代宗の思惑
蓮は、珠珠に、伯父上たちの様子を聞いた。
さすが、蓮の義母上だわ。
幼い時の思い出なのに、弟たちの性格、的確だわ。
驚いちゃう。
どう云うこと?
大伯父上・しょ、二伯父上・澄、小伯父上・湊
云っちゃ悪いけど、仲が悪いとは云え無いけど、良くは無い。
お互い関心が無いのかと思えば、聞き耳をたてて様子を伺っている。
特に、二伯父上がね。
大伯父上は、二伯父上のことが解っているから、時々、鋭い目を向ける。
小伯父上は、馴れているから、我関せずの様子で二人に対して普通に接してる。
まさか、子供の時の関係がこんな形で続くなんて。
蓮蓮が、二人目の子供の年齢を空けようとしたのが良くわかったわ。
長幼の躾が為されたら、年の近い分、下の子供は、体の大きさも出来ることも変わらないのに、と不満を持つわね。
それが、今も形として表れている。
蓮蓮が、気を使ってくれて良かったと思うわ。
珠珠の子供が、同性で年が近くて、あんな形で競争相手として育ったら、悩んだと思う。
でも、長幼の理は教えなければ。
難しいわね。
だから、珠珠の考えとしては、二伯父上は外しましょ。
大伯父上には、どうしても人手が足りない時に、お願いしましょう。
二伯父上が、面白がって邪魔をする可能性があるだろうから、まるで問題ないことのみ、頼みましょう。
小伯父上は、人柄に問題は無いわ。
普通に他人と信頼関係を築いている。
三人いても、頼れるのは一人。
湊伯父上よ。
十二月四日、
李正己、李宝臣に、同平章事の職位が加えられた。
これに、朝廷での役所の長官~中書省・中書令、門下省・侍中、尚書省(尚書令は、実際に任命されない。太宗様が任命された役職なので、誰も就けない名誉ある役職なのだ。左僕射、右僕射が尚書令の役を担っている。)長官・左僕射になれば、宰相候補と云うことになる。
中書令、侍中、左僕射になっても、門下平章事か同平章事の職位が付かなければ、宰相には成れないのだ。
だから、宰相になる階段を一歩上がったことになる。
けい原節度使の馬りんは、たびたび病気になった。
だから、行軍司馬の段秀実が知節度事になった。
後のことを頼まれたのである。
段秀実は非常事に備えて、兵に厳しく接していた。
十二月十三日、
馬りんが亡くなった。
軍の中で、数千の兵士が哭きわめき、走りまわった。
門や塀の所で、声をつかえて泣いた。
段秀実は、哭き喚く人の云うことをすべて、聞き入れなかった。
何か、特別なことがあると、どさくさに紛れて、よく反乱が起きた。
不満がある者は、そんな時をチャンスと狙っているのだ。
段秀実は、地方勤務が長く、そんな者たちの動きをよく察知した。
押牙の馬てきに節度使内の葬儀のことを治めるように命じた。
李漢恵には、節度使の城の外で弔問客に対応させた。
妻や側室、子供らには室内で、親戚には庭で、将兵たち側近には位牌の前で、兵士たちには隊を組んで陣営で哭くようにさせた。
百姓には、各々の家を守るようにさせた。
別れ道の処で、偶然、立ち話をしていても、(怪しまれ)引き離されたし、捕まえられ牢に入れられた。
葬儀の最後では、拝み、哭いた。
皆、儀礼に従った。
身内は近くで、百姓や民は遠い処で、亡くなった者を送った。
皆、決められた場所にいた。
違った者は、軍の決まり(取り締まり)に従った者であった。
都虞候・史廷幹、兵馬使・崔珍、十将の張景華が、葬儀により乱を行おうと、たくらんでいた。
段秀実はこれを知った。
史延幹には宿直をするように命じ、崔珍には、霊台で駐屯するようにさせ、張景華には、城の外の仕事を手伝うように命じた。
三人を接触させないようにしたのだ。
(反乱を企んだとしても、一人では実行出来ず)殺される者は、一人もいなかった。
軍は、安泰であった。
亡くなった馬りんの家は、計算出来ない程、裕福であった。
邸宅は都にあり、馬りんの手柄により、偉い立場で、貴かった。
建てた中堂の費用は二十万緡もかけていた。
他の建物は年月と共に、幾つか減った。
子供たちや孫たちは何もせず、働く者は誰もいなかった。
当面は問題はなかったが、しばらくすると、家の財産は尽きた。
十二月十五日、
昭義節度使・李承昭は病気が重いと発表された。
もって、澤ろ行軍司馬・李抱真が磁州と刑州の二つの州の代理となった。
十二月二十七日、
淮西節度使・李忠臣に、同平章事、卞州刺史が加えられた。
卞州は(李霊曜を殺した時から)すでに治めていた。
卞宋節度使で上役・孟鑑を殺した李霊曜も都虞候であった。
馬りんの葬儀の時、乱を起こそうとした史延幹も都虞候である。
都虞候とは、どんな職業なのか?
節度使は、小さいながら、独立した国のような物である。
だから、中央の役所のようにすべての職種がある。
中央の雛型と考えたらよい。
都虞候とは、軍中の裁判・刑獄の司法事務を掌る武官なのである。
長安の御史台、大理寺と考えたらよい。
次第に、軍中の副帥の地位を占めるようになった。
“帥“に近い立場である。
だから、雑念がわくのであろうか?
代宗は即位して、しばらくしてから、慣例通り、母方の身内に贈位した。
祖の呉神の位は県令で終っていたが、司徒とした。
亡くなっている母親の父・呉令珪は太尉とした。
母の叔父・呉令瑤を太子家令、濮陽郡公、並開府儀同三司とした。
同じく呉令瑜には、太子に徳を諭させ、濟陽郡公とした。
母の叔父たちは、まだ健在であったのであろう。
母親は、弟たちを仕事に就けたがらなかった。
だが、俶の母親の身分を気にした玄宗様が 、
折角、弟が三人いるのであれば、それに、馬に詳しいときている。皇帝を護る禁軍に入れて、武官として、将来、俶を護らせたら良い。何か在った時、心強い。
との発言に、父親・忠王が三兄弟を北衛禁軍に入隊させたのだった。
禁軍は、皇帝の個人的な軍隊であったのだ。
三人は、禁軍に入ってから、武術を学んだ。
適性と本人の希望に沿うようにと、言い渡された。
長男・呉じょを盛王府の参軍とした。
呉じょは、整然として礼儀正しく、驕ることはなかった。
そして、朝廷を重んじた。
急に鴻臚少卿、金吾将軍となった。
次男・呉澄は、最初、周りとうまく関係を結べなかった。
だが、敵と戦う際、味方に助太刀され、それから周りの者に対して友好的になった。
自分も助けるようになりたいと思ったのだ。
武術に励み、腕を上げた。
友ができ、軍に入って楽しそうであった。
三男・呉湊を、太子賓客、兼、太子家令、十王宅使とした。
呉湊は女親の下で育ったからと言っても、周りの同じ身分の男の子と、切磋琢磨して育った。
どんな立場の人とも、無礼にならないように親しく付き合った。
母親にも、姉にも愛された弟であった。
ただ、母親の話を真に受けて、判断を誤ることの無いように、珠珠にも客観的に見てもらいたかったのだ。
命を預ける者が決まった。
滑州の帥・令狐彰、卞州の帥・田神功が相次いで亡くなった。
帥が亡くなったので戦に乗じて、藩鎮の兵士たちは勝手気ままで偉そうであった。
情は多く、見られなかった。
思い遣りが無かったのである。
代宗は、呉湊に兵士たちを労ように命じた。
呉湊は、間違った正しくない考えを話し合い、説得した。
時々、上奏したいと思うことがあった。
軍人も民も皆、想いを語ることによって仲良く、協力的になった。
代宗は、その様子を深く重く見た。