反側の地の争い
八月二十日、
郭子儀は、ひん州に帰った。
郭子儀は、かつて、徐州の県官の一人について、上奏した。
朝廷からの返事はなかった。
相談相手の者が顔を見て、云った。
令公は、手柄や人徳をもって、云うことを聞かない一人の下役人の事を上奏しました。
何で、宰相の礼を知らないのですか!
郭子儀は、これを聞いた。
相談相手の者に、云った。
自ら、兵士と共に行動して以来、鎮の幕営の武臣の多くは横暴です。
そして、皆、要求が多い。
朝廷は、常にすべてに従います。
こんなの、他にありません。
疑います。
今、子儀が上奏した事、そのままにしておいて、人は行動しません。
これが、立派な立場の人ならば、忖度して何も云いません。
普通の立場の人ならば、それぞれの意見を述べるでしょう。
語り合うこと。
これは、武臣だけでなく、お互い親しくなる事です。
諸君、良き事であるのです。
また、何を怪しむのだ!
聞く者は、皆、感服した。
八月二十八日、
田承嗣の部下の将軍・盧子期が磁州に侵入した。
九月十七日、
回鶻の者が、真っ昼間、市場で人を刺した。
腸が出る傷であった。
役人がこの者を捉えた。
万年県の監獄に繋いだ。
回鶻の酋長・赤心が、直ぐに監獄に駆け付け、獄吏を襲い怪我をさせ、囚人を連れ去った。
代宗は、また、罪に問わなかった。
九月二十一日、
吐蕃が、臨けいに侵入した。
九月二十二日、
隴州、普潤にも侵入した。
多くの人や家畜が連れ去られた。
その地区の文武百官は、ウロウロして、身内を城から出し、逃げ隠れした。
九月二十五日、
鳳翔節度使の李抱玉が、義寧で吐蕃を破ったと、上奏した。
李宝臣、李正己が、棗強で会い、進み、共に貝州を囲んだ。
田承嗣は、直ぐに、貝州を救おうと兵士を出した。
李宝臣の成徳軍節度使の軍と、李正己の平盧軍節度使の軍の兵士が一緒に戦うので、親睦を目的とした酒盛りをした。
四方山話をしていて、成徳軍の給与が高く、平盧軍の給与が、成徳軍より低いと分かった。
騒然とし、酒盛りは終わった。
平盧軍の兵士たちは、それぞれ文句を云った。
李正己は、反乱が起きるのでは、と恐れた。
退き、兵士を引きいて去った。
李宝臣も、また、兵士を引きいて、帰った。
李忠臣は、貝州を囲む人がいなくなったと聞き、衛州を手放し、南に河を渡り、陽武県に駐屯した。
李宝臣と朱滔は、滄州を攻めた。
田承嗣は、叔父の田庭かいに従い守った。
李宝臣は、遂に、勝てなかった。
吐蕃が、けい州に侵入した。
せい原節度使の馬りんが、百里城で破った。
九月二十七日、
盧龍節度使の朱せいが、長安を出て、奉天の鎮の幕営で、唐を守るように命じられた。
盧子期が磁州を攻めた。
城をいくつも落とした。
李宝臣と昭義節度使の代理・李承昭が共に救い、清水で盧子期を大破した。
盧子期を都に送った。
盧子期は、斬られた。
河南地区の諸将たちも、陳留で田悦を破った。
田承嗣は、畏れた。
かつて、李正己が、魏州に使いを遣わした。
田承嗣は、使いを捕らえた。
ここで、礼をもって接し、封戸を与え、武装した兵士、食糧、絹を数多く与えて云った。
承嗣は、今年で八十六才。(死んだ年は、七十五才と云われている。嘘をついて、騙そうとしているのである。)
間もなく、死ぬでしょう。
子どもたちは、出来が悪い。
息子・悦は体が弱い。
おおよそ、今日、持っているものは、公のために守っただけ。
公の軍団の物として、どうして足りるでしょうか。
辱しめるだけであります!
使者は、庭に立ち、南に向き、お辞儀をし、書を授けた。
また、李正己の像の絵に香を焚いた。
李正己は悦び、遂に、留め置いていた兵士を進めるのを止めた。
ここにおいて、河南の諸道の兵士たちも、皆、あえて進まなかった。
田承嗣は、すでに、南を畏れ顧みること無く、北を得ようとだけ、考えていた。