元載の後(あと)
夏、
四月一日、
太常卿・楊かんを中書侍郎とし、礼部侍郎・常袞を門下侍郎とした。
二人共、同平章事とした。
宰相である。
楊かんは、性格が清らかで質素であった。
詔が下されると、朝廷内からも民間からも歓びの声が聞かれた。
郭子儀の家では、宴がなされ、客がいた。
この宰相の人事を聞くと、この場で歌っていた楽士の五分の四を減らした。
半分以下である。
派手にならぬようにとの配慮であった。
京兆尹の黎幹は、立派な馬をとても沢山持っていた。
その日のうちに減らし、十騎に止めた。
中丞・崔寛は、屋敷が広くて豪華であった。
一部であるが、すぐに、壊し去った。
各々に反省を促す、模範となるような宰相人事であった。
四月二日、
代宗は、吏部侍郎・楊炎、諫議大夫・韓かい、包佶、起居舎人・韓会たちを貶めた。
皆、元載の一味であった。
楊炎は、鳳翔の人であった。
元載は、楊炎を常に文学の才能があると引き立て、一人親しく厚遇していた。
別の日には、自分の代わりをして欲しいとした。
だから、代宗は、楊炎を貶めたのである。
韓かいは、韓滉の弟である。
韓会は南陽の人である。
代宗は、初め、楊炎らを殺し尽くしたいとした。
だが、呉湊が、“人は色々、様々です。”と諫言して、官位を貶めすだけにしたのである。
命を救った訳である。
四月二十八日、
吐蕃が黎州、雅州に侵入した。
西川節度使の崔寧が撃破した。
元載には、進んで仕えようと願う者が都に多くいた。
生活が行き詰まった者たちであった。
俸祿(給料)の制度が、地方の役人に厚く、都の役人に薄かったのである。
都の役人は、その俸祿で生活が賄え無かったのである。
常に、地方の役人に借して貰っていた。
お金を借りるなんて、自尊心が傷付いたことであろう。
宰相、楊かんと常袞が、都の役人の俸祿を増やしてくれるように、代宗に上奏した。
四月二十八日、
都の役人の俸祿に、毎年約一十五万六千貫文が加算されるように、との詔が下された。
どんな状態であったか、宰相の俸祿から、見てみよう。
開元二十四年(736年)
月の俸祿、
一品三十千、
正二品、二十四千
正三品、十七千
尚書、門下侍郎、中書令、(禁軍)大将軍
大暦十二年(777年)
加えられた俸祿は
三師、三公、侍中、中書令
毎月、各一百二十貫文
中書、門下侍郎
毎月、各一百貫文
左右金吾大将軍、各四十五貫文である。
唐は、この頃、豊かになっていた。
塩税のお蔭である。
国家の経営が良くないと、税率を増やして調整した。
税率を変えるだけの手間である。
困ることは、もう無かった。
劉晏は民のことを考える、良心的な役人ではあったのだが。