杜甫の死
杜甫は、どうしていただろうか?
杜甫は、節度使として赴任してきた厳武に援助されていた。
だが、厳武が朝廷に召された。
だから、より良い生活を求め、梓州、射浩県、通泉県、綿州、漢州に行ってみたりしていた。
広徳二年(764年)、
即位三年目の、代宗の時代である。
初春、朝廷より、京兆功曹参軍の地位で召されたが、辞退した。
厳武から、成都に居るようにとの手紙が来て、再び、成都に帰る。
六月、
厳武の推薦で、節度参謀・検度参謀・検索校工部員外郎となり、金魚袋を賜る。
十月、
厳武が、吐蕃七万人の兵を、當狗城で破った。
その後、吐蕃の塩川城を手に入れた。
翌、永泰元年(765年)、
正月、
五十四才の杜甫は、ちゃんとした仕事に長く着いたことが無く、身体が馴れず、きつかったのか、辞める。
四月、
厳武が、病のため成都で死去する。
哥舒翰のように、長安に治療に行っていない。
成都に関する多くの官職に就いていて、吐蕃、最前線の担当地区からは離れられなかったのであろう。
厳武は、部下に厳しかった。
當狗城で吐蕃を破ったことで、その力を畏れ、厳武存命中は、吐蕃は覗き伺っても侵入しては来なかった。
厳武は、存在そのものが、吐蕃を威圧したのだ。
子供の頃、人を殺した話も、尾ひれが付いて伝説としてあったであろう。
死後、侵入が続く。
前年、杜甫のため、仕事を世話し、金魚袋まで貰えるようにしていたのは、体調が思わしく無く、杜甫の行く末を案じての厳武の配慮ではなかったのか、と思える。
妻だけを愛し、子供を大切にする杜甫。
杜甫だけには、優しい厳武であった。
五月、
杜甫は、舟で長江を下る。
吐蕃が侵入して、成都は治安が悪かったからだ。
本当は、長安に行きたかった。
だが、道中が危険だったのである。
生活に困っている杜甫が何故、舟を持っているのか?
厳武とよく喧嘩をしていたので、厳武の母親が、息子が杜甫を傷つける前に、成都を去るようにと、杜甫に贈ったもののようだ。
厳武は、部下をよく罰し、殺す事もあった。
十四才年上の名のある詩人の杜甫だ。
杜甫の体を、母親は、心配したのであろう。
戎州から渝州、忠州と舟で下り、忠州で、厳武の遺体を埋葬するために、故郷(華陰県)に帰る舟を見送った。
大暦元年(766年)
春も終わる頃、杜甫は、き州に移る。
次の年(767年)
三月、
じょう西にうつり、他人から譲って貰った果園、菜園を営む。
人を雇って作業をさせていたと云う。
杜甫には、珍しく、安定した日々だったようだ。
秋には、東屯に移る。
弟・杜観が訪ねて来た。
一緒に住まないかと、誘ったようだ。
翌年(768年)
正月、
き州を去る。
三月、
荊州(江陵)に着く。
知り合いは、ゆとりのある生活をしていなかったので、杜甫は、弟・杜観に家族を預けた。
生きるため、荊州で生計の道を探そうとしたのだ。
弟・観は、生活にゆとりが無く、杜甫の家族の世話をほとんど、みなかったようだ。
荊州にしばらくいたのは、朝廷から声がかかるのを、待ったからだ。
成都では、朝廷から声がかかったのに、ここでは声がかからなかった。
朝廷からの仕事の話も、もしかしたら、厳武の配慮だったのかもしれない。
声がかかった時、厳武は長安にいた。
その頃の杜甫は、左耳が聞こえず、右腕も麻痺して、行動が不自由になり、杖にすがり人に支えられなければならなかった。
節度使の役所で、朝廷からの連絡の問い合わせをした杜甫を、役人たちは冷たくあしらったらしい。
数か月後、公安県、岳州に移る。
き州の果園、菜園を譲った人から、手紙が来た。
隣の年配の女子が、果物を盗む、と。
どうすればいいのか?
相談の手紙で、あった。
杜甫は、返事を書いた。
その人は、身寄りも無く貧しいので、見て見ぬ振りをしてほしい、と。
杜甫の住んでいた時から、見過ごしていた事だったと。
大暦四年(769年)
正月、
洞庭湖に入る。
三月、
しょう水を遡り、潭州へ衡州へ、夏、また、潭州へ。
大暦五年(770年)
春の終わりの頃、思いがけず、李亀年に会う。
玄宗の時代、宮廷歌手として有名だった人だ。
そんな人が、戦を逃れて、揚子江の南の辺鄙な処にまできている。
そんな時代なのだ。
ただ、お互い文化人として、平和なあの時代を懐かしみ、激励しあった事であろう。
四月、乱を避け、衛州に。
移動は、戦から逃れるためである。
その地で上手くいっていても、軍に係わるいざこざが起きると、杜甫は去る。
家族を守るために。
そんな移動の途中、川が増水して舟が進めず、舟の食糧が尽きた。
耒陽県令の聶が、事情を知って、見舞いの手紙と肉と酒とを贈ってくれた。
杜甫は、感謝の詩を贈っている。
その詩は、聶家の家宝となったであろう。
冬、潭州、岳州の間の舟の中で没する。
贈られた肉と酒の食べ過ぎだと、死に際して云われている。
舟から落ちて、溺れたとも。
病気であったとも。
五十九才であった。
遺体は、厳武のように故郷には送られなかった。
家族に余裕がなかったからだ。
四十三年の後、孫の杜嗣業が故郷に運び、埋葬したと云う。
杜甫は、いつも、故郷に帰りたがっていた。
船で、揚子江を下ったのも、南から、洛陽に行こうとしたからだ。
通り道が、安全でないと分かった時、故郷に帰るのを諦めたと云う。
たとえ、四十三年後であろうと、故郷に帰れて、杜甫は、大喜びしたであろう。
それまで遺体は、湖南省の兵江に仮に安置されていた。
中国の人は、遺体を大切にする。
七言律詩は唐代になって盛んになった。
定形格律の中に、洗練され凝縮されて、これ以上一字も動かせないまでの内容にしたのは、杜甫である。
“詩聖”なのである。
杜甫の四十才の頃の作品に、“兵車行”がある。
ある日、杜甫は渭水にかかる便橋(咸陽橋)で、出征兵士を見送る家族たちを目撃した。
西の戦場に行く兵は、この橋を渡る。
庶民の苦痛を訴えたこの作品は、杜甫の反戦詩と云える。
この時、杜甫は官職に就く前であった。
長いが、杜甫の心が見える詩なので、書き写す。
兵車行
車りんりん 馬蕭蕭
行人弓箭各在腰
耶孃妻子走相送
塵埃不見咸陽橋
牽衣頓足らん道哭
哭声直上干雲霄
道旁過者問行人
行人但云点行頻
或従十五北防河
便至四十西営田
去時里正与裹頭
帰来頭白還戍辺
辺庭流血成海水
武皇開辺意未已
君不聞漢家山東二百州
千村万落生径杞
縦有健婦把鋤犂
禾生隴畝無東西
況復秦兵耐苦戦
被駆不異犬与鶏
長者雖有問
役夫敢伸恨
且如今年冬
未休関西卒
県官急索租
租税従何出
信知生男悪
反是生女好
生女猶得嫁比隣
生男埋没随百草
君不見青海頭
高麗白骨無人収
新鬼煩冤旧鬼哭
天陰雨湿声啾啾
車りんりん 馬は蕭蕭
行人の弓箭 各々腰に在り
耶孃 妻子 走りて相送り
塵埃に見えず 咸陽の橋
衣を牽き足を頓して 道をさえぎって哭す
哭声 直ちに上りて雲霄を干す
道旁の過ぐる者 行人に問う
行人の但だ云う 点行頻りなり
或は十五より北に河を防ぎ
便ち四十に至って西に田を営む
去る時 里正 与に頭を裹む
帰来 頭白 還た辺を戍る
辺庭 血流れて海水を成し
武皇 辺を開くの意 未だ已まず
君聞かずや 漢家山東の二百州
千村万落 荊杞を生ず
縦い健婦の鋤犂を把る有るも
禾は隴畝に生じて東西無からん
況んや復秦兵苦戦に耐うと
駆らるること犬と鶏に異ならず
長者 問う有りと雖も
役夫 敢て恨みを伸べんや
且つ今年の冬の如き
未だ休せず関西の卒
県官 急に租を索む
租税 何従り出でん
信に知る 男を生むは悪し
反是れ女を生むが好きことを
女を生めば猶お比隣に嫁すを得
男を生めば埋没して百草に随う
君見ずや青海のあたま(ほとり)
古来 白骨 人の収むる無し
新鬼は煩冤し 旧鬼は哭し
天陰り雨湿とき 声啾啾たるを
車の音がひびき、馬がいななき、出征して行く人はみな腰に弓矢を帯びている。
両親や妻子が追いすがって別れを惜しみ、土けむりが上がって咸陽の大橋も見えないほどだ。
人々は兵士の服を引っ張り、じだんだを踏み、行くてをさえぎって泣きわめき、その声はまっすぐに高い天にとどく。
通りすがりの者がどうしたことかと尋ねると、兵士はただ答える。
徴兵が多いのですと。
ある者は十五のときに黄河を守るために北に行ったままで、四十になった今も、西の国境で屯田兵になっているのです。
初めて行くとき、村長が鉢巻きをしめてやった若者が、頭が白くなってやっと帰ってきたものの、すぐに辺境の守備にかり出されます。
そこでは、流血が海のようになっているというのに、天子の領土拡張の考えはまだ止まない。
あなたは聞いたことがないのですか?
我が唐の国の諸州は、いたるところの村にいばらが生い茂っていることを。
たとえ、けなげな女たちが鋤や鍬をとって働いても、作物はろくに育たない。
その上、陝西の兵士は苦戦によく耐えるというので駆り立てられ、まるで犬か鶏と同じだ。
あなたの折角のお尋ねだが、徴集されて行く身の私が、恨みごとを述べるわけにはいきません。
それに、この冬などは西方へやるための徴兵がまだ続いている。
お上の方からは税金の取り立てがきびしいが、どこから税金を出せるのか。
今のご時世では男の子を生むのは良くない。
女の子の方が良いとはっきり分かった。
女なら近所に嫁にでもやれるが、男は戦場で死ぬだけだ。
あなたは、見たことがないのですか?
あの青海湖の一帯には、昔から、片付ける人もない戦死者の白骨が放置され、新しい亡霊はもだえ苦しみ、古い亡霊は泣き叫び、空がくもり雨が降り続くような日には、痛ましい声がするのを。
杜甫が、粛宗から家に返るよう暇を出されて、都の北の羌村に旅をした。
その旅、“北征”と名付けられた五言の詩がある。
一部であるが、杜甫の家族愛がわかる箇所なので記す。
“北征”
況我堕胡塵
及帰尽華髪
経年至茅屋
妻子衣百結
慟哭松声廻
悲泉共幽咽
平生所嬌児
顔色白勝雪
見耶背面啼
垢膩脚不襪
牀前両小女
補綴才過膝
海図拆波涛
旧繍移曲折
天呉及紫鳳
顛倒在短褐
老父情懐悪
嘔泄臥数日
那無嚢中帛
救汝寒凛慄
粉黛亦解苞
衾ちゅう稍羅列
痩妻面復光
癡女頭自櫛
学母無不為
暁粧随手抹
移時施朱鉛
狼藉画眉闊
生還対童稚
似欲忘飢渇
問事競挽鬚
誰能即瞋喝
翻思在賊愁
甘受雑乱聒
新帰且慰意
生理焉得説
況んや我 胡塵に堕ち
帰るに及んで尽く華髪なり
年を経て茅屋に至れば
妻子 衣は百結
慟哭すれば 松声廻り
悲泉 共に幽咽す
平生 嬌なる所の児
顔色 白きこと雪に勝れり
耶を見て 面を背けて啼く
垢膩 脚襪せず
牀前の両小女
補綴して才に膝を過ぐ
海図は波涛を拆き
旧繍は移りて曲折する
天呉と紫鳳と
顛倒して短褐に在り
老夫 情懐悪しく
嘔泄して臥すること数日
那んぞ嚢中の帛の
汝が寒の凛慄たるを救う無からんや
粉黛 亦た苞を解き
衾ちゅう 稍羅列す
痩妻は復た面を光かせ
癡女は頭を自ら櫛けずる
母を学びて 為さざる無く
暁粧 手に随って抹す
時を移して 朱鉛を施せば
狼藉として 画眉闊し
生還して童稚に対すれば
飢渇を忘れんと欲す(ほっ)するに似たり
ことかと、を問うて 競いて鬚を挽くに
誰か能く即ち瞋喝せん
翻 (ひるがえ)って 賊に在りしときの愁いを思い
甘んじて雑乱の聒しきを受く
新たに帰りて且つ意を慰む
生理 焉んぞ説くを得ん
私はあのとき賊の手中に陥ったが、今日やっと家に帰れた。
だが、すっかり白髪になってしまった。
一年ぶりに来てみると、家の変化も大きい。
老妻と子供たちは、雨風を防ぎきれない程のあばら屋に住み、継ぎ目がいくつあるかわからないほどのぼろぼろの着物を着ていた。
私が感極まって大声で泣くと、外の松風と家の中の泣き声が一緒になり、近くの泉の悲しげにせせらぐ音も私たちと共に泣いてくれた。
いつも甘ったれの男の子は、栄養失調のせいか、雪のように白い顔色で、父である私を見て顔を背けて泣いている。
体じゅう、垢だらけで素足には何も履いていない。
二人の小さい女の子は寝台の前にいて、つぎはぎだらけの着物は、裾がやっと膝下まで来るくらいの短いものである。
大人の古いものを繰り合わせたので、刺繍の波模様はきれぎれだ。
海神と紫鳳の刺繍はひっくり返って、継ぎの布になっている。
年をとった私は、気分が悪くなり吐いたり下したりして、数日寝込んでしまった。
だが、妻や子供たちの飢えと寒さをまぎらわす物が、私の袋の中に無いわけではない。
さあ、見てごらんと、白粉や紅や眉墨を出して並べ、掛け布団や寝巻きも取り出した。
窶れた妻の顔は、ちょっと化粧をすると明るくなった。
やんちゃな娘たちは、母の真似をして、頭髪に櫛を入れてとかしている。
紅や白粉をつけてみるが、しばらくすると、顔は、赤と白でめちゃくちゃ。
眉も太すぎるなあ。
やっと命を取りとめて家に帰り、こうして子供たちと向かい合っていると、飢えも渇きも忘れてしまう。
子供ら(男の子二人女の子二人)は私にまとわりついて、争ってあご鬚を引っぱりながら、色々聞いてくるが、叱り付けることなどとても出来ない。
あの賊軍に捕らわれていた時の辛さを思えば、少しばかりうるさいくらい何でもない。
嬉しいことじゃ、ないか。
帰ってきたばかりの私だ。
心やすらかにしばらくは過ごそう。
これからの暮らしの事など、今は考えずに。
・・・
これが、杜甫なのである。
偉大なる憂鬱 杜甫 宇野直人・江原正士 平凡社
杜甫 詩と生涯 秦泥 徳間文庫
を、参照させていただきました。




