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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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瓊華の死の後

代宗は、表情も変えずにいた。

時折、思い出が口許を弛めた。

あの子は、年取って出来た子だったから、自分でも良く面倒を見たと思う。

瓊華よりかは、朕にとっては、やっぱり華陽だ。

華陽との思い出が多すぎる。

上の子たちは、珠珠が面倒をみていたから、朕が手助けすることはなかった。

だのに、華陽ときたら、赤子の時から、魚を見に池に寄るのを忘れた朕をとがめたりした。

他の子とは、違っていたな。

思い出が多い訳だ。

あまり我慢とは、縁のない子だった。

でも、どういう訳か可愛くてたまらなかった。

あの子は生まれた時から、朕の寝台で一緒に寝た。

華陽を見て、これからは、この子が朕を孤独から救ってくれると実感させられたものだった。

華陽は、朕にとってそんな子だった。

華陽が、珠珠だとしても、華陽は、華陽だ。

やっぱり、珠珠のようにはいかない。

泳ぐと、鼻汁をだす。

大きくなったら、鼻汁の量も増えた。

手巾も増やした。

今は習慣で、三枚持っている。

十二才の女の子が、鼻汁を、当たり前のように、父親に拭かせる。

珠珠では、考えられない。

珠珠は、また会えるようになった、と云う。

華陽が亡くなったといったら、実感がないみたいだ。

私、ここにいるのにって、不思議そう。

珠珠は、華陽の中にいた。

でも、華陽は、心は母上が引っ張り出したといっても、体と共に感覚が残っていたみたいだ。

朕は、そんな気がする。

あの頃は、珠珠が話相手でいてくれても、淋しかったみたいだ。

珠珠には、分からなくても、やっぱり、蓮には、目に見える華陽がいなくなって、淋しい。

蓮は、華陽との時間が持てたことが歓びだ。

その分、悲しいけれど。

朕の心を乱す女子が、珠珠の他にもいたなんて。

体だけでも、珠珠に提供してくれて、感謝している。

華陽、いつか、どこかで、会えるといいな。

生まれ変わっても、幸せになれよ。

ち~上は、祈っている。

会いたいな。

五月八日、

楊猷が、れい州から、参内した。


けい原節度使の馬りんが参内してきた。

将士のために、平章事を己に求めるように、代宗に上表すると、ほのめかした。

五月二十八日、

馬りんは左僕射になった。


六月

盧龍節度使の朱せいが、弟、滔を遣わし、入朝を請うと、上表を奉った。

且つ、自ら、将軍となって歩兵騎兵五千で防秋したいと、請うた。

代宗は、これを許した。

先だって、朱せいは、都に人をもてなすための大邸宅を完成させていた。


六月五日、

興善寺の胡の僧、不空が死んだ。

開府儀同三司、司空、蕭国公の爵を賜り、“大弁正広智不空三造蔵和尚”の諡を賜った。


京兆府、都が旱魃にみまわれた。

京兆尹の黎幹が、土で龍を作って、雨を祈願した。

そして、みずから、祈祷師たちと、舞を舞った。

また、文宣王が、祈祷した。

代宗はそれを聞き、土の龍を取り除き、食事を減らして、節約するように命じた。

秋、

七月二十一日、

雨が降った。

朱せいが参内してきた。

蔚州まで来たが、病気であった。

朱せいは、幽州の廬竜節度使であった。

かつては、南を通って黄河に出たものだが、今は、太行山脈の北を通り、大同の手前の蔚州に着いたのだ。

何故か?

太行山脈の東は、朝廷に節度使の担当する領地の民の税金を支払わない“反側の地”の藩鎮だからである。

そして、朱せいは、今まで通り、唐に従い税金を払う“順地”の節度使だからである。

その土地を通るなら、それなりの挨拶をしなければならない。

朱せいにとって、あまり接触したくない相手である。

だから、太行山脈の北を通ったのである。

そのまま、太原を通って長安に行こうとした。

諸将たちは、体を心配して、帰るように請うた。

だが、構わず、進んだ。

朱せいは云った。

死は、則ち、遺体が輿にのって進むのだ!

諸将たちは、もう敢えて同じことは云わなかった。

九月四日、

都に着いた。

兵士や庶民は、めったにお目にかかれない人なので周りを囲んだ。

九月五日、

朱せいや将士たちの宴を延英殿でした。

飲食物で将士たちの労苦をねぎらうことが

近頃、盛んであった。

九月六日、

回鶻の兵士が、宿舎の鴻臚寺を勝手に出て、昼間、人を殺した。

役人が捕らえたが、代宗は、問題にせず、許して自由にした。

九月八日、

代宗は、郭子儀、李抱玉、馬りん、朱せいに防秋の兵士は、それぞれ分担して統率するように命じた。


冬、

十月六日、

玄宗の息子、信王・こうが亡くなった。

十月九日、

玄宗の息子、梁王・えいが亡くなった。


魏博節度使・田承嗣が、昭義軍節度使の将士たちに乱を起こそうと誘った。

昭義節度使は、魏博節度使の西隣の地であった。

二年前に、昭義の節度使の薛こうが死んで以来、弟の薛がくが代理を勤めている。

節度使は、兵士を鍛えて、自衛には役にたっても将来の展望はない。

鍛えた兵士は、唐に侵入する蕃族に対応するのが使命だ。

周りは、自分と似たような連中ばかりだ。

朝廷に対抗するため、お互い助けあっている。

もっと、領地が欲しくても、周りは仲間の土地である。

田承嗣は、皇帝の娘を息子の嫁に迎えた。

そんな節度使、他にはない。

他の節度使より、格式が高いといえる。

その分、発言力がある。

少し、無理を云っても、威圧してすまそう。

それで、問題ない。

そう考えたのかも知れない。


大暦十年(775年)

春、正月、一月三日、

昭義軍の兵馬使・裴志清が田承嗣の言葉に従い、昭義軍節度使の代理・薛がくを追い払った。

裴志清の下工作により、兵士たちは田承嗣を帥とするとした。

田承嗣は、“力になろう”と、声をあげた。

兵士を引き連れ、相州を襲い、奪い取った。

薛がくは、めい州に逃げた。

代宗に、朝廷に入ることを請うた。

代宗は、許した。

一月七日、

郭子義が参内した。

一月八日、

じゅ王・瑁が亡くなった。

一月十一日、

朱せいが宮城に留まりたいと、上奏した。

弟、朱滔を幽州、臚龍節度使の代理としたいとした。

代宗は、許した。

昭義裨将の薛擇を相州刺史とし、薛雄を衛州刺史とし、薛堅をめい州刺史とした。

皆、前の節度使・薛こうの一族の者である。

一月十四日、

代宗は、内侍の魏知古に、魏州に行かせ、田承嗣を説得させた。

田承嗣は、詔に従わなかった。

一月十九日、

田承嗣は、大将・盧子期にめい州を取るよう、楊光朝に衛州を攻撃するよう、遣わした。


一月二十一日、

西川節度使・崔寧が、吐蕃の兵、数万人を西山で破ったと、上奏した。

斬った首万級、捕虜数千人と云うことであった。


一月二十二日、

詔をだした。

諸道の節度使の兵士の中には、逃亡者がいると云う。

それでは、詔を承れない。

兵を募っても、すなわち得られない。


二月一日、

田承嗣は、衛州刺史の薛雄を魏博節度使に誘った。

薛氏の一族の者だ。

薛雄は、従わなかった。

田承嗣は、盗人を使って殺させた。

その家の者、すべてを殺させた。

相州、衛州ら四州をすべて占拠した。

みずから、長史を置いた。

精鋭の兵士も、良い馬も奪った。

ことごとく、魏州の物とした。

田承嗣は、派遣された魏知古と共に、磁州、相州を巡った。

部下の将士を使って、その地の兵士たちの耳を切ったり、顔に筋を付けたりさせた。

兵士たちは、恐れたであろう。

将士たちは、田承嗣を帥にしたいと、請うた。

反側の節度使たちは、嫁の娶りあいをしたりして、親戚同士と云う間柄であった。

だが、このことがあってから、反側の節度使同士は、前とは違った。


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