華陽の病
大暦七年(772年)、
春、
正月、
一月二十二日、
回鶻の使者が、勝手に鴻臚寺を出て、人、子供、女子を襲い奪った。
鴻臚寺とは、遠方の諸侯や蕃族の使者の接待を司った。
北斉の時代からの役所である。
回鶻は、宿泊していたのであろう。
司った役所は、その行為を禁止した。
役所の者が殴られ、三百騎の馬が、金光門(便橋から続く長安城の西門である)から、朱雀門(皇城の南正門)の間を、駆けた。
この日、宮城の門は、すべて閉じられた。
代宗は、宦官の劉清潭を回鶻の者を諭すように遣わした。
そこで、回鶻の暴挙は止んだ。
三月、
郭子儀が参内した。
三月二十五日、
ひん州に帰った。
夏、
四月、
吐蕃の五千騎が霊州に来た。
まもなく帰った。
久し振りに、代宗は、華陽と誦を連れて王喜ん家を訪れた。
池で、足を浸けて涼んだ。
飛び石をたくさん置いているので、好きな処に座わり、足で水のかけっこをして楽しんだ。
風呂に入り、帰りに、華陽は、代宗の膝に頭をのせ、眠った。
誦が、代宗に、云った。
誦、華陽のこと、最初、不細工って云った。
けど誦、今は華陽のこと、可愛いと思う。
笑っている顔、好きだな。
大口開けて。
誦、女子って、ずうっと同じ顔していると思ってた。
だけど、華陽は違う。
華陽のいろんな顔が好きだ。
叔母上でなければ、婚姻したいくらいだ。
もっと不細工でも、やっぱり好きだ。
誦、顔じゃなくて、華陽が好きなんだ。
誦のその言葉を聞いたら、華陽、歓ぶと思うよ。
良く寝ているね。
あっ、華陽って、誰にも似てないと思っていたけど、父上に似てる。
そう云えば、叔母上にも。
でも、陛下には、あまり似てない。
代宗が硬直した。
そして、目を二度、パチつかせた。
慌てて、誦の口を手でふさいだ。
仕切りの垂れ布ごしに御者を見た。
影が動いたように感じた。
誦に、
顔のことを云うと、華陽が嫌がる。
と云った。
そうだね。
誦のせいだ。
窓の垂れ布を開け柳晟に、小声で云った。
御者の今日、明日の行動を付きっきりで監視しなさい。
馬車を離れてから、すぐにだ。
明日の朝、報告をするように。
そなたの腹心を使うのだ。
頼んだからな。
そなたは、何時ものように、華陽の護衛だ。
決して、離れるな。
たとえ、母親が泣いて頼んでも断れ。
陛下の命令ですからと、突っぱねろ。
お待ち下さい、とな。
腹心には、第二の腹心に伝えさせろ。
そなたは、華陽から、離れてはならん。
だから、今も、ここに居なさい。
分かったな。
遊んだ分、仕事がある。
しばらく、いないから、華陽を頼んだからな。
着いたな。
誰にも、華陽に触れさせたくない。
部屋には、朕が連れていく。
さあ、柳晟、行こう。
代宗は、奥の部屋、華陽の部屋の寝台に大切そうに娘を寝かせた。
しばらくいないが、頼んだからな。
代宗は、去った。
柳晟、
小さな声で華陽が呼んだ。
引き戸を閉めて、引き戸の外で護衛して。
呼んだら、小さな声でもすぐに来て。
柳晟は、引き戸の処に行った。
華陽は、飛び起き、衣装部屋に駆け込み、箪笥の上に寝そべった。
すき間から覗いた。
隣の部屋では、靖羅が椅子に座っていた。
一人で喋っていた。
よく見ると、靖羅の足元の先に男がひれ伏していた。
我だって、誰にも似てない子だと思っていたわ。
なんか、最初から、気に喰わない子だった。
そう云う事だったのね。
侍医も云っていた。
なんで、あんなに時間が経っているのに生き返ったのか、不思議がってた。
おかしな話だった。
今から、見てくる。
よくよく顔をね。
あの女が来る。
華陽は、手早く箪笥の階段をおりて、絵を描く机に向かった。
そこにある顔料を、筆を洗う水に適当に入れて、混ぜて飲んだ。
気分が悪くなったが、口を押さえ飲んだ。
筆を拭く布で、口のまわりを拭いた。
鏡を見た。
顔料の痕跡を残さないように、唇をめくって歯もきれいに拭いた。
水の容器に残った絵の具も拭いた。
よろよろと、寝台に帰って寝た。
だが、吐きそうで、座り直した。
口から吐き出さないように、手で押さえていた。
引き戸では、柳晟が靖羅と押し問答を繰り返していた。
柳晟は、既に、代宗に竹を送っていた。
ああ、これでいい。
やっぱり、あの女だったのね。
華陽が、吐き出さなければいい。
手練れの男たちが、部屋に入ったようであった。
柳晟が、戦っている。
だが、相手は多勢だ。
ち~上が怒る。
引き戸が開かれた。
倒れた柳晟が、相手の足に組み付いた。
部屋が、静かになった。
代宗が帰って来たのだ。
男たちは、捕らえられた。
どういう事だ?
何れにせよ、男子禁制の後宮に、男がいるのは定めが守られていないと、云う事だ。
即刻、首を斬れ。
朕の華陽の部屋に侵入するとは、許し難い。
靖羅、何ごとだ。
何故か、急に不安になって華陽を見たくなったのです。
手練れを連れて、娘を見に来たのか?
さあ、華陽。
ち~上の部屋に帰ろう。
代宗は、
あの時と同じだな。
華陽を抱き上げた。
目を瞑っていた華陽が目を開け、衣装部屋を目で指した。
代宗は頷き、柳晟に“片付けを頼む”と声をかけた。
代宗は、歩いて部屋に帰った。
寝台の上に華陽を置き、容器に吐かせた。
何で、こんな事をした。
てへっ、バレちゃった。
誦の言葉で、分かったのね。
蓮蓮、ご免なさい。
でも、誰が、珠珠をあんな目に合わせたか、知りたかったの。
死を覚悟してまでか。
そうね。
想像して疑っても、本当かどうか、分からない。
無実の罪かもね。
だから、ちゃんと知ろうと思ったの。
華陽、お前、死ぬぞ。
分かっている。
蓮蓮の母上のお陰なの。
だって、
珠珠と会うまでの珠珠の成長を見たい。
と、云った蓮蓮に、
昇平を見てたら良いわ。
と、珠珠は云った。
でも、約束は守れ無かった。
その話を義母上にしてたの。
子供を生ませなさい。
と、云ったのは、義母上なの。
義母上は、
不細工な女子が生まれれば、あの女は、お払い箱にする。
その時を狙いましょう。
あの女の本性が見える。
って。
義母上の予測通り、あの女は動いたわ。
早く、蓮を呼んで来て。
と、云われ、蓮蓮の処に行ったの。
蓮蓮が、赤子を叩いた時、義母上が赤子の魂を引っ張り出したの。
そして、珠珠を赤子の体に押し込んだの。
だけど、珠珠は、絵の具を飲んだ。
これから、体に異変が起きて、死が近づくわ。
何故、飲んだんだ?
あの女は、珠珠にしたことを、華陽にもしようとしたの。
あの女は、華陽を拉致して独狐の男の物にしようとしたの。
そうしたら、皇帝陛下の恩寵を賜れるからと。
一番のお気に入りだから、華陽を使って、利益を得ようとしたの。
そんなの嫌。
前は、死にたかった。
でも、昇平がいたから、死ねなかった。
だから、最初から、死ぬ方法を考えていたの。
死を邪魔されないやり方を、ね。
珠珠は、蓮蓮の物なの。
だから、死のうと思った。
ご免なさい。
すぐには死なないけど、少しずつ弱っていくわ。
二人で今を楽しみましょう。
その期間は、オマケよ。
手が掛かるけど、許して。
蓮蓮、珠珠は、十才の女の子。
いつも世話してもらい、愛されて幸せなの。
もう、靖羅に拉致はされない。
病気なら、もう役に立たない。
すぐに死んだら、“一体、何をしたのだ。”と、反って疑われる。
珠珠を可哀想だと、思わないでね。
それと、靖羅には、何事も無かったように振る舞って。
今まで、通り。
“かつ”のためよ。
不満を持たさないようにしてね。
珠珠、蓮は、また、そなたを失うのか。
辛過ぎる。
跪き、寝台に頭を乗せ、泣いた。
蓮蓮、泣かないで。
小さな華陽の手が蓮の髪を優しく撫でた。