唐に於ける書道
陛下、今日は、お言葉に甘えて、千字文をいただきに参りました。
おお、昨日は、王宅での話だったから、下賜するとは言えなかったのだ。
朕が行った時も、外で掃除をする者や、鞠を蹴る者やらで、賑わっておったわ。
下賜すると言えば、私も、私もと、ねだられる。
太宗様は王羲之だけでなく、張芝、鍾よう、張昶ら、漢魏以来の名筆家の書も集め、整理し、保存するようにしていた。
特に、王羲之の作品は、当時の名筆家王陽詢、虞世南に摸写をさせたり、多くのすきうつしの 搨本を作らせたりした。
そして、それらは、皇族や功臣に与えられた。
だから、太宗様の時代には、たくさんの手本となるべき物があったのだが、今は、あまり残っていない。
皇族だからといって、下賜するわけにはいかんのだ。
太宗様は、書を学ぶ者には、弘文館で書を学ぶことを許し、手本は宮中から貸し与えていたのだ。
書体は、多分、楷書だと思う。
科挙の、身、言、書、判の書で試験されるのは、楷書なのだ。
役人は書類などを書く。
回ってきた文章が、正しく伝わらないと、いけないからな。
だから、楷書なのだ。
太宗様はその者たちに一日に紙一幅、書を学習する事も、課していた。
そして、ご自分も、虞世南や王陽詢について学ばれた。
お二方は、当時七十才代。
太宗様は、
お二方が亡くなれば、自分はもう学べない。
と嘆かれた。
それでは、と、連れてこられたのが緒遂良だ。
武后様の立后に反対して、愛州まで流され死んだ、あの緒遂良だ。
緒遂良は、高宗様の書の師匠でもあったのだ。
緒遂良は太宗様の死の際、高宗様の事を頼まれたのだ。
だから、あんな事になったのだ。
それに対して、李勣は、あの時、陛下の家事です。と答えた。
高宗様は、よほどありがたかったのだなあ。
李勣は死んで、太宗様の昭陵に陪葬された。
その墓碑の選文と書を高宗様が書かれたのだ。
書体は行書だ。
毎行、百字以上、三十二行。
あまり聞かない話だ。
皇帝の恩寵だ。
普通、碑文の字は一字、いくらと、礼として支払うことになっている。
高宗様の書は三千字以上、四千字近い。
書くのを頼めるような、相手ではない。
もし、金額に換算したら、いったい、いくらにになるものか?
なんせ、御製だからな。
だから、李勣の墓碑だけは、亀趺の上にのっている。
孫の李敬業が挙兵したのに対して、武后様が衝撃をうけたのは、高宗様の恩寵があったから、感謝され、当然肩を持ってくれるだろうと、思っていたからだ。
まさか、挙兵するなどとは思ってもいなかったのだ。
太宗様が、魏徴に腹をたてた時、墓碑を倒して壊した。
だけど、李勣の墓は盛り土をけずって棺桶を切っても、さすがに、高宗様が書かれた、墓碑にはなにもしていない。
昭陵に陪葬されるのは名誉なことなので、皆、墓碑を書くのに名筆といわれる有名な人に頼んでいた。
だから、高宗様、行書で書かれたのではないかな。
墓碑が並んでいたら、どうしても比べてしまう。
墓碑は、楷書が多いからな。
身内だからと、かってな事を言って不敬だな。
はは、
あらぬ方向へ話がとんだ。
太宗様は若い時から、戦ばかりの生活で、書を書いたり、文を作ったり出来なかった。
だから、熱心だった。
学問とか、教養とかに惹かれていた。
南朝の貴族の文化や伝統に憧れていたのだ。
科挙の進士科は、作詩、作文の試験がある。
豊かな教養を持つ、山東、江南の貴族の参加を促すために考えられたのだ。
南朝貴族に出仕の道を開こうとしたのだ。
太宗様は、王羲之の書を愛していた。
だから、亡くなった時、 ご自分の陵に一番好きな、蘭亭序 を埋葬させた。
蘭亭序も、摸本、搨本と沢山作らせていた。
ご自分が持っていっても、残された人が見れるようにな。
だけど、王羲之の物は、もう、あまり残ってない。
だから、そなたに渡す物も、智永禅師の真草千字文だ。
智永禅師は王羲之の七世の孫という。
王羲之を学んで、書いている。
二百年近く前の物だ。
これだって、今ではあまり目に出来ない。
だから、悪いが皆にはやれない。
下賜とは、絶対言わないような。
それと、右側は楷書で、左側は草書で書かれている。
右側の楷書だけを練習するように。
楷書を身に着けなければ、草書もうまくならない。
ちゃんと形を知らなければな。
そなたも、俶に見せられる書を書かねばな。
一緒に、練習すればいい。
ああ、俶は賢い。
書だけでなく、ちゃんと大学に行って学ばなければ、父親面出来なくなるぞ。
優秀な子を持つのも、大変だな。
あっ、そなたに相談があったのだ。
そなたにも、かかわる事だから、意見を聞きたい。