臨海丞・駱賓王
武后様は、ずうっと長孫無忌を陥れようと、許敬宗に命じて待っていた。
姓氏録にとりかかって間もなく、洛陽で、ある者が太子洗馬・韋季方と監察御史・史李巣が貴族と徒党を組んでいる、と告発した。
この件を、許敬宗に担当させ審問させた。
これは利用出来るかも、と許敬宗は考えた。
許敬宗の取り調べがあまりにも厳しかったので、季方が自殺を図ったが、死ななかった。
許敬宗はこの件を、長孫無忌にむすびつけた。
そして誣告した。
長孫無忌が季方と謀反を図った。
発覚しそうになったので、季方が自殺しようとした。と、
最初から、捏造と誣告の事件だから経緯があやふやだ。
高宗に報告したが、疑って信じない。
しかし、許敬宗もしつこく言いたてる。
高宗はさらに審理を続けさせたが、
最初から罪に陥れようとしているのだから、無罪が証明されるわけがない。
激しい審問のすえ、韋季方が自供した。
謀反の汚名をきせられ職を解かれた、長孫無忌は黔州に流された。
共謀者として、韓えん、ちょ遂良、柳せき、長孫祥も、同じように罰せられた。
長孫無忌は黔州で、迫られ自殺した。
これで、朝廷において、対立するものは誰もいなくなったわけだ。
ただ、しばらくして、思いがけない事がおこった。
揚州で挙兵騒ぎがおこったのだ。
武后様を驚ろかせたのは、主謀者が李敬業だったことだ。
李敬業は李勣の孫だからな。
李勣は立后の時、反対しなかった。
武后様は、李一族は味方だと思っていた。
だのに孫が反乱とは。
李敬業は早くに父親を亡くしていたので、李勣の爵位を継いでいた。
ただ、左遷され揚州にいたのだ。
そして、弟も免官となって、兄の元に身をよせていた。
そんな、今の境遇に不満をもつ者たちが、たまたま集まった。
そして、お互いに愚痴を言いあった。
政事が悪いという結論にいたった。
正義を旗あげの口実に、名目は“盧陵王・中宗の復位”とした。
ただ、挙兵するには、兵が必要である。
揚州長史の謀反、からはじまる作戦を考え、次々と騙していった。
参加する者はみんな本物の役人だから、そこらあたりは抜かりはない。
堂にいったものである。
兵を手にいれ、駱賓王が檄文を書いた。
目下、不当な理由によって王座を占めている王位簒奪者は、卑賎の生まれであってその性、すこぶる下劣である。
略
ここにおいて、久しく朝廷の厚恩を忝けなくした李家の敬業は、衆望にこたえ、王室を再興しようと奮起して、義旗をあげ禍根をのぞこうとするのである。
略
一杯の土いまだ乾かざるに、六尺の孤いずくにか託せる
( 先帝のお墓の土もまだ乾かぬというのに、その遺児はどうなるというのだろうか。)
略
わが義軍は勝利に向かって、一路邁進しつづけるのである。
結果、兵は手に入れても、戦をしたことのない連中による反乱は、鎮圧された。
武后様の素早い対応である。
ただ、
一杯の土いまだ乾かざるに、六尺の孤いずくにか託せる
の名文句に驚いて、作者を聞いた。
臨海丞駱賓王とのことであり、「これほどの才能のある人物を用いなかったのは、宰相の過ちである。」と言ったとの事であった。
父上、話の腰を折るようで申し訳ないのですが、
駱賓王とは、皇族なのですか?
私は、聞いた事もない名、なのですが。
そなたも、この名に惑わされたのか。
皇族が反乱軍の檄文を書くと思うか?
王などと、ややこしい名を付けて。
またこの者も
駱賓 王とか、
駱 賓王とか
署名するものだから、周りも惑わされたようだ。
本人は楽しんでいたようだな。
他の者たちは捕まり処刑されたが、駱賓王は逃げおおせたようだ。
どこかの山奥の寺に僧として生きたとの噂は聞いた事がある。
李勣も太宗様の墓に陪葬されていたのに、もられた土も除かれ、墓を掘りおこされ、棺を壊されたそうだ。
孫の不始末のせいでな。
中宗様の時代になって、武后様に罪を問われた者たちの名誉回復が行われ、李勣の墓も改葬された。
太宗様の功臣だから、二百近い陪葬墓の中でも陵に近い良い場所にある。
まあ、お子たち、身内の者がまわりにいるから、すぐ側というわけにはいかんがな。
だが、石の虎、羊、人物像が置かれた目立って立派な墓だ。
盛られた土も戻され、陰山・鉄山・鳥徳けん山の三つの山の形が造り直された。
李勣の墓は、盛り土が有名なのだ。
李靖の墓も、同じ盛り土がされている。
二人だけだ、こんな凝った盛り土が許されているのは。
唐に対する貢献を考えれば当然だけどね。
李勣は高句麗を負かしたからな。
あの煬帝が三回遠征にいって勝てなかった国だ。
まあ、三回目は形として、高句麗が負けたようにしたけどな。
国もとで反乱と聞けば、煬帝も帰らないわけにもいくまい。
陵の中の太宗様も、李勣の墓が壊されるのを見て、驚かれたと思うよ。
ただ、この反乱によって、二度とこういう事態にならぬように、と武后様は考えた。
告密の制のきっかけだ。