碾磑
十二月八日、
防秋のため、けい州に行っていた朱せいが、都に帰ってきた。
十二月九日、
朱せいが、ろう右節度使を兼ねることになった。
河西と澤ろの本営の長にもなった。
平盧節度使の李正己は、すでに、し州、青州、斉州、海州、登州、萊州、沂州、密州、徳州、棣州の十の土地を持っていた。
李霊曜の乱の時、他の節度使と一緒になって戦い、各々が我が物とした土地も持っていた。
李正己は、その時、曹州、濮州、徐州、えん州、うん州の五州を増やした。
青州からうん州までを、その子、前のし州刺史の李納に青州で守らせていた。
李正己の刑罰は、厳しかった。
同じ場所にいても、敢えて、話すことは無かった。
ただ、法については平等であった。
税は軽かった。
兵士は、十万人を擁していた
強い後ろ楯を東のほうに、持っていた。
近くの藩鎮の者は、畏れた。
この時、田承嗣は、魏州、相州、衛州、博州、めい州、貝州、せん州の七州を持っていた。
李宝臣は恒州、易州、趙州、定州、深州、き州、滄州の七つの州を持ち、各々の州には五万の兵士を持っていた。
梁崇義は、襄州、とう州、均州、房州、復州、郢州の六州と二万の兵士を持っていた。
周りの相手とは、それなりの蟠りがあったけれども、上手くやっていた。
朝廷を奉っているといえども、法令は用いなかった。
官爵、兵士、年貢、罪人を殺すことなど自分のやり方でした。
その成すことを聞いても、代宗は、心を広くゆったりと受け入れた。
城一つ建てても、兵士一人増やしても、怨みごとを云っても動じなかった。
裏切りを疑っても、常に、役職から外すだけだった。
節度使の敷地内に砦を築いたり、兵士を鍛えるのに
暇な日など無かった。
ここ中国にありと云えども、梁崇義は立派な諸侯であった。
異郷の蕃族の胡人のようであった。
大暦十三年(778年)、
春、
正月、
一月十四日、
農民が、
川の水が農業に使えない。
と、 代宗に訴えた。
代宗は、
“白渠の支流に設置されている碾磑を壊すよう”
に、詔を出した。
碾磑は、流れる川の水の力で石臼を回すのである。
かつて、麦は、米と同じように炊いても、一粒一粒が堅くて、美味しく食べられなかった。
だが、西域地方のやり方を真似て、小麦粉にすることで、麺類や饅頭にして、美味しく食べられるようになったのだ。
隋の煬帝の頃には、小麦粉が普及し始めていたようだ。
煬帝は、餃子を食べたのではないかといわれている。
昇平公主は、碾磑を二つ持っていた。
昇平公主の碾磑は、麦を引く碾磑ではなく、鉛をひくものであった。
鉛をひく?
粉白粉を作っていたのだ。
鉛でできた粉白粉は、皮膚に掃くと、上手く密着し評判が良かった。
ただ、体には良くないようであった。
郭子儀も含め、郭家の者も碾磑を多く持っていた。
昇平公主は、参内して、父親の代宗を見た。
そして、碾磑を壊さないように頼んだ。
だが、代宗は、
私は、民が得になるようにしたい。
そなたは、私の気持ちを知っているであろう。
まさに、民が先なのだ。
と、云った。
昇平公主は、その日の内に碾磑を壊した。
公主の願いを拒んだ代宗を見て、様子を伺っていた郭子儀たち周りの者は、慌てて碾磑を壊した。
一月二十一日、
回鶻が、太原に侵入した。
河東本営の泗水の李自良は云った。
回鶻の精鋭が遠くから、闘いを求めて来ている。
先鋒を争うのは、難しい。
帰路に、二つの砦を築くようなことは無いだろう。
兵に守らせなければ。
回鶻が来た。
守りを堅くして戦った。
回鶻の年配の者は、自ら帰った。
その機に乗じて、軍隊を出した。
二つの砦の前で抵抗した。
大軍は、その後ろに迫った。
回鶻は多いに盗んだ。
李自良の代理の鮑防は守りに徹せず従わなかった。
遣わした大将・焦伯瑜たちは逆に戦った。
一月二十六日、
回鶻たちと、陽曲で対峙した。
大いに敗けた。
死者は、一万人以上いた。
回鶻軍の役割の決められていない兵士は、融通がきくので大いに略奪した。
二月、
代州都督・張光晟が羊武谷で、敵を撃ち破った。
そして、兵士たちを引き連れ帰った。
代宗は、最初の頃と同じように、回鶻の侵入を咎めることは無かった。
回鶻は強い。
下手に出て怒らせないようにし、あえて、本格的に戦うことはしないようにしていた。
二月二十二日、
吐蕃は、その将・馬重英を遣わし、四万の兵士で霊州に侵入した。
填漢渠、御史渠、尚書渠の三つの渠水口を奪った。
三月二十八日、
回鶻は、使者を帰した。
河中を過ぎる頃、朔方節度使の兵士はその幌車の軍の荷物を奪った。
だから、回鶻軍は仕返しのため、坊や市で大いに略奪をした。
代宗は、この頃、よく宮殿をうろついた。
そして、外の景色を眺めるのであった。
周りの者の説得で、埋葬には納得した。
次の段階で、代宗は、陵の場所の希望を述べたのだ。
いつも、眺められる場所に埋葬したい、と。
代宗が宮殿から見て、選んだ場所は、母親を祀っている章敬寺の北側であった。
唐の皇后に成れなかった妃嬪たちの陵は、麗山にある華清宮に行く途中の “細柳原”の地に造られていた。
だから、どこにでも墓所を作っていいわけではない。
ただ、代宗皇帝の今までのやり方を見ていて、独孤氏に関しては強い意思を示すので、敢えて、朝議で議論になることはなかった。
これで決まりかと思われたが、右補闕の姚南仲が、反対をした。
それも激しく。
章敬寺の北あたりは、代宗の生まれ年(開元十四年・丙寅)“とら”の場所です。
かつて、李適之は、“華山には金鉱があります。”と、玄宗に報告した。
玄宗は垂拱元年(685年)に生まれている。
干支は乙酉、“とり”である。
それを聞いた、李林甫は、
華山は陛下の本命である干支、西の方向にあります。
王気のあるところです。
掘って良いところではありません。
と、云った。
唐の時代の干支の禁いが分かる。
姚南仲は、
玄宗様も、干支を避けられました。
同じようなことでは、先例に従うのが良いでしょう。
と、告げた。
章敬寺の北は候補から外れた。
埋葬までに陵を造らなければならない。
急いだ方が良い。
他の妃と同じ細柳原に、独孤氏の陵が造られた。
そして、これを期に娘・華陽と合葬した。




