周りの国々
明けましておめでとうございます。
陛下、洛陽から后土を祀るために、各地を回られ、長安に帰られるのが遅くなり、恒例の年末の温泉行きは叶いませんでしたね。
いいのだ。
豊作が続いたのだ。
お礼参りをしなくてはな。
もう少ししたら、行こうと思っている。
一月だ。
農繁期ではないからな。
かって、そんなことを考えもしなくて、思いたって温泉に行こうてして、諌められたことがある。
農民のことをお考えくださいとな。
それ以来、朕は、農繁期に温泉に行ったことはない。
冬場に決めたのだ。
温泉行きをな。
言ってくれた者には感謝している。
今の時期は寒い。
農民も、家の外で働いていないだろう。
そなたも、温泉に行く時は時期を考えるように。
蕭明皇后の魂をやっと太廟に移すことができた。
武后様の時代、悪口を言った罪人として、(武后様が亡くなり、父上・叡宗様が即位するまで、)母上・昭成皇后と、叔母上・蕭明皇后の二人はきちんと 祀ってもらえなかった。
そして、体は洛陽の土の中に一緒にいるのに、恵陵、靖陵と別れて埋葬された。
叡宗様が亡くなられた時、二人の衣が叡宗様をはさんで左右に置かれた。
だのに、太廟には母上の魂だけが叡宗様と共に祀られた。
叔母上の魂は、儀坤廟に置かれたままだった。
朕は、兄上に申し訳なかった。
兄上が元気な時に、叡宗様のお側に行く事ができてよかった。
兄上も、心のつかえが取れただろう。
朕の母上も魂が二人一緒になれて喜んでいることだろう。
ところでだ、
朕が子どもの頃、武后様の周の時代、急に契丹が攻めこんできた。
それまで、契丹は唐の属国で、何の問題も起こしていなかった。
契丹は、太宗様が突厥を滅ぼしそうになった時やって来て、内属したいと申し出たのだ。
ああ、唐の属国になりたいと言う事だ。
太宗様は契丹の勢力範囲をみて、喜んだと思うよ。
高麗と地続きの場所だったからな。
太宗様は、次の戦、高麗との戦を前にして、背後を心配しなくていいと思っただろう。
だから、契丹部を松漠府として、柳城郡の側の松漠の地に置いて、帥の窟哥を都督としたのだ。
都督でも、おかしくないだろう。
帥、長なんだから。
その時一緒に奚も内属を申しでた。
だから同じように、奚部を堯楽府として、帥の可度者も都督としたのだ。
他にも七つの部落が従ってくれた。
その者たちの主を刺史とした。
そして、また五つの部落が参加した。
その主たちも刺史とした。
その地を営州とし、東夷校尉を置いた。
名前の通りだ。
東の蛮族の監視だ。
後の営州都督府だ。
そして、今の平盧節度使だ。
あの頃の突厥は、いくつにも別れて争っていた中国の小さな国々にもいろいろ便宜を謀って、いかにも協力しているように見せ、一つにならないように、争わせていたのだ。
だから、唐にも、馬と兵を寄越したのだ。
小さな国だと、突厥の脅威にならないからな。
当時の西突厥は唐の北西一帯を支配していたと言っていい。
西突契だ。
突契は内紛で、西と東に別れたのだ。
太宗様が勝てたのは内紛のおかげもあるのだ。
西突契は多くの属国の者たちを従えていた。
だから、属国の者たちは、大国を亡ぼした若い太宗様を見て驚き、力を認め、今まで、突厥の頡利可汗の称号だった天可汗を、太宗様に献上したのだ。
当時、太宗様は三十三才。
大国である唐の至尊とは思えない若さだ。
その時、頡利可汗は生け捕りにされ、
長安に連れてこられた。
太宗様は、重臣たちに意見を聞いた。
殺したらいい、辺鄙なところで開墾させたらいい等、いろんな意見があったそうな。
しばらく、考える事にして、可汗を放っておいた。
次に会いに行くと、随分、元気がなかったそうな。
今まで、平原を馬で駆けていた人だ。
狩りに誘って、虔州の刺史にならないかと、聞いたそうな。
随分田舎、愛州が近いな。
断わられた。
可汗も、何もしないのはダメだと、思ったのだな。
次に提案した、右衛大将軍に決まった。
名前は立派だけど、宮城の警護が仕事だ。
次の正月、死んだよ。
もしかしたら、朝貢に来たかつての知り合いたちと何かあったのかもしれない。
突厥の風習に従い、遺体を火葬して送ったそうな。
ああ、話を戻そう。
反乱の首謀者は李盡忠で、松漠、契丹の都督だった。
契丹の都督という事は、契丹人という事だ。
李姓を賜り、松漠州を委されていたのだな。
太宗様の時の都督から、二、三代目になるだろうな。
もう、一人は孫万栄という、歸誠州の刺史だ。
李盡忠は孫万栄の妹の夫だった。
孫なんて名前だから、漢人かと思うが契丹人だ。
契丹の酋長の一族だそうだ。
そのもの達が住んでいる場所、営州都督府の監督だが、なんせ、その都督が、すぐ側に住んで飢えている契丹の者たちに、食べ物を渡さなかったようだ。
歸誠州刺史の孫万栄も営州に住む契丹人のために、食べ物を渡すように進言したはずだ。
だが、渡さない。
それに、部族の酋長に対しても、奴僕に対するような扱いだったそうだ。
太宗様との話合いでは、当然食糧の事は決めていただろう。
前には、食糧を当たり前のように渡していたんだろうな。
だが、貰えなかった。
だから、恨んだ。
挙兵した時、すぐにその都督は殺されたそうな。
その怒りが、契丹人たちを唐の内地に向かわせたのかなあ。
ああ、営州都督府は長城の外にあるのだ。
契丹の怒りもわかる。
だが、時代が変わったのだ。
西突厥が滅んで無くなった。
高麗が滅ぶ前の話だ。
高麗には五回遠征している。
手強い相手だった。
契丹は、高麗滅亡に貢献している。
だが、当時から考えても三十年位、昔の話だ。
話は、また変わるが、高麗の遺民が、その時、営州に居たのだ。
高麗は、負かすのにも時間がかかったが、高麗が滅んで二十年、数も多いがやっと、唐の近くまでやって来ていたのだ。
まあ、何万人という数だからな。
歩いて来るのには、時間がかかる。
契丹の反乱で唐が混乱しているに乗じて、大祚栄を指導者として、その遺民たちが逃げ出したのだ。
大祚栄は、靺鞨人だということだ。
この話の続きはまた後でだ。
この話と関係があるのだ。
西突契の滅んだ後、その地域は唐が支配している。
安西都護府、北庭都護府、西方の砂漠の方まで支配はゆきとどいている。
高宗様、武后様も太宗様に倣ったからな。
だから安全だ。
商人も多くやって来る。
交易も順調だ。
国際都市・長安が栄えたのは、太宗様たちのおかげなのだ。
だが、西突厥がいなくなったら、吐蕃が動きだす。
吐蕃は唐の北西の一部を除いた西側ほとんどを領地としている。
だが、平地は少ない。
吐蕃が動いても、ささいなものだ。
そして、別の強い突厥が現れた。
次々現れる敵に、敵であった吐蕃が、唐に内属したいとやって来た。
その部族は何万人もの兵を持つ。
武后様は、強い味方の兵が来たと喜んで受け入れた。
それを見て、違う部族もやって来た。
次々とな。
やって来た蛮族は、強い突厥と戦ってくれる。
この時、西側はけっこう戦があった。
だがもう、東側に敵はいない。
営州の都督からみたら、契丹は戦いもしない、役立たずに見えたのだろう。
役立たずと思ったから、粗末に扱い、食べ物を渡さないなど虐げたのだろう。
突契は、吐蕃の兵を合わせた連合軍と戦い、何度も負けた。
武后様は何万、何十万の兵を擁した戦のその将軍に、愛人の薛懐義を任命し、華を持たせた。
突契は持たなくなったのだろう。
降伏の使いを寄越した。
契丹が兵として戦うには戦場が遠すぎた。
実際、唐の役に立っていない。
だが、いざという時は我々は頼りになる人間だ。
我々の力を見せてやろう、と思ったのだろう。
だから、兵を挙げた。
何万人にもなったそうな。
契丹の兵が強いのなんの。
唐の兵が何十万となって戦っても勝てないんだ。
そうしたら、面白いものだなあ。
二、三か月後に、突契が侵入し、黙啜がやって来た。
時を同じくして吐蕃が親睦にやって来た。
吐蕃は、今は唐の物だが、突契の物だった土地が欲しいと、言った。
唐には必要でない土地です。
と臣下に説明され、武后様は、それを許した。
突契の黙啜は娘の婚姻の事できた。
そして、
戦に負けた時、労働力として連れ去られた民、降戸を返してくれたら、契丹を討ちましょう。
と言った。
唐の混乱に乗じて、利益を得ようとしたのだ。
それは、吐蕃も同じだ。
渡さないと言ったら、唐に向けて出兵すると言ったかもしれない。
黙啜は左衞大将軍、遷善可汗となった。
松漠で、黙啜に襲われ、李盡忠は孫万栄の妻子と共に捕まり、殺された。
黙啜は、立功報国可汗となった。
孫万栄が李盡忠の代理となった。
それでも、契丹はいろんな州に現れては、何十万もの兵を擁する唐軍を圧倒した。
だから、また、黙啜に声がかかった。
今度は、要求が多かった。
別の土地の降戸、殻種、絹、農機、鉄などだ。
武后様、即答はしなかったが、承諾した。
孫万栄は、同志の奚に叛かれ殺された。
自分たちは役に立つと、力を誇示するために、唐に侵入してウロウロしていたのか?
目的に反して、ただ怖れられ憎まれただけだった。
従う者も、終わりにしたくて、裏切ったのだろう。
首は梟されたそうだ。
これで、契丹の乱は鎮圧された。
一年間ちょっとだ。
その時、唐に降った者がいた。
李楷固と駱務整だ。
狄仁傑の進言により、楷固は左玉鈴衛将軍、務整は右武威衛将軍となり、契丹の残党を討ち、平定するよう命じられた。
任務は、遂行された。
その後、高麗の遺民たちの逃亡を指導した、大祚栄を討つように言われ、営州から東二千里まで追いかけたが、高麗と靺鞨の兵に阻まれたそうな。
命を遂行する事なく、唐に帰ったそうだ。
な、関係あっただろう。
高麗と靺鞨が立てた国、最初は“震国”と言っていたが、叡宗様が大祚栄を渤海郡王とした時、国名を“渤海”としたそうだ。
また、契丹の話に戻るが、反乱の後、立ち直れなかったそうだ。
だから、突契に従うことにした。
開元四年、契丹の李失活と、奚の李大甫が降伏して来た。
李失活を松漠郡王、行左金吾大将軍兼松漠都督と、その八部落酋長と刺史とした。
李大甫は饒楽郡王、行右金吾大将軍兼饒楽都督とした。
李失活は李盡忠の身内と、云うことだ。
吐蕃が、再び、和を請うてきた。
いつも同じだ。
突契も契丹も奚も吐蕃もだ。
それまでしていた戦はなんだったのか?
と思う。
国が豊かになり余裕が出来ると、急に侵入してきて、戦の負けが込むと和を請うてくる。
その一と月前に、突契の黙啜が殺された。
首は長安に届けられていたから、知っていた。
唐との間に何かあった時、頼りにする者が居なくなったから、唐にすり寄ってきたのだ。
皆がな。
契丹はあの後、今が開元二十一年だろう。
婚姻から、翌年、李失活が死んで十五年だ。
大臣の可突于が李失活の次の王を婆固にしようとしたが、婆固が可突于を排除しようとして、反って攻撃され、営州に逃げた。
都督が五百人ほど兵を出し、奚王李大輔と婆固が一緒になって可突于を討とうとして、反って皆殺された。
兵の指揮官も捕まり、営州は震えあがった。
だが、可突于は婆固の身内の鬱于を王として立てた。
謝罪の使いも寄越した。
開元十年、鬱于は長安に来て、婚姻相手を朕に求めた。
また、皇族の者の娘を公主にしてと嫁がせたよ。
鬱于を松漠郡王に封じた。
他の役職もな。
可突于も来ていたので、左羽林将軍とした。
次の年、鬱于が死んだ。
次々と王が死んでいく。
おかしな話だな。
弟吐于が鬱于の跡を継いだ。
開元十三年、吐于が急にやって来たが、帰らない。
可突于が李盡忠の弟邵固を王とした。
その冬、邵固の居る行在所に寄って、広化郡王に封じたよ。
また、皇族の親類の娘を公主として嫁つがせた。
邵固が帰ったので、可突于が貢ぎものを持って長安に来た。
中書侍郎が無礼な振る舞いをしたらしい。
不満そうな様子で帰ったそうな。
張説が見ていて、可突于は必ず反乱を起す、と云った。
見下された扱いを受けた者として、張説には可突于の気持ちが、分ったのだろう。
開元十八年、可突于は邵固を殺した。
公主は平盧軍に逃げ込んだ。
契丹と奚は可突于に率いられ平盧は占領された。
そなたが、元帥になって戦っているのが、この戦だ。
戦場に行かないから、実感がないだろうな。
まあ、大切な体だから、とても遣れないがな。
そなたになにかあれば、俶をどういう形で皇位に即けるようにするか悩むだろうからな。
唐の者が多く殺され、契丹の方が旗色はよかった。
だが、可突于が苦手とする張守珪を、朕が呼び寄せた。
守珪は契丹の内情に詳しい。
部落の者を秘かに招いて、説得したと言う。
どうなるかな?
戦は結局、余裕がある者が続けられる。
勝たなきゃ。
この戦で、そなたを偉くしなければ。
いっぱい箔を付けて、皇太子にしなければな。
可笑しなものだな。
会合で、そなたが太宗様に似ていると、言った者がいたそうだ。
太宗様の肖像画を見たことがあるそうだ。
暗いところで見たのか?
それとも、眼が悪いのか?
聞いた朕の方が驚いたよ。
ああ、時に考えるよ。
あのまま、太宗様と契丹との約束を守っていたら、節度使なんて必要なかったのに、とな。
だが、唐だっていつも豊作とは限らない。
仕方がないのだな。
今では、契丹と奚に接する国境が兵を一番必要としている。
范陽節度使だけで九万人を超える。
平盧節度使は四万人近い。
滅びそうになっても、甦る。
もしかして、契丹は大きくなるかも知れない。
北周も、隋も、唐も武川鎮から出ている。
三つの王朝が、だ。
あの地には王気があるのかも知れない。
契丹の故郷が鮮卑の地だと言う。
太宗様の皇后、朕の祖母上が鮮卑の出だ。
長孫氏だ。
武川鎮には鮮卑族の者が多い。
太宗様がかつて、
突契と契丹は同類ではない。
と、云ったと言う。
しかも、服装、葬儀のやり方が同じだと聞く。
太宗様、何か知っていたのかも。
王気がある?
かもしれない、って話だ。
早めに潰した方が、いいかもな。
だが、王気があるなら、潰せないか。
あっ、李盡忠と孫万栄の反乱、高麗の遺民を逃がす為だったのだな。
だから、唐の領土内に入って、粘ったのだ。
他に気を向けないようにな。
少しでも時間を稼いで、少しでも遠くに逃がすためにな。
だから、何万人もの民が二千里を歩けたのだ。
一年間かけてな。
皆、希望に燃えていただろう。
そして、建国。
滅ぼされた国が甦ったのだ。
嘘みたいな話だな。
そう考えると、営州の都督、何万人もの高麗の遺民を食べさせるので、食糧が足りなくて、契丹に食糧を渡せなかったのかもしれないな。
これは推測で、本当か、どうかはわからない。
でも、何かあると、いろいろ関連してくるのだな。
行動は熟慮の上、為されるべきなのだなあ。
心せねば、な。