いい加減な俸祿
五月一日、
都から城の外に団練使を出すように、また、諸州の団練守捉使をことごとく辞めさせるように、詔が下された。
また、軍で急がない事は、刺史を勝手に呼び出さない、その職務を辞めさせない、他の官職を兼ねさせないとした。
また、諸州の兵の数は決められていて、皆、常に数は保たれていた。
その募集された兵士は、穀物を支給された。
春冬の官服の者は“官健”と、云われた。
兵士でその土地の出身者は、春夏には農業に従事した。
秋冬には、蛮族の防秋に対応した。
穀物、味噌、野菜が支給された。
“団結”と、云われた。
任地に来て以来、その時期やその地の条件により、かつて、州や県の役人の俸祿は、人によりバラツキがあった。
おまけに、その役人たちは、元載、王縉の考えに、そして自分の思いに従った。
誰だって、俸祿は、多い方がいいに決まっている。
刺史の月給は、ある者は千緡、ある者は数十緡となった。
差が大きい。
お金の単位を揃えて見よう。
一緡、紐に通した千個の一文(一銭)である。
千文を一貫とも云う。
千緡なら、千文が千個と云うことだ。
一月の月給が百万文となる。
莫大な金額だ。
ここに至りて、節度使から始まり、主簿、尉にいたるまでの俸祿が見えて来る。
上手くやった者は、募った多くの利益を貪った。
上下には序列があったが、決められた制度はいい加減につくられていた。
上の役職の人の俸祿を越えないようにだけ、気を使えば良かったのだ。
制度は、抜け穴だらけだった。
都の役人と、地方の役人の俸祿の差は、こんな形で始まったのであろう。
五月二十日、
代宗は、宦官を元載の祖父の墓に遣わした。
棺を切り、遺体を棄てさせ、家廟を壊し、位牌を焼かせた。
五月二十八日、
卓英倩たちは、皆、杖死となった。
卓英倩が、事につけ使っていた弟・卓英りんは故郷で好き勝手をしていた。
兄・卓英倩が、投獄されたと聞くに及び、卓英りんは(少しでも有利にと)険しい場所を選んで陣営を立て、乱を起こした。
代宗は、討ち取るため、禁軍の兵士を出動させた。
六月二十五日、
金州刺史の孫道平が、卓英りんを撃ち、生け捕りにした。
代宗は、宰相の楊かんを頼りにしていた。
楊かんは、政治を改めようとしたが、年齢のこともあり、疲れ切り病になった。
秋、
七月二十日、
楊かんは亡くなった。
代宗は、甚だ悲しみ、臣下たちに云った。
天下太平な世にしたいと思っているのに、天は朕の願いを叶えてくれない。
どうして、朕からこんなに速く、楊かんを奪うのだ!
八月四日、
東川節度使の鮮于叔明に、“李”の姓を賜った。
元載、王縉を宰相にした時、代宗は毎日、宮廷の食事を賜った。
元載は、代宗に近い考えをしているし、王縉は詩人・王維の弟であったから、二人に好意を持っていたのであろう。
豪華な分、十人が食べられる程の量があった。
遂に、当たり前になった。
八月二十四日、
常こんと朱せいが、代宗に伝えた。
“食費が多いです。
食事を賜ることを止めるようにお願いします。”
代宗は、許した。
常こんは、また、俸祿を辞退したいとした。
だが、同じ職位の者が、自分は辞退しないとしたので取り止めた。
時の人は常こんを謗って云った。
“朝廷が俸祿を厚く下さるのは、賢人を養うためである。
ちゃんとした仕事が出来ないのであるなら、その地位を辞めるべきである。
俸祿だけを辞退するべきではない。”
“資治通鑑”の作者・司馬光は云う。
君子は、食祿が人より多いのを恥じる者である。
常こんが俸祿を辞退したことは、恥じる心があると云うことである。
その地位にしがみ付き、俸祿を貪るような者より良いではないか!
“詩経”でも云っている。
“君子ならば、職務を怠って素餐をしない!”
常こんのような者は、余り謗るべきではない。
楊かん、常こんは湖州刺史の顔真卿を推薦した。
代宗は、その日の内に、都に召し戻した。
大暦元年(766年)、
皇帝陛下に、直接上奏をしないようにしようとした元載を、面と向かって、李林甫の時代のようになると攻撃して、顔真卿は地方に飛ばされたのだ。
あれから、十年以上が経つ。
顔真卿のお蔭で、元載の被害は少しは少なくなったと云える。
十年の間、顔真卿は、最初、二月(766年)に、元載に峡州別駕に貶められた。
一月後、三月、吉州別駕に移った。
二年後(768年)、撫州刺史となった。
四年後(772年)、湖州刺史に任じられた。
大暦十二年(777年)、元載の死により、都・長安に帰ってきたのである。
八月二十五日、
顔真卿は、刑部尚書となった。
楊かん、常こんは、また、河南省の汲県出身の淮南の判官・関はんを都官員外郎に抜擢した。
九月十三日、
四鎮、北庭行営兼けい原、鄭潁節度副使の段秀実を節度使とした。
段秀実の軍令は、簡潔で威厳があり、思いやりが感じられた。
成すことには下心がなく、慎ましやかであった。
正室しかいなくて、側室と呼べる女子は居なかった。
お酒を飲みながら音楽を聞くような所を、他人に見せることはなかった。
吐蕃の兵八万の軍が原州の北、長澤監にいた。
九月二十一日、
漢県の方渠を破り、抜谷に入った。
郭子儀が副将・李懐光を使って、その地を救った。
吐蕃は退いた。
九月二十二日、
吐蕃は坊州に侵入した。
冬、
十月七日、
西川節度使・崔寧が、望漢城で吐蕃を大破したと上奏した。