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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
338/347

代宗と詩

大暦十一年(776年)

春、

正月

一月三日、

魏州節度使を宣慰するために、諫議大夫・杜亞を遣わした

一月二十二日、

西川節度使・崔寧が吐蕃の四節度使及び突厥、吐谷渾、てい、姜ぐん蛮族の兵士、二十萬人以上の首を斬ったと、上奏した。

二月二十二日、

田承嗣が、また、参内を請うとの書状を遣いに持たせた。

代宗は、田承嗣の罪を赦し、また、前の官職に戻すとし、おまけに一族の参内も許し、朝廷の命令を聴かなかった者も、一切罪に問わないと、詔を下した。

二月二十三日、

朔方節度使の管轄する、豊安、定遠、新昌、豊寧、保寧の五城の守備兵を増やし、回鶻に備えるとした。

三月一日、

河陽軍が内乱を起こした。

遂に、監軍・冉庭蘭が城から出て、大いに召し取った。

冉庭蘭は、備えをして城に入った。

乱により誅殺されたもの数十人、

河陽軍は、落ち付いた。



代宗は、珠珠に云った。

朝廷はいつも、似たようなことの繰り返し。

嫌になるな。

玄宗様が飽きたのも、分かる気がする。

ところで、珠珠、

珠珠は、どんな詩が好きなのかな?

今まで聞いたことがないのだが。

珠珠の父上は文官で、詩は得意であろう。

弟君もいることだから、さぞ英才教育を受けたことだろうな。

口に出すの、ちょっと恥ずかしいわ。

世の移り変わりを感じるから。

王翰おうかんって、知ってる?

"涼州詞りょうしゅうし"を詠んだ人なの。


葡萄美酒夜光杯

欲飲琵琶馬上催

酔臥沙場君莫笑

古来征戦幾人回

葡萄の美酒 夜光(やこう)(はい)

飲まんと欲すれば、琵琶(びわ)馬上に(うなが)

酔うて沙場に()すとも

君 笑うこと()かれ

古来 征戦 幾人か(かえ)


芳醇な葡萄の酒を、なみなみと玉石の杯に満たし、いざ飲もうとしたとき、うながすかのように誰かが、馬上で琵琶をかき鳴らしはじめた。たとえこのまま酔いつぶれて、砂漠の砂に倒れ伏したとしても、君よ、笑ってくれるな。

昔からこの辺境の戦場に来たものが、何人生きて故郷に帰れたというのだ。


珠珠、この人は、科挙に受かった文官で、そんな知識人が西の砂漠にまで、戦のために出かけていると、心配したの。

その時は、玄宗様を恨んだものよ。

こんな詩を詠む立派な人を危険な目に会わせるなんて、って。

でも、この詩は、想像して作ったものだと分かって、安心したわ。

王翰は血を流していないと。

蓮、蓮は、開元十四年(726年)生まれよね。

王翰とは、四十才位、離られてる。

蓮が生れた頃は、皇族といっても、葡萄の酒も玉石の杯も身近じゃなかったでしょ。

でも、玄宗様の音楽好きで、西方の楽器の琵琶は、多分、珍しくもなかったと思うわ。

今の私たち、夜光の杯にも、葡萄酒にも驚かない。

楊貴妃様のお蔭かな。

でも、当時の幼い珠珠には、“葡萄のお酒、月を反射して輝く杯”と伝え聞いても、想像するしかない、見たことのない西の世界からの渡来の品に憧れたわ。

幼い珠珠は、知りたがり屋だったの。

世の中は、移り変わるのね。

実感するわ。

だから、王翰の詩も、値打ちがさがったかも。

でも、珠珠には、幼かった自分を思い出させる大切な詩なの。

君、笑うことなかれ、よ。


蓮蓮、珠珠、蓮の気持ちは想像がつく。

諡に“文武”を入れたいのね。

玄宗様、口では、文武両道の子に、とは云うけれど、唐王朝の建て直しを考えて、実学を優先させた。

安史の乱を終わらせた皇帝として、蓮蓮の諡に“武”を付けることは誰も文句は云わない。

でも、蓮が生れた時、玄宗様は、音楽や教養は必要ないと、された。

だから、蓮は、表だって、詩を学べなかった。

本当は、好きなのに。

それだから、玄宗様と粛宗様が亡くなると、すぐに李白を探させたのね。

最期まで、従順で孝行な孫を貫いたのね。

けれども、李白はもう亡くなっていた。

それで、故・王維の詩を弟だから持っているだろうと、王縉に献上させたのね。

残って、まとめていた四百篇程をね。

褒美をいっぱい用意してね。

詩人・王維は、長安を出た玄宗様の後を追ったけれど、賊軍に捕まった。

薬を飲んで口のきけない振りをしたけど、安祿山が、王維に好意を持っていたから、結局、洛陽に連れて行かれた。

そして、欲しくもない官職を与えられた。

安祿山は長安から連れてきた、玄宗様の楽士・梨園の弟子たちに凝碧池での宴会で演奏させた。

けれども、楽士は、不本意な状況に泣きながら演奏した。

そして、ある一人が、楽器を投げ出し、玄宗様のいる西に向かって大声で哭いた。

その者は、見せしめのため、馬で四肢を裂く刑に処されたとか。

そんな話を聞いた、王維は詩を詠んだ。


萬戸傷心生野煙、

百官何日再朝天?

秋槐花落空宮裏、

凝碧池頭奏管絃。


萬戸ばんこは傷心して野煙やえんを生じ、百官はいつの日にか再び天に朝せん

秋槐の葉は空宮の裏に落ち

凝碧ぎょうかい池頭に管絃を奏す


唐の多くの家の者は、安祿山のせいで心が傷ついて泣くものだから、野原には雨の後のように、涙のもやが立ちこめている。

多くの臣下は、何日いつになったら朝廷で再び皇帝に拝謁出来るのだろうか?

秋、えんじゅの葉が空しい宮殿の裏庭に落ちる。

凝碧池あたりで、管絃が演奏されている。

(玄宗様がいない楽団の演奏は心地よくも、楽しくもない。ただ、音がして悲惨なだけである。)


安祿山の時代に詠まれた詩で、民もよく口にした。

唐を慕う民の様子に粛宗様は喜んだ。

長安に帰った時、その者の身の処し方、賊軍の官職を得た者の処分がなされた。

王維が凝碧池の詩を詠んでいたので、粛宗様は好意的だった。

また、弟の王縉が、当時の自分の官職で、兄・王維の罪を購おうとした。

そんなこんなで、王維は、賊軍にいたといっても、その後の人生、それほど弊害はなかった。

王維は、あざな摩詰まきつと、いった。

王維の名前と字を続けて読むと、維摩詰ゆいまきつとなる。

お経“維摩経”の主人公と同じ名前になるのね。

弟・王縉も生臭い物を食べず仏教を信じていた。

生家・王家は、熱心な仏教徒であったようね。

だから、王維の詩を詠む時は、あの者の立場を良くした“凝碧池”の詩を最初に詠むようにしましょう。

皆、知ってるから。

珠珠、いくらなんでも、蓮だって知ってるよ。

粛宗様が、よく口にしていたから。

じゃ、口に出して、詠めるのね。

これからは、どんな詩も目で読むだけでは、ダメ。

口に出し吟じなきゃ。

孫たちに朗読させて、一緒に声を出し、調子を掴みましょ。

今は、誰も、蓮のこと、詩が好きだとは思っていない。

後、何年かで、いつも、詩を口ずさむ、詩の好きな皇帝だと、思われるようにしましょう。

文武の“文”は似合わない、じゃなくて、本当に詩が好きだった、と云われるように。

蓮蓮だって、自分でも、“文”に相応ふさわしくなりたくて、珠珠に協力をしてもらおうとしたのでしょう?

珠珠に好きな詩を聞いたのは。

参ったな。

珠珠は、何でもお見通しなんだから。






五月、

卞宋節度使の代理・田神玉が死んだ。

都虞候・李霊曜は、北の魏博節度使の田承嗣と結託して、何かあれば助けてくれるだろうと、兵馬使で濮州刺史である孟鑑を殺した。

五月七日、

永平節度使の李勉が卞州、宋州、曹州、泗州、えん州、濮州、うん州、徐州ら八州の代理となった。

五月九日、

李霊曜は、孟鑑の後任、濮州刺史の代理に任じられた。

だが、李霊曜は、その詔を受けなかった。

六月二日、

李霊曜は卞宋節度使の代理となった。

孟鑑の後任でなく、死んだ田神玉の地位に就いたのだ。

丁度、時期が合ったのである。

代宗は使いを遣わして宣慰した。

秋、

七月三日夜、

滑州では荒れた天候で、樹木はなぎ倒されるし、雨が激しく降った。

平地では水が溜まり、川では水が溢れた。

民家が千二百軒程壊れた。

七月五日、

田承嗣は兵を滑州に侵入させた。

李勉は、嵐の後でとても戦える状態ではなかったので、戦を拒んだ。

戦は李勉の敗け続きとなった。

滑州は、永平節度使の管轄であったのである。


吐蕃は石門から侵入して、長澤川にまで来た。


八月十一日、

盧龍節度使である朱せいに同平章事の役職が加えられた。

これで宰相となる機会を得たと云える。

防秋のため、自ら出かける、国への貢献が認められたのであろう。


李霊曜は、すでに、節度使代理となっていた。

ますます、威張り散らしていた。

管轄内の八州刺史、県令等、ことごとく反側の藩鎮の者を任じようとした。

朝廷に伺いをたてない勝手な人事をしようとしたのである。

朝廷の意向を無視するのは、謀叛である。

八月二十九日、

淮西節度使・李忠臣、永平節度使・李勉、河陽三城使・馬燧に李霊曜を討つように、詔が下された。

淮南節度使・陳少遊、し青節度使・李正己、皆、李霊曜を撃つため兵を進めた。

卞宋兵馬使と節度副使を兼ねた李僧恵は、李霊曜の謀り事の首謀者であった。

年配の田神玉の死で地位が空いたら、孟鑑がその後に入るだろうと読んで、殺すことを勧めたのだろう。

宋州の役所の将軍であった劉昌は、僧・神表を遣わし、密かに李僧恵を説得させた。

李僧恵は召され、計略を問われた。

聞いた劉昌は、その身勝手さに、泣きながら人としての物事の道理を李僧恵にいた。

李僧恵は、納得したのだろう。

李僧恵と卞宋の本営の将軍・高馮、石隠金が神表を都に遣わし、節度使代理の地位が欲しくて、孟鑑を殺した李霊曜を我々に討たせるよう、代宗に書状を奉った。

九月八日、

李僧恵は宋州刺史、高馮は曹州刺史、石隠金はうん州刺史に任じられた。

九月十一日、

李忠臣と馬燧の軍は鄭州に敷いた陣営にいた。

李霊曜が兵を引きいて、先に襲ってきた。

李忠臣と馬燧の軍は不意打ちにあったのである。

栄澤に軍を退けた。

淮西の軍の兵士は十人中、五、六人が負傷した。

鄭州の住民は、皆、驚いた。

東都・洛陽に逃げ込んだ。

李忠臣は、軍を立て直そうと淮西節度使に帰ろうとした。

馬燧は、帰れないと固執した。

云った。

順当に行かず、逆に討たれた。

たないことは、何て気が重いことだ。

みずから功名を立てる機会を棄てるとは!

馬燧の堅い決心は揺らがなかった。

李忠臣は、これを聞いて、散った兵士たちを捜し、数日で皆を集めた。

軍勢は、ふたたび勢いを盛りかえした。

九月十四日、

李正己はうん州と濮州を手に入れたと、都に報告した。

九月十九日、

李僧恵は李霊曜の兵を雍丘で討ち負かした。

冬、

十月

李忠臣は卞州の南から、馬燧は卞州の北から、李霊曜の兵を破りながら、李霊曜軍を撃ち進めた。

十月十八日、

陳少遊の前軍と合流した。

李忠臣たちは卞州の城の西で大いに戦い、李霊曜を討ち負かした。

李霊曜は城に逃げ込み、固く守った。

十月十九日、

李忠臣たちは城を囲んだ。


田承嗣は、甥の田悦を将軍として李霊曜を救うため、三万の兵を遣わした。

三万という兵の数に、田承嗣の本気度がわかる。

田悦は永平節度使、し青節度使を匡城で破った。

勝ちに乗って卞州に兵を進めた。

城の北、数里の所に陣営を敷いた。

十月二十二日、

李忠臣は、副将・李重倩を長とした数百の騎馬兵を夜、田悦の陣営に送り込んだ。

兵たちは、好き勝手に斬ったり貫いたりした。

数十人を斬り、帰った。

陣営は大騒ぎであった。

その後、李忠臣と馬燧は大軍で乗り込んだ。

太鼓を鳴らし、ときの声をあげた。

動揺した田悦の兵士たちは、戦わずして敗けた。

田悦は脱出して、北に走った。

将軍も兵士も、重なりあって死んでいた。

もう勝てなかった。

李霊曜はこの様子を城で見た。

門を開け、夜の暗闇を逃げた。

卞州は平穏になった。

李重倩は、元々、奚の人である。

十月二十三日、

李霊曜は、韋城に着いた。

永平節度使の将、杜如江に生け捕りにされた。


馬燧は、李忠臣が大慌てで戻ってきたのを知った。

その様子を見て、自分の功績を譲ることにして、卞城に入らなかった。

軍を率いて、西の板橋に駐屯した。


李忠臣は城に入り、もっぱら、勝利の功績(財物)を我が物にした。

宋州刺史の李僧恵と功績を争った。

李僧恵を偶然、撃ち殺してしまった。

また、劉昌を殺そうとした。

劉昌は上手く逃げた。

今までは味方で、敵と戦った者同士と、財物を巡って争うのである。

代宗は、褒美のことは何も云わない。

命じても、放任の形を取り、決着は任せているのか?

だから、(義憤でなしに)李霊曜の財産目当てに、陳少遊、李正己が参戦してきたのか?

広州の路嗣恭が哥舒晃を殺した時、財産すべてを自分の物としたことを思いだす。

暗黙のルールがあるようだ。


馬燧は、物欲が無いと云われている。

だが、可笑しなことに褒美を漁る李忠臣より、武人として勝れているようだ。


十月三十日、

手枷てかせをつけた李霊曜は、李勉に長安に送られた。

都で、李霊曜は斬られた。



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