瓊華の死
大暦九年(774年)
正月、一月三日、
去年、十一月に参内してきた田神功が都で亡くなった。
れい朗鎮のかつ使・楊猷は、れい州から江に沿って下っていった。
勝手気儘に州境を出て、鄂州についた。
代宗から、入朝するように、との命令を聞いた。
楊猷は、漢江を遡った。
復州、郢州を通ったけれども、皆、自衛のため、城を閉じていた。
山南東道節度使の梁崇義は、備えていた兵士を出発させた。
二月二日、
徐州の武寧軍節度使の軍が乱を起こした。
刺使の梁乗は、城を越えて逃げた。
諫議大夫の呉損は吐蕃に使いに行っていたが、数年留まっていた。
捕虜とされていたのだ。
吐蕃で病死したという。
二月十一日、
防秋のため来ていた卞宋節度使の兵士千五百人が、倉庫の財物を盗み倉庫を壊して、節度使に帰って行った。
節度使・田神功が死んだからである。
誰も、兵士の管理をしてなかった。
若い兵士は、力が余っていたのである。
二月二十日、
田神功の弟・神玉を卞宋節度使の代理とした。
二月二十四日、
郭子儀が参内した。
代宗は云った。
朔方節度使は、唐の北門にある。
その中の戦士は消耗尽くして、十人中わずか一人位しか元気がない。
今、吐蕃は河西地方、隴右地方を支配し、姜族、渾族の雑胡の兵士が勢いを十倍位に増している。
願わくば、諸道の節度使に各々の精鋭の兵士を出して貰いたい。
四、五万人になれば、則ち、必ず勝ちを制することが出来るであろう。
三月九日、
皇女・栄楽公主を、魏博節度使・田承嗣の子、田華の妻とすることを許した。
代宗は、帝室と藩鎮の結び付きが強くなることを願った。
一方、田承嗣は、公主を娶ったことで、益々驕りたかぶった。
れい朗鎮のかつ使・楊猷をとう州刺使、隴右節度兵馬使とした。
夏、
四月十六日、
郭子儀が、朝廷から退き、ひん州に帰った。
代宗に、また郭子儀から手紙がきた。
お互い、涙を流すような二人の結び付きであった。
四月二十四日、
天下に恩赦を下した。
瓊華公主の体調が思わしくないのである。
瓊華公主は、病になった時、道士となっている。
あれだけ、代宗が気配りしても、体調は戻らなかった。
食べられなくなり、普段は眼も開けなくなっていた。
代宗が部屋に帰ると、眼を開けて力なく笑った。
最期の頃は、ガリガリで声も出なかった。
代宗を手招きして、耳元で、
いっ、し、よ、いた、か、
ご、め・
と云い、血の涙を流した。
鼻からも血が出ていた。
見ると、耳からも。
ち~上の仕事だな。
代宗は手巾で、血を拭いた。
泳ぐ時は、よく鼻汁を出していたな。
ち~上の仕事だよな。
代宗は、瓊華の顔に顔を押しあて、哭いた。
皆、見てはいけないもののように、目を伏せ、部屋を出た。
次の日、瓊華の葬儀の用意がなされた。
代宗は、腑抜けのようになっていた。
涙を流しながら、いつまでも動かなかった。
朝廷を当たり前のように、休んだ。
一週間ほどで、“朝会に出ていただきたい。”との
要望が届いた。
代宗は、朝会に出た。
だが、茫然としていて、発言もなく、急にフラりと立って居なくなったりした。
臣下たちは、お互い、咎めたりないようにした。
悲しみの深さが、偲ばれたからである。