姓氏録
そろそろ、話の続きにもどろうか。
武后様は、立后に反対した者たちに復讐を考えた。
ただ長孫無忌は唐で最高位、太尉であるし、皇帝の伯父でもある。
慎重にやらなければと、機会を待ちつつ、韓えん、来済を先に片付けることにした。
韓えん、来済がちょ遂良と謀反を謀った。
と、誣奏したのである。
ちょ遂良はより遠くへ流され、韓えん、来済は地方の刺史とし、永久追放された。
ちょ遂良は、なにかある度に加担したとされ遠くに流され、最後は、唐の南の果て愛州の慣れない熱帯の気候の中で亡くなった。
それと同じ頃、武后様はもう一つの懸念材料、皇后冊立の折り、家柄がよくないとされた、家柄の格上げを考えた。
許敬宗の申し出によるという形をとり、
顕慶四年(659年)
武后様は、“姓氏録 ”を作り、武氏の格上げを図った。
貞観十二年(638年)
太宗様は “氏族志 ” を作られた。
最初に出来たのは、
黄門侍郎・正四品、博陵の崔民幹が、第一等で、
唐室李氏は、第三等という事だった。
太宗様は激怒した。
皇帝が、臣下より家格が低い。
とは、と、やり直させた。
そして、
第一等 唐室李氏
第二等 独孤氏 高祖様の母君の実家
竇氏 太宗様の母君の実家
長孫氏 高宗様の母君の実家
の、“姓氏録 ”が出来たのである。
博陵の崔氏は、第三等となった。
李氏は、王朝をたて、まだ二十年。
百年以上続いた、山東貴族、博陵の崔氏、范陽の盧氏、趙郡の李氏、けい陽の鄭氏、四氏の方が伝統もあり、“社会的名声”、人望が高かったのだ。
武后様は、これはまあ朕が勝手に思うのだが、武氏を第一等にしたくて、
特等 唐室李氏
第一等 独孤氏
竇氏
長孫氏
武氏
外戚四氏
の他、北周宗室宇文氏
隋室楊氏
とした。
唐室李氏を特等としたのである。
武后様は太宗様の “氏族志 ” を参考にされたのだ。
そして、今まで載っていなかった、軍功による勲官五品以上の家系も収録した。
李義府に対する褒美の意味もあったという。
門閥貴族の方では、“姓氏録 ”の格付けを勲格と、呼んだそうな。
武后様の母君は直系ではないものの、隋のなんとか王の姪という事だ。
母君の家格も上げたかったのだろう。
武后様は実家、武氏を大切にしたからな。
隋室楊氏だけなら、あからさまなので、“北周宗室宇文氏”も入れたのだろう。
“隋宗室楊氏”なら、母君の家系ではない。
母君の家系は傍系だからな。
北周宗室宇文氏?
そんな人、います?
北周の宇文氏は楊堅に殺され尽くされています。
宗室ならなおさら、一人として生きていないでしょう。
そうだな、存在しない者も、さもいるかのように扱っている。
北周宗室宇文氏と、隋室楊氏が同格で並んでいる。
隋が滅んでから、武后様の頃なら、四十年位だから、
隋室楊氏なら、百人以上、いるだろう。
いや、数百人かもしれない。
凄いお方だ。
親孝行なお人だ。