杏の死
今日は、いい天気でよかったですね。
折角の日ですから、気持ちがいいです。
陛下も立派な衣をとどけて下さって、あっ、蓮とお揃いの冠も一緒です。
蓮の衣もです。
こんなにしていただいて、ありがたい事です。
河北道行軍元帥なんて、立派な肩書ですが、戦に行くことになるのですか?
安心しなさい。
我々、皇族は最高司令官になっても現地に行く事はない。
“遙領”といって、身は長安にいて、肩書きだけだ。
副元帥が二人ついていて、その者が現地で実際に戦ってくれるのだ。
形だけの、元帥だ。
なんだか、悪いですね。
だからなのだ。
今日のような場を設けたのは、実際に、戦に行く者と顔繋ぎをするのが主な目的なのだ。
会の後で宴がある。
私が主催する立場だから、俶も連れて行きやすい。
ただ、百官とは多いな。
陛下も、力を入れて下さっているのですね。
仕方がない。
いずれ来ることだったのだ。
俶の支度を早くしてやれ。
後は自分で出来る。
蓮の衣、着るのを見るのが楽しみです。
池の蓮、天気がいいから綺麗に咲くだろう。
入って採ろうなどと、考えるなよ。
そなたは、親王の妻なのだから。
はい、はい、親王様。
仰せのとおりにいたします。
そなたの、“はい”は怪しいからな。
頼んだぞ。
どちらでなさるのですか?
光順門だ。
大明宮で、後宮の近くならわかるが、西側はあまり行った事がない。
住んでいたのは子供の頃だし、通り道とは外れている。
蓮、急がせます。
そうしてくれ。
まあ、緑児が蓮の身支度、してくれています。
はい、丹丹様のいい付けに従ったまでです。
はあ上、ちゃんと、にいにいの事もしてあげて。
朝から、ちい上と仲良くしたりして。
はい、はい、丹丹はこの家の女主人ね。
蓮、支度、手伝わなくてごめんなさい。
綺麗に着れているわ。
冠も父上とお揃いで、格好いいわ。
一目で、父子だとわかる。
丹丹、今日の二人、素敵ね。
うん、でも、やっぱり、にいにいは格好いい。
十王宅に行ったら、女の子、皆、にいにいの事、素敵って。
にいにい、モテるんだ。
にいにい、丹丹の自慢のにいにいなんだ。
まあ、父上に、あんなに大切にしてもらっているのに、父上の事、無視したりして。
丹丹、丹児に戻るか?
ちい上、ごめんなさい。
ちい上、格好いい。
丹丹、ちい上、大好き。
さあ、ちい上、お出かけの時間よ。
ちい上、にいにい、いってらっしゃい。
丹丹は、今日、どうするの?
十王宅に行く。
たんにいと、遊ぶ約束したの。
毬の蹴り方、教えてくれるって。
早く行きたい。
じゃ、緑児と二人でいい?
うん、いいよ。
呂に、輿を頼むわ。
早くって、言って。
わかったわ。
杏は部屋を見渡した。
急いだ方がいい。
時間がない。
やっと作った一人の時間だ。
感傷に浸る暇はない。
杏は、身なりを整え、池に向かった。
涙で、周りが霞んで見えた。
小さく言った。
ありがとう。
私たち、楽しかったね。
殿下、ごめんなさい。
蓮、ごめんね。
丹丹、小さい丹を残して逝く母を許してね。
さようなら。
報告を聞いた忠王は、思わず立ちあがった。
だだ、報告には、何事もなかったように振る舞うこと、との注文が付けられていた。
忠王は、その場に座った。
それから、告げた者に、
私が引きあげるから触れないように。
と伝えた。
望仙門に馬車の用意を。
と、付け加えた。
おもむろに立ちあがり、
申し訳ないが、用事が出来たので失礼する。
後は、好きなだけ飲み食いして楽しむように。
さあ、俶、帰ろう。
忠王は俶を抱き上げた。
先を歩く張説が眼に入った。
会わないように、違う道を持ち手に伝えた。
眼が合ったら、話さない訳にはいかない。
時間が惜しい。
乗った輿の遅さに苛立った。
早く、早くと言う忠王に、俶が腕の中で振り返った。
俶を力を込めて抱き締めた。
門を出て、馬車を急がせ、永嘉坊に着いた。
俶を寝台にすわらせ、池に走った。
杏が、浮かんでいた。
そなたは、私の言うことをちっとも聞かないんだから。
声をかけ、涙でよく見えない杏を引き寄せた。
衣が水を吸って重かった。
寝台の上にひかれた、厚い布団の上に寝かせた。
俶が、
はあ上どうしたの?
不思議そうに聞いた。
母上は池に落ちたんだ。
丹丹は?
今、十王宅に向かえに行っています。
なにも言わずに、連れて来てくれ。
俶と丹丹は、母親と一緒に横になった。
ねえ、ねえ、起きてよ。
丹丹は眼をひんむいた。
俶は体をゆすった。
二人は杏にどんな事をしても、杏は許すだろうと思った。
杏は二人に体を任せて、怒らないだろう。
あの二人だけは、許されるのだ。
そうすることによって、俶と丹丹は母の死を理解するのだ。
忠王は寝台に腰をかけ、三人を見ていた。
父上に埋葬の相談をしなければ、泣いてばかりではいられない。
この家の主なのだ。
思いながらも、動けなかった。
ここから離れられなかった。
二人と一緒に、ただ泣いていたかった。
もう会うことのない、杏から離れたくなかった。
呂を呼び、
兄さんに来て貰ってくれ。
と、言った。
眼は三人を見ていた。
やってきた高力士に、
背を向けたままで申し訳ない。
と、言った。
陛下は、俶様に配慮され、改葬する時、人目に触れるので、皇太子の側室の衣と、それに合わせた棺を用意なさるとの事でした。
と、告げた。
後はお願いすると、伝えてほしい。
そして、杏の側に行った。
それから、杏の右手をとった。
その手を左手でくるみ頬に当てた。
人差し指で杏の鼻をつついた。
そなたは、ちっとも言うことを聞かない。
いつも、思い通りにするのだから。
杏の親指をつたって、涙が落ちた。