元載の死
大暦十二年(777)
春、
三月三日、
兵部尚書、同平章事、鳳翔・懐澤ろ・秦隴節度使・李抱玉が亡くなった。
弟の李抱真がもっていた懐澤ろ節度使の代理となった。
三月十日、
河東行軍司馬・鮑防が河東節度使になった。
鮑防は、襄州の人である。
田承嗣が、遂に参内しなくなった。
それに、李霊曜を助けたりしたので、代宗は、再び、田承嗣を討つように命じた。
田承嗣は、また、代宗に謝罪の書状を遣わした。
代宗は、また、何ごとも無かったようにした。
三月十八日、
代宗は、田承嗣の官爵をすべて元に戻した。
そして、参内は不要と命じた。
中書侍郎、同平章事である元載と、黄門侍郎、同平章事の王縉が一緒に売官をして、賄賂を貪っていた。
元載の妻は、粛宗と育った名将軍・王忠嗣の娘であった。
その妻と子供の伯和、仲武、王縉の弟、妹、それに神に祀る供え物のため、尼までが賄賂を争って手にしていた。
それでいて、元載、本来の仕事である政は部下の役人に委せていた。
役人の地位を求める者と上手くいかなかった身内の者は、その手続きをする主書・卓英倩等と共に、理由もなく出世していた。
代宗には分かっていたが、何年も見て見ぬ振りをしていた。
元載も王縉も改めることはなかった。
代宗は、元載たちを誅殺したいと思った。
しかし、この話が誰かに漏れたらと思うと恐ろしかった。
一緒に相談出来る者はいなかった。
ただ一人、左禁吾大将軍・呉湊と謀りごとをした。
呉湊は、母親が大切に思っていた一番下の弟である。
何かあった時、孫・李俶の助けになると考え、禁軍に配属させた、玄宗の老婆心が役立ったのである。
代宗は、元載と王縉に会った時、夜、法に従わない者のために、神様に酒をお供えして祀ろうと告げたのであった。
信心深い二人には、断れないような誘いであった。
三月二十八日、
代宗は、延英殿にいて、呉湊に、元載と王縉を政事堂で捕らえるように命じた。
また、子供の仲武や卓英倩たちを監獄に入れた。
吏部尚書・劉晏と御吏大夫・李涵たちに、二人を問い質すように命じた。
皆、調べるために、宮中を出た。
宦官も、隠しごとを問い詰めるため遣わされた。
多くの宦官は、李輔国からの係わりで、元載に代宗の動向を伝えていた。
しばらくすると、珠珠の働きもあり、代宗は元載と宦官との関係を知った。
元載と王縉は罪を認めた。
この日、まず、杖殺する役目の左衛将軍、知内侍省事の董秀が、万年県(長安城の東半分、西半分は長安県)において、元載に、
宰相殿は死を賜った。
と伝えた。
楽に死なせて欲しい!
元載は、董秀に頼んだ。
董秀は、
思いがけず、宰相殿には、少々、汚く、恥ずかしい思いをしていただきます。
それから、董秀は履いていた汚れた靴下を脱いだ。
その靴下で元載の口をふさいだ。
そして、殺した。
王縉も、また、元載と同じく死を賜っていた。
劉晏が、李涵に云った。
先例では、重い刑は上奏されて、よくひっくり返される。
況んや、王縉は大臣なのだから!
なお、法では主従(主犯と従犯)がある。
従犯の者は主犯から命令を受けたら、断れない。
李涵たちは話を聞いて、罪を減刑することに賛成した。
代宗に嘆願したのである。
代宗は、王縉をかつ州刺史に貶めた。
他の者も殺さず、位を貶めた。
元載の妻は王忠嗣の娘であった。
粛宗との関係から、随分、大目に見たといえる。
だが、家族揃って度を越したのだ。
妻と子供たちは、皆、秘密裏に誅殺された。
元載の家財は、役所の書類に書き留められた。
胡椒は、八百石あったと云う。
金と同じ重さの物である。
他の物も、胡椒と同じように多かった。