農民は待つ時間が長くて、持ってきた食糧を食べつくしたり、作物を育て始める時期に間に合わなかったりで、苦しんでいるのです。
河の様子(荒れているか、穏やかか)を見て船を出します。
だから、二つの川のあう場所、揚子江と山陽とく、山陽とくと淮川、淮川と広済渠にも、倉庫を造るようにしたら待つ時間が省けると思います。
そして、黄河・最大の難関、三門峡ですが、挟んで手前東側と、向こう西側に、やはり倉庫を作り、三門峡の間だけを陸送するのです。
ただ、道を通すために、岩を穿たなければならないでしょう。
あっ、これは黄河、北側にです。
東側の倉庫に入れた租米は天気のいい日に、その道を牛車で運ぶのです。
その租米は西側の倉庫に入れておきます。
黄河の水流が荒い時は、船の運行を止め、水流が穏やかな時に租米を船で運ぶようにします。
租米を船に乗せ、黄河を遡り、潼関から広通渠を通り、終点長安に届けるのです。
広通渠は、隋の時代に作られた物ですから、そのままでは、使い物になりません。
浚渫しなければなりません。
着いた長安にも、倉庫を作っておいて、船の租米をすべて納めます。
送られてきた、すべての租米を納めるのですから、多くの倉庫が必要です。
必要な時、必要な量を取りだせます。
黄河を遡る船で、水夫が江南の者などは、黄河に慣れていなくて、よく遭難します。
黄河の運航は、朝廷が船で運ぶようにして、農民から料金を支払ってもらうようにします。
遭難の危険を考えると、お金を払っても、異論はないかと。
これが、私の漕運の案です。
卿、良く考えたな。
各地の刺史をしたことが、生かされておる。
戦の時も、いろいろ提案してくれたと聞く。
もっと、早く話を聞くべきだったな。
だが、そなたは今、京兆尹だ。
この長安の責任者だ。
次の者も考えねばならない。
すぐには任命出来ないが、その方向で進めたいと、思う。
この雨では、洛陽に行かねばならんな。
さがって良い。
はい、陛下。
失礼します。
その前に温泉に行かねばな。
太宗様も温泉好きだった。
朕と同じだ。